コロナ禍再考(最終)

2020.05.21 Thursday

0

    新型コロナ・ウイルス災禍に関わる投稿はこれが最後です(多分)。

     

    以前のブログでも言いましたが、危機管理は結果が全てです。本事案の初期段階における日本(政府)の対応、即ち春節時の在り様やDP(ダイヤモンド・プリンセス号)に対する動きは心もとなかった( old sailor にはそのように見えました)ですが、その後の対応は功を奏していると評価していいのではないでしょうか。勿論、現時点での話です。今後どのように情勢が推移するのか、巨大地震のように何回かの大きな余震があるのかないのか、絶対多数の国民は分かりません。しかし欧米諸国に比べて犠牲者(死亡者)が格段に少ないのは明確な事実です。長嶋さん(元野球選手)流に言えば「ミラクル」でしょう。識者がその理由(推論)を縷々挙げていますが、敵(ウイルス)の全体像が明らかになっていない現時点においては、複合的な要因によるものなのか何なのか未だ判然としない。一つだけはっきりしているのは、政府・自治体の関係者や最前線の方々(医療関係者)が踏ん張り、そして多くの誠実な国民(企業や団体を含む)がこれに応じた結果であることだけは間違いない。

     

    時にメディアを通じて「結果オーライでいいのか?」みたいなことを無責任に流布する人がいますが、強い憤りを感じます。その言葉には、衝にある人たちへの労いや感謝の気持ちが微塵も感じられない。お言葉ですが、結果オーライでいいんですよ。日本がやってきた対応には、いろいろ問題があるでしょう。反省点も多々あるはず。しかし、これほど価値観が多様化した今日の日本社会において、万人が納得する、一億三千万人が納得できるやり方なんて限りなくゼロです。それ(多様な見解)が悪いとは言いません。一つの物体や現象を違う角度から見ると、全く異なるものに見えるか、或いは似て非なるものに見えるのは至極当然です。要はどの角度から見るか、如何なる切り口で見ているかです。

    中には不利益を被って泣く人も出てくる。面白くない人もいる。しかし大枠として良い結果を得ることができれば、即ち最優先事項である多くの国民の命が救われれば、それは及第点と評価していいのではないか。

     

    日本人の精神性には、判官びいきや、仮に結果が出せなくても一生懸命努力した人を評価する土壌があります。あんなに頑張ったじゃないか、みたいな。それはそれで尊くかつ美しいのですが、注意すべきことがあります。それは、努力はしたけれども結果が伴わなかった人を、結果を出した人よりも高く評価することが希にあること。人の評価においてありがちなことです。しかし、心情と絶対評価を混同してはいけない。仕事の評価は、あくまでも冷徹であるべきです。試験の点数で言うなら、80点取った人は50点の人よりも高く評価されなければならない。努力の度合いには関係ありません。さしたる努力をしないで80点取る人もいるし、精いっぱい頑張って50点の人もいる。それが人間の現実です。勿論、個々の人間性は別の問題です。80点取った人がみな、50点の人よりも人間的に優れているってことではない。往々にして逆の場合があるのも、人間の面白いところです。しかし、今回のような国家の危機においては、どんだけ頑張っても結果が出せなければアウトです。

    一例:尖閣をよその国に取られたとします。その時当局が " 最大限のことをやりましたが回避も死守もできませんでした "  " 想定外でした。ゴメンナサイ " 。そんな言い訳が通じるはずがありません。因みに、この例えは単なる空想や妄想ではありません。今、我々の眼前に突きつけられている現実です。

     

    再度言いますが、今回のコロナ禍対応の良否を計る最も重要な物差しは、人口(国民数)に対する死亡者数の割合(比率)だと思う。人の命です。生きてさえいれば、未来は必ず拓ける。

    現時点で予断は許されませんが、いつの日か世界を巻き込んだこの細菌戦(第三次世界大戦)が終息し、客観的に判断して、もし日本が勝者グループに位置づけられるならば、なぜこの厄介な敵を抑え込むことができたのか、なぜ被害を局限できたのか、更には最優秀(より顕著な結果を出した)国と比べて何が足りなかったのか、を冷静に分析する必要があります。ここは、決して結果オーライにしてはいけない。有事・戦闘においては、「頑張った」とか「運が良かった」などと情緒的な物差しは排除すべきです。勝者には勝者の、敗者には敗者の要因があります。ここで教訓を導かない者は、同じ過ちを繰り返すことになります。

     

    何はともあれ、一日も早く穏やかな日常が戻ることを願うものです。

     

    【眦菁郢襪離フィシャル・サイト】

    http;//www.umihiro.jp

     

    博海堂

     

    余談:日本人の精神性と言えば、コロナ禍の最中にちょっとざわついた検察庁法改正案:本件を垣間見て小生が先ず想起したのは、かつての統帥権干犯問題でした。

     

     

     

     

     

     

     

    兵を引く

    2020.05.13 Wednesday

    0

      大分前になりますが、或る方から次は『日本人の条件』というタイトルで本を書いては如何かと勧められました。おだてられると何も考えず木に登るお猿さんは、それってなかなかいいんじゃない、と早速パソコンに向かいました。そして、それなりに序文(まえがき)を書いてふと思った。これが全てや、後はなんも出てこん! 私の場合には序文に全力を傾注して背骨になるところを描き、これを本文(本論)で具体的にかみ砕いていく。幹に枝を出し葉をつけ、花を咲かせていきます(咲いてないかもしれませんが)。このやり方が良いのか悪いのかは知りません。書き手によってやり方は違うと思うのですが、素人の私はそういう作業をやってます。

       

      背骨(序文)を描いただけで、これが自分が表現できる限界だと感じたのは、残念ながらこのタイトルで肉付けする材料を持ち合わせていないってことでした。勉強不足は如何ともし難いのです。いみじくも先のブログで言った、「人間は経験以上の発想はできない」ということです。間もなく古希を迎えようとしているのですが、日本とは・日本人とはなどと高邁な思考をすることなく、今まで生きてきたツケでしょうか。自宅と実家にはそれぞれ国旗を備え、祝祭日には玄関口に掲げておりますが「なんでそんなことするの?」と問われると、自分でも明確には説明できない。敢えて言えば私の血がそうさせるのですが、「ただカッコつけてるだけやん」と言われると、そうかもしれないと思ったりする。

       

      この格好(形)から入ると言うのは、自分の経験に照らすと、人間形成などの初期段階ではとても有効なやり方だと思います。但しずっとそれで生きてると、形だけで中身のない人間になってしまいます。このやり方は先の、本の書き方の逆パターンになります。形から入って肉付けをして、そして最終的に背骨を作る或いは目を入れる。これで一本筋が通ったと言うことになります。

      国を護るとか国民を守るとか、使命感などな〜んも持ってない極々普通の少年たちが防衛大学校に集います。絶対多数の新入生はそんなもんです。そんな彼ら(彼女らは枠が少ないだけに少し様子が違うと思う)がまず教わるのは、「気を付け!」の姿勢と敬礼の仕方です。なぜ敬礼をするのか、それに何の意味があるのかなどと教えたりはしない。それが一応できるようになると、隊としての行進や、個人の挨拶の仕方を学ぶ。殆どの学生は地方出身者ですから、方言しか言えなかった田舎者が先輩が使っている言葉から自然と標準語を学習する。

      帝國陸海軍では「私」のことを「自分」と言いました。「自分は眠たくあります」みたいな、日本語としてはちょっとおかしい面白い言い方です。今日では少し洗練されて「わたし」と言います。この教育のお陰で、どんな人に対しても、特に目上の人に対して自然に「私は・・・」と言えるようになりました。自分より若い人や女性に対しても、気取ることなく自然体で「わたしが・・・」などと言えるのは、今でも大変有り難いと思います。逆に「ぼく(僕)は・・・」などとは、小学生に戻ったようで気恥ずかしくて言えません。私が「僕が・・・」って言うのを聞いた人はいないと思う。

      形から入ってその後、寮生活や勉学、卒業後の勤務、周りの人たちの影響などを通じて徐々に自分を形作っていきます。若い頃は日々の業務をこなすのにてんてこ舞で、そんなことなど全く思いもしなかったのですが、自分に職業人としての軟らかい背骨らしいものができたと感じたのは40(歳)を過ぎた頃でしょうか。明確でカッチリしたもの=背骨ができたと自覚したのは、制服を脱ぐ数年前です。情けないとは思いますが、それが実態です。

       

      話は全く関係ありませんが、「兵を引く」即ち撤退というのは誠に難しい。何が難しいと言ってその時機と要領です。撤退は投入するよりも格段に難しくて、細心の注意を要する。果敢に攻めて一気に撤退すればそれは素晴らしいのですが、戦闘の実相は絵に画いたようにはいかない。相手(敵)の情況を観つつ、自分の体力を考慮しながら決心しなければならない。過剰で必要のない兵を投入したままにすると、厭戦気分を醸成することに繋がります。一方で、前線部隊を支えるロジ(兵糧=後方)の体力は徐々に低下します。かと言って早すぎる撤退は敵の殲滅に至らず、いずれ逆襲を受ける事態になりかねません。熟考しなければいけないが、逡巡は許されない。本当に難しいのです。

      国と国の関係(戦争)では、政治的な駆け引きや「落としどころ」みたいなのがあると思いますが・・・。

       

      それで、どうしてもコロナ禍に行きます。

      上記(撤退論)を現下のコロナ対応に当てはめてみると、敵(新型ウイルス)を殲滅する、少なくともそのゴールが見えるまで徐々に兵を引いていくのが定石でしょう。問題はロジです。即ち、国家の体力(主として国の枠組みや経済或いは国民のメンタル)がこれに耐えられるかどうか。そして最も忘れてはいけないのが、最前線の兵士は常に命がけで戦っているってことです。従って、最高指揮官の決断はとても重くて難しい。スタッフ(専門家)が「司令官、ゴールに到達しました」と進言しても、そもそもウイルスの実態がよく分からないわけですから。従って、専門家の言が正しいのか否かの見極めが必要です。細かい知識や情報はスタッフに負うにしても、情勢を俯瞰して最終判断を下すのは指揮官の役割です。

      現総理は自衛官を前に訓示する時、必ず「自衛隊最高指揮官 〇〇〇〇」で締めます。何方かの進言があったのかもしれませんが(ご自身の発案であればゴメンナサイ)、この言葉を発することによってその都度、彼は国家・国民を護る実力部隊を率いている、その使命や責任の重さを自分自身に言い聞かせているのかもしれない。レベルは全く違いますが、私の場合はそうでした。

       

      緊急事態の終結(所謂出口戦略)には、多々悩ましい問題があると思う。参謀(スタッフ)はそれぞれの知識をもって、良かれと思って進言します。有体に言えば、みんなが勝手なことを言います。特異な分野の専門家たちは、我こそプロとの思いやプライドがあるので尚更です。しかしここは、ピンポイントで見極めて貰いたいと思う。ダルビッシュ氏(野球選手)の言葉を借りれば、「総理(最高指揮官)にしか見えない風景がある」はずです。失敗は許されない。これを誤ると、一億三千万人が乗船している「日本丸」は沈没する恐れがあります。

      今を生きている人の評価は大概あてになりません。正しい評価は歴史がしてくれます。

       

      起承転結なし・論理に一貫性なし、ごっちゃ煮の駄文になりました。ゴメン!

       

      【眦菁郢襪離フィシャル・サイト】

      http;//www.umihiro.jp

       

      博海堂

       

       

       

       

       

       

       

       

       

       

       

       

       

       

       

       

       

       

       

       

       

       

       

       

       

       

       

       

       

       

       

      コロナ禍再考 II

      2020.04.30 Thursday

      0

        ホンマに厄介やな〜いつまで続くんかいな?

        極めて厳しい環境下において、医療関係者を始め最前線で戦っておられる方々には感謝の言葉しかありません。宅配便のお兄さん、スーパーでシールド越しにレジを打つ女性などなど、年金生活者がノホホンとしておれるのは、多くの国民が頑張ってくれているお陰です。

         

        先日、長年外資系企業に勤務している友人から連絡(情報提供)があり、某大学院の教授と日本の今後・近未来について議論した結果、「中小企業のみならず下手したら大手の会社や銀行もバタバタ斃れる」との結論に達した由。そして、日本の二次産業から四次産業は、今回のコロナ禍で力尽きる恐れがあるとのこと。生き残ることができるのは一次産業の農業のみだと。そして我々は自給自足を強いられることになるそうな。この推論・極論を一笑に付すのはいとも簡単です。ではありますが、あながち悲観的に過ぎるとも言えないのではないか。願わくば、農園経営(と言うほどのものではない)に従事している私への、友人のリップサービスであって欲しい。

        拙著『ソロモンに散った聯合艦隊参謀』の主人公樋端久利雄(当時中佐)は、昭和16年の7月15日、日米開戦は不可避としつつ「敗ければ明治維新に逆戻り」と看破しております。過去のブログで何回か示唆しましたが、私は現在の情況、今回の災禍を国家の安全保障問題、即ち有事(戦争状態)と捉えます。先の大戦ではABCD(America+Britain+China+Dutch)包囲網にやられたが、今人類が戦っている敵は得体が知れないだけにとても手強い。

        各所において囁かれておりますように、もし仮にこれが自然発生的な不可抗力ではなく、人為的なミスや何らかの所作の帰結であるならばこれは許し難い。それこそかつて我が国が汚名を着せられ、多くの重臣や軍人が巣鴨の露と消えた東京裁判が言う「人道上の罪」に該当する。世界中で何十万もの人間が犠牲になっている事案です。真相はいつの日にか究明されなければならない。

         

        未曾有の大津波に起因する福島第一原発の対応では、我々自衛隊の経験はゼロで知識も乏しかった(殆どなかった)のですが、知見を有する同盟国軍隊の存在は大きく力強かった。しかし今回は世界最強の米艦にも被害が出ている。彼らは原子力推進の空母や潜水艦を運用しているので原子力には通暁しているが、戦例が乏しい細菌(戦)に関してはそれほどの備えがなかったと思われます。

        大きな問題や課題に直面した時、人間は自らの経験の中で頭を巡らせ解決策を見出そうとします。より直截に言えば、我々は経験の範疇でしか思考できない。私自身を含め、おそらく絶対多数の人はそうです。しかし人間は数々の問題や困難と格闘しながら、経験を通じて大きくなる(成長する)。そして、その経験と知恵が次に活きる。

         

        ということで話はド〜ンと飛びます。敗戦後、我が国は戦前の体制や文化などがトラウマとなって、学究の場から「軍事」を排除しました。そして日本社会に「軍事=悪」という構図ができてしまった。一時期、軍事を語る者は異端児のように見られておりました。普通の国では考えられないことです。今日のアジア・太平洋の情勢を想起すれば、GHQは勝利の美酒に酔って、或いは憎さ余って大変な失敗をしたと言えます。自衛隊を創設して(させて)リカバリー・ショットを試みたが、戦後75年を経て今なお日本人はこの後遺症に苛まれています。最近ではかなり改善されましたが、私が若い頃には、自衛官を受け入れてくれる国内の大学(院)は実に2〜3校しかありませんでした。国の根幹に関わることを最高学府が退けてどうする。

         

        門外漢の素人が、我が国のコロナ禍対応を批判するものではありません。ではありますが:

        ダイヤモンド・プリンセスの頃から胸の内にモヤモヤがあったのですが、現在、寝食を忘れて国難に立ち向かっている官僚や政治家たちに軍事的な教養とセンスがあれば、また違った選択肢もあったのではないか。責任のない外野のうがった見方かもしれません。しかし決して我田引水で言ってるのではありません。先に述べた通り、私はこの国難を有事と位置付けるからです。有事の対応に際して最も重要な要素の一つは、組織と指揮(系統)の在り様です。

         

        過激な発言に終始しました。ご容赦ください!

         

        【眦菁郢襪離フィシャル・サイト】

        http;www.umihiro.jp

         

        博海堂

         

         

         

         

         

         

         

         

         

         

         

         

         

        コロナ禍再考

        2020.04.23 Thursday

        0

          今回の新型コロナ・ウイルス禍は、戦後の復興期を経て今日の繁栄を享受してきた我々日本人に大きな課題を突きつけています。国と国との関係や国家の経済活動・産業構造の在り方を、今一度立ち止まって考えてみる機会を与えているような気がするのです。経済問題について能書きを垂れるほどの知識や情報を持ち合わせておりませんが、国家安全保障の観点から、現在の我が国経済の在り様に一抹の不安を感じてきました。また農家の出であるからでしょうか、食糧の安全保障についても若い頃から問題意識がありました。今では殆ど使われませんが、一時期「総合安全保障」という言葉が流行りました。この言葉は屋上屋です。国家の安全保障はそもそも、全ての国力をもってする「総合体」ですから。自衛隊は実力組織として国防の中核を担いますが、安全保障は防衛省・自衛隊の専管ではありません。

           

          三年ほど前のことです。都内の或る製造会社が、生産拠点の一部を中国に移転することを計画していると仄聞して大変驚きました。この会社の内外情勢を見る目や、情勢判断はどうなってるのだろうか。かの地に進出して久しい一部の企業が、東南アジア諸国(ベトナムやインドネシアなど)に再移転しつつあるこの時機に・・・今から行くのか? 一周どころか3〜4週遅れてないかい、正直そう感じました。全部ではないにしても、生産拠点を今大陸に移すのはリスクが大き過ぎる。これが私の見方でした。全く状況は異なりますが、かつて日本は大陸に手を出して抜き差しならない状況に追い込まれた。そんな思いが頭をよぎりました。傍観する立場だったので、その後、実際に移転したのかどうかは承知しておりません。

          戦後、我が国の繁栄にシンクロ(同期)して国民の給料は右肩上がりでした。いきおい多くの企業が生産拠点を賃金の安い国や地域に移転するなど、労働力を彼ら(発展途上国)に負うようになりました。それはそれで、移転先の雇用を促進し我が国の高い技術を供与するなど、途上国にも多くのメリットや貢献があったと思います。しかし安全保障の観点からすれば、産業の空洞化は決して好ましい状況ではありません。平時(何もない時)には win-win で ”よかったよかった” ですが、一旦今日のような危機が生起すると、資材や部品を他国に負っているリスクが顕在化します。お金儲け優先のツケは、いつかどこかで回ってきます。

           

          便宜置籍船を始め、外航船舶の在り方にも疑問がありました。現在、日本が海外と行う交易(物流)の99.8%は船舶に負っています。島国の貿易立国である日本にとって、それは当然のこと。問題は便宜置籍船というやり方です。これも平時はいい。しかし、いざ有事や危機が生起した時、外国人船員を信用しないということではないのですが、外航船乗員の絶対多数を占める外国人に、果たして日本への忠誠を担保することができるのか? どのような契約になっているのかは知りませんが、リスクは極めて大きいと思う。有事において死活的に重要な物資や食料が、仕向地ではない日本以外の港に向かう、このような事態は何としても回避しなければいけない。海軍は一義的に通商の保護に任じますが、海上自衛隊が現在の能力・規模で全ての日本関連船舶を保護、即ち管理できるか? 私には甚だ疑問です。

          因みに、軍事力特に海軍力についてはしばしば勘違いされるのですが、例えば百隻の艦隊を擁している海軍が、有事に即100隻を投入できるかと言えば答えはNOです。保守整備あり乗員の教育訓練あり、他の地域や任務への充当ありで、どんなに無理をしてもせいぜい三分の二です。有事であれば、戦闘による減耗も考慮する必要があります。長期戦になれば尚更です。 

           

          農水省の資料(平成30年)によれば、我が国の食料自給率はカロリーベースで37%、生産額ベースでは66%です。このデーターにはいろいろな解釈があるようですが、少なくとも年々農業従事者が減り耕作地が減少しているのは間違いありません。実家の周りを一瞥しても、耕作地は半分どころか三分の一もありません。自宅がある副都心の埼玉では、毎日のように畑が宅地になっています。一年も経つと周辺の風景が変わってしまう。留意すべきは二点。まず土地を開墾して作物を作る、或いは他に転用した田畑を再度作物ができるようにするには大変な労力と時間を要すること。もう一点は工業製品や加工品と違って、穀物や野菜の栽培には時間を要すること。栽培に突貫工事はありません。子育てと同じです。マスクやトイレット・ペーパーのように、工夫すれば努力すれば短時間で生産できるような代物ではないと言うことです。

          田畑から採れる食材は、人間が食して生きていく上で最も重要なもの。こう言うと語弊がありますが、肉がなくても魚がなくても、もっと言えばパンやチーズがなくても、最低限米と味噌と野菜さえあれば日本人が餓死することはありません。食卓の事情は大昔に戻り十分な栄養は期待できませんが、短期間(数年)であれば凌ぐことができます。ギリギリの世界のことを言っておりますので、誤解なきよう。

          およそ愉快な話ではないのですが、生きてさえいれば道は開けます。農業を活性化して食料の自給率を上げるとともに、職人のようにきめ細やかな日本の農家が作った食材を輸出できれば、安全保障上のアドヴァンテージ(加点)にもなります。

           

          好んで江戸時代のような鎖国に戻る必要はサラサラないのですが、またそんなことできようはずもありませんが、この国が独立国家として生存し日本人が日本人として生きていくためには、危機管理の在り方を再構築するのは勿論のこと、今回の事態を踏まえて経済や産業の在り方も見直す必要があるのではないでしょうか。コロナ禍は誠に腹立たしい限りですが、我々(絶対多数の日本人)にも「油断」があったと思います。いまさら言っても始まりませんが、「春節」が大きな分岐点だった。その道の素人が軽々に物申すのは慎むべきですが、我が国の対応、特に初動においてボタンの掛け違えがあったとすれば、その原因は次の何れか若しくは全部です。

          \気靴ぞ霾鵑なかった(情報の欠落) / ⊂霾鵑鯑手したが分析を間違えた / 正しい情報を得て的確な分析を行ったが情勢判断を誤った

           

          金儲け優先、効率優先で発展してきた日本ですが、この危機において国家の土台・根幹に関わる脆弱性が露呈した格好です。まだまだ先になりそうですが、この災禍を乗り越えた暁には、日本人の叡智を集めて既存の仕組みや枠組み或いは制度を見直し、新たな繁栄に繋がる方途を見出したいものです。

          坂本龍馬の言葉を借りるならば、再度「この国を洗濯する」時機が来ていると思う。

           

          【眦菁郢襪離フィシャル・サイト】

          htttp;//www.umihiro.jp

           

           

          博海堂

           

           

           

           

           

           

           

           

           

           

           

           

           

           

           

           

           

           

          危機管理に関する一視点 II

          2020.04.03 Friday

          0

            下っ引き の八五郎(ハチ)が「て〜へんだ〜て〜へんだ!」と叫びながら、(銭形)平次親分の家に駆けこむシーンが毎回ありました。

             

            若い頃一緒に勤務した或る先輩は、自分が失敗したり思わぬ事態が起きた時、上司である艦長に報告する際には決まって「艦長、大変なことになりました」と枕詞を付けておりました。こう言われると大概の上司は「いったい何事か」と一旦構え、そして「何だ、言ってみろ」となります。そして具体的な報告を受けると、多くの場合は「な〜んだそんなことか。大したことないじゃないか」となる。これとは逆に(勿論、事によりけりではありますが)、「艦長、大したことではないんですが・・・」と持って行くやり方もある。そう言われると、報告を受ける側は「そうか、大事件ではないんだな」とひとまずは安堵しますが、部下の言葉を額面通りに受け止める上司はまずおりません。

            事程左様に、両者(報告者)が抱えている事案の重要度はさほど変わらなくても、受ける上司さんも人間ですから、報告のされ方によって心理状態が微妙に違ってきます。指揮官の心理状態、即ち心の持ち様が違うと、報告した部下に接する態度やその後の措置にも多少の差が出てくるのは人情でしょう。この例えは下から上への報告ですが、上から下への通知や通達にも同じことが言えます。

             

            さて現在のウイルス禍、大変失礼な例えなのですが、日本が災禍を被る初期の段階において「ハチ」の役割を担ってくれた方、即ち早い段階から警鐘を鳴らしていたのは極わずかの人だと思います。絶対多数の国民は一抹の不安を覚えながらも、これほど ”て〜へん(大変)な事態” になるとは思っていなかった。人間の勘は経験と知識に裏打ちされるもの、主として経験を通じて培われるものだと考えておりますが、「て〜へんだ」と叫んだ人には専門家でも有識者でもない人もいたと思う。素人に大した情報はもたらされませんし、正確な情報を入手する手段もないので、単にその人の感性(直感)に依るものでしょう。

             

            所謂、専門家や知識人と呼ばれる人たちは、そんな素人の意見にも耳を傾けることが大切です。何故か? 全く門外漢の人は時に専門家が想像もしない、或いはその道のプロが思いもよらない見方をすることがあるからです。ここで言う素人とは、或る案件についての素人と言う意味で、勘が働く人は一芸に秀でた人や他の分野の第一人者であったり、それなりの人であることが多い。自分が専門とする分野の見方や考え方が、往々にして他の分野にも応用できるということでしょう。現役を退いて多くの民間の方と接して、そのことを痛感します。経歴だけから言えば私は、一応、国防や安全保障をかじっていると見做されます。ですが全く違う分野の方と話をしていて、目から鱗が落ちるような思いをすることが度々あります。その際、相手の性別や学歴や職業や年齢には関係ありません。

            組織を引っ張る人や個人の見解が社会に影響を及ぼすような人は、多様な意見にも耳を貸す姿勢が求められます。裸の王様は論外ですが、一点集中の専門馬鹿になってはいけないと言うことです。市井の声も拾い、最適解を見出して判決を下す。そして決心して、組織を動かす指揮官には責任が伴ないます。

             

            意志決定(判決)のプロセスで、もう一つ重要な要素は時間と時機です。とりわけ危機に直面することが予想される場合、或いは危機に向かいつつある時には、速やかに行動に移さなければいけない。事態が深刻であればあるほど、悩ましい問題は多々ある。しかし、どんなに素晴らしい案や計画を持っていても、時機を得なければ画餅となるか陳腐化するか、或いは愚策としてゴミになるかです。内容によっては後年の教訓やひな形にはなり得ても、現在の問題解決に寄与することは殆どありません。逆にたとえ大雑把な計画であってもタイムリーに発動すれば、大筋で間違いがなければ及第点は取れる。走りながら考えることもできます。最初からピシャリと決めればそれに越したことはないのですが、凡人(人間)はなかなかそうはいきません。我々は「兵は拙速を尊ぶ」或いは「拙速優遅」と称して時機を重視します。今日で言うスピード感です。

            もう一つ重要なこと、それは「兵力の小出し=逐次投入」は作戦を誤ること(が多い)。相手(事態や敵)が手強いほど、努めて作戦の初期段階で大兵力を投入し一気呵成に攻めるべき。勿論、投入する兵力があっての話です。相手の出方を見ながら小出しにして、情勢を見つつ修正していくやり方もありますが、これはドツボに入るリスクを伴います。最終的には敵を殲滅する、殲滅できるという確信があって大攻勢に転じる前の助走、敵との間合いを取る、或いは時間稼ぎであればいいのですが・・・。

            個々の作戦で善戦しても、大戦略を誤ると悲惨な結果をもたらします。我々日本人は、そのことを身に染みて学習したはずです。

             

            以上、現下の国難に何のお役にも立てない歳よりの能書きです。

             

            玄関で靴を脱ぐ(土足厳禁)、風邪を引いたらマスクをする、外から帰ったら手を洗う・うがいをする、一日一回は湯船につかる、食事をしたら歯磨きをするなどなど、他を思いやる心や清潔を重視する文化・習慣を育んでこられた先人に感謝します。 

             

            考えたくはないのですが、どうしても頭にちらつくことがあります:

            もしこの情勢(コロナ禍)下で首都直下型や南海トラフ大地震が起きたら、この国は一体どうなるのか? 首都東京が火の海になったらどうするのか? そうなると、日本に迫る(であろう)脅威は自然災害だけではない。やっておられると信じますが、衝に当たる人たちは頭の体操をしておいて貰いたいと思う。神様は優しいだけではありません。

             

            【眦菁郢襪離フィシャル・サイト】

            http;//www.umihiro.jp

             

            博海堂