レッテル(加藤寛治大将)

2017.12.21 Thursday

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    平成29年(2017)の締めはこの方です。

     

    数ヶ月前になりますが、加藤寛治(ひろはる)海軍大将直系のお孫さんと懇談する機会がありました。加藤家は4代にわたる海軍の家系で、4代目の加藤(武彦)氏は、防衛大学校から海上自衛隊に進まれた方です。因みに、美人の奥様は児玉源太郎の曾孫とお聞きしました。加藤さんは私が尊敬して止まない先輩です。阪神淡路大震災の時に呉の総監を務めておられ、彼の決心(情勢判断)と行動(実施)は、私の東日本大震災における指揮にも影響を及ぼしました。即ち、加藤さんのやり方を学んでいたお蔭で、とっさの判断ではありましたが、確信を持って一つの方向性(大きな決心)を見出すことができました。

     

    まずはじめに、加藤大将の人物像(プロフィル)を概観します。

    加藤(寛治)さんは明治3年(1870)の生まれで、出自は越前福井藩士の家柄です。彼の母親も福井藩士の娘さんでした。寛治の父(直方)は、幕府の海軍から明治海軍に入りますが早世(病死)します。未亡人須磨(寛治の母)の元には4男1女が残され、寛治は長男でした。女手一つで5人の子を抱えた生活は、赤貧洗うが如しだったといいます。寛治少年は海軍兵学校の予備校とも称されていた、東京の攻玉社(旧制中学)から江田島に歩を進めます。攻玉社と海軍兵学校の関係は、拙著『ソロモンに散った聯合艦隊参謀』に少し出てきます。

    寛治は元々利発であったことに加え、ご自身の努力が実り兵学校を首席で卒業します。その後のキャリアを詳述すると一冊の本になりますのでど〜んと端折りますが、任務に就いてからは出世の階段を駆け上がり、海軍軍人であれば誰もが羨む聯合艦隊司令長官、そして現役の最終配置では軍令部長の要職に就きました。若い頃にはロシア、イギリスの滞在経験を有する国際派でもありました。昭和5年、予備役・軍事参議官になりますが、なぜか元帥には推挙されなかった。因みに、歴代軍令部長(軍令部総長)の多くが元帥府に列せられています。

     

    このように輝かしい経歴の持ち主でありながら、失礼を承知で言えば、世の中(特に戦後)の評価は米内(光政)さんや山本(五十六)さんのように芳しいものではありません。勿論、大将に上り詰めて天皇直属の軍令部長まで務めておられますので、立派な軍人であったことに異論はないはずです。ではなぜ、彼はさほど高く評価されないのか?

    その最大の理由として挙げられるのが、海軍軍縮会議における或いは軍縮に関する言動です。私を含め、後世の多くがそのように理解し認識しています。当時の帝國海軍には、英米との建艦比率を、国力を勘案し甘んじて呑む考え方と、断固として許容できないとする意見がありました。前者を条約派、後者を艦隊派と呼ぶこともあります。実際にそのような派閥があったか否か定かではありませんが、私はなかったと思います。いわんや、海軍には下克上的な風潮などなかった。ただ、国防の在り方や兵力整備について、組織の中で違う意見や考え方があるのは至極当然のことで、むしろ健全な組織だったと私は思っています。

     

    彼(お孫さん:加藤元総監)は、淡々としかし噛み締めるように語ってくれました。

    俺は小さかったので、祖父(じい)さんの腕に抱かれた記憶はない(注:寛治は昭和14年没)。しかし、後継者ができたと大層喜んでいた、ということは祖母(ばあ)さんから聞いた。そりゃ肉親なので、孫としての思いはある。しかし、自分も祖父さんと同じような道を歩んだので、部隊指揮官としての立場と行政のなかでの軍人の在り方、両方を理解できる。自分であればそうはしなかった(判断、実施)と思うこともある。だが、寛治の孫であるという立場を差し引いても、世に言われるほど祖父(じい)さんは間違っていたのだろうか・・・?

    寛治は福井藩士の家柄に生まれたが、幼少時はとても貧しかった。だから、自分を育ててくれた母(寛治の母親)をとても大切にした。どこにいても、母への便りと送金を欠かさなかった。二・二六事件に寛容的であったのも、この時代の国内事情や事件の背景、即ち娘を売りに出さざるを得ないような東北地方農村部の貧困という問題に、自分の過去を重ねていたのだと思う。

    祖父さんは一貫して軍令(作戦)部門を歩いた。現役最後の配置も軍令部長だった。部隊を預かる指揮官には、精強な部隊を錬成する、戦いに強い部隊を作る、そしていざ戦争になれば勝たなければならないという、とてつもなく重い命題を背負っている。海軍作戦の最高責任者である軍令部長は、そこに焦点を合わせて思考する。軍縮会議においても、祖父さんはその立場を崩さなかった。「これでは戦えない」「この兵力(対英米建艦比)では戦争に勝てない」、というのが祖父さんの意見。半ば政治の世界である、海軍省・海軍大臣と立場や見解が異なるのは自然だ。

    元帥に推挙されなかったのは、聯合艦隊司令長官の時の事件が尾を引いたと思う。

     

    加藤(武彦)さんが言う「事件」とは、昭和2年の美保関事件を指す。不本意にも先に述べた兵力比(手持ち兵力の劣勢)を背負わされた加藤聯合艦隊司令長官は、当時、神様に祭り上げられていた東郷さん(日本海海戦時の聯合艦隊司令長官)が示唆する「訓練に制限なし」を果敢に実行する。東郷さんに言われたからというよりも、彼に残された策は「これしかなかった」のだろう。まさに月月火水木金金の猛訓練をやった。艦隊の練度(能力)は急速に向上したが、ここにひとつの副産物(大事故)が生起した。島根県美保関沖で夜間(無灯火)演習中の艦隊において、複数隻の巡洋艦と駆逐艦が衝突し甚大な被害損傷が生じ、100名以上の乗員が殉職した。ただし建前上(懲戒処分)の責任は、司令長官(寛治)には及んでいない。

     

    加藤さん(元総監)は人格穏やかで、決して他人を悪く言うような人ではありません。現役の時も、感情的に部下を叱責するようなことはなかった。自分の気に入らないことがあっても一旦は飲み込み、後に静かに諭す人でした。その加藤さんが控えめに言う。

    戦後、高名な評論家や有名な作家が言ったり書いたりしたことが、そのまま祖父さん(寛治)の評価・人物像として世の中で定着した。そう評価される一面はあったかもしれないが、言われるほど酷くはなかったと思う。祖母さんは「(祖父さんは)激高するような人ではなかった」と後々まで言っていた。

     

    私は先輩の一言ひとことを、言いたいことをずっと胸に収めてきた、肉親の積年の思いと受け取りました。以前のブログ(米内さんの項)で、帝國海軍の良識として三人の名を挙げました。加藤友三郎、鈴木貫太郎、米内光政のお三方です。この認識は今も変わりませんが、加藤寛治は彼らの対極に位置する人物として語られることが多い。戦後の海軍善玉論も、この構図で描かれていると思います。評論家や作家が書いただけでなく、戦後、上記の良識派に連なる某大将が「一等大将、二等大将」などと、先輩の海軍大将を仕分けしたことも影響していると思う。従って、我々後輩の認識がそうなるのは必定です。誠に申し訳ないのですが、私も加藤さんの話を聞くまでは、そのような認識・知識しかありませんでした。

     

    今日でも政治家や芸能人が、一回の失態でレッテルを貼られることは多い。そして、マスコミがそれを煽る。多くの場合は自業自得で致し方ないのも確かですが、一度貼られたレッテルを剥がすには膨大な時間と体力を要します。どれほど頑張っても、完全にリカバリー・ショットできないこともあります。それだけに、世(一般大衆)に影響力を有する人が発信する際には、より慎重な態度が求められる。とりわけ、書物(かきもの)になったものは半ば永久に残ります。実態を知らない後世の人がそれを読むと、その通りに理解(誤解)する怖さがあります。このブログもそうですが、私にとっても決して他人ごとではなく、心しなければいけないと気を引き締めているところです。

     

    どれほど素晴らしいと言われる人であっても、腹黒いところや汚いところ、或いは弱い一面を併せ持っています。基本的には、世の中に聖人君子などおりません。それが人間であり人間社会です。ひとりの人間にレッテルを貼り、あたら有為な人材を埋没させるのは国家の損失だと思う。失意のうちに鬼籍に入った方については、歴史の掘り起こしが必要なこともありましょう。

     

    【高嶋博視のオフィシャル・ブログ】

    http;//www.umihiro.jp

     

    皆様 良いお年をお迎えください。

     

    博海堂

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

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