阿波探訪

2020.07.02 Thursday

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    帰郷時にお隣の阿波徳島を訪ねました。近くにある名所は「何時でも行けるので今でなくても」と思うのが常で、思いついた時に行かないとなかなかチャンスがありません。と言うことで、かの有名な阿波踊りさえ未だに観たことがありません。此度、郷里の同級生が「草刈りの合間にどうか」と案内してくれるというので、喜んでご一緒させてもらいました。同窓生(同級生)ってのはホントに有り難いものです。

     

    ずっと行きたいと思いながら叶わないままだったのが、平家一族が落ちて住み着いたと言われる「祖谷」です。釈迦に説法ですが、祖谷は「いや」と読みます。小学校の遠足で鳴門(渦)や大歩危(おおぼけ)・小歩危(こぼけ)には何回か行ったのですが、大歩危の直ぐ近くでありながら祖谷(平家関連)は観た覚えがありません。当時の先生たちは、何を優先して行先を決めてたのだろう。歴史にはさほど関心がなかったのか。或いは当時は、遠足が課外授業だと言う認識が希薄だったのかな。源平は讃岐にも大いに関係がある話であり、こういう所にこそ行くべきだと思うのですが。余談ですが山の分校の遠足は、観光バスを仕立ててPTA(今でいう保護者会)会長など一部の有志(希望者)も同行していたように記憶してます。走行中はみんなでマイクを回して、ちょっと背伸びして流行りの歌(歌謡曲)など歌いながら。のどかな時代でした。

     

    屋島の合戦で義経の軍勢に敗れた平家の一部は、陸路阿讃山脈を越えて阿波に落ちました。屋島からこの祖谷までは、100キロメートル以上はあるでしょう。勿論徒歩ですから、戦いに敗れ傷心の中で食糧もなく急峻な山越えは大変な逃避行だったはず。何故私が平家の落人に大層興味があるのかと言えば、屋島から東へそして南へと、祖谷まで落ちていく途上で「一人抜け二人抜け、一部の人は讃岐の集落に住み着いた」という(私の怪しげな)仮説は、あながち的外れではないと思うのです。ですから私が生まれ育った土地(讃岐の山間部)には、わずかではありますが京都の文化と思われるものが残っています。例えば住民は私のように人格穏やかで(笑)、言葉もおっとりしています。そこで恐れを知らない私は、もっと大胆な仮説を組み立てております。『平家物語』では壇ノ浦で入水したとされている安徳天皇が、実は生存されていて小生が生まれた集落を終の棲家とされた、と。この件については以前のブログでも描いた記憶があり、「また始まった」と言われますのでここで止めときます(笑)

     

    友人の車で小歩危・大歩危を通過し、心躍らせつつ「平家屋敷」を訪ねました。コロナ禍の影響でしょうか、我々の他に見学者はありませんでした。ですから、気兼ねなくゆっくりと観ることができました。「平家屋敷」は藁ぶき屋根(茅葺きだったかも?)の小さな家で、山中にひっそりと佇んでおりました。その外見は私が生まれ育った家とほぼ同じであり、とても懐かしい人に会ったような気持ちになりました。この屋敷は安徳天皇の御典医堀川内記、今でいう侍従医の子孫が住んでいた家の由。頂いたチラシ(簡単な説明書)には、彼(内記)は平家滅亡時に入山し、周辺の薬草を採取して地域医療に貢献したとあります。医者がこの地に住み着いたと言うことは、やんごとなきお方がおられたとの伝説も一理あるような気がします。天皇はご幼少ですから、普通に考えて、取り巻きが医者は手放さないでしょう。

    屋敷(家)内にはいろいろな展示物がありますが、最も私の目を引いたのは「赤旗」(残念ながら複製)でした。赤旗と聞くと直ぐに違うものを連想しますが、平家の軍旗が赤旗であることは知らんかった。戦場には常にこの赤旗が翻り、平家の権勢と衰退の象徴でもあったのでしょう。因みに、源氏の軍旗は「白旗」の由。貰った小冊子(観光ガイドブック)に、義経が白旗を山頂に立てて兵の士気を鼓舞した、との説明書きを見て???と思ったのですが、納得です。現在の赤旗・白旗とは全く意味が違うんだね。ただ、紅白歌合戦を始めとする、紅組と白組の対抗形式はここから転じているらしい。

     

    積年の思い(希望)が叶ったのですが、正直、この「平家屋敷」は私の期待とはちょっと違ってました。ここを訪ねれば、源氏との闘いやその後の平家、落人が歩いたルート、或いは落人と原住民(阿波の人々)との関係などなど、彼らが如何にして当地で生きたかが分かると思ったのですが・・・。「平家屋敷」というネーミングに、私が過剰に期待したからでしょう。部外者が敢えて苦言を呈すれば、「平家屋敷」と言うからには、また入館料を取るからにはもう少し整備されては如何か。一千万円ぐらいでいいから、ポンと出す篤志家はおらんのかいな。絢爛豪華な美術館の柱一本分くらいで整備できるのでは・・・。今回は時間の関係で行けなかったのですが、東祖谷にある「歴史民俗資料館」も併せて見学すると、私の感想はまた違ったものになったと思う。

     

    平家屋敷から15分ほど緩やかな峠を越えて車を走らせると、かの有名な「葛(かずら)橋」です。平家屋敷で若干心が沈んだこともあってか、これは期待以上の見ごたえでした。庶民は正直ですね。平家屋敷は閑散としてましたが、こちらは結構(それなり)の人が訪れており車の整理係もいました。

    敵が来た時にいつでも切り落とせるように、かずら造りにしたということを以前テレビで観ましたが、別の由来(説)もあるようです。ここは、源氏の怖さを骨身にしみて分かっている落人の発想と理解したい。使われている「かずら」は、太いところで直径4〜5センチほど。現在は安全を考慮して、「かずら」と共に直径3センチほどのワイヤーが張られています。即ち二重になっています。長さ45メートルの橋の中央から、眼下に臨む川の水や石の色合いが何とも言えません。京を落ちた武士(もののふ)が、ここで生を繋いだのか・・・と感慨にふける。

     

    祖谷地区から高速道路(徳島道)を東に向けて一時間ほど走り、徳島市内に移動して藍染工芸館を訪ねました。予約をすれば藍染を体験できた由。小さな展示館ですが、一部販売もしておりました。しかし受付の男性は全く商売気がなく、何らの説明も販売促進もなし。同行の友人が「彼は職人だな」と耳元で囁く。んだ。でも、流石にこの色合いは素晴らしかった。ノルウェーで見た氷山の下の方も、このような色をしてました。素晴らしさを口で表現するのは難しいのですが、一言で言えば「奥が深い悠久の色合い」って感じでしょうか。焼き物(有田焼きなど)にも通じますね。

    拙著『ソロモンに散った聯合艦隊参謀』でも言及しているのですが、香川・徳島には「讃岐男に阿波女」という言葉が残っています。私はずっと「讃岐の男はハンサムで阿波の女性は器量良し」と理解し、「さもありなむ」とほくそ笑んでいたのですが、或る日徳島出身の後輩が「先輩、それ違いますよ。実家のばぁちゃんによると、徳島で藍の栽培が全盛の頃、隣の香川県(東讃地方)から若い衆が多数出稼ぎに来ました。讃岐の男たちは、とても真面目でよく働いたのです。それで多くの若者が現地(徳島)の女性と結婚したことから、この言葉が生まれたんですよ」と教えてくれた。なるほど〜彼の説に分がありそうです。我々はイケメンではなく、働きバチだったのか(笑)

    またの機会があれば、事前に予約して藍染を体験したいと思っています。

     

    日帰りではありましたが、とても有意義な阿波小旅行になりました。案内してくれたクラスメートに感謝感謝です。

     

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