『ソロモンに散った聯合艦隊参謀』 IV

2019.12.05 Thursday

0

    去る11月25日、母校香川県立三本松高等学校において、樋端(久利雄)さんの遺品贈呈行事があり陪席させて頂きました。樋端大佐の遺児(ご長男)である樋端一雄さんから、新たな遺品を母校(同窓会)に寄贈されたものです。間もなく90歳にならんとする一雄さんは、お住いの京都から3時間をかけて、しかも日帰りのバスでの強行軍です。出席者は一雄さんの他、母校の教頭(校長は所用で不在)、同窓会長の名渕さん(不動産鑑定士)、同窓会顧問の川北さん(元香川県副知事)、東かがわ市歴史民族資料館館長の萩野学芸員、及び小生の6名です。

     

    今頃なぜ遺品?なのですが、この遺品が発見されるトリガーになったのが、先般資料館に於いて開催された樋端さんの特別展と小生の講演だったとのことです。話は込み入りますが、樋端さんのご実家の隣に住んでおられる、樋端さんの大姪(甥ごさんの娘さん)のご主人が小生の講演を聴かれた由。帰宅されて講演のことなどを奥さん(大姪ごさん)に話したところ、奥さんが「そう言えば、実家の屋根裏に大叔父さんのものと思われるトランクがあったような気がする」とのこと。早速、ご夫妻が実家の屋根裏に上がって探索され、樋端さんの遺品であるトランクを発見しました。「男はつらいよ」の寅さんが持っていたのと同じようなトランクです。はやる心を押さえて中を開けてみると(開けるのに大層苦労された由)、帝國海軍の正装(礼装)に着用する正帽が鎮座していた。

    帝國海軍ではこの帽子を、通称「仁丹帽」と呼びました。あの「仁丹」のラベル(商標)に同じような帽子を被ったおじさんがいましたよね。若い人には化石のような話です(笑)。帽子はアルミ製と思われる堅固なカバーで保護されており、虫食いも無くきれいなままで、世紀をまたいで保管されておりました。帽子の内側(頭上部)には漢字で「登飛者”奈」と赤糸の刺繍があります。崩した文字なので素人には難解です。萩野学芸員によると「者」は「は」と読ませるそうな。即ち、音読みすると「とひばな」と描かれている。なぜ「樋端」にしなかったのかは分かりませんが、帝國海軍で三本の指に入る秀才と言われた人物のことです。この四文字には、何らかの意味が隠されていると見るのが妥当でしょう。ひらがなの「とひばな」を、それぞれの原型である漢字に置き換えると「止比波”奈」になるはず。これを良しとせず、敢えて「登飛者”奈」としたのは何故か? 彼が(私のように)艦乗り(ふなのり)であれば、原形のまま(止比波”奈)にしていると思う。謎解きのようではありますが、私は「天空に飛翔(とぶ)者は何処に」と読み、飛行機乗りの矜持を示していると見ます。拡大解釈でしょうか・・・。或いは、帝國海軍特有のユーモア―かもしれない。更には、当時海軍ではこのような当て字が流行っていたのかもしれません。

    流石に所有者の秘匿を意図したものではないでしょう。何方かご存知の方はご教示下さい。

     

     

    トランクの金具部には微かに「MADE IN TOKYO」の文字が判別できますので、日本製であることは間違いありません。かなり使い込まれている様子。一雄さんによると海軍省勤務の時には別の鞄だったとのことですので、駐在武官補佐官として渡仏する際に購入持参し、軍縮会議等では機密書類などを搬送する時に大いに利用されたものと推察します。渡欧が昭和4年の暮れですので、まさしく歴史的なアタッシェ・ケースです。その後の支那方面への出張や赴任に際しても、常に手にしていたと思われます。地元ではかつて、実しやかに「上海からの帰途、実家に立ち寄った時には、ポーカーで稼いだ札束を鞄に一杯持っていた」との伝聞が残っていました。この噂話にも、写真のトランクが一役買っているような気がします。

     

    一雄さんは贈呈式で、感慨深く次のように話されました(一部)。

    ***********************************************************

    昭和18年9月18日、郷里での葬儀が親父の母校白鳥本町国民学校において、町葬として営まれました。この時に、親父が江田島(海軍兵学校)に旅立つ際に両親と兄に宛てた手紙「告辞」とともに、正帽を含む正装が遺品の一つとして展示されていたことを記憶しております。葬儀が終わった後、大概のものは東京に送り返したのですが、この正帽を入れたトランクは送るのを忘れたのでしょう。そしていみじくも、このトランクと正帽は今日まで実家の屋根裏で保管されました。当時は少尉に任官すると自前で正装をあつらえました。仕立て代は給料の2〜3か月分です。・・・

    昭和3年12月30日、親父とおふくろは白鳥神社で結婚式を挙げましたが、この時にも親父は正装を着用しています。結婚式の写真があったのですが、残念ながら何処かに散逸してしまいました。・・・

    ***********************************************************

    お話を聴いていて何に驚いたかと言いますと、一雄さんが遠い昔の年月日を空で言っておられたことです。やはり頭の良い家系です。評伝『ソロモンに散った聯合艦隊参謀』を描いた私は記憶の外であり、横でウンウンとうなずくだけ。大変申し訳なく恥ずかしく思った次第です。

     

    贈呈式の後、一同は母校の創立100周年記念事業として設置された資料館に移動、贈呈された遺品(トランクと正帽)は同窓会長の手によって樋端コーナーに収められました。そして、改めて先人の偉大さに思いを致しました。ヨタヨタしながらではありましたが、拙著を上梓することができて本当に良かった。

     

    ショーケースの中には、戦死後に聯合艦隊司令部が遺族に送達した遺品:樋端さんが最期に握りしめていた焼けた軍刀と、その時身に着けていた参謀肩章や(勲章の)略章が桐の箱に収めて展示されています。お父上の遺品を見ながら、一雄さんが誰に言うとなくポツリとつぶやきました。「戦後間もないある日、突然校長室に呼ばれて”遺品を持ち帰って欲しい”と言われた」。彼はそれ以上は何も言わなかった。因みに、終戦によって(陸軍)東京幼年学校を去った一雄さんは、一時家族が疎開している父の実家(讃岐)に身を寄せ、短期間ではありますが父の母校(旧制)大川中学に編入しております。この辺りのいきさつについては拙著に詳しく描いてありますが、遺児の戦後は未だ終わっていないとの思いを強くしました。昨日まで郷土・母校の誇りであり讃岐の英雄であり、軍神と謳われて故山に還った父が、戦争に敗けた途端に厄介者になっている。この無念、悔しさは遺族でないと分からないと思う。

     

    戦争が持つ意味は、戦争に敗けるということはどういうことか。戦争と平和とは・・・。軽々に「戦争」を語ってはいけない、と胸に刻んだ一日でした。今回発見された新たな展示を加え、樋端さんの遺品が後輩の教育と人間形成の資になれば、天上の樋端さんは微笑んでくれるでしょう。

     

    【眦菁郢襪離フィシャル・サイト】

    http;//www.umihiro.jp

     

    博海堂

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    コメント
    コメントする