想い出の記(憂国)

2020.11.19 Thursday

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    古いアルバムを整理していたら、面白いもんが出てきた。

    のっけから大変厚かましいことで申し訳ありません。上の写真は神戸商船大学の受験票です。なぜ受験票が手元にあるのかと言いますと、願書は出したのですが受験しなかったためです。私の第一希望は防衛大学校でしたが、恐れを知らない田舎者は、防大の滑り止めとして商船大学にも願書を出しました。防大の合格発表は10月の末にあり運よく桜が咲きましたので、もういいやと思って商船大の受験はスルーしました。そんな訳で、受験票が手元に残った次第です。それを後生大事に保管しております。古稀になろうかと言うのに、何時まで経っても自分が可愛いオッサンです。自分では東京商船大学を受験するつもりだったのですが、私の実力(偏差値)をよくご存じの先生に「多少でも合格の可能性がある神戸にした方がいいんじゃないのか」と諭され、まっいいかと願書を出したものです。

    商船大学は国立ですが学費や寮費がかかるので、両親には内緒で願書を出しました。防大と同じように準大学(当時の位置づけ)の水産大学校(在下関)にも願書を出しました。商船大と同じように受験しなかったのですが、こちらの受験票は残っておりません。漁船の船長・・・ちょっと違うな〜との思いがあったからでしょうか。とにかく、これからの世は「世界に雄飛すべき。そのためには海だ!」が、海なし村に育った私のおぼろげな夢でした。赤木圭一郎の『霧笛が俺を呼んでいる』に憧れていたこともあります。ちょっと変わった生徒ではありました。

     

    上記の写真ですが、(現在のところ)人生68年で私が最も気に入っている写真です。村の小さな写真屋さん(田舎では珍しい、おばちゃんのカメラ・ウーマン)で受験用に撮ってもらったのですが、なかなか修正など難しい当時のこと、ホンマに上手く撮ってくれたと思います(自分では)。笑ってやってください。現役の時の写真は山ほどありますが、これほど上手に修正してくれた戦場カメラマンはいなかったな。田舎の写真屋さんには感謝あるのみです。あと15センチ足が長ければ、日活に持ち込んだのですが・・・? 

     

    同級生がシャカリキに受験勉強をしていた高校三年の3学期は、アルバイトに励みました。もう勉強する気にもならず時間があるので、横須賀までの電車賃やスーツケース代、そして当座の持参金を稼ごうと思ったからです。防大の入校案内には「持参したものは一切合切実家に送り返すので身軽で来い」とありました。アルバイトと言っても、田舎のこととて小僧を雇ってくれる処は殆どなく、私が見つけることができたのは道路工事(舗装)の土方です。ですから、今でも舗装工事のやり方を知ってます。車で走っていると時々見かけますが、基本的にはあの頃と変わりません。

    肉体労働の後、同僚(?)のおっちゃんやおばちゃんと陽だまりでお昼(弁当)を食べます。そんで内緒の話ですが(もう時効や)、食後にする「一服」は本当に至福の時でした。「あんちゃん、体にようないで」なんて、野暮なことを言うおっちゃん・おばちゃんは一人もおらなんだ。ですが、煙草は本当に体に良くないです。良い子は二十歳になったら煙草は止めなさい、が私の持論です。自分は26(歳)までやったのですが・・・。とまれ、この数か月間のアルバイトでは、市井の人々の在り様を垣間見ることでき、またいろいろ教えて貰いその後の人生にとても有益であったと思っています。

    因みに、今では死語になりましたが、私が若い頃(現役)の艦では、戦闘訓練の合間など、特に戦闘配食(総員が配置についてますので、それぞれの持ち場でおにぎりや缶詰飯を食べる)の後には、「煙草盆だせ」って号令があったんですよ。今では考えられません。


    防衛大学校の合格通知を得ておよそ一か月後の昭和45年(1970)11月25日、三島(由紀夫)事件が起きました。市ヶ谷の(東部方面総監部)庁舎の、バルコニーで檄を飛ばしている三島さん。自衛隊員の賛同を得られなかった三島さんは割腹自殺を遂げ、介錯の手によって首が転がっている、との報道を観て大変な衝撃を受けました。私が通っていた高校の(一部の)先生も、かなり衝撃を受けていました。熱血の或る青年教師は、翌日の授業で教室に入ってくるなり、吉田松陰の辞世の句「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」と黒板に書きつけました。私にとってなぜ衝撃的だったのかと言いますと、実は上京(防大入校)したら三島さん(楯の会)を訪ねようと思っていたからです。もしこの事件が何年か後であったならば、何らかの形で自分も関わっていたのではないか。そう思うと、身震いするような感覚を覚えました。両親に気づかれないよう、努めて平静を装ってテレビを観たことを記憶しています。

    しかしこのような思いは、実際に防衛大学校に入ると直ちに払拭されました。なんか「違うな」でした。私が知る限り、学生の間でこの事件が話題になったことは一回もありません。事件の直後に、学校当局が釘を刺したのかどうかは知りません。仮に三島さんがご存命であっても、私が防大の学生として三島さんを訪ね、或いは彼に心酔したりすることはなかったと思います。三島さんの哲学や思想が那辺にあるのか、何も分かっていない自分が言うのも僭越ですが、海軍(海上自衛隊)には彼の「檄」にあるような世界観や空気はありません。三島さんは生まれてくるのが、遅すぎたのか早すぎたのか・・・。

     

    防衛大学校では、二年生(防大では二学年と言います)に進級するときに陸海空の要員に分かれます。迷うことなく海の戦士を志し、希望通りその一員になれたことは誠に幸運であったと思っています。

     

     

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