ペリー提督日本遠征記

2018.02.01 Thursday

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    拙宅にお宝があります。決して高価なものではないのですが、本人が言うのだから間違いありません。

     

    表題の原文は「Narrative of the Expedition of an American Squadron to the China and Japan・・・」であり、これを忠実に訳すると「アメリカ艦隊支那・日本遠征記」でしょうか。

    Commodore(海軍准将) Matther C. Perry は、日本の教科書にも登場する我が国で最も有名なアメリカ海軍の軍人(提督)です。「たった四杯(4隻)で夜も眠れず」という狂歌があるほどに、嘉永6年(1853)七夕の頃、米国の艦隊が東京湾に出現したときの、我が国の驚愕と狼狽は想像に難くありません。しかし実は、時の政府(幕府)には前年に、オランダの出島館長から「近々にアメリカの艦隊が来航する」という情報がもたらされていた。にも拘わらず江戸幕府の反応は鈍く、有効な手立てを講じる前に艦隊が来てしまった。というのが実態です。一部の開明的な幕臣や国民はことの重大性に気づいていたと思いますが、なぜか幕府は動かなかった。どこやらの国では今日でもありそうな、何やら身につまされる事態です。

     

    一方、ペリーは用意周到、浦賀周辺に配備された我が砲台の射程外で、なおかつ艦隊が浦賀の街と砲台を射程内におさめる海域に錨を降ろした。この辺りのペリーと幕府の動きについては、日本旅客船協会の機関誌『旅客船(No.230)』(平成16年11月号)「ペリー艦隊の来航」に詳しい。記しているのは、元東京商船大学教授の橋本進さん。橋本さんは私が出た高校(香川県立三本松高等学校)の先輩です。高等商船のご出身で練習帆船「日本丸」の船長などを歴任しておられますが、「見張り」の論考で医学博士になり、長年商船大学で教鞭を取られた変わり種です。現在も矍鑠としておられます。

    因みに昭和51年(1976)、アメリカの建国二百年祭(bicentennial)にハドソン川で国際観艦式がありました。このとき日本を代表して参加した「日本丸」の船長だったのが橋本さん。海上自衛隊の練習艦隊も参加し、当時私は実習生で乗り組んでおりました。橋本さんとは浅からぬ縁です。

     

    もう7年ほど前、私が現役の時です。橋本さんから、「君も船乗りで横須賀の総監をやってるのだから、ペリーが浦賀に来た時に東京湾を測量して帰ったのを知ってるか?」とご下問がありました。ペリーは帰国後に『日本遠征記』なるものを著し、その本に東京湾の測量図が収録されている。そう聞くと、私はもう船乗りの血が騒いでその図(海図)を見たくてたまりません。その旨を先輩に申し上げると、『遠征記』は公文書館等の他にも二部あるとのこと。一冊は日本財団に、もう一冊は横須賀商工会議所に保管されているはずだと教えてくれました。

     

    翌日私は、取るものも取り敢えず商工会議所に直行です。遠征記に添付されている件の別図には、「WESTERN SHORE of the BAY OF YEDO」とあります。表題の下には Surveyed by order of COMMODORE M.C.PERRY U.S.N(拙訳:アメリカ海軍ペリー准将の命により測量)」と記載されている。USN は United States NAVY (米海軍)の略です。我が副官は当然の如く、直ちにこの測量図のコピーを命ぜられておりました(笑)。折り畳まれている測量図を拡げると、実に縦93センチ、横65センチの大きさです。この測量図の写しが額に入って、我が家の狭い壁を占領しているという次第。これがお宝の正体です。

     

    さて、この簡易海図(測量図)には、現在の久里浜から川崎に至る沿岸の水深が克明に記されています。そして驚くことに、東京湾口から江戸に至る推薦航路が引かれている。アメリカ海軍恐るべし。加えてアメリカ人らしいのは、島名や岬の名前を勝手につけていること。例えば猿島は艦隊司令官の名前から「ペリー島」、横須賀港は2回目(翌年)に来航した艦名から「ポーハタン湾」などなど。横須賀港の直ぐ北には「American Anchorage」とある。今風に言えば、排他的米軍錨地とでも言おうか。よその国(独立国)に勝手に踏み込んできて、大砲を向けて「開国しろ」はまだ許せるにしても、自分たちの錨地まで名前を付けて設定している。こんちくしょうだ。それほど日本は、能天気で遅れていたわけです。

    ただ、幕府や浦賀奉行もペリーの攻勢を指をくわえて見ていたわけではない。先に紹介した橋本さんの論説によれば、当時の幕府には「江戸防衛計画書」なるものがあった。同計画の海の防衛線は、富津岬(房総半島)と観音埼(三浦半島)を結ぶライン。ペリーはこれの突破を目論んで、測量艇と護衛の艦一隻を東京湾に入れた。浦賀奉行は米艦艇の動きに強く抗議しますが、ペリーの気迫に押されて沈黙する。結果、米測量部隊は湾口から川崎沖までの測量(測深)を悠々と行った。

     

    国際政治上、これがどれほど重要な意味を持つか。ただ単に水深を測っただけでしょう、ってことではないのです。独立国である日本の権益が侵されている。即ち、この国が蹂躙されコケにされたということです。私には今日、東支那海や尖閣周辺で起きていることが重なって見える。ことを甘く、そして軽く見てはいけない。海軍(力)は昔から外交の一端を担っています。爾後、我が国は長年にわたって米国との不平等条約に甘んじることになる。時の政府がContingency(不測の事態) への対応を誤ると、そのつけは国民が長期にわたって負う。子々孫々までが、負の遺産を抱えることになる。今を生きている我々は、そこに思いを致さなければならない。 

    因みに、この測量図で最も笑えるのは(笑っちゃいかんが)、先述の江戸防衛線を越えた直後の岬(我が母校:防衛大学校の眼下辺り)を「Pt. Rubicon(ルビコン岬)」と命名していること。戦略家であり強引に開国を迫るペリーではあったが、日本が定めた防衛ラインを越えるに際しては相当な覚悟が要ったのであろう。或いは、アメリカ人特有のジョークかもしれない。

     

    時は流れて昭和20年(1945)8月15日、日本は因縁の米国との戦いに敗れます。連合国(米国)が設定した、降伏文書調印式の歴史的な場は戦艦「ミズーリ」。ここでも軍艦(海軍)は外交の一翼を担う。悠々と東京湾(浦賀水道)を北上する同艦のマストには、およそ90年前にペリー艦隊が掲げた星条旗がへんぽんと翻っている。同艦が錨を下ろした場所は、ペリーが設定した「American Anchorage」であった。日本はかの国に、二度征服されたことになる。

    と描こうとしたが、実際の投錨位置はもう少し東(千葉寄り)の海域だった。艦が大型化して水深が足りなかったのか、或いは戦争の残滓(沈船などの障害物)があったのか?日本側が意図したわけではないが、辛くも帝國海軍のささやかな抵抗にはなった。

     

    今日、日米両海軍(日本は新生海軍)は極めて良好な関係にある。海軍に限って言えば、おそらく世界で最も強固かつ信頼できる同盟でしょう。(海上自衛隊の)先輩たちの先見と涙ぐましい努力があってのことだが、そこには死力を尽くして戦った者同士が互いに抱くある種の尊敬の念があることを忘れてはならない。

     

    【高嶋博視のオフィシャル・ブログ】

    http;//www.umihiro.jp

     

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