宇高フェリー

2019.12.19 Thursday

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    一年の経過がホントに早いです。盆を過ぎた、と思ったらもう年末です。今年の締めは、令和元年というよりも昭和・平成の終わり年の象徴的な宇高フェリーについて。

    宇高(宇野〜高松)フェリーが今月15日を最終の航海とし、「休止」するとの報道がありました。私の記憶に間違いがなければ、「宇高」は「うたか」と読みます。理由は知りませんが、語呂が良いのでしょうか。さて宇高航路は、単に人や貨物或いは車を運んだと言うことではなく、我々、特に四国の人間の思い出をも満載した航路でした。海洋汚染防止法が制定されるまでは、束になった別れのテープが送る人と送られる人の心を繋いでおりました。新婚さんの出発時には見送る人たちの代表、主として親類縁者の長老などが「〇〇君、ばんざ〜い」と大きな声で音頭を取るのが定番でした。今だったら恥ずかしくて「やめて〜!」って言うでしょうな。良き時代でした。

    さて、本四連絡橋(瀬戸大橋)ができる前から、いずれこういう日が来ることは予想されましたが、実際に宇高航路がなくなると思うと一抹の寂しさを感じます。廃止ではなくわざわざ「休止」と言うからには、将来の再開を担保しているのでしょうか? 或いは運航会社の意地と矜持でしょうか。

     

    個人的にはフェリーよりも、既に廃止されて久しい国鉄(現JR)宇高連絡船への思いが強い。何時のことだったのかは覚えてないのですが、高松築港で連絡船に汽車が入って行くのを見て、”へ〜船のお腹に汽車が入るんだ〜”とびっくりした記憶があります。紫雲丸事件が昭和30年(1955)で、これを機に列車に乗ったままの乗船、即ち列車の搭載を止めたはずですので、私の記憶は3歳頃ということになります。で一般論として、3歳の記憶ってあるんですかね? 記憶自体がセピア色なので、もしかしたら本か写真で見た記憶かもしれません。因みに、紫雲丸事件とは、霧中航行中の上り下り連絡船が高松港外で衝突し、修学旅行の小学生を含む168人もの犠牲者を出した大事件(事故)でした。

     

    拙著『ソロモンに散った聯合艦隊参謀』でもほんの少し言及しているのですが、四国の人間にとって宇高連絡船は、四国、私の場合は讃岐そのものでした。帰郷した時には、宇野(岡山)で連絡船に乗ると”四国に帰った〜”との思いを強くしました。かつて宇野港の桟橋はマラソン桟橋と呼ばれ、列車が駅に着くとみんな我先にと乗船口まで走ります。そして乗船開始となるやダーッと走り込んで席を確保するのです。たった一時間の航程なのですが(笑)。そしてポーンと荷物を座席に投げると、今度は上甲板の船尾に向けて走ります。ボストンバッグに鍵など掛けてた人はいないと思うのですが、荷物を盗まれたって話は聞いたことがないね。貧しくも平和な時代だった。

    そして、後甲板には長い列ができます。そう、うどんです。現在のうどん屋さんのように、多種のトッピングなんかありません。せいぜい鳴門(蒲鉾)にネギがパラパラっと。追加料金でキツネかタヌキ。私が(防衛大学校の)学生の頃は、素うどんが200〜250円程度だったかな・・・。でも、後甲板ですする「讃岐うどん」はホンマに美味かった。私の場合、何故か夜が多かった。心地よい夜風に当たりフ〜フ〜しながらうどんを食べて、名実ともに腹から四国に帰ったことを実感したものです。

    この宇野〜うどんまでの一連の流れを知ったのは、防大一年生の冬の休暇で帰省しているときでした。宇野線で制服姿の私を見つけた4年生が、「俺について来い」とこのオペレーション=作戦を教えてくれたのです。先輩が自分よりもずっと大人に見えて、まぶしかった。高松を離れる時も手順は同じです。やはり後甲板でうどんをすすり、故郷を離れる感傷と共に「不肖眦茵江戸に行くぞ」みたいな。これが私の中の宇高連絡船です。瀬戸大橋を走る岡山〜高松間の瀬戸内ライナーに比べると、誠に不便ではありますが風情がありました。

     

    宇高連絡船がなくなってからおよそ30年、通行料(高速代)が高い瀬戸大橋を補完するように、或いは落穂拾いをするかのように宇高フェリーは四国と本土を繋ぐ足になってくれました。今年をもって休止になるのも時代の流れでしょうか。かく言う私ですが、実はフェリーはあまり利用したことがありません。そこで、ひとつお恥ずかしい小話を(下らない話です)。宇高フェリーには一宿の恩義があるのです:

    やはり防大学生時の夏季休暇で帰省していた時のこと。高松で財布がカラになったので、宇高フェリーの待合所で一夜を過ごしました。バス代もオールナイトの映画館にも入れない、本当のスッカラカンです。なんでそうなったの? 最近もの忘れがひどくなって、理由は忘れた(笑) そこは端折って、とにかく夜が明けてから歩いて帰ることにしたのです。実家から高松までは車で小一時間かかりますので、距離にすれば30キロ弱でしょうか。空が白々としてきたので歩き出したのですが、陸兵ではない私にはひとつ誤算がありました。真夏のこととて太陽が昇るとカンカン照りです。アスファルトの照り返しで熱いのなんのって、喉が渇く、腹が減る・・・。三分の二くらい歩いたところでギブアップしタクシーを拾うことにしました。「〇〇町の〇〇までやって! 銭はないんや。家に着いたら払うけん」。恥ずかしくて、天下の防大生が身分証明書を提示することなどできません。ダメダメと2〜3台スルーされたのですが、疲れたきった私の顔を見て哀れに思ったのか、一台のタクシーが乗せてくれました。家に直接横付けすると運ちゃんに住所を特定されるし、両親にも調子が悪いので、実家に続く橋の手前で降ろしてもらった。でも考えてみれば私の田舎は家などまばらなので、運転手さんは直ぐに分かるよね。家に駆け込んで母に見つからないよう、そっとお金を持ち出し払いを済ませて事なきを得ました。再度家に入ると母はウスウス事情を察したのか、ニヤニヤしてましたが何も訊かれんかった。武士の情け?

     

    この件には後日談がありまして・・・数日後に中学校の同窓会があったのですが、同じクラス(組)の女の子が私の顔を見るなり「眦莊、この前高松で一文無しになったやろ? バレとんで・・・」って。エエ〜なんでこいつが知っとんや(笑)。親切な件の運転手さんは、同級生のお兄さんだったそうな。夕食の時に、スッカラカンで角刈りで目つきが悪く、でも何となく信用できそうなあんちゃんを乗せたことが話題になり、同級生の女子さんはピンときたげな。”そんなことするん、絶対あいつや!”

    良い子は真似をしないでください(笑)

     

    宇高フェリーとは何の関係もない、情けない話で締めになりました。どうぞ皆様、佳いお年をお迎えください。そして、明くる年もご交誼を賜りますよう、宜しくお願い申し上げます。

     

    【眦菁郢襪離フィシャル・サイト】

    http;//www.umihiro.jp

     

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