楢山節考再考

2019.03.14 Thursday

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    前回は言葉の難しさについて描いているつもりが、いつの間にかボヤキになってました。今回もそうなるような予感がします(笑)。

    今日の日本社会の風潮を憂えているのですが、言葉の暴力は手足を使った暴力と同じレベルの力があります。そして多くの場合、陰湿なだけにタチが悪い。一方で、と言うよりも更に、言葉の暴力どころか実際に手を出す、しかも我が子に手をかける親や大人が顕在化しています。

    顕在化と言いますのも、おそらくは今までも件数は少なかったにせよ、同じような事案・事件はあったと思います。しかし今日では、それが弱者、即ち抵抗できない老人や子供や障碍者、或いは動物などに向けられ、最悪の事態は命を奪うケースが頻発しています。これは凶悪犯罪です。千葉で小学4年生の女の子が自宅で亡くなり、両親が逮捕されたことによって一気に社会問題になりました。遅きに失したとの思いを強くすると同時に、識者の声や議論を聴いていて、何かピントがずれてるのではないかと感じています。

     

    それにしても、誇り高き日本人のモラルはいったいどこに行ったのだろう。昔、緒方拳主演の「楢山節考(ならやまぶしこう)」という映画がありました。とてもセンセーショナルな映画でした。極貧の村には掟があり、息子は老母を背負って山を登る。その老婆自身が、家族のために捨てられる自分を納得し望んでいる。捨てられる母と捨てる子、家族の悲しさと苦しみ、そんな中にあってお互いに通い合う人間のこころ。泣かされた記憶があります。早世しましたが、緒形拳は良い役者でした。

    翻って今日の我が国の現状、子供の虐待や殺人の実態をどのように理解すればいいのか。現在大きな問題になっている件(ケース)には、「楢山節考」に見られるような、家族間の心の交流や愛の形を見ることはできません。自分の子供を手にかけて恥じないどころか、人間の心(こころ)の欠片さえも感じられない。野生動物の生態においても、このようなケースは少ないのではないでしょうか。勿論、ごく一部の日本人なのではありますが・・・。なぜ、こんな社会になり下がったのか。なぜ、現代社会はこれほどに荒んだのか。なぜ、なぜ、なぜ・・・。前回のブログではこのような大人を、「こどな(小大人)」と表現しました。

     

    親と学校や児童相談所・警察など関係機関との関わり方、方法論としては多々あるでしょう。しかし、何か大きな視点が抜けているのではないか、との思いを禁じ得ません。議論の中で、人間が持つ(べき)「こころ」という視点がすっぽり抜けているような気がするのです。確かに「こころ」では抽象的です。しかし、そこをゴールとして位置づけないと、施行する法律や具体的な対策が単なる小手先の手段に終始し、ピント外れなものになるではないか。

     

    再度、考えてみたいと思うのです。なぜ、日本の社会はこうなったのかを。

    まずは、社会全体として子供に「こころ」の教育をしてこなかった。或いは、そのような視点が希薄になっているから、ではないのか。その大きな要因の一つとして、家族の形があると思う。現在、日本人家族の絶対多数が核家族、即ち二世代(親と子供)だけの家族構成です。母子家庭も多い。しかも両親は仕事に追われて、子供の躾けや情操を育む教育に時間をかけるゆとりがない。子供は子供で、塾や習いごとに追われる毎日。

    もう一つの視点は、日常の生活にお祖父さんやお祖母さんの存在がない。私どもの子育ては終わりましたが、私の家族も例外ではありませんでした。祖父母は今や、夏休みや冬休みなど年に数回・数日会いに行く存在、そういう人たちになりました。じぃちゃん・ばぁちゃんも「孫は来て良し帰って良し」で、ただ可愛いだけの存在になった。だから、久しぶりに会う孫に小言を言ったり、社会の様子や人間の在り方をそれとなく教えることは殆どありません。毎日傍にいることがないので、親と子のバッファーにもなり得ない。それでもまだ、孫と祖父母の間で心の交流があれば救われるのですが・・・。

    実の祖父母にしてそのような状態ですから、いわんや社会として子供を育てると言う視点は皆無に近い状態です。逆に下手によその子を叱ったりしようものなら、大概の親はお礼を言うどころか余計なお節介だと文句をつける。このような風潮下では、学校の先生や周囲の大人たちの腰は一様に引けたものになります。

     

    もう一点:手前味噌ではありますが、子供が土に触れることが少なくなった。畑や田んぼや公園でゴロンゴロン寝っ転がって、どろどろになった子供を見ることは殆どありません。人間(子供)は大地に触れることで、知らず知らずのうちに成長していきます。理屈ではありません。もしこれが、ただ遊ぶだけでなく植物、とりわけ野菜や果物を栽培するために土に触れれば、更には自分が育てた収穫物を食すれば、それは最高の教育であり将来の心の糧になります。大地や海や山林、これら自然は人間の肥やしでもあるのです。植物だけでなく、ペットなど動物を飼うことも同じような力を持っていると思う。要するに、動物だろうが植物だろうが、生き物に触れることによって子供の優しい「こころ」が育まれ、命の尊厳を理解できる大人に成長する。

    私の実家は昔貧しかったので、遠来のお客さんが久し振りに見えるとなると、飼っている鶏をシメて料理をしもてなすのが通例でした。幼かった私も、何回かシメに立ち会ったことがあります。そこで動物の血を見る。ああ人間ってのは、大変むごいことをするもんだ。他の生き物を犠牲にし、食して生きているんだ。勿論、そんな難しいことは分かりませんよ。しかし、理屈で分からなくても、他の「命を頂いている」ということを体感するわけです。

    牛は農耕の必需品(家畜)でしたが、副産物として子を産ませて売り何がしかの収入を得ます。ですから、私の家で飼っていたのは雌だけです。種付けに立ち会ったこともあります。ベコ(牛の子)が生まれると、農家はまず”あそこ”を見るんです。雌は高く売れますから。雌だろうが雄だろうが、母牛は子供が売られていく日が空気で分かるんですね。その日(子牛がセリに出される日)になると、朝から異様に啼きます。売られていった後は一日中啼いてます。母の大きな目には涙がいっぱい(のような気がしました)。子供心に可哀そうだな、人間は理不尽なことをするな〜と思いました。

     

    感傷にふけってる場合じゃないですね。

    日本の社会の形が徐々に、或いは急速に変わってきたことによって、人々の「こころ」も変化してきた。残念ながら良い方にではなく、徐々に荒み病んできた。戦後の日本・日本人は、お金(銭)と効率を追求して世界に冠たる経済大国に成長したが、何か大きな忘れ物をしてきているのではないか。GHQ(マッカーサー)の手によって、我が国が・日本人が骨抜きにされたのは間違いない。しかし、あれから3/四世紀が経とうとしている現在、もういい加減修正にかかって良いのではないか。

    顕在化する諸問題の水面下には、必ずその原因が隠れています。前回は敢えて言及しませんでしたが、今日、一部の日本人が人間性を見失っている大きな要因として「戦後の教育」がある。断言します。教育には家庭における教育、社会における教育などいろいろありますが、子供の将来に大きく影響するのは「学校(義務)教育」家庭における教育(躾けなど)です。学校は、単に算数や国語を教えるだけの場所ではない。

    教育については、言いたいことが山ほどありますが・・・。今ここ(教育)に手を付けないと、日本は取り返しがつかいないことになる。と言うよりも、既に取り返しがつかないことが頻発しています。将来に大きな禍根を残すのではないか、と危惧するものです。

     

    今回は自戒を込めて、かなり強い表現になりました。しかし単なる批判であれば、どこぞの先生(?)でもできる。一つからでも具体的に自分が何をできるのか、模索の日々が続いております。残り時間は少ないぞ(笑)

     

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    博海堂

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    言葉の難しさ

    2019.02.28 Thursday

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      過去のことになりますが、幸運に恵まれ、また多くの方々の協力を得て三冊の本を上梓・出版することができました。本当に有り難いことです。四冊目にトライするテーマはあるのですが、郷里で農園を本格的にやろうとしていることもあり、私にしては珍しく躊躇しております。素人が本を書くのには、結構体力が要るのです。その代わりにということではないのですが、二週間に一回、A4版に2〜3枚ほどグダグダと描いたブログを公開しております。ものを書くという作業を5〜6年続けておりますと、つくづく言葉(使い)の難しさを感じます。他愛もない内容でも他人様が目にしてくれると思うと、何回も何回も読み返して修正します。最低でも10回、状況によっては20回以上も自分で校閲をします。そして、誤字脱字は勿論のこと言葉遣いや言い回し、起承転結に照らし文脈から見た前後の入れ替えなどを試みます。それでもこの程度の文章ですから、私の知識や筆力は推して知るべしです。

      かかる作業は面倒ではあるのですが、何度も自分が書いた文章を読み返していくうちに、不思議なものでボンクラ頭が徐々に整理されてくる。何回かに分けて書き進めていくうちに、当初頭に描いたものとは違った方向に展開してしまい、タイトルを変更することもままあります。素人故の悲しさですね。

       

      言葉と言えば最近、大臣や国会議員、或いは著名な方の発言=失言が問題視されることが多い。昔からよくある話で有名税と割り切ればいいのかもしれませんが、今ほど加熱な報道はなかったような気がします。とりわけ大臣の発言になりますと、野党の恰好の餌食になり、あたかも鬼の首を取ったかのようにやれ職を辞せ、やれ総理の任命責任を問うなどなど喧しい。またこれがセンセーショナルに、繰り返し報道される。聞かされる多くの、良識ある国民はもうウンザリしています。もっと他にやるべき仕事があるんじゃないのか。誠に能天気で平和な、平和そうに見える国です。

       

      上記には、主体・客体を含めて何点か問題があると思う。

       

      まずは、発言(失言)する側の資質の問題。その人の能力もあるでしょうし、性格が災いすることもある。実は私も、時折上司や目上の人にため口を言うことがありました。その度に反省はするのですが、今もってその癖や性格は治りません。それが私の限界です(でした)。必ずしも本心から思っていないことを、つい口走ってしまうこともありますし、逆に心の中で思っていることが自然と口から出ることもあります。前者は、男の子が好意を抱いている女の児に、わざと嫌なことを言ったりからかったりする、そんな感じでしょうか。こういうひねた性格は、還暦を過ぎても変わりません。悲しいかな、人間ってのはなかなか成長しないもんです。

      自分がそんな性格ですから、失言する人のことがよく分かります。軽率ではあるのですが。しかし責任ある人の発言は重く、他に及ぼす影響も大きいですから、あの人はそういう人間なんだから許してやれ、大目に見てやれという訳にはいかない。行動ではなく口の問題ではありますが、それ相応のペナルティは覚悟しなければならない。昔から口は災いと言います。自己責任です。

       

      一方で、他人の失言を捉えて、ここぞとばかりに口をとんがらせて批判する人。そんな人、チョイチョイ目にします。こういう人は、どんなに貌(かお)のお造りが良くても、とてもとても、美しくなど見えたものではありません。陰でコソコソいうよりも、声に出して自分の考えを明確にする方が立派だと言う見方もあります。しかし、何事も程度と常識ってものがあります。票が命の政治家さんなどは、言うほどに票が離れて行ってるってことが分からないのでしょうか? 有権者(国民)はそれほど馬鹿じゃないですよ。特に多くの情報を持っていて、思考が柔軟な若い人たちは。

       

      最近つくづく嫌になるのは、第三者で客観的であるはずの報道、メディアの在り様です。とにかく、一つの単語(失言など)を捉えて議論を展開し発信する。製品を売るキャッチ・コピーみたいに。そして、どう見ても素人と思しき参会者が、寄ってたかって叩きまくる。責任のない人、責任を取らない・取れない人の放言ですよ。お笑いで終わればそれでいいのですが、こうなると言葉狩りと言うよりも陰湿な虐めに近い。例えば誰かが話の中で「アホ!」って言ったりすると、その言葉だけを捉えて世の中がひっくり返るように発信する。こういう、最近の報道の姿勢や手法は危ないし怖いですよ。単体の言葉は、必ず一つの状況下において大きな文脈の中で使われている。或いは多くを語ってはいなくても、心の中にある思いから出ているはずです。それ(報道など)を観た人・聞いた人・読んだ人で話の全体や大枠を知らない庶民は、報道されるままに「そうだよな」って思います。仮に話の中で(やや)不適切な表現があったにしても、その人が発信した全部を聴くと、それほどおかしいところはない(こともある)。おかしくないどころか、ごく当たり前で納得のいく正論を述べていることもあります。勿論、中には稚拙な表現があることも確かです。

      さりとて忙しい一般庶民が、いろんな人の意見や見解の全てについて、その細部まで把握するのは物理的に難しい。日々あくせく働いている人々に、それを求めるのも酷な話です。従って報道の使命は、国民に事実を正しく、そして分かり易く伝えることだと思うのですが・・・。残念ながら、最近では首をかしげることが多い。

       

      昔は新聞や本など、活字を読む人は知識人であり偉い人=正しい判断ができる人という感覚がありました。今日の大きな問題は、書かれたものの多くには(それは当然でもあるのですが)、書いた人のバイアスがかかっているということ。このバイアスというのはスパイスみたいなものです。言葉(発言)も同じですが、強烈であればあるほど痺れる。そして、この痺れは或る種の快感に転化します。従って、バイアスの利いた活字をよく読む人が、真っ当な判断をできるかというと必ずしもそうでもない。痺れているわけですから、偏った意見を聴き続ける、偏ったものを読み続けていると、むしろ逆の場合もあり得ます。人間ってのは、毎日毎日同じことを聴かされ、繰り返しある種の考えを吹き込まれると、最初はこの人の言うことはおかしいと思っていても、次第にそれが正しいと思うようになります。辛いものを辛いと感じなくなるのと同じ。感覚が麻痺するわけです。きつい言葉で言えば「洗脳」です。

      とりわけ、幼い時、或いは弱っている時や疲弊した時に受けた教育(洗脳)は、岩盤のように強固になっています。バリバリの何とか、って言いますよね。かく言う私自身も、考えが違う人からすれば同じように妥協を許さない、バリバリに見えているかもしれません。こうなったマインド(岩盤)を溶かすには、余程インパクトがある被害を被るとかがない限り、膨大な時間を要します。周りの人たちが、何とか方向転換させたいと思って手を尽くしても、一生溶けずに向こうまで持って行く人もいる。それでも他に影響がなければ個人の勝手でいいのですが、凝り固まった考えを発信して同志を増やそうとする人もいます。こうなると厄介で始末に負えない。

       

      言葉から何か妙な話になりました。これを要するに、いろんな情報が氾濫する今日では、我々一人一人がきちんとした物差しを持たなければいけないってことです。目盛がズレている物差しでは、何度測っても正しい値はでてきません。でもそれ(正しい物差しを持つこと)は、特段難しい話ではない。ごく普通の「人間らしさ」さえ持ち合わせている人は、正しい判断に資する物差しを持っています。難しい勉強などする必要はありません。ごくふつ〜で良いのです。なまじっか下手に勉強したことによって、ズレた目盛の物差しを持つこともあります。そうすると事の本質を見誤ります。

       

      今日の日本の大きな問題は、この普通で当たり前の人間の「こころ」を失いつつあることだと感じています。子供や動物など弱い者に向けられる暴力や虐めなど。ちょっとした失言に対する、理不尽で執拗な攻め・責めも同じです。このように、大人が幼児化し心が退化しているという現実があります。成長期に正しい物差しを持つことができなかった「こどな」に育てられる子供は、一体どんな「おとな」になるのか? 今日では、このような「こどな」が顕在化している。その原点は那辺にあるのか? それは、今次拙稿の主題ではありませんので言及しません。

      しかし、そんな「おとな」が、高学歴かつハイ・ソサエティであり、選良であるはずの政治家やメディアにも及んでいる。そんな気がしてなりません。

       

      今回は old sailor のボヤキに終始しました。許してたもれ!

       

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      博海堂

       

      追伸 前々回の拙稿「ノルウェー紀行(後編)」末尾に掲載した写真は、エドワルド・ムンクの自画像でした。

       

       

       

       

       

       

       

       

       

       

       

       

       

       

       

       

       

       

       

       

      朝食と肥満

      2019.02.14 Thursday

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        年末年始は食べたり飲んだりする機会が多いので、体重が気になる方も居られるのではないかと・・・余計なお節介です。かく言う私も師走に風邪をひき、体力を付けなきゃと思ってガンガン食べていたためか、2キロ近く増えたのですが現在は元に戻しました。

         

        昨年のことですが、某一流国立大学(院)が「朝食を抜くと肥満になる」旨の研究論文を発表した、との記事が目に留まりました。ヘッドラインは、読者の興味を引くように上手くつけますね。たまたまですが、この記事を拝見したからには、かれこれ二十年になりますか、「朝食を摂ることなく」生きている old sailor としては看過できません(笑)。但し、論文そのものは読んでいないことをお断りしておきます。ニュースの記事を読んだだけの感想や見解です。当該論文では、当然のことながら専門的かつ学術的な説明がなされているでしょう。

         

        さて件の研究はラットで実証したもののようですが、人間にも応用できると説明されています。記事によると大要と論旨は次のとおりです。

        朝食を抜く ➡ 体内時計が狂う ➡ 活動時間が少なくなる ➡ エネルギー消費が減る ➡ 体重が増える

        論文(記事)には但し書きがあって、ラットは起きている間、餌があれば断続的に食べ続ける習慣があるとのことです。

         

        専門家の論文に難癖をつけるわけではないのですが、まずこの研究は人間に応用できると言うが、ネズミ並みの人間であればってことなのかい。であれば大変失礼な話です。そりゃそうだ。朝食を抜いても、起きている間何がしか食べてたら誰だって肥えますよ。

        でもこの件では、新たな発見がありました。動物、特に野生の動物はどんなに大好物の餌が目の前にあっても、脳が「満腹(もう食べるな)」と指示したら一切手を付けないと思っていたのですが・・・。だから、ファットな野生動物を目にすることはないですよね。まさに弱肉強食の世界で、肥満児は生き残れないでしょう。それともラットは消化が早くて、直ぐに小腹がすくってことなのかな?

        更に上記矢印(➡)の流れにしても、朝食を抜くと体内時計が狂うってのが私には理解できません。朝食を抜いて早や二十年、実行に移したその日から今日まで、朝を食べないから体内時計が狂ったと意識したことは一度もありません。すべからく5分前の世界で生きてきたので、体がそうなってるのかもしれません。頭の時計も今のところ大丈夫です(多分)。ましてや、朝食を抜いて活動時間が少なくなったことなどない。

        ここで言う体内時計と活動時間の関係、正直私にはよく分かりません。朝食を食べないので、その空いた時間は寝ていると言う想定・仮定なのかもしれません。後で述べますが、実はそこが問題なのです。私の場合、週日は0700(マル・ナナ・マル・マル)に総員起こしがかかり、朝食バリバリ派が食事に充当しているであろう時間帯に簡単な筋トレなどをやるので、朝飯を抜くことでむしろ活動時間が増えています。上記フォローの最後の二つの項、「エネルギー消費が減ると体重が増える」これは納得です。そんなん当たり前のこっちゃ。

         

        かねがね食事(カロリー)と体重の関係は、お金と同じだと考えています。実に単純明快で、摂取したカロリーと同じ量のカロリーを消費すれば、プラス・マイナス=ゼロ。即ち、稼いだお金を全部使ってしまえば貯金はありません。逆に浪費(=ここではエネルギー消費)を少なくして小銭(カロリー)を溜め込めば、財布(お腹)が徐々に膨らむのは必定。光熱費(=ライフライン)などは、基礎代謝に分類されるのかな。財布と肥満では有難味が真逆ですが、そんな下らないことをいつも思っているためか、私の貯金通帳は何時まで経ってもマル(ゼロ)が増えません。って言うよりも、働けどハタラケど(でもないですが)右肩下がりの一途です。せめて体重並みに、現状を維持したい(笑)

         

        ものの本によれば、我が国の庶民は長年(百年千年単位)に亘って一日二食だった。夜が明けたら農作業に出る。ひと働きして腹が減ると、家に戻って食事をする。時間帯は0900〜1000くらいだったのかな。食事後、少し休憩して再び畑に出る。そして日が落ちたら作業を切り上げ、家に戻ってひと風呂浴び夕食を摂る。雨の日が休日。森羅万象に人間の営みが融合された、とても理に叶った生き方であり生活だと思う。「大地に還る」を標榜する old sailor は、今これを実践しているわけです。

        日本で一日三食の習慣が定着したのは明治初期だそうな。即ち「兵隊になれば(軍隊に入れば)、三食おまんまが食べられる」という徴兵制度の謳い文句にあると言います。「朝食」の習慣が日本に伝わったのは、鎌倉時代の頃ですか(?)、中国に留学した僧侶が持ち込んだらしい。その後、当時の上流階級である大名や僧侶が、「贅沢」として一日に三食を食べるようになった。明治になって国軍が建設され、軍隊に入ればこの贅沢ができる、即ち一日に三食が食べられるとキャンペーンを張って兵隊を集めた。そして、満期除隊した兵隊が、全国に帰還して徐々にこれを広めたと言います。これが事実なら、たかだか百年ほど前までは我がご先祖様は二食だったわけで、歴史ある日本人の体(DNA)は一日二食になっている(はずなんです)。

        敢えて言うなら、一日の食事は一回でもいいと思っています。だって、二食より前のご先祖、即ち人間という名の動物が食物を保存する知恵がなかった頃は、「腹が減ったら食べ物を採りに行く」だったんだよね。但し一食にした場合は、とりわけ栄養のバランスに留意する必要があるでしょう。現代人が健康体を維持するために必要な栄養を、たった一回の食事で摂取するのはなかなか難しいと思う。その場合には、今流行りのサプリメントが有効かもしれない。ですが、成長期の子供さんには一日一食はお勧めできない。仮に十分な栄養を摂取できても、顎を使うことは脳の活性化などにとても重要だと思うから。

         

        かつて真(まこと)しやかに、「朝食を食べないで登校する児童は、朝礼の時に貧血で倒れることが多い」と言われてました。小学校や中学校の先生も、同じことを言ってたと記憶してます。私も子供の頃は当たり前に朝食を食べてたので、何となく納得してましたが、今日でも同じ説を唱える人がいます。多分、栄養学や医学関係者でもマジョリティでしょう。所管の文科省を始め、いろんな所で「三食きちんと食べよう」のパンフレット類を目にします。でもこの「朝食神話」って、現代の医学・栄養学において正しいのかな?朝食に限らず食べて直ぐに動き出すのは、胃の負担が大きいと思うのですが。胃が欲している(必要な)血液の多くを、筋肉や脳に使うわけですから。食事をすると胃が活発に動く、即ち血液を使うので、その分脳に行く血液は少なくなる。だから食後は眠くなる。食事をしたら直ぐに働けって言う上司、直ぐに勉強しなさいと言う親御さん、極端な話し、この人たちは殺人罪に問われてもおかしくない。

        察するに、朝礼の時に貧血で倒れるのは食事の問題ではなく、夜更かしなど生活の乱れに起因するのではないでしょうか。勿論、夜更かしの理由にはゲームなどで遊んでいるだけではなく、受験勉強や仕事などもあります。どなたか正しい知識をお持ちの方、ご教示下さい。

         

        体重については自信を持って言います。朝食を抜こうがお昼を食べまいが、はっきり言えばどうでもいい話で、要はその人にどれだけ自己管理能力があるか・ないか、即ち自分の舌におもねるか否かだけです。脳は「もういいよ」と言ってるわけですから。過度の飲酒・喫煙、美食も同じ。過剰に飲食をする人の多くは、私は・俺はこれで癒されている・精神的に満たされてるのだから、これこそ健康の秘訣であり、だからこれで早死にしても何ら後悔はないと自分を納得させる。酒・煙草なくして何の人生ぞ、みたいな。自己責任ですから、それはそれでいいわけです。お好きな時にお飲みなさい、お好きな時にお吸いなさい。お酒・煙草どうぞどうぞ。但し、他人様に迷惑をかけないように!ですね。この他人様には一親等の身内を含みますよ。自分以外の人って意味です。

        因みに、朝食を止めてから20年が経過した現在の、私の平均体重は学生時代マイナス2キロです。プラスではなく「マイナス」ってのがミソですよ。筋肉は当然落ちてますから。殆どの人が該当すると思いますが、若い頃より筋肉が落ちて体重が増えているなら、その不良債権はどこに隠れてる? 申し添えますが、私は周りの人が呆れるほど食べます。

         

        気分を害された皆さま、ゴメンナサイ。アッと気が付いた。今日はバレンタイン・デーだ。チョコをいっぱい貰う人も、チョビットの人も、義理だろうが何だろうが頂いたものはゼ〜ンブ美味しく頂きましょう。誰からもお届けがない人は、「ラッキー、ああ健康だ!」と思えば宜しいかと・・・。

         

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        博海堂

         

        追伸 バレンタイン・デーと言えば、最近の日本人は少しバレンタインにお疲れのような・・・。年賀状とバレンタイン・チョコ、何となく似たところがあるような気がしている old sailor です。

         

         

         

         

         

         

         

         

         

         

         

         

         

         

         

         

         

        ノルウェー紀行(後編) 

        2019.01.31 Thursday

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          私が三年間勤務した懐かしの大使館は王宮のすぐ裏(北側)にありましたが、現在は民間の手に渡っており”日の丸”も”菊のご紋章”も見ることはできませんでした。ただ建物はそのままで、二階のあの部屋で鉛筆なめてたな〜と当時を懐かく思い出しました。現在の日本大使館は王宮の西側、徒歩5〜6分ほどのビルの中にあります。戸建てに比べると見劣りはしますが、ビルの屋上に翩翻と翻る国旗は鮮やかで存在感を顕示しています。折角の機会でもありましたのでご挨拶に伺いました。アポなしの突然の訪問にもかかわらず、館員(外交官)や現地職員は丁重に応対してくれました。厚かましく参事官(次席外交官)と30分ほど懇談・意見交換してきました。一方的に昔話をしてましたが(笑)。地球の裏側に行っても、恐れを知らないおっちゃんです。

           

          外国で見る国旗は、国内で目にするのとはまた違った趣があります。大使館在任中に政府専用機が訓練でノルウェーに来たのですが、機首に小さな日の丸がなびいているのを見た時には涙が出そうになりました。練習艦隊が海外の港に寄港すると、在留邦人の大歓迎を受けるのも頷けます。オスロを散策できたのは半日だけなので、多くを観て回ることはできませんでした。かつて住んでいた家、スキー・ジャンプの聖地であるフォルメンコーレン(ジャンプ台)、白樺林などなど訪ねたい所は多々ありましたが、次回のお楽しみということで・・・。王宮を起点にして東から右回りに南西方向まで5キロ圏内を歩いてみて、その佇まいや空気が20年前と殆ど変わっていないことに或る種の安堵を覚えました。ただ、時折ですが氷点下の寒空で沿道に座り込んでいる浮浪者を見かけることがあり、やはり時代の変化を感じます。移民を受け入れているが故の光景でしょうか。移民と言えば、人口がかつてに比べると50万人ほど増えているのにびっくりしました。人口約500万人の国ですので、50万は大きいですよね。

          因みに国の人口(population)、即ち国民の数は国力の重要な要素の一つです。日増しに人口が減少している我が国は、それだけ国力が低下しているということです。

           

          ノルウェーは北海油田を擁しているので裕福です。かつては北欧のアラブと言われてました。会議に参加していたスウェーデンの代表が、VOLVO の資本も半分は中国の手中にあり、スウェーデンの経済は大変厳しい。ノルウェーにはオイルがあるので順調だ、と羨ましそうに言っておりました。

          私が在任中の1994年11月、EU加盟の是非を問う国民投票が行われました。時の政府(ブルントランド政権:女性首相)は、欧州の流れに乗り遅れまいと加盟を強力に推進していた。にも拘らず国論は完全に二分され、家庭内(夫婦や親子の間)においてさえ喧々諤々の議論がなされたと言います。我々外交官は投票の行方を固唾をのんで見守っておりましたが、過半数の国民がNEI(NO)を選択しました。結果は本当に僅差でした。NEIの結果が出ると同時に、ノルウェーのEU及びWEUオブザーバー資格の椅子は撤去された。国防省の友人が教えてくれたのですが、投票の翌朝、外務大臣はNATOのネクタイをして登庁したとのこと。もうこの国にはNATOしか残っていない、という彼のささやかな抵抗だった。政府の落胆は目を覆うばかりでしたが、あれから四半世紀が過ぎEUが多くの問題を内包している今日、結果論ではありますがノルウェー国民の選択は正しかったのではないか、と私は思っています。勿論、石油・天然ガスという担保があってのことではあります。

          時あたかも、東欧諸国やバルト三国がソ連の軛(くびき)から解放されて独立に湧いていた頃です。一方で先進諸国は、EUという枠組みでの統合を目指している。このことに私は少なからず違和感を覚え、EUは早晩破綻するだろうと分析(直感ですが)しておりました。私がそう予測したのは、ひとえに national interest (国益)という問題です。如何に 成熟した民主国家であっても、国益の壁を乗り越えるのは難しい。EUの理念は、間違いなく美しい。しかし一部のお金持ちが、多くの貧乏の面倒を見ることができるのか。欧州各国のEUへの統合は、人間の本質に反しているのではないかと思えたのです。誤解を恐れずに敢えて言えば、共産主義のように。

           

          アーカシュ城

          アーカシュ城(国防大学はこの敷地内にあります)

           

          NATO会議(workshop)の内容に少しは言及しないと、何しに行ったんだと言われそうです(笑)。

          会議の主題は ”diversity (多様性)” でした。日本側が「自衛隊における女性問題」、即ち女性自衛官の現状と将来(課題)にフォーカスして発表したのに対し、他の参会者はより広く「多様性」を捉えており、それこそ多様な議論ではありました。参会者の意見や議論が多方面に拡散したため、他人事ながら会議の結果をまとめるのは大変な作業になると推察します。

          議論の中で、ひとつ気になったことがあります。欧州では今日、移民・難民が大きな問題になっています。日本に留学する等、数年間の滞在経験があり、我が国の状況に知悉している某国の学者と(会議の外で)意見交換をしたのですが、彼が言うには「日本にいる外国人は日本の社会に上手く溶け込んでいるが、欧州では全く状況が異なる。欧州先進諸国に来た移民(難民)は、自分たちだけの community を作って同じ地域、同じ地区で生活している。その枠の中だけで生きており、受け入れ国に融和しようとしない。それが犯罪の温床にもなっている」。私はその方面に詳しくないのでよく分からないのですが、日本の現状を肯定的に見る外国人がいることに驚きました。欧州諸国に比べ我が国(民族)は、それだけ寛容で懐が深いということでしょうか。

           

          しかしながら、そんなことで喜んでいる場合ではなく、少子高齢化と相俟って働き手が急速に減少している現状に鑑みれば、将来、日本においてもこの種の問題が起きる可能性は大です。或いは現下の隣国系住民に関わる諸問題も、大きく捉えるとこの範疇に入るかもしれない。すれば、問題は既に顕在化しているとも言える。いずれにしても、予期し得る事態への対策を早急に構築する必要があります。

           

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          下の写真は誰でしょう? 因みに、私ではありません(笑)

                              

           

           

           

           

           

           

           

           

           

           

           

           

           

           

           

           

           

           

           

           

           

           

           

           

           

           

          元旦に思うこと

          2019.01.17 Thursday

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            一年の計は元旦にあり、と昔から言います。私も毎年、元日には「今年はこれでいくぞ!」と心に決め、それを家族や周りの人たちに発信・公言します。なぜ敢えて口に出すのかと言いますと、私は根性なしなので、退路を断たないと途中で断念する恐れがあるからです。例えば、何年か前のテーマは「自慢しない」。これは少々手強かった。その日のうちに、もう破ってるとのご指摘を頂きました(笑)。

            で、今年のお題は「ほめる」です。こっちは、努力すれば何とかできそうな気がする。「ほめる」にしたのは、別に「人たらし」になりたい訳ではありません(笑)。人間ほめられて悪い気がする人はおりません。明らかに「ゴマすってやがる」と分かっていてもです。そもそも「ほめる」と「ゴマすり」の違いは、難しくてよく分からないですよね。多分そこは「指導」と「パワハラ」と同じで、発する人の気持ち、受け取る人の気持ちの問題でしょう。褒められると、大概の人はニヤッとして口元が緩みます。人間ってのはそんなもんです。

             

            さて、或る年の計は今年と対極に位置するような、「いい子になるのを止める」でした。と言いますのも、現役の時には組織の一員として一つの歯車になろうとすると、どうしても自分を抑え込む場面がありました。それが良いか悪いかは別にして、組織人としてはそうせざるを得なかったという事情もあります。この積み重ねが高じて、「良い子」が習い性になってしまった。

            しかし退役して数年が経ち、ほぼ自由人になった時にふと立ち止まって、自分に残された時間などを逆算すると、もういいんじゃないか、むしろ良い子ぶるのは止めるべきではないのかと思ったのです。かと言って社会生活はしておりますので、自分の中の良い子になろうとする意識を完全に否定・払拭するわけにもいきません。だけど「良い子」を止めようと思うだけでも、随分気が楽になりました。言ってみれば、二枚目(二回目)の裃(かみしも)を脱いだってことでしょうか。勿論、一回目の裃は制服です。謂わば、退役した時点で裃は脱いだつもりでいたのですが、もう一枚裃を着ていることに気が付いたってことでしょうか。

            裃を脱ぐと、その分自分の両足で立ち、自分の力で歩いて行かなければならない。そして自分自身への証として、また退路を断つ意味でも、誰にも相談せず小さな一人だけの会社を立ち上げました。所謂「おひとり社長」です。その結果、心の満足は得られたのですが、多くの友人・知人と徐々に疎遠になりました。一方で多くの別の出会いがあり、多方面にわたって大勢の友達ができました。何れにしても自分で決心したことですから、結果については何ら後悔することはありません。

             

            以前に書いたかもしれないのですが、「運命を引き受ける勇気」と言う言葉が好きです。私の良い所であり欠点でもある、「まっエエか〜」にも通じるところがあります。家族を含め自分の身に起きる諸々のこと、これらの殆どは人為的な要因によって生起しています。全く自分には関係ないのに降りかかるのは、地震くらいでしょうか。現役のときに少し関わりましたので、よく例に出すのが「人事」です。組織に属する人であれば誰もが気にすることですが、この人事は誰かが何処かで決めています。

            さまざまな事故や事案も同じ。自分には全く関係ないのに被害などを被ることが稀にありますが、その殆どは何らかの形で自分に関わりがあります。或いは多くの人々との出会いや別れ、これも大きな要因は自分です。自分から声をかける場合は勿論ですが、知らない方からお声がけを頂くのも、「自分」という存在があってのことです。

             

            そうなんではありますが、私は一切合切を「運命」という言葉で括ります。時々、なぜ俺ばかりに苦労が舞い込むのか、と自問することがあります。どんなに順風満帆で幸せでゆったりした日々を送っている人でも、一生のうちに何回かはそういうことがあると思います。そんな時はこう思うようにしています。しなくても良い苦労はしないに越したことはないけれど、既に起きてしまったことはしゃ〜ないしゃ〜ない(仕方がない)。自分の努力不足は横に置いて、諦めが早いのです。

            あの時に苦労して良かった、と思う時期が来るかもしれないし、来ないかもしれにない。しかし不幸(と思われる)な事態が起きたことを、いくら悔やんでも何の解決にもなりません。ではどうすんのというのが大事で、せめて半歩でも前に進める方策を模索する。そうしないと滅入ってしまいます。眼前に起きている嫌なこと不本意なことが、遠い将来の自分にとっても不幸であるのか、そうではないのかは誰にも分かりせん。むしろ、そのことが要因となって事態が好転し、自分のプラスになる、例えば大金が転がり込んでくるようなことになるかもしれない。そう思うと気が楽ですし、アドレナリンも多少は出てきます。

            と言いつつ、私が自らの運命を引き受けようとするのは、いつもボ〜として能天気な自分への言い訳かもしれません(笑)

             

            話は変わります。元旦なので(再び)年賀状です。

            友人知己の皆様には大変失礼なことなのですが、今年は正月休みに年賀状を書きました。年末に海外出張したり風邪をひいたり、それでも鉛筆なめなめ会社の年末調整に悪戦苦闘したりで、年内に賀状を作成する余裕がなかったのです。余談ですが、年末調整と言えばサラリー・ワーカーはただ扶養家族と保険の控除を申告するだけでいいのですが、たった一人の社員だろうが一万人の従業員を抱えていようが経理の基本は同じです。誰かが言ってました。「明けましておめでとうございます」って書くけど、書いている時はまだ明けてないんだよね〜(笑)。

            そんな訳で、再び年賀状を出す意味について考えさせられました。数年前に「来年から年賀状や〜めた」と宣言し、周囲の方たちにも「もう止めましょうよ」と呼びかけたにも拘わらず、いまだにやってる自分を不甲斐なく思います。これもまた冒頭に述べた「良い子でいたい」、即ち横着な人間だと思われたくない、一方的に壁を作っていると勘繰られたくないとの思いがあるからです。いま少し後悔しているのは、平成の御代の終焉に合わせて「本年をもって年賀状を止めさせていただきます」との文言を入れる勇気がなかったことです。それほどに、年賀状が持つ意味について懐疑的になっている自分がいます。

            良いか悪いは別問題ですが、先日のNHK紅白歌合戦のように開き直って変質、よく言えば脱皮すれば、それはそれなりに新たな意味が出てくると思うのですが、年賀状にはそこのところがないように思うのです。中途半端なままに流されている。多くの国民が「年賀状、もういいな」と思っているんじゃないか、と推察できるのですが。

             

            皆様はどうか分かりませんが、私の場合、年賀状だけのお付き合いの方が大勢います。中には、お顔を思い出さない方もおられます。それって一体何なんだろうと思う。一方で、ごく親しい間柄でも年賀状を交換しない方が沢山います。退役後に親しくなった殆どの方とは、年賀状の交換をしておりません。しかしだからと言って、関係が拙くなるようなことは全くありません。実質的に何ら不具合は生じませんし、ましてや不利益を被ることなどありません。それでエエんではないかと思うのです。

            あっと、今思いつきました。SNSが発達してから懇意になった多く(殆ど)の友人とは、年賀状のやり取りをしてないですね。

             

            年末に届く喪中の挨拶を含め、年賀状が有する唯一の意味・意義を「生存確認」に見出しております。この一年間、実質的には残り10ヶ月程度ですかじっくり考えます。そう言いながら、一年があっという間に過ぎるのですが。。。。

             

            今年も正月から駄文を連ねました。さても、来年の年賀状に「以後、ゴメンナサイ」の一文がありましたら、それこそゴメンチャイです。そこんとこ、宜しく!

             

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