兵を引く

2020.05.13 Wednesday

0

    大分前になりますが、或る方から次は『日本人の条件』というタイトルで本を書いては如何かと勧められました。おだてられると何も考えず木に登るお猿さんは、それってなかなかいいんじゃない、と早速パソコンに向かいました。そして、それなりに序文(まえがき)を書いてふと思った。これが全てや、後はなんも出てこん! 私の場合には序文に全力を傾注して背骨になるところを描き、これを本文(本論)で具体的にかみ砕いていく。幹に枝を出し葉をつけ、花を咲かせていきます(咲いてないかもしれませんが)。このやり方が良いのか悪いのかは知りません。書き手によってやり方は違うと思うのですが、素人の私はそういう作業をやってます。

     

    背骨(序文)を描いただけで、これが自分が表現できる限界だと感じたのは、残念ながらこのタイトルで肉付けする材料を持ち合わせていないってことでした。勉強不足は如何ともし難いのです。いみじくも先のブログで言った、「人間は経験以上の発想はできない」ということです。間もなく古希を迎えようとしているのですが、日本とは・日本人とはなどと高邁な思考をすることなく、今まで生きてきたツケでしょうか。自宅と実家にはそれぞれ国旗を備え、祝祭日には玄関口に掲げておりますが「なんでそんなことするの?」と問われると、自分でも明確には説明できない。敢えて言えば私の血がそうさせるのですが、「ただカッコつけてるだけやん」と言われると、そうかもしれないと思ったりする。

     

    この格好(形)から入ると言うのは、自分の経験に照らすと、人間形成などの初期段階ではとても有効なやり方だと思います。但しずっとそれで生きてると、形だけで中身のない人間になってしまいます。このやり方は先の、本の書き方の逆パターンになります。形から入って肉付けをして、そして最終的に背骨を作る或いは目を入れる。これで一本筋が通ったと言うことになります。

    国を護るとか国民を守るとか、使命感などな〜んも持ってない極々普通の少年たちが防衛大学校に集います。絶対多数の新入生はそんなもんです。そんな彼ら(彼女らは枠が少ないだけに少し様子が違うと思う)がまず教わるのは、「気を付け!」の姿勢と敬礼の仕方です。なぜ敬礼をするのか、それに何の意味があるのかなどと教えたりはしない。それが一応できるようになると、隊としての行進や、個人の挨拶の仕方を学ぶ。殆どの学生は地方出身者ですから、方言しか言えなかった田舎者が先輩が使っている言葉から自然と標準語を学習する。

    帝國陸海軍では「私」のことを「自分」と言いました。「自分は眠たくあります」みたいな、日本語としてはちょっとおかしい面白い言い方です。今日では少し洗練されて「わたし」と言います。この教育のお陰で、どんな人に対しても、特に目上の人に対して自然に「私は・・・」と言えるようになりました。自分より若い人や女性に対しても、気取ることなく自然体で「わたしが・・・」などと言えるのは、今でも大変有り難いと思います。逆に「ぼく(僕)は・・・」などとは、小学生に戻ったようで気恥ずかしくて言えません。私が「僕が・・・」って言うのを聞いた人はいないと思う。

    形から入ってその後、寮生活や勉学、卒業後の勤務、周りの人たちの影響などを通じて徐々に自分を形作っていきます。若い頃は日々の業務をこなすのにてんてこ舞で、そんなことなど全く思いもしなかったのですが、自分に職業人としての軟らかい背骨らしいものができたと感じたのは40(歳)を過ぎた頃でしょうか。明確でカッチリしたもの=背骨ができたと自覚したのは、制服を脱ぐ数年前です。情けないとは思いますが、それが実態です。

     

    話は全く関係ありませんが、「兵を引く」即ち撤退というのは誠に難しい。何が難しいと言ってその時機と要領です。撤退は投入するよりも格段に難しくて、細心の注意を要する。果敢に攻めて一気に撤退すればそれは素晴らしいのですが、戦闘の実相は絵に画いたようにはいかない。相手(敵)の情況を観つつ、自分の体力を考慮しながら決心しなければならない。過剰で必要のない兵を投入したままにすると、厭戦気分を醸成することに繋がります。一方で、前線部隊を支えるロジ(兵糧=後方)の体力は徐々に低下します。かと言って早すぎる撤退は敵の殲滅に至らず、いずれ逆襲を受ける事態になりかねません。熟考しなければいけないが、逡巡は許されない。本当に難しいのです。

    国と国の関係(戦争)では、政治的な駆け引きや「落としどころ」みたいなのがあると思いますが・・・。

     

    それで、どうしてもコロナ禍に行きます。

    上記(撤退論)を現下のコロナ対応に当てはめてみると、敵(新型ウイルス)を殲滅する、少なくともそのゴールが見えるまで徐々に兵を引いていくのが定石でしょう。問題はロジです。即ち、国家の体力(主として国の枠組みや経済或いは国民のメンタル)がこれに耐えられるかどうか。そして最も忘れてはいけないのが、最前線の兵士は常に命がけで戦っているってことです。従って、最高指揮官の決断はとても重くて難しい。スタッフ(専門家)が「司令官、ゴールに到達しました」と進言しても、そもそもウイルスの実態がよく分からないわけですから。従って、専門家の言が正しいのか否かの見極めが必要です。細かい知識や情報はスタッフに負うにしても、情勢を俯瞰して最終判断を下すのは指揮官の役割です。

    現総理は自衛官を前に訓示する時、必ず「自衛隊最高指揮官 〇〇〇〇」で締めます。何方かの進言があったのかもしれませんが(ご自身の発案であればゴメンナサイ)、この言葉を発することによってその都度、彼は国家・国民を護る実力部隊を率いている、その使命や責任の重さを自分自身に言い聞かせているのかもしれない。レベルは全く違いますが、私の場合はそうでした。

     

    緊急事態の終結(所謂出口戦略)には、多々悩ましい問題があると思う。参謀(スタッフ)はそれぞれの知識をもって、良かれと思って進言します。有体に言えば、みんなが勝手なことを言います。特異な分野の専門家たちは、我こそプロとの思いやプライドがあるので尚更です。しかしここは、ピンポイントで見極めて貰いたいと思う。ダルビッシュ氏(野球選手)の言葉を借りれば、「総理(最高指揮官)にしか見えない風景がある」はずです。失敗は許されない。これを誤ると、一億三千万人が乗船している「日本丸」は沈没する恐れがあります。

    今を生きている人の評価は大概あてになりません。正しい評価は歴史がしてくれます。

     

    起承転結なし・論理に一貫性なし、ごっちゃ煮の駄文になりました。ゴメン!

     

    【眦菁郢襪離フィシャル・サイト】

    http;//www.umihiro.jp

     

    博海堂

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    関連する記事
    コメント
    コメントする