人間は足で生きる葦である

2020.01.16 Thursday

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    再度、健康関連の私見です。歳が寄ると、どうしてもそっちに思考が行きます(笑) 

     

    昨年のことですが、知り合いの社長と懇談していた時に含蓄のある話を伺いました。

    社長曰く「(人間の)老いは足から来ると言うが、その理由(わけ)は人間が野生だった(動物)時代に遡る」。即ち、動物は腹が減ったら餌を摂りに行き、何がしかの餌にありつければ食する。彼らは食物を保存する術を知らないから、狩りや採取の一回一回が生きるか死ぬかの真剣勝負になる。餌を確保することができなければ、空腹を抱えるしかない。そして当然のことながら、生き物だから経年によって徐々に老化し体力が落ちてくる。即ち、足を使った餌狩りが不可能になれば、死んでいかざるを得ないのです。この摂理は草食・肉食に関わらず、餌をゲットするためには強靭な足を持っていることが必須要件であることを示しています。周りの動物をざっと見ても、みな素晴らしい足を持っています。家で飼っている猫が、ひょいひょいと身長の何倍もある高い棚に飛び上がるのを見て感心しきりです。

    人間は働かざる者食うべからずと言われるが、動物は食べ物を得ることができなければ他に食われるか枯れていくのみです。以上のことから、老化=足の劣化そして死に至るということになります。人間は他の動物に比べて格段に優秀な頭脳を持ち進化し続けていますが、どうやら野生時代の足のDNAは持ち続けているらしい。今後何千年、何万年と人類が生き延びたとしても、おそらくこの構図(関係性)は変わらないような気がします。

     

    翻って上記を踏まえると、世の中が便利になればなるほど足を使う機会が減少しているのは、人間にとってとても危険なことではないのか。移動手段の変遷を考えてみると、A地点からB地点に移動するためには先ずは足を使った。と言うよりも、それしかなかった。これが野生の動物時代。それが基本だった。そして次に、馬や牛やラクダなどに乗って移動することを考え付いた。即ち、人間よりも体力・脚力に優れる動物の使役です。これを発想した人、動物を意のままに操る術(すべ)を考えついた人はすごい。車の原点ですよ。そして、人の力に負うものではあるが人力車や自転車が発明された。ほどなくして、原動機の付いた自転車(日本語のバイク)や自動車が登場します。さて、遠い将来の移動手段はどうなるのだろう。どう間違っても、人間が電波や光に乗ってケーブルの中をシュッと移動することはないだろうから、これ即ち足の役割は、多少或いは大きく減少しても基本的には変わらないと言うことになります。

    因みに、フィットネス・クラブなどで自転車(らしきもの)に乗ってせっせと漕いでいる人を見ますが、なんでお金を出して前に進まない自転車に乗るんだろう? そんな時間があるのであれば一駅前に降りて歩けば、或いはちょっとした用事や買い物などには歩いて行けば一石二鳥(経済と健康)なのに・・・と思ったりします。何時まで経っても貧乏性ですな。私の場合、概ね3キロメートル以内であれば歩いて用を足すことにしています。時間はかかりますが、年金生活者の特権です(笑)  

     

    現役時代のことです。印度洋に展開している時、指揮官には訪問国の部隊指揮官や駐箚大使表敬など陸上での仕事もままありますので、現地のエージェントを通じて車と運転手を借り上げました。このドライバー君がまぁ飛ばすのなんのって。後部座席に乗っていて、何度も足を踏み込んだものです。しかも、携帯電話で大声で話しながらの片手運転です。我慢強い私も遂に堪忍袋の緒が切れて、「もう少しゆっくり走れ。運転中は絶対に携帯電話をさわるな。この二つが守れないのであれば、もう貴様の会社は使わない」と脅したほどです。先方は「分かりました、分かりました」と言うが、最後まで改善することはなかった(笑)

    今考えてみると、普通の国では ”自分の足➡牛馬など➡人力車➡自転車➡バイク➡自動車” というように、陸上の移動手段にも歴史がありますが、(当該国には誠に失礼ながら)ラクダ(牛馬)から一気にオートマの自動車に進化したような感じかな。時を同じくして携帯電話という優れものが突如出現し、この二つの文明の利器を同時に手にした。携帯電話で誰かと話しながら車(自動車)を運転するのが、楽しくて仕方がないという風情ではありました。お客さんを乗せているなんて感覚は全くなく、子供がゲームで遊んでいるのと同じように、とにかく楽しそうに見えた。外国人の私が多少脅したくらいで、彼らが最高の楽しみを手放すわけがないのです。

     

    さて、何千年何万年と続いてきた足のDNAを勘案した場合、文明の発達につれて足を使う機会が劇的に少なくなるということは、逆に人類の劣化を年齢的に徐々に早めることになるのではないか。若い時から足が劣化すると言うことは、健康年齢のエンドが早くなる、即ち早く老いるという仮説が成り立ちそうな気がする。一方で今後も医学の発達は進化を続け、人間の寿命が更に延びるのは間違いない。そうなると問題は、いつまで健康で人間らしい生活ができるか(健康寿命)ということになりますが、その一つの指標は二本の足でしっかり歩くことができる、だと思うのです。経年劣化で足が不自由になったら、仮にいくら頭が冴えていても、それは健康寿命の範疇には入らない。一般論として、足が弱ってくると敏捷性が低下するとともに、自然と頭の方も劣化してきますね。生物はそうなってるのでしょう。

    そう遠くない将来、多くの日本人が100歳まで生きると推察できますが、例えば健康寿命が85〜90歳であれば、ではその差10年・15年は何なのかということになります。そう考えると、文明の発達や科学の発展に疑問を感じてしまう。

    人間が神の意志に背かないためには、科学というものにどこかで線引きをする必要があるような気がする。例えて言えば、どれほどディジタルが発達しても、これだけはというアナログは残さなければいけない。それは単にノスタルジーということではなく、人間の叡智として残すべきではないかと思うのです。

     

    ということでアナログ老人は飽きもせず、家人には笑われながらも、毎日せっせとスクワットをやり徒歩を励行する。”PPK・PPK” って呟きながら!

     

     

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    順風にあっては細心に

    2020.01.02 Thursday

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      明けましておめでとうございます! 令和2年、実質的な令和時代の始まりが、皆様にとりまして佳い年でありますように。そして、皇室の弥栄をご祈念申し上げます。

       

      客年は有り難いことに(?)長期間に亘ってお花見をさせて頂きました。しかし残念ながら、美しいでもなく癒されるでもなく、誠に見苦しい花見でした。花見の場所は千鳥ヶ淵ではありません。全国から集まる選良が居並ぶ国会での議論と、これに呼応するメディアの対応です。あ〜でもないこうでもないと花見談義にうつつを抜かしている間隙を縫って、どこぞのミサイルが頭上に落ちてこなかったのは不幸中の幸いでした。また、虎視眈々とその機会をうかがっているご近所が、力(軍事力)によって我が国の領土を侵さなかったのも誠に幸運なことです。因みに、海・空においてはしばしばジャブを入れられております。更には、日本にとって死活的に重要な資源の搬送が危険な状況に曝されている最中、お花見の話で盛り上がっているとは大変喜ばしくも幸せなお国ではあります。

      我々庶民がこのように、他人様の揚げ足取りを半ば楽しみながら能天気に生活しておられるのは、卓越した船長の指揮の下でこの国の舵取りがしっかりとなされているからでありましょう。ご心労が続いているためか、最近船長はお疲れのように見えます。と同時に、ひたすら国の安全と安寧を求め昼夜を問わず尽力されている、当局や関係者のお陰であることも我々国民は忘れてはなりません。盆も暮れも正月もなく世界の各地で、日本国・日本国民の安全を護るために尽力されている皆様には感謝の言葉しかありません。 

       

      さて花見(桜見物)は我々日本人に与えられた特権であり、文化の一つとも言えるのではないでしょうか。この国に住む人は皆、老いも若きも貧しきも富める者も等しく全国各地で、その恩恵に浴することができます。中には所謂(桜)前線と共に南から北へと移動し、一年に何度も花見をする追っかけもいるほどです。そんな方がちょいちょいいます。

      今一度振り返って、花見をして或いは桜を見る機会を作為することのどこが悪いのか? 無学な私にはよく分かりません。時折飲み過ぎてトラになったり、はしゃぎ過ぎて周りに迷惑をかける輩もいますが、酔いが醒めたころにお灸をすえればいい程度の些細なことです。従って、上記の答えは「なんの問題もないっしょ」。と言うよりも、皆で大いに花見を楽しみましょうよ。かかる視点からすれば、昨年大騒ぎになった・大騒ぎしていた問題は実に他愛もない案件ではないのか、と思えるのです。少なくとも立法府において、口角泡を飛ばして議論するような案件でないことは間違いない。いわんや政局に関わる、或いは政局にする事案ではないでしょう。百歩譲って、議論するにしても優先順位はとても低いと小国民は思っております。

       

      でもな〜んかすっきりしない、問題の所在は何処にあるのだろう? 

      一つは、この花見の経費が公費で賄われていることに起因する。交通費まで出せとは言いませんが、会場の使用料から料理代まで一切の経費をホスト(ホステス)が引き受けたならば、或いは会費制で催されるなら、他人がとやかく言う筋は全くありません。それだけの力(経済力や人を呼ぶ力など)があるということで終わる話です。公費を使うと言うことは(国家予算の規模で見れば些細な金額でしょうが)国民や法人から徴収した税金の一部を充当すること。メディア(報道)の影響もあるのでしょうが、であるから多くの国民が「説明不足或いは納得できない」と感じている。ただ敢えて一般論として言えば、その人が納めている税金の額と批判・非難の声の大きさは反比例しているようにも感じます。庶民の深層心理には、昨年よく使われた言葉「上級国民」に対するやっかみもあるでしょう。それとは関係なく、国民から集めたお金を使うからには、とりわけ「遊興」に使う場合には一円まで明瞭会計であるべし。当然、私(わたくし)に使うことは許されません。

      以上は建て前であり原則論です。

       

      もう一点は程度の問題です。過ぎたるは猶及ばざるが如しと言いますが、我々日本人には「程々」という概念があります。花見の問題も例えば何十人とかせいぜい数百人程度であれば、あれほどの騒ぎにはならなかったはずです。これが何千人・何万人になると、「何やってんの?」となる。何事もこの「程々」を超えると怨嗟の的になりますし、痛くもない腹を探られることにもなる。だから庶民感覚の程々を超越する場合には、それなりの細かい詰めが必要です。最も重要で細心の注意を要するのはお金(経費)です。よくありがちですが、指揮官が「よきに計らえ」でやってると大概の部下は当然「よきに計らい」ます。中には親分のおこぼれにあずかろうとする者も出てきます。それを誰かに指摘されて帳簿を確認したら、とんでもないことになってた、ってなことになりかねません。

      だから内に指摘してくれる者がいる人は幸せです。そう言う人を一般に女房役と言いますね。日本の家庭では昔から、奥さんがその辺りはしっかり手綱を締めてコントロールしてきた。だから「女房役」という言葉があるわけです(多分)。勿論この役割は、別段女性に限られるものではありません。組織のNR2でもスタッフでも親父さんでも、身近にいる人であれば誰でもいいわけです。要するに、指揮官(自分の親分や旦那)を裸の王様にしないということです。「いくらなんでも、この人数は多すぎますよ」「招待する範囲がちょっと拡がり過ぎてます。もう少し厳選しましょう」「行事が変質し形骸化してます。今一度原点に返りましょう」などと、直言する人・できる人が一人もいなかったのかな・・・。招待される人数が限られるほど、被招待者が感じる嬉しさや有難味は増します。そして、ホスト・ホステスの権威や評判も高まろうもんです。これが千人・万人になると、個々はone of themに埋没します。家庭でも大小の組織でも、お金を含め諸事が上手く回っている時にはどうしても華美になりがちです。僭越ではありますが、この際いろいろな行事の見直しをしたら如何でしょうか。

      上記の形骸化という言葉は、とても重要なキーワードです。利益を出す必要がない役所にありがちなことです。常に黒字(儲け)を追求する民間では、通常あり得ないよね。そんなことしてたら、瞬く間に赤字になって破綻しますから。私の古巣(海上自衛隊)では組織として、そこのところ(形骸化)を厳しく戒めておりました。隊員の命がかかってますから。

       

      と言って、花見なんか止めちまって、そのお金をドコドコの困っている人たちや組織に廻してほしい・廻すべき・・・という意見があります。SNSでもちょくちょく見かけますが、私はその考えには与しません。お金が足りなくて困っている人や組織、お金を欲しい人は山ほどいます。ですが、そこは単純にはいかない。優先順位をつけるのも、なかなか難しい。だからと言って困っている人みんなに按分してたら、一人一円になってしまう。そこはきちんとした仕分けが必要だし、それこそ程度の問題はありますが、花見は花見でいいじゃないですか。ホストはいやしくも一国の代表であり、民主的な手法で国民が選んだ日本の顔なのですから。そして何よりも、日々国家・国民の行く末を案じ、命を削りながら諸外国の代表とやりあっているのですから。

       

      お屠蘇の力を借りて駄文を連ねました。今年もこんな感じで行きますが、引き続きご交誼を賜りますよう宜しくお願い致します。

       

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      宇高フェリー

      2019.12.19 Thursday

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        一年の経過がホントに早いです。盆を過ぎた、と思ったらもう年末です。今年の締めは、令和元年というよりも昭和・平成の終わり年の象徴的な宇高フェリーについて。

        宇高(宇野〜高松)フェリーが今月15日を最終の航海とし、「休止」するとの報道がありました。私の記憶に間違いがなければ、「宇高」は「うたか」と読みます。理由は知りませんが、語呂が良いのでしょうか。さて宇高航路は、単に人や貨物或いは車を運んだと言うことではなく、我々、特に四国の人間の思い出をも満載した航路でした。海洋汚染防止法が制定されるまでは、束になった別れのテープが送る人と送られる人の心を繋いでおりました。新婚さんの出発時には見送る人たちの代表、主として親類縁者の長老などが「〇〇君、ばんざ〜い」と大きな声で音頭を取るのが定番でした。今だったら恥ずかしくて「やめて〜!」って言うでしょうな。良き時代でした。

        さて、本四連絡橋(瀬戸大橋)ができる前から、いずれこういう日が来ることは予想されましたが、実際に宇高航路がなくなると思うと一抹の寂しさを感じます。廃止ではなくわざわざ「休止」と言うからには、将来の再開を担保しているのでしょうか? 或いは運航会社の意地と矜持でしょうか。

         

        個人的にはフェリーよりも、既に廃止されて久しい国鉄(現JR)宇高連絡船への思いが強い。何時のことだったのかは覚えてないのですが、高松築港で連絡船に汽車が入って行くのを見て、”へ〜船のお腹に汽車が入るんだ〜”とびっくりした記憶があります。紫雲丸事件が昭和30年(1955)で、これを機に列車に乗ったままの乗船、即ち列車の搭載を止めたはずですので、私の記憶は3歳頃ということになります。で一般論として、3歳の記憶ってあるんですかね? 記憶自体がセピア色なので、もしかしたら本か写真で見た記憶かもしれません。因みに、紫雲丸事件とは、霧中航行中の上り下り連絡船が高松港外で衝突し、修学旅行の小学生を含む168人もの犠牲者を出した大事件(事故)でした。

         

        拙著『ソロモンに散った聯合艦隊参謀』でもほんの少し言及しているのですが、四国の人間にとって宇高連絡船は、四国、私の場合は讃岐そのものでした。帰郷した時には、宇野(岡山)で連絡船に乗ると”四国に帰った〜”との思いを強くしました。かつて宇野港の桟橋はマラソン桟橋と呼ばれ、列車が駅に着くとみんな我先にと乗船口まで走ります。そして乗船開始となるやダーッと走り込んで席を確保するのです。たった一時間の航程なのですが(笑)。そしてポーンと荷物を座席に投げると、今度は上甲板の船尾に向けて走ります。ボストンバッグに鍵など掛けてた人はいないと思うのですが、荷物を盗まれたって話は聞いたことがないね。貧しくも平和な時代だった。

        そして、後甲板には長い列ができます。そう、うどんです。現在のうどん屋さんのように、多種のトッピングなんかありません。せいぜい鳴門(蒲鉾)にネギがパラパラっと。追加料金でキツネかタヌキ。私が(防衛大学校の)学生の頃は、素うどんが200〜250円程度だったかな・・・。でも、後甲板ですする「讃岐うどん」はホンマに美味かった。私の場合、何故か夜が多かった。心地よい夜風に当たりフ〜フ〜しながらうどんを食べて、名実ともに腹から四国に帰ったことを実感したものです。

        この宇野〜うどんまでの一連の流れを知ったのは、防大一年生の冬の休暇で帰省しているときでした。宇野線で制服姿の私を見つけた4年生が、「俺について来い」とこのオペレーション=作戦を教えてくれたのです。先輩が自分よりもずっと大人に見えて、まぶしかった。高松を離れる時も手順は同じです。やはり後甲板でうどんをすすり、故郷を離れる感傷と共に「不肖眦茵江戸に行くぞ」みたいな。これが私の中の宇高連絡船です。瀬戸大橋を走る岡山〜高松間の瀬戸内ライナーに比べると、誠に不便ではありますが風情がありました。

         

        宇高連絡船がなくなってからおよそ30年、通行料(高速代)が高い瀬戸大橋を補完するように、或いは落穂拾いをするかのように宇高フェリーは四国と本土を繋ぐ足になってくれました。今年をもって休止になるのも時代の流れでしょうか。かく言う私ですが、実はフェリーはあまり利用したことがありません。そこで、ひとつお恥ずかしい小話を(下らない話です)。宇高フェリーには一宿の恩義があるのです:

        やはり防大学生時の夏季休暇で帰省していた時のこと。高松で財布がカラになったので、宇高フェリーの待合所で一夜を過ごしました。バス代もオールナイトの映画館にも入れない、本当のスッカラカンです。なんでそうなったの? 最近もの忘れがひどくなって、理由は忘れた(笑) そこは端折って、とにかく夜が明けてから歩いて帰ることにしたのです。実家から高松までは車で小一時間かかりますので、距離にすれば30キロ弱でしょうか。空が白々としてきたので歩き出したのですが、陸兵ではない私にはひとつ誤算がありました。真夏のこととて太陽が昇るとカンカン照りです。アスファルトの照り返しで熱いのなんのって、喉が渇く、腹が減る・・・。三分の二くらい歩いたところでギブアップしタクシーを拾うことにしました。「〇〇町の〇〇までやって! 銭はないんや。家に着いたら払うけん」。恥ずかしくて、天下の防大生が身分証明書を提示することなどできません。ダメダメと2〜3台スルーされたのですが、疲れたきった私の顔を見て哀れに思ったのか、一台のタクシーが乗せてくれました。家に直接横付けすると運ちゃんに住所を特定されるし、両親にも調子が悪いので、実家に続く橋の手前で降ろしてもらった。でも考えてみれば私の田舎は家などまばらなので、運転手さんは直ぐに分かるよね。家に駆け込んで母に見つからないよう、そっとお金を持ち出し払いを済ませて事なきを得ました。再度家に入ると母はウスウス事情を察したのか、ニヤニヤしてましたが何も訊かれんかった。武士の情け?

         

        この件には後日談がありまして・・・数日後に中学校の同窓会があったのですが、同じクラス(組)の女の子が私の顔を見るなり「眦莊、この前高松で一文無しになったやろ? バレとんで・・・」って。エエ〜なんでこいつが知っとんや(笑)。親切な件の運転手さんは、同級生のお兄さんだったそうな。夕食の時に、スッカラカンで角刈りで目つきが悪く、でも何となく信用できそうなあんちゃんを乗せたことが話題になり、同級生の女子さんはピンときたげな。”そんなことするん、絶対あいつや!”

        良い子は真似をしないでください(笑)

         

        宇高フェリーとは何の関係もない、情けない話で締めになりました。どうぞ皆様、佳いお年をお迎えください。そして、明くる年もご交誼を賜りますよう、宜しくお願い申し上げます。

         

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        『ソロモンに散った聯合艦隊参謀』番外編

        2019.12.14 Saturday

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          前回(12月5日付)のブログ『ソロモンに散った聯合艦隊参謀 IV』で、最近発見された正帽にある刺繍のネームについて描きました。私が疑問視した、あの「登飛者”奈」です。この件につきまして、読者の方から貴重なご教示を賜りましたので、取り急ぎ拙稿の訂正旁々ご披露させて頂きます。

           

          事柄の正確を期するため、ご指摘の一部をそのまま引用させて頂きます。

          ***********************************************************

          実はこれ、漢字ではありません。変体仮名と呼ばれる平仮名の一種です。樋端大佐が生まれる少し前の小学校令で学校教育での使用が禁じられ、その後は今と同じような一音一字に統一されましたが、それ以前は平安の昔からごく普通に使われていました。かの軍人勅諭も原文は変体仮名交じり文で書かれています。「と」には「止」、「ひ」には「比」も当てられましたが、それぞれ「登」「飛」が当てられることも多く、用例はさまざまです。「は」を「者」に濁点で表記するのは、今も老舗の蕎麦屋の看板(生そば)でよく見かけます。・・・

          従って、この4文字自体に特段の意味合いはないと私は思いました。・・・

          ***********************************************************

           

          この方にご紹介頂いた変体仮名に関するサイトを開いてみますと、次のような主旨の説明がありました。

          「ひらがなの字体のうち、現在は使われていない昔のひらがなを変体仮名という。明治33年(1900)の小学校令施行規則をもって、ひらがなは一音一字に統一されたため変体仮名は消滅した」。

          知らんかった〜。情けないことではありますが、知らんものは知らんので致し方ないですね。知らない・無知であるということは、これ即ち恐れを知らないということでもあり、危ない危ない。しかし説明を聞いて、ストンと腑に落ちるものがありました。そう言えば知己の学芸員は、確かに「ひらがなで刺繍がある・・・」と説明してくれました。今更言い訳がましいのですが実は、彼の言うこの「ひらがな」に引っかかるものがありました。無学な私は「ひらがなじゃないでしょう。崩した漢字だろうよ」と思ったのです。がそこを突っ込んで尋ねることはしなかった。もし私が質問しておれば、専門家である彼は変体仮名を含め丁寧に説明してくれたに違いありません。詰めが甘い、私の悪い癖がでました。なお、先のサイトによると変体仮名には、例えば「と」の一音には「止、土、登、東、度、等、斗など」複数の漢字を原型とする表記(ひらがな)があったようです。

           

          因みに、上記1900年は我が母校(旧制大川中学校=現三本松高等学校)が創設された年に当たります。分かり易い学校なのです。樋端さんは明治36年(1903)の生まれですので、学校教育が既に一音一字になっていたとはいえ、変体仮名を使用する文化や習慣はまだまだ残っていたと思われます。俊秀の樋端さんのことですから、小・中学生の時から当たり前のように、この「変体仮名」を使いこなしていたと推察します。今更「覆水盆に返らず」、不明を恥じつつも、ひとつ賢くなったことを嬉しく思っております。人間死ぬまで勉強ですから。ご指摘・ご教示下さった先生には感謝感謝です。

           

          現在、拙著『ソロモンに散った聯合艦隊参謀』は第二版ですが、再度の重版が叶いましたらこの辺りも追記したいと思っております。皆様、ご協力のほど宜しくお願いします。転んでもただでは起きんぞ(笑)

           

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          『ソロモンに散った聯合艦隊参謀』 IV

          2019.12.05 Thursday

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            去る11月25日、母校香川県立三本松高等学校において、樋端(久利雄)さんの遺品贈呈行事があり陪席させて頂きました。樋端大佐の遺児(ご長男)である樋端一雄さんから、新たな遺品を母校(同窓会)に寄贈されたものです。間もなく90歳にならんとする一雄さんは、お住いの京都から3時間をかけて、しかも日帰りのバスでの強行軍です。出席者は一雄さんの他、母校の教頭(校長は所用で不在)、同窓会長の名渕さん(不動産鑑定士)、同窓会顧問の川北さん(元香川県副知事)、東かがわ市歴史民族資料館館長の萩野学芸員、及び小生の6名です。

             

            今頃なぜ遺品?なのですが、この遺品が発見されるトリガーになったのが、先般資料館に於いて開催された樋端さんの特別展と小生の講演だったとのことです。話は込み入りますが、樋端さんのご実家の隣に住んでおられる、樋端さんの大姪(甥ごさんの娘さん)のご主人が小生の講演を聴かれた由。帰宅されて講演のことなどを奥さん(大姪ごさん)に話したところ、奥さんが「そう言えば、実家の屋根裏に大叔父さんのものと思われるトランクがあったような気がする」とのこと。早速、ご夫妻が実家の屋根裏に上がって探索され、樋端さんの遺品であるトランクを発見しました。「男はつらいよ」の寅さんが持っていたのと同じようなトランクです。はやる心を押さえて中を開けてみると(開けるのに大層苦労された由)、帝國海軍の正装(礼装)に着用する正帽が鎮座していた。

            帝國海軍ではこの帽子を、通称「仁丹帽」と呼びました。あの「仁丹」のラベル(商標)に同じような帽子を被ったおじさんがいましたよね。若い人には化石のような話です(笑)。帽子はアルミ製と思われる堅固なカバーで保護されており、虫食いも無くきれいなままで、世紀をまたいで保管されておりました。帽子の内側(頭上部)には漢字で「登飛者”奈」と赤糸の刺繍があります。崩した文字なので素人には難解です。萩野学芸員によると「者」は「は」と読ませるそうな。即ち、音読みすると「とひばな」と描かれている。なぜ「樋端」にしなかったのかは分かりませんが、帝國海軍で三本の指に入る秀才と言われた人物のことです。この四文字には、何らかの意味が隠されていると見るのが妥当でしょう。ひらがなの「とひばな」を、それぞれの原型である漢字に置き換えると「止比波”奈」になるはず。これを良しとせず、敢えて「登飛者”奈」としたのは何故か? 彼が(私のように)艦乗り(ふなのり)であれば、原形のまま(止比波”奈)にしていると思う。謎解きのようではありますが、私は「天空に飛翔(とぶ)者は何処に」と読み、飛行機乗りの矜持を示していると見ます。拡大解釈でしょうか・・・。或いは、帝國海軍特有のユーモア―かもしれない。更には、当時海軍ではこのような当て字が流行っていたのかもしれません。

            流石に所有者の秘匿を意図したものではないでしょう。何方かご存知の方はご教示下さい。

             

             

            トランクの金具部には微かに「MADE IN TOKYO」の文字が判別できますので、日本製であることは間違いありません。かなり使い込まれている様子。一雄さんによると海軍省勤務の時には別の鞄だったとのことですので、駐在武官補佐官として渡仏する際に購入持参し、軍縮会議等では機密書類などを搬送する時に大いに利用されたものと推察します。渡欧が昭和4年の暮れですので、まさしく歴史的なアタッシェ・ケースです。その後の支那方面への出張や赴任に際しても、常に手にしていたと思われます。地元ではかつて、実しやかに「上海からの帰途、実家に立ち寄った時には、ポーカーで稼いだ札束を鞄に一杯持っていた」との伝聞が残っていました。この噂話にも、写真のトランクが一役買っているような気がします。

             

            一雄さんは贈呈式で、感慨深く次のように話されました(一部)。

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            昭和18年9月18日、郷里での葬儀が親父の母校白鳥本町国民学校において、町葬として営まれました。この時に、親父が江田島(海軍兵学校)に旅立つ際に両親と兄に宛てた手紙「告辞」とともに、正帽を含む正装が遺品の一つとして展示されていたことを記憶しております。葬儀が終わった後、大概のものは東京に送り返したのですが、この正帽を入れたトランクは送るのを忘れたのでしょう。そしていみじくも、このトランクと正帽は今日まで実家の屋根裏で保管されました。当時は少尉に任官すると自前で正装をあつらえました。仕立て代は給料の2〜3か月分です。・・・

            昭和3年12月30日、親父とおふくろは白鳥神社で結婚式を挙げましたが、この時にも親父は正装を着用しています。結婚式の写真があったのですが、残念ながら何処かに散逸してしまいました。・・・

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            お話を聴いていて何に驚いたかと言いますと、一雄さんが遠い昔の年月日を空で言っておられたことです。やはり頭の良い家系です。評伝『ソロモンに散った聯合艦隊参謀』を描いた私は記憶の外であり、横でウンウンとうなずくだけ。大変申し訳なく恥ずかしく思った次第です。

             

            贈呈式の後、一同は母校の創立100周年記念事業として設置された資料館に移動、贈呈された遺品(トランクと正帽)は同窓会長の手によって樋端コーナーに収められました。そして、改めて先人の偉大さに思いを致しました。ヨタヨタしながらではありましたが、拙著を上梓することができて本当に良かった。

             

            ショーケースの中には、戦死後に聯合艦隊司令部が遺族に送達した遺品:樋端さんが最期に握りしめていた焼けた軍刀と、その時身に着けていた参謀肩章や(勲章の)略章が桐の箱に収めて展示されています。お父上の遺品を見ながら、一雄さんが誰に言うとなくポツリとつぶやきました。「戦後間もないある日、突然校長室に呼ばれて”遺品を持ち帰って欲しい”と言われた」。彼はそれ以上は何も言わなかった。因みに、終戦によって(陸軍)東京幼年学校を去った一雄さんは、一時家族が疎開している父の実家(讃岐)に身を寄せ、短期間ではありますが父の母校(旧制)大川中学に編入しております。この辺りのいきさつについては拙著に詳しく描いてありますが、遺児の戦後は未だ終わっていないとの思いを強くしました。昨日まで郷土・母校の誇りであり讃岐の英雄であり、軍神と謳われて故山に還った父が、戦争に敗けた途端に厄介者になっている。この無念、悔しさは遺族でないと分からないと思う。

             

            戦争が持つ意味は、戦争に敗けるということはどういうことか。戦争と平和とは・・・。軽々に「戦争」を語ってはいけない、と胸に刻んだ一日でした。今回発見された新たな展示を加え、樋端さんの遺品が後輩の教育と人間形成の資になれば、天上の樋端さんは微笑んでくれるでしょう。

             

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