『海の都の物語』(後編)

2020.06.18 Thursday

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    前編から続き:

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    盛者必衰は歴史の理である。現代に至るまで、一例も例外を見なかった歴史の理である。

    前編の最終項と同じです。人間や生き物が経年によって朽ちていくのは止めようがないですし、またいたずらにそれに抗うのも神の意志に反すると思うのですが、国や組織の場合には、情勢に応じて形を変えつつ維持していくのは可能だと思います。危機は常に存在します。それに応じ得る、そして跳ね返す知力と体力が求められます。日本と言う国がブレることなく(ちょっとブレてますが)、ここまで生きて来られたのは先人の知恵と努力のお陰です。そしてこれを後世に繋ぐのは、今を生きている我々の責任です。浮き沈みはあっても、この国が世界の「一例の例外」になりたいと思う。そのためには、先ずは自分の立ち位置を知ることが、生きていく上での知恵だと思う。

     

    一度陥落した経験があったり、また他国に統治をゆだねたりする町は征服されるのも簡単だ

    所謂負け癖がつく、よく言えば妥協点を知っているということか。そういう観点からすれば、先の大戦で敗けはしたが、我々の先人がギリギリのところまで戦ったことは、我々自身よりもむしろ相手国や他国に強いインパクトを与えたと思う。無謀な戦いをして犠牲者を出す愚を犯してはいけないが、譲っていけないものは断固として守る。文字通り死守する。この意志と姿勢そして努力を喪失すると、この国はいずれ前項に言う「例外のない」歴史の一ページとして埋没する。「誰かが助けてくれるだろう」などと、他力本願にならないことです。友人(同盟国)といえども、自らを護ろうとしない者、守る価値のない者は助けてくれません。立場を変えてみればすぐに分かること。国際情勢はそれほど甘くないし、人間はそれほど美しくもない。

    ポツダム宣言を受け入れるに際して、日本が最もこだわったのは「国体」でした。今日本・日本人が最もこだわるもの、絶対的に譲れないものは何なのだろう?

     

    現実主義者であったヴェネツィア人が誤りを犯すのは、自分たちがリアリストなものだから、非合理的に行動する相手を理解できないからなのだ。まさかそんなバカなまねはすまい、と思ってしまうのである。

    勿論、竹槍を肯定するものではありませんが、ベトコンはライフル銃で敵(アメリカ)の爆撃機を落とそうとした。これが全てではないが、最終的な結果はご存知の通り。作戦計画の策定において、「相手が自分だったらどう出るか」のフィルターにかけるのは、基本的な思考のひとつです。しかし、敵の行動を自分の脳味噌の中だけで思考していると、虚を突かれたときに対応できません。想定外の事態が生起しても何とか踏ん張ることができるのは、我の能力が敵に比べて格段に優っている時だけです。従って我々は、乾いた雑巾を絞るように「敵の可能行動」を見積もるのです。具体的にどのような手法を持って見積もるのか? それは軍の秘密です(笑)

    敵の動きを予測するときの必須要件は正確な情報です。百回頭の体操をしても、一つの正確な情報には勝てません。(敵の可能行動の)見積もりは、正しい(と判断できる)情報があって初めて可能になります。勿論、敵はあらゆる手を使って裏をかこうとする。最近の近隣諸国の動きを観ればよく分かると思います。表面に出てくる現象や声の大きさだけに注目していると、足をすくわれることになります。ただ、相手はジャブ(様子見)を入れてくることが多々あるので、それには逐一毅然とした対応をしなければいけない。ジャブの後ろには、強烈なパンチを隠していると考えるのが自然です。

     

    歴史では、無用な戦いと無用でない戦いを判別することはできない。深入りしすぎたか深入りしないで済んだかの、ちがいしか存在しない。興隆期は、時代が味方してくれるから簡単だ。この時期だと、主導権は自分たちの手にあるからである。それが、下降期に入るとむずかしくなる。

    明治維新から大東亜戦争そして敗戦に至る、我が国の動きを指摘しているかのような一節です。資源が乏しい小国は、「深入り」には特に注意する必要があります。難しいのは、自分が今どの辺りに在るのかを見極めること。昇り坂にあるのか頂点に近いのか、或いは下降しているのか? 自分が今何象限に位置しているのか、これを正確に把握するのは至難の業です。個人も一緒です。煽てられると誰しも、自分は上昇気流に乗っていると勘違いする。基本的には、人間は自分を100%客観的に見ることなどできません。主観と言う色眼鏡と、自分が可愛い感情があるからです。上記「主導権を手にする」ひとつの手段・方策は、自らを客観的に評価すること。過大評価も過小評価もしない。過大評価は厳に慎むべきですが、過小評価しても行くべき方向を誤る。他人の評価、とりわけ国対国になるとプロパガンダもあります。要注意です。 

     

    海洋国家に比べて陸地型の国家は、ほんの小さな土地にも執着するものである。そして、自領が少しでも拡大するたびに、異常なまでの満足を感ずるものなのだ。

    歴史を俯瞰する作家の勘は、一般人に比べて格段に鋭いと言うべきか。大陸国家を隣人に持つ日本にとって、身につまされる論考です。勿論彼らは、満足感を得るためだけに土地に執着するわけではない。そこには遠大な戦略があるとみるべきです。不凍港の確保であったり、大洋というお宝を手にするための橋頭堡であったり。そんな彼ら(大陸国家)が、喉から手が出るほど欲しいのが「島」です。無人島であろうが直径1メートルの岩礁だろうが、とにかく新たな起点になればいいのです。彼らの悲願と言ってもいいのではないか。私は「遅れてきた帝国」「周回遅れの帝国」と表現しますが、実はそれは遅れているように見えるだけで、形を変えて何百年何千年と続いている人間(国など)の性(さが)です。今我々は、強大な力と力の接点に位置しています。「異常なまでの満足」に飲み込まれないよう、細心の注意と備えが必要です。

    民族の血を流して(犠牲を払って)得た土地は絶対に手放さない、と言われます。絶頂期にあった米国から、硫黄島が返還され沖縄が戻ってきたのは奇跡のように感じるのですが、彼ら(米国)は海洋国家であるがため、大陸国家ほど土地への執着心がないのかもしれません。当事者である日本にとっては、誠に幸運なことでした。今なお不法に占拠されている領土は、日本が国家として在る限り、更には一人でも日本民族が生きている限り、執念を持って奪還する意志を持ち続けることです。一寸たりとも、隙を見せてはいけない。

     

    人間の数の不足は、ヴェネツィア海軍のアキレス腱であり続ける。

    海上自衛隊の先輩も我々もそうでした。そして後輩も、この問題を解決できないままでいます。近年の少子化の影響をもろに受けて、問題はむしろ深刻化しています。諸先輩の努力によって、自衛隊は絶対多数の国民の信頼を得ました。熱烈なシンパや支援者の輪も拡大しています。それはとても有り難いことなのですが、残念ながらこれがリクルートにはつながりません。一方で国民の期待は高まり任務は増大の一途です。入れ物も大きくなっています。この狭間にあって、技術の進歩などによって補間に努めてはいますが、自転車操業は遠からず破綻します。事態はそこまで来ているというのが私の認識です。では、我々が持つアキレス腱の原因は何処にあるのか? 根本的な問題点は二つ。

    一つは基本的な国民の意志の問題。自分の国は自分で守ると言う、ごく単純かつ普通の決意と志が欠落していること。流石に個人、即ち自分や家族を護ると言う意志は絶対多数の国民が持っているでしょう。しかし国となると、必ずしもそうではありません。本来はイデオロギーには関係のないことなのですが。勿論、自衛隊で汗をかくことだけが国を護ることではありません。いろんな分野で仕事をすることが、国家への貢献に繋がります。しかし、自分たちが住んでいる・生きている国は自分たちで守る、というごく当たり前の認識が浸透していない社会、そういう教育をしない土壌からは、直接的に国を護る仕事に就こうとする人間は稀にしか出てきません。

    二点目は尊厳(尊敬と名誉)に関わること。聴いてまわったわけではありませんが、諸外国の軍人は広く国民に信頼され尊敬されています(おそらく)。現場の自衛官は、「自分たちがもてはやされるときは国が危うい」ことを理解しています。しかし多くの国民が、自衛官のその志に甘えていないか。人間だれしも、いい意味で脚光を浴びると嬉しい。我々も普通の人間であり、弱い心も併せ持っています。貢献度に応じた正当な報酬(処遇+名誉)が得られないところに、将来有為な青年が集まるとは思えません。価値観が多様化した今日においては尚更のこと。

     

    平和を願望するあまりに、人はえてしてあらゆる現象を、眼前の平和が続くのに都合の良いように解釈しがちなものである。

    所謂、空想的な平和論:理想と願望で、投資しないで平和の配当を手にすることはありません。絶対に。配当を得るための努力(手段、方策)にはいろいろありますが、直接的には、護りを固めて「勝手なことはさせないぞ!」という姿勢を内外に示すことが、相手につけ入れさせない抑止力になります。逆に、この姿勢を明示しないと、結果的には係争や侵略を誘引することになります。平和平和と叫びながら、実は軍事的に最も危険な状態、即ち力の空白・真空地帯を醸成している。軍事的な備えが戦争に繋がる、と信じて疑わない人がこの国には沢山いるように見受けられますが・・・明言します。それは違います。思考が逆転してます。警察があるから犯罪が起きる、とは誰も思わんでしょう。

    軍事には二つの役割(側面)があります。一つは有事に備えること、もう一つは戦争をしない(抑止する)こと。

     

    大作の大トリはこの言葉: 

    深夜まで続いた討議の末に達した結論は、金でことが済むなら、ということだったのである。

    多くの識者が指摘しておりますが、かつての金満国日本が「お金で済むなら・・・」とした象徴的な出来事はこの事案です。

    1990年、イラク軍がクウェートに侵攻して湾岸戦争が勃発しました。列国は多国籍軍を編成してクウェートの解放に汗をかいたが、日本は人的貢献に至らず130億ドルの資金提供を行いました。しかし、札束でことを済まそうとする我が国の姿勢に、ブーイングはあっても感謝の言葉はなかった。日本外交の敗北、耐えがたい屈辱でした。いやらしい言い方をすれば、むしり取られただけ。これを機に、我が国は汗を流す国際貢献に舵を切りました。そして、ちょびっと普通の国になった。国際社会においては、汗をかくことが如何に重要であるか、後年、私は印度洋でそのことを実感しました。

    敢えてもう一件挙げれば:湾岸戦争に遡ること18年(1972)、日本赤軍によるハイジャック事件が起きました。時の総理は「人の命は地球より重い」と言って赤軍の要求を呑み、多額(600万ドル)の身代金を払って人質を救出しました。人の命が何物にも代え難いのは確かです。人質になった人たちの身内でなくても、誰もがそう思う。時間が限られるなかで、政府(総理)の判断は苦渋の決断であったと思う。人質の救出に血税を使う、これに反対する国民の声は殆どなかったと記憶しています。国内では「人の命は地球より重い」がコンセンサスを得ました。日本人が起こした犯罪に、お金で人質を救出・解放する。しかし、眉をひそめる国もあったと思う。テロが金になるという前例を作った。身代金を払おうにも払えない国もあります。そして何よりも、身代金を与えたばかりか、赤軍の要求を受け入れて犯罪者(収監中の赤軍メンバー)を野に放った。

    お金の力は絶大です。だから、みんなお金が欲しい。しかし、お金は万能ではありません。お金で買えないものもある。小学生でも分かることですが、そこを誤ると国が亡びることにもなりかねません。

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    嗚呼〜しばし嘆息!

     

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