故きを温ねて新しきを知る

2019.11.21 Thursday

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    今更?今頃?ではあるのですが、ボケ防止のために日々暦(カレンダー)で月日を確認し、法律が定める祝祭日については、その都度調べることにしました。例えば11月3日「文化の日」は、そもそもは明治天皇の誕生日(天長節)でしたが、明治天皇がお隠れになって明治節になり、それが現行日本国憲法の公布日となって、今日では「文化の日」と称される祝日になっています。でも「文化の日」ってのは、ちょっと意味が分かりづらいよね。カレンダーによっては、数字が赤いだけで何の日か記載されていないものも沢山出回っておりますが、単に仕事や学校が休みであることを知らせる合図のようで、日本国民にとっては誠に残念なことです。こういう些細なことから、歴史がないがしろにされていくんだよね。

     

    一般庶民は特段深堀して勉強する必要はなく、簡単に調べることができる、但し信頼できるインターネット情報で十分だと思います。勉強しだすと興味あることは、際限なくやりそうで・・・ってのは(私の)下手な言い訳です。適当な所で自分を妥協させることも、限りある人生においては大切かと。

    さて、なぜ今 Red-letter Day(祝祭日)なのかですが、話は突然太平洋を飛び越えますよ。アメリカの軍艦を知れば、アメリカが分かると言われます。例えば、「ジョージ・ワシントン」とか「ロナルド・レーガン」とか。そうです、USS(United States Ship)の艦名には、国家(米国)に貢献した著名な人の名前が使用されておりますので、これを理解できればアメリカの歴史が分かるということ。歴史の浅いアメリカは、このようにして自国の小さな歴史を大切にし誇りにしているのでしょうか。

    これと同じように、日本の祝祭日の意味が分かれば、(極一部ではありますが)我が国の歴史が理解できる、ということに気が付きました。かなり遅れてきた小学生です(笑)。そして記憶にとどめる方策として、にわか仕込みのウンチクを前日の夕食時などに家人に言って聴かせる。家族は「ハイハイ分かりました〜」と聞き流してます(笑)

     

    でも小学生の時に、家庭や学校で上記(祝祭日の由来や経緯)のような説明を聞いた記憶がありません。「乃木(希典)大将のお母さんは、乃木さんが小さい頃に『人参が嫌いだ』と言うと、毎日食事にニンジンを出したんです」なんて説明をされたおなご先生がいたので、大正生まれの両親も先生も「明治節」は間違いなく知っていたはずです。本当は(説明を)聞いたんだけど、私が忘れているだけかもしれません。いずれにしても、小学生の時に何処かでこのようなことを教えてくれると、これを聞いて育つ子供さんはおそらく人生が違ってくるよね。「1600年は関ケ原の戦い」なんて、ただ暗記するだけの歴史ではなくて生きた教育ですから。下校前のHRで担任の先生が、「みなさ〜ん、明日のお休みは文化の日です。明治天皇の誕生日(天長節)➡明治節➡新憲法が公布された日➡そして文化の日です。国民みんなで、国旗を掲げてお祝いしましょう」などと説明する。ただ、今時の子供さんは情報が豊富で中には先走った子もいるので、児童生徒から「先生、なんで文化の日なんですか?」と突っ込まれたら、知識ある先生でも回答に窮するでしょうな。「ええ〜日本は戦争に負けたので・・・GHQが・・・あの〜その〜」なんて言い出したら話がこんがらがるので、「憲法ってことは、文化だろうよ」ってな的外れで好い加減な応えになるのかな? 

    このような習慣、それこそ文化が根底にあれば、卒業式などで国歌が流れても斉唱しないどころか起立もしない、国旗にお辞儀もしない教員なんて生まれようがない・・・と思うのですが、どうだろう。あっとそうだ、それどころじゃなかった。国立大学の入学式や卒業式で国歌を斉唱しない大学があると仄聞するのですが、それホンマでっか? 「くにたちにある大学」じゃないよ、「こくりつ大学」です。小生、経験がないので分からんのですが・・・。後学のため、来春は香川大学の卒業式に参加さて貰いましょう。

     

    話は変わります。先般の令和天皇即位礼正殿の儀において、安倍総理が「天皇陛下、万歳」を三唱されました。いなや、早速ネット上ではこれを揶揄して、「戦前そのもの」などの書き込みがありました。その一方では、総理夫人のスカートの丈がどうしたこうした。式典におけるドレス・コードは勿論大切ですが、私はこの言葉「戦前そのもの」に強い違和感を持ちます。この言いぶりには、戦前のものは全て悪かったという意味が言外に含まれている、或いはアカラサマにそう聞こえます。

    世界に類を見ない・世界に誇る、歴史が残してくれたもの、現在を生きる我々に先人が子々孫々に贈ってくれた素晴らしいプレゼントを、しかも自国の総理大臣をも笑いものにする。現在の我々が「昭和」と言う時には、或る種のノスタルジーがあり必ずしも否定的な意味ばかりではないですが、「戦前」を使う場合には全否定が多い。戦争に引っ掛けて、あらゆるもの・あらゆることが間違っていたというニュアンス(響き)があります。何もかもを混同して自己(自国)否定をする、今日の風潮には民度の低下を感じます。困ったもんです。それでいて、明治の開国については殆どの日本人が肯定的に捉えています。

    教育とはげに恐ろしきもの・・・です。

     

    今日の文化なり、科学なり、人間なり、有形無形全てのものは、長い「歴史」を経て現在の姿があります。昨日今日できたものではありません。歴史とは、その時代時代においてご先祖が精いっぱい生きてきた証でもあります。一人一人の顔や元々の(現在のではありません)体型、個人個人が持っている多彩な能力も、それぞれのご先祖から引き継がれてきたものです。一定期間とはいえ歴史を完全否定すると言うことは、自分自身を否定することに繋がるのではないでしょうか。戦前・戦中だろうが戦後だろうが、悪いことは悪い、良いことはいいんです。イチゼロなんてことはあり得ません。そこのところを峻別・仕分けして物事を考え判断しないと、生き方がおかしくなります。そして、妙な世の中になりますよ(既になってるけど)。

     

     

    追伸 日本の家庭で、簡易な卓上型なども含め、一本でも国旗を持っている家庭は何割くらいあるのでしょうか? 今般の天皇陛下御即位の関連行事のお陰で、結構増えたような気もしますが。法人はどうでしょうかね? 因みに、我が家(自宅)が属する自治会(班)には十数戸ありますが、祝祭日に国旗を見ることができるのは拙宅だけです。これを目にする少年少女の心に、多少なりとも響くものがあればと思いつつ・・・。「君が代」は本当に厳かですし、「日の丸」はとても美しい。絶対多数の諸外国の人々(国民)は、私と同じように、それぞれの国の国旗や国歌に誇りを持っています。

     

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    日本の教育は何処へ向かうのか?

    2019.11.07 Thursday

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      物事や人物を評価する姿勢として、一例をもって全体を語ることは厳に慎まなければならない。しかし・・・ひとつの事象が象徴的に全体像を示していることもママあります。タイトルから類推して何を言いたいのか、皆様ご賢察の通りです。

      以前から(戦後の)子供の教育には危機感を抱いておりましたが、時此処に至っては心寒いものを感じます。そうです、複数教員による同僚教員の虐め事案です。日本の教育は遂にここまで落ちたか、との思いを強くします。この虐め事案が一対一でないところに、今日の日本人に巣くう(心の)病が潜んでいるように感じます。仮にです、被害者にも何らかの落ち度や問題があったとしても、決して許される行為ではない。これは明らかに犯罪の部類に入るでしょう。加害者側に正当な言い分があるのであれば、逃げることなく堂々と顔を出して意見を開陳すべきです。

       

      かつて小さな村や地域では、村長さん、お寺の住職、そして学校の先生は、今風に言えば知識人或いはオピニオン・リーダーとして住民から尊敬される対象でした。明治の時代になって、多くの学校がお寺から始まったことからも類推できます。旧き時代、親御さんは先生を信頼し、安心して子供を先生に託しておりました。一般論ではありますが、学校の先生が親や児童・生徒から尊敬も信頼もされなくなって、どのくらい時が経つのだろう。半世紀にもなるのでしょうか。今日では学習塾が乱立して、受験勉強や知識の習得には塾に負うところが大きい。極端な話、学校は最早学びの場ではなく、友達と交流する場所、即ち遊び場になっているかの如しです。ならばせめて、情操教育や人間教育くらいは真剣にやって欲しいと思う。

      多くの教員が真摯に仕事に向き合い、夜なべまでして教え子の教育に尽力していると聞きます。そんな親の姿を観て、先生の子供さんたちは教員になりたがらない、と聞いたこともあります。しかし今回の事件を特異な例、一過性の事案と捉えてはいけない。我が国の教育界が抱える氷山の一角であり、水面下には想像以上の根深い問題が存在しているのではないかと憂慮するものです。

       

      先ずは何が問題なのか。なぜこうなったのか?

      その原点は、戦後の教育を牽引してきた当該行政とその方向性に問題があると考えます。文科省(旧文部省)に内在する問題と同省の迷走。部外者が言うのも失礼ですが、文部省はとにかく(悪い意味での)コンサーバティヴ(保守的)と評されてきました。或る方が某省を皮肉って伏魔殿と言いましたが、言い得て妙です。記憶に新しい近年の象徴的な出来事(政策)は、所謂「ゆとり教育」でしょう。日本を代表する有名大学に学んだ何百人の官僚や政治家が、寄ってたかって何でこんな愚策をやるのか。議論を横目で見ていて、本当に理解に苦しみました。結果は国民周知の通りです。この失政は旧農林省の減反政策に匹敵する。むしろ対象が人間だけに、罪は余程大きい。将来に禍根を残したことは疑いの余地がない。誰か責任を取ったのか? 聞かんな〜。

      もし自衛隊が「ゆとり教育(的)」な訓練をやってたら、国家や国民の生命財産を護れるわけがない。この国で空疎な議論に明け暮れながら惰眠をむさぼっている間に、周りの諸外国は死にもの狂いでやっとるんです。そう言う意味において「教育(界)」は甘い。僭越ですが、大局も見えてない。子供の教育には、国家百年の大計が必要です。国を牽引するのは人間であり、その力は教育に負うところが大きいから。

       

      視点を変えて、教員の劣化と質の低下は目を覆うばかり(のように見える)。それは必ずしもご本人のせいばかりではない。周りにも責任の一端があります。問題の所在を先生にばかり擦り付ける保護者が多い現状下、それでもと使命感を持って教員の道を選ぶ若者が少なくなるのは自明です。私が言う「質の低下」は、必ずしも偏差値を指すものではありません。そんなのはチンケなものです。重要なのは謂わば人間力です。偏差値なんか低くて何ら問題ない。有名大学を出てなくてもいいんです。件の加害者は、おそらく立派な大学を出ているのでしょう。それでいてあの体たらくですから、大学卒というステータス自体が既に地に落ちているのです。学歴は中学卒、高校卒であっても、大学卒業者に優る人間力を持ってる人は一杯います。名もない大学卒であっても、有名大学卒に匹敵する、或いはこれを凌駕する人は山ほどいます。教員を採用する際には、そこを見抜く選考・選抜が必要です。教員採用の在り方も再検討すべきではないか。

      私事を言いますと、大変有り難いことに国立大学の客員教授をやらせて頂いております。教員免許は持ちませんし、修士や博士どころか学士さえも持っておりません。私が学んだ頃の防衛大学校は、準大学という括りで正規の大学ではありませんでしたので、謂わば我々は専門学校出です。敢えて言えば、軍事学士とか防衛学士なるものを付与されてもいいと思うが、基本的にそんなものには拘泥しません。部隊を指揮して・指揮できてなんぼの、実学の世界ですから。

      話を元に戻して、大学というところは懐が深く、「一芸に秀でた・・・」という採用枠があるそうです。私がこの項目に該当するか否かは別にして、新たな風を吹き込む意味でも、高校や小中学校でもこのような採用枠を設けては如何か。とにかく免許優先の世界は、既に破綻しているわけですから。そんなことしたら学校がかき回される、と思う人は池の中の蛙になってますよ。

       

      敢えて批判・非難されることを覚悟で、もう一点、別の視点から。ジェンダー・フリーは当然です。同じ人間ですので、男女間で能力(頭脳や知能)に差があるはずがない。しかし、それぞれに特性があることは間違いない。例えば、オリンピックでも分かるように、体力には明らかに差(違い)があります。だから男女別々に競ってます。これは決して不平等ではない。ジェンダー・フリー、男女共同参画、みな美しい言葉です。日本はまだまだこの分野に遅れているので、もっともっと推進すべきだと思う。しかし実際にこれをやる場合、現場においてはそれぞれの特性や違いを認識して、更に個人の能力を勘案して進める必要があります。さすれば、男女教員の相乗効果によって多様な発想が生まれ、よりレベルの高い教育が可能になると思う。

      私自身、義務教育の大半を「おなご先生」に学び、啓発されて今日に導かれました。女性教員には多々ご恩があります。

       

      小学生の頃、シベリア帰りの父が海軍特攻隊(零戦)の生き残りである担任の先生に、「倅が(先生の)言うことをきかんかったら、1〜2発喰らわして下さい」と言ってるのを聞いたことがあります。父兄(保護者)が、教員を信頼し尊敬しているからこそ言える言葉です。今は先生が手を挙げただけでも問題になります。そこには二つの意味があると思う。一つは保護者が単なるクレイマー(文句言い)になってること。もう一点は、先生が信頼されていないということ。そう言う時代になって、陰湿な虐めが横行している現実があります。そしてとうとう、これが教員同士という形で顕在化した。教員の資格を持った、即ち教える技術を身に着けている(はずの)先生が、幼児以下の人間力しか持っていないということです。

      学校の教員は技術屋さんではない。それぞれが持っている(教育)技術で、優秀な生徒を製造するのが仕事ではない。教員が自らを単なる労働者だと思ったら、食うため・生活の糧としてやってるのだと思ってたら行くべき方向を誤る。次世代を担う人間を育むと言う、とても難しいがやりがいのある、そして崇高な使命を帯びた任務に就いていると言うことを、先ずは教員自身が認識する必要があります。

      戦闘員が自分は労働者だと思ったらどうなる? 軍隊に労働組合ができたらどうなる? 要は、使命感があるかないかです。問題の根本はその辺りにある。今日顕在化している教育の問題をめぐる議論は、多くの人が謂わば枝葉の戦術について語り、肝心の国家戦略について思考されていないのではないか。如何に優秀な人間が高等な戦術を駆使しても、戦略がなければ負けることは、我々日本人は身に染みて分かっているはずなのですが・・・。

       

      ある人が拙著『指揮官の条件』を評してネット上に、「著者が言うことに大いに賛同するが、ただ一点、教育勅語のところだけは頂けない」旨のコメントがありました。押し付けられるものではない、とのご意見のようでした。しかしこの方は、大人の視点で教育勅語を見ているのだと思います。そうじゃないんですよ。私はいつも「教育勅語のどこが悪い」と言って憚りません。これは理念の問題です。事の良し悪しを幼い時に教えないでどうする。それをやらないから、浮き草のようにフラフラした大人ができる。それをやってこなかったから、信念がなく真っ当な国家観も持たない大人(日本人)になる。そして、そんな大人が教員になり教育の現場にいる。そんなこんな先生に教えられる生徒は、いったいどうなるのか。どのように成長するのか・・・。

      残念ながら、これが日本の教育の現状だと思う。「まさしく反面教師」なんて、洒落にも冗談にもならん!

       

      今回は過激な言いぶりに終始しました。日々、真摯に仕事に取り組んでおられる多くの教育関係者、熱意を持って児童生徒に接している先生(教員)には誠に失礼なことです。かく言う私も後味が悪い。しかし、この国の将来を憂えての意見です。ご容赦いただきたい。今、教育に手を付けないと、この国の将来は危うい。

       

       

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      首長さんの役割

      2019.10.24 Thursday

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        阪神淡路大震災と東日本大震災を経験して、(依然として地域による格差はありますが)国民の防災に対する意識は飛躍的に向上しました。と同時に、必然的に災害における各首長さんの役割にも重きが置かれるようになりました。内閣総理大臣が国の安全に一義的に責任を負うのと同じように、各種の災害から地域住民を守るのは、基本的には各首長の仕事になったと言っていいでしょう。

         

        であるにも拘らず、先般の台風19号による災害に関連して、耳を疑うような、にわかには信じ難い話が伝わってきました。そう、「県」と「町」の意思疎通が上手くいかず、結果的に陸上自衛隊の給水車が任務を達成することができなかったという事案です。私が入手できる情報は報道ベースで、正確な経緯を承知しておりませんので軽々にモノを言うのは控えたいと思いますが、自衛隊が搬入した救援物資(飲料水)が被災者の喉を潤すことはなかったのは間違いない。かつて私が防衛・警備を担当した地域で起きた事案だけに、内心忸怩たるものがあります。

        本件に関係する三者、即ち県(知事)・町(町長)・自衛隊(部隊指揮官)の間でどのような調整がなされ、それぞれがどのように判断したのか。状況次第では県民・町民の命に係わる水が、結果的に被災者に届かなかったという事実から遡って、顛末を公表する必要はないと思いますが、三者間でレヴューし何が問題であったのかを考察し、今後どうすればよいのか教訓を導いて欲しい。報道を見る限り県(知事)も町(町長)も、言い分が何か他人事のように聞こえるのは私だけでしょうか?

         

        何事につけ、問題が顕在化する時には多くの要因が重なっており、そのうちの一つでも断ち切れば事故や事案は起きないことが多い。上記給水車の問題は、事故などではなく明らかに人が関与して起きたことですから、関係者の誰かが「そうじゃないよ」と気が付いて声を上げて、皆さんがよく考えれば回避することができたと思われます。そこに気が付くか否かは単(ひとえ)に、関係者がこのオペレーション(活動)の「目的は何なのか」をきちんと把握していることです。先に言った「何か他人事?」は、そこがよく分かってないのではないかと感じたからです。この場合のゴール(目的)は、勿論、被災者の救援です。そこさえ押さえておけば、大きく外すことはない。何のために今我々は活動しているのかと考えれば、自ずと真っ当な判決(選択肢)が導かれるはずです。

         

        「3.11(東日本大震災)」の時、横須賀地方総監は規則に従って、間髪を置かず被災地各県(庁)に佐官クラスの連絡官を派遣しました。私が地下の作戦室に詰めて数日後、或る県に派遣した連絡官が早々に帰還しました。「海上自衛隊の支援は必要ない、とのことですので帰りました」と言う。ホンマかいな???とは思ったのですが、当時は猫の手も借りたい状況であり、一人のスタッフも貴重な戦力でした。また、顛末を深く追求する時間も心の余裕もなかったので、「了解」で元の任務に就かせました。後日(発災から随分後のことです)、この某県に在住している義理の妹夫婦が言うには、水(飲料水)がなくて大変苦労した。(陸上)自衛隊の給水車には長い列ができて長時間待たされ、かつ十分な水を貰うこともできなかった、と言う。一方別の県では、某市内の全域が液状化して水道が使えない。途方に暮れていた県の職員に、派遣していた連絡官が「海上自衛隊に水船があります」と同船の派遣を提案した。そして市民は命を繋いだ。

        両者の違いは推して知るべしです。これを要するに、我々自衛隊側を含め関係者がどれほど真剣に被災者のことを考えているかということ。知恵を出せってことです。ただ知恵を出せと言っても、経験のない人や勉強していない人、問題意識のない人からは、これと言った案は出てきません。例えば上記の「水船」なんて、たとえ海上自衛隊員であっても船乗りでなければ知らないでしょう。県の職員においてをや。だから、他機関や民間を抱き込み多様な事態を想定した訓練が必要なのです。

         

        別の視点から:いろいろな規則の遵守が重要であることに異論はありません。今回の給水事案は、既存の規則や取り決め、或いは計画がアダになった可能性があります。でも規則は人間が作ったものであり、殆どの規則類は万能ではありません。実際に起こり得る、起きる可能性のある全ての事態を想定した規則などありません。従って、目的(被災者の救援)に鑑みて「この規則はおかしい」というところがあれば、即座に改正・改訂すればいいのです。後追いで改正してもいいし、或いは特例を設けるなど、やり方はいろいろある。役人や官僚はそういうことに通暁しています。規則は重視するが、(何時もではないが)事に臨んでは拘泥しないと言うことです。これもゴールが明確であれば、そして責任ある人が腹をくくれば簡単にクリアーできることです。

         

        東日本大震災における救援活動の一例です。我々(自衛隊)が被災者に提供できる物(救援物資)は、規則で項目が列挙されておりました。現地の部隊指揮官から、「住民はガソリン、軽油、灯油を渇望しています」と報告(上申)が入りました。しかし、規則上油脂類は提供できないことになっています。上申の至急電を手にした幕僚は、私の顔を観ます(指示を仰ぎます)。氷点下、灯油なしでは生きてゆけない。規則とは良くできてるもので、列挙している最後の項に「災害救助のため特に必要な生活必需品の無償貸付」と記載されている。「これでいけ!」。被災者が待ち望んでいる、軽油や灯油の提供を決心しました。仮にこの項目がなくても、いざとなれば飲料水と”間違って”でも届けて宜しい(と私は思う)。ゴールが明確であれば、躊躇しないし迷うこともない。なお、後日油脂の提供もできるよう規則の特例が発出されました。

        但し、このようなケースは現場任せにしてはいけない。現場に投げてはいけない。責任ある人、責任を取れる人が指示することです。そうしないと、組織がガタガタになります。目的に合致しているので、「どんどんやっちゃえ」ってなことではありません。念のため。

         

        長々と自慢話をしたいのではありません。給水できなかったことによる大きな実被害はなかったようですが、今回の事案、返す返すも残念に思います。

         

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        「国民の覚醒を希う」

        2019.10.10 Thursday

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          表題『国民の覚醒を希(ねが)う』は本のタイトルです。描かれた方は「三好達(とおる)」さん。なぜ僭越にも「さん」づけなのか? それは、以前のブログで説明したように海軍の先輩だから。だからといっても、とても恐れ多いことです。三好さんは海軍兵学校75期。75期は昭和20年8月15日後の卒業であり兵学校最後の卒業生です。ご卒業後、東京大学(法学部)に学ばれて司法の道に進み、三権の長のひとりである最高裁判所長官まで上り詰められた方です。退官後は「日本会議」に迎えられ、長年に亘り会長として同会議を牽引されました。何事にも筋を通す、文字通り筋金入りの長官です。

           

          なぜ今その方のご著書かと言いますと:8月に郷里で樋端(久利雄)さんについて講演をしましたが、講演を聴かれた或るご夫妻(母校三本松高等学校の後輩)から「再度(小生に)会って話が聴きたい」とのご希望があり、後日お会いした際にこの本『国民の覚醒を希う』を頂戴しました。ご夫妻は愛媛県に住んでおられ、小生に会うために愛媛大学で学んでいる娘さんも帯同し、高速を飛ばして讃岐まで来られた由。有り難いことです。日本会議に関係しておられる方でした。

           

          実はこれまで、日本会議に良い印象を持っておりませんでした。不明を恥じるばかりですが、大して調査・情報収集をすることもなく、正直この組織は「強烈な右巻き(ウルトラ・ライト)」だと思っていたからです。申し訳ありません。以前に「レッテル」と題してブログを書いているのですが、多分に私もその傾向があります。不勉強というのは恐ろしいものです。と言いますのも、昔から「右翼(極右翼)」が大嫌いでして、特にあの街宣車で軍歌を大音響で流しながら、街中を走りまわる集団には何のシンパシーも感じません。彼らが標榜する愛国心は、似非愛国心だと思っています。

          話は逸れますが、拙著「指揮官の条件」には”愛国心で国を守ることはできない”と描いております。これについて少し補足(言い訳)しますと、それ(愛国心)は国防に携わる者の基本中の基本であり、戦闘員の基盤だと認識しています。愛国心で国を守ることはできないの意味は、キャッチフレーズで部隊を率いるのは危ないということです。戦闘においては、指揮官は常に冷静に判断すること、そして部隊には敵に勝る実力が求められます。象徴的に旗は重要ですが、気合で戦争には勝てない。金科玉条は人心(戦闘員を含む)を一つの方向に向けるとき、有効な手段の一つではありますが長続きはしない。そして方向を間違うと、使いようによっては下克上の温床にもなりかねない。だから、left wing の「憲法9条〜死守!」みたいなのも、聞いただけで寒気がします。右か左かの違いはあっても手法は同じですから。

           

          さて三好さんの『国民の覚醒を希う』ですが、全編を通じてご意見やお考えを共有できるところが多々ありました。ただ僭越ではありますが、国防(海上防衛)の最前線で生きてきた人間として、全く手放しでということではありません。まその内容はともかく、400頁にも及ぶ大作でありながら難しい表現が殆どありません。法律用語などは使用されておらず、普通の日本人の国語力で十分に読み・理解することができます。私などは表現力が乏しいためについつい専門(軍事)用語を使いがちですが、本物は違うってことでしょう。最高裁判所長官という経歴の記載がなければ、まさか三権の長が描かれた文章だとは誰も思わないはず。それほど平易で分かり易く描かれています。お陰様で頭の整理ができました。

          本の中にもしばしば出てくるのですが、著者(三好さん)の根っこには、江田島(海軍兵学校)で受けた教育があるような気がします。終戦間際に海軍が優秀な少年を江田島にかき集めたのは、まさに慧眼だったと思います。余談ですが、この本には兵学校生徒時代の校長井上(成美)さんがしばしば登場します。その井上さんが(この本の中でも)痛烈に批判しているのが、島田繁太郎さん(元海軍大臣、海兵32期)です。しかし、拙著『ソロモンに散った聯合艦隊参謀』に描いておりますが、大東亜戦争の末期、陸軍の動員計画に対抗(対応)して、海軍兵学校に優秀な人材を集めた(囲った)のは島田大臣の功績です。人間には誰だって光と影があるのです。異論もあろうかと思いますが、強烈な個性を持っておられる帝國海軍最後の大将、井上さんも例外ではないと思っています。

          どれほどの時代考証をしたのかは知りませんが、映画「アルキメデスの大戦」でも橋爪功さんが演じる島田さんは山本(五十六)さんに対峙する、謂わば悪役として描かれています。大衆にとっては楽しいエンターテイメントではありますが、島田さんの親類縁者が面白いはずがない。こうやって人物像が造られていきます。フィクションだと言い逃れはできますが、実名を出す以上は事実関係に正確を期する必要があると思う。島田大臣ではありませんが、軍令部総長・海軍大臣を務められた元海軍高官の末裔(私の友人)が一度だけ言ったことがあります。「戦後、我が一族は一切口を閉じました」。自己反省をも含めますが、レッテルは本当に怖い。

           

          この本で三好さんが繰り返し言っておられるのは、大きくは憲法(改正)、皇室、編◆△修靴洞軌蕁焚革)です。この本のために書き下ろされたものの他に、各行事における挨拶や対談も収められてありますので、何度も三好さんのお考えを復習することができます。特に「戦後の教育」に関しては私も全く同じ認識であり、とても意を強くした次第です。

          とにかく、一日も早く子供たちの教育を何とかしないと、この国の将来は本当に危ない。今の日本社会は親殺しあり子殺し有など、何でもありで既にガタガタになっています。と言って、学校の先生だけにその責任を押し付けるのは筋違いです。直接子供の教育に関わる親や先生がその主たる責任を負うのは当然ですが、日本国民の大人みんなの問題だと認識しなければいけない。現在の先生たちは、或る意味戦後教育の犠牲者でもある、というのが私の認識です。三好さんが言う「国民の覚醒を希う」には、そういう思いも込められていると理解しました。私は教育から始める日本の世直し、坂本龍馬が言う「この国の洗濯」には50年かかると思っています。その時には地球上に私は存在しないでしょうが、日本が普通の国になる前に、大きな事案(国家存亡の危機)がなければいいのですが・・・。敵は待ってくれませんし、こちらの都合に合わせてくれることもありません。間隙を縫って弱点を突くのは、戦闘の基本です。

          絶対多数の日本人が、国家や国民の生存に無関心であることが最大の問題です。国防や軍事について、ホッカムリを続ける政治にも大きな責任があります。

           

          本の中に小野田寛郎さんと三好さんの対談が収録されております。小野田さんの次の発言は重い。

          ***島(ルバング島)から日本に帰って来て、新しい憲法だと手にしたら、最初に今おっしゃった前文でしょう。それを見て、ああもうだめだと思いました。根本から間違っています。自分の命を他人に預けるというのは命を放棄したも同然ですよ。・・・ですから私はそれ以来、憲法は一度も見てません。***

          小野田さんが言う前文とは、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」を指します。これほど国民に対して無責任な憲法はない(と私は思う)。国家・国民が生きていく上で根幹となる自らの守り・護りを、(平和を愛する?)諸外国に丸投げしているわけですから。「世界中の平和を愛する皆さん、無防備の私を護って下さい。私自身は自らを護る努力はしません」ってな解釈になりますか。そもそも自分が如何に決意しようとしまいと、もし近隣諸国等に公正でもなく信義もない国があったら、この国の決意の大前提が崩れたことになりますよ。恐ろしいことです。

           

          如何でしょうか・・・

           

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          顔と年輪

          2019.09.26 Thursday

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            何回か堅い話が続いたので、今回は軟らかく纏めたいな。

            歳を取ったせいか最近、人間の顔についてよく思いを致します。自分の顔のみならず、失礼ながら他人様の顔もやたら気になるのです。甚だ嫌な性格ですが、ご容赦願います。

             

            小学生の時「人間、四十(歳)になったら自分の顔に責任を持て」と誰かが言ってました。そう言った人も小学生だったので、随分ませた小学生だね。山の分校の教育レベルはかくも高かったのです(笑)。当時は、40(歳)の自分を想像することなどできませんので、その意味するところが那辺にあるのかさっぱり分かりませんでした。しかし今にして思えば言い得て妙であり、とても重い言葉です。だからということではないのですが、柱に掛けたり机の上に置いたり、姿見を含め家の中には大小何個もの鏡を設置してあります。そして折に触れて、自分を映して観ます(観察です)。なかなかエエ男やん、なんてことは思いませんよ(笑)。ともあれ、今日のように正確に顔を映す鏡を発見したのは何処の何方でしょうか? 素晴らしいですね。一日に何回も鏡(自分の顔や体)を見るのは、その日の健康状態を把握することもありますが、それよりも鏡に映る自分の顔を見て「心を観る」ことの方が大きい。何故かと言いますと、瞳や表情で今思っていることや感情など、自分の腹の中が見えるんです。謂わば、精密精巧な「内視鏡」だな。残念ながら、腫瘍や癌細胞を直接見ることはできません。いずれ発明されるでしょうが、そこまで行ったらノーベル賞もんだ。

             

            腹が立って我慢できない時、本当に苦しい時、辛くてどうしょうもない時、それを外に吐き出したりお腹にため込んだりする前に、先ずは鏡を見ることをお勧めします。時には鬼と対面したりしますが、少しは気が休まる(こともある)。私は冗談で「俺の腹を切ってごらん。ヘドロで真っ黒だから」とよく言います。そう言うと大概の人は「いいえ、そんなことありませんよ」と応じてくれます。逆説的な「うけ」を狙ってるわけですが、そんなことを言うこと自体が腹黒い証拠ですよね。

             

            話を元に戻して、人間も動物も同じですが、赤ちゃんの頃はみな可愛い。特に目が愛くるしい。穢れというものを全く知らない、真っ白な状態ですもの。これに仕草が加わるので、可愛いさが二倍三倍になる。人間は誰もがそうだったんだよな。なんでこうなったんだろう。そして、思春期から青年期になると、女性も男性もみ〜んな美しくなります。WHY? 人間の生理のことは専門外なのでよく分かりませんが、種の保存のために自然とそうなるのかな・・・? しかし問題はそこからです。今は皆さんお若いので、おそらく四十〜四十五歳を過ぎる頃から、体とともにお顔の劣化も確認できるようになります。おそらく二十五〜三十歳頃をピークにして徐々に下り坂にあるのでしょうが、自他ともに認めることができるのは四十歳頃からではないでしょうか。それで、特に紅組(女性陣)は何とかこの現象を食い止めようと、涙ぐましい努力をすることになります。今時は白組も同じかもしれません。斯く言う私も、貧乏ですからお金は使いませんが、毎日の筋トレを欠かさず、食するものもそれなりに気を遣います。これも傍から見ると、涙ぐましい努力に見えるかもしれません。「無駄な抵抗」って天の声が聞こえそうです。本人はいたって真面目で、かつ楽しんでいるのですが(笑)

               

            しかし、捨てる神あれば拾う神あり。世の中は大層良くできております。顔には年輪という強い味方が存在するのです。この年輪に比べると、青年期の美しさなんかはノッペラボウみたいなもんです。ただ問題は、年輪には人それぞれの生き様が出るってこと。これを、瞳や表情から読み取ることができます。ひとつ厄介なのは、年輪にはつける薬も化粧品もないってことです。なんぼ塗っても隠すことはできません。唯一(一時的に)隠すことができる手段は、マスクとかサングラスなどでしょうか。物理的に覆うしかない。でもね実は特効薬があるんですよ。お金はかかりません。しかし、簡単なようでとても難しい。

            その人の内面、即ちお腹を綺麗にすることです。宿便を出し切るってことではないですよ(笑)。それも大事なことではあるのですが、そんな些末なことではありません。その人の生き方・生き様や、ものの考え方の問題です。これが年輪として、自然と顔に現れる。

             

            例えば年がら年中、周りの人や世の中の出来事や、果てはテレビ・ドラマの筋書きにさえ文句を言っている人。そういう人って結構います。これ即ち、他人様や森羅万象に感謝するということを忘れている人は、それが明確に顔に出てきます。逆の場合も然りです。長年に亘って、心の在り様を「感謝」ベースに置いている人と「不満」を中心に生きている人では、瞳が全く違ってきます。当然ではありますが、お顔の造作や経済力(貧富)や社会的な地位とは全く関係ありません。生まれながらにしてお造りがとてもよくできている人、或いはどんなに大金持ちの人でも、日々(大変失礼な言い方ですが)卑しい生き方をしている人は、間違いなく相応のものが顔に出ます。卑しいとは言えないかもしれませんが、他人様を批判してなんぼの人、或いは仕事として他を批判する人など、気の毒だなと思います。ホンマに。出発点はそうでなかったにしても、そんなことを日々繰り返していると、発信していることが自分の真実(本気)になり、そしてその人の年輪になるわけですから。

            別の視点から:どんな人の人生にも、大なり小なり苦労や苦難があります。その過程で、中には修羅場をくぐることを余儀なくされる人もいる。しかし、過去の航路で修羅場があったか無かったかではなく、それを如何にして乗り越えてきたか、我が身に降りかかる困難をどのように捉えて、どのように生きてきたかによって年輪の出方が違ってくる。しかもこの年輪は、絶対に隠すことができません。言葉では上手く繕えたと思っても、瞳が勝手にモノを言うので隠しようがない。

             

            「四十を過ぎたら自分の顔に責任を持て」の意味は、そう言うことだと思うのです。同じように貧しい境遇にあっても、卑しく生きるか清貧を貫くかで人の顔は全く違ってくると思う。そして歳を取ればとるほど、その違いが歴然としてくる。何事も蓄積ですから。最近では一般に長生きになったので、多くの人が美しく老いたいと願っています。それは多分、それほど難しいことではない(のかもしれない)。現在、私の友人知己は同年配か少し年上又は年下の方が多いのですが、その多くの方が美しい顔をしておられます。美しいと言うのはイケメンとか美人さんという意味ではなく、「涼しい」という表現が適切かもしれません。仮に過去にご苦労があったにしても、そういう人は自分自身の力で、誠実で良い人生を送ってこられたんだな〜と思います。

             

            母の口癖は「まぁまぁ、悪い中に良かった」、即ち「不幸中の幸い」です。嫌なことや辛いこと苦しいことなどが身に降りかかった時、必ずこの言葉が口から出ます。この言葉で九十三歳は今も元気です。願わくば私もそうありたいと思うが、先ずは宿便をなくそう。だめだこりゃ(笑) 汚くまとめて申し訳ありません。

             

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            追伸 ケチと始末(倹約)、指導と虐め、厳しさと優しさ、これらの分岐点に何がある? 「こ・こ・ろ」