元旦に思うこと

2019.01.17 Thursday

0

    一年の計は元旦にあり、と昔から言います。私も毎年、元日には「今年はこれでいくぞ!」と心に決め、それを家族や周りの人たちに発信・公言します。なぜ敢えて口に出すのかと言いますと、私は根性なしなので、退路を断たないと途中で断念する恐れがあるからです。例えば、何年か前のテーマは「自慢しない」。これは少々手強かった。その日のうちに、もう破ってるとのご指摘を頂きました(笑)。

    で、今年のお題は「ほめる」です。こっちは、努力すれば何とかできそうな気がする。「ほめる」にしたのは、別に「人たらし」になりたい訳ではありません(笑)。人間ほめられて悪い気がする人はおりません。明らかに「ゴマすってやがる」と分かっていてもです。そもそも「ほめる」と「ゴマすり」の違いは、難しくてよく分からないですよね。多分そこは「指導」と「パワハラ」と同じで、発する人の気持ち、受け取る人の気持ちの問題でしょう。褒められると、大概の人はニヤッとして口元が緩みます。人間ってのはそんなもんです。

     

    さて、或る年の計は今年と対極に位置するような、「いい子になるのを止める」でした。と言いますのも、現役の時には組織の一員として一つの歯車になろうとすると、どうしても自分を抑え込む場面がありました。それが良いか悪いかは別にして、組織人としてはそうせざるを得なかったという事情もあります。この積み重ねが高じて、「良い子」が習い性になってしまった。

    しかし退役して数年が経ち、ほぼ自由人になった時にふと立ち止まって、自分に残された時間などを逆算すると、もういいんじゃないか、むしろ良い子ぶるのは止めるべきではないのかと思ったのです。かと言って社会生活はしておりますので、自分の中の良い子になろうとする意識を完全に否定・払拭するわけにもいきません。だけど「良い子」を止めようと思うだけでも、随分気が楽になりました。言ってみれば、二枚目(二回目)の裃(かみしも)を脱いだってことでしょうか。勿論、一回目の裃は制服です。謂わば、退役した時点で裃は脱いだつもりでいたのですが、もう一枚裃を着ていることに気が付いたってことでしょうか。

    裃を脱ぐと、その分自分の両足で立ち、自分の力で歩いて行かなければならない。そして自分自身への証として、また退路を断つ意味でも、誰にも相談せず小さな一人だけの会社を立ち上げました。所謂「おひとり社長」です。その結果、心の満足は得られたのですが、多くの友人・知人と徐々に疎遠になりました。一方で多くの別の出会いがあり、多方面にわたって大勢の友達ができました。何れにしても自分で決心したことですから、結果については何ら後悔することはありません。

     

    以前に書いたかもしれないのですが、「運命を引き受ける勇気」と言う言葉が好きです。私の良い所であり欠点でもある、「まっエエか〜」にも通じるところがあります。家族を含め自分の身に起きる諸々のこと、これらの殆どは人為的な要因によって生起しています。全く自分には関係ないのに降りかかるのは、地震くらいでしょうか。現役のときに少し関わりましたので、よく例に出すのが「人事」です。組織に属する人であれば誰もが気にすることですが、この人事は誰かが何処かで決めています。

    さまざまな事故や事案も同じ。自分には全く関係ないのに被害などを被ることが稀にありますが、その殆どは何らかの形で自分に関わりがあります。或いは多くの人々との出会いや別れ、これも大きな要因は自分です。自分から声をかける場合は勿論ですが、知らない方からお声がけを頂くのも、「自分」という存在があってのことです。

     

    そうなんではありますが、私は一切合切を「運命」という言葉で括ります。時々、なぜ俺ばかりに苦労が舞い込むのか、と自問することがあります。どんなに順風満帆で幸せでゆったりした日々を送っている人でも、一生のうちに何回かはそういうことがあると思います。そんな時はこう思うようにしています。しなくても良い苦労はしないに越したことはないけれど、既に起きてしまったことはしゃ〜ないしゃ〜ない(仕方がない)。自分の努力不足は横に置いて、諦めが早いのです。

    あの時に苦労して良かった、と思う時期が来るかもしれないし、来ないかもしれにない。しかし不幸(と思われる)な事態が起きたことを、いくら悔やんでも何の解決にもなりません。ではどうすんのというのが大事で、せめて半歩でも前に進める方策を模索する。そうしないと滅入ってしまいます。眼前に起きている嫌なこと不本意なことが、遠い将来の自分にとっても不幸であるのか、そうではないのかは誰にも分かりせん。むしろ、そのことが要因となって事態が好転し、自分のプラスになる、例えば大金が転がり込んでくるようなことになるかもしれない。そう思うと気が楽ですし、アドレナリンも多少は出てきます。

    と言いつつ、私が自らの運命を引き受けようとするのは、いつもボ〜として能天気な自分への言い訳かもしれません(笑)

     

    話は変わります。元旦なので(再び)年賀状です。

    友人知己の皆様には大変失礼なことなのですが、今年は正月休みに年賀状を書きました。年末に海外出張したり風邪をひいたり、それでも鉛筆なめなめ会社の年末調整に悪戦苦闘したりで、年内に賀状を作成する余裕がなかったのです。余談ですが、年末調整と言えばサラリー・ワーカーはただ扶養家族と保険の控除を申告するだけでいいのですが、たった一人の社員だろうが一万人の従業員を抱えていようが経理の基本は同じです。誰かが言ってました。「明けましておめでとうございます」って書くけど、書いている時はまだ明けてないんだよね〜(笑)。

    そんな訳で、再び年賀状を出す意味について考えさせられました。数年前に「来年から年賀状や〜めた」と宣言し、周囲の方たちにも「もう止めましょうよ」と呼びかけたにも拘わらず、いまだにやってる自分を不甲斐なく思います。これもまた冒頭に述べた「良い子でいたい」、即ち横着な人間だと思われたくない、一方的に壁を作っていると勘繰られたくないとの思いがあるからです。いま少し後悔しているのは、平成の御代の終焉に合わせて「本年をもって年賀状を止めさせていただきます」との文言を入れる勇気がなかったことです。それほどに、年賀状が持つ意味について懐疑的になっている自分がいます。

    良いか悪いは別問題ですが、先日のNHK紅白歌合戦のように開き直って変質、よく言えば脱皮すれば、それはそれなりに新たな意味が出てくると思うのですが、年賀状にはそこのところがないように思うのです。中途半端なままに流されている。多くの国民が「年賀状、もういいな」と思っているんじゃないか、と推察できるのですが。

     

    皆様はどうか分かりませんが、私の場合、年賀状だけのお付き合いの方が大勢います。中には、お顔を思い出さない方もおられます。それって一体何なんだろうと思う。一方で、ごく親しい間柄でも年賀状を交換しない方が沢山います。退役後に親しくなった殆どの方とは、年賀状の交換をしておりません。しかしだからと言って、関係が拙くなるようなことは全くありません。実質的に何ら不具合は生じませんし、ましてや不利益を被ることなどありません。それでエエんではないかと思うのです。

    あっと、今思いつきました。SNSが発達してから懇意になった多く(殆ど)の友人とは、年賀状のやり取りをしてないですね。

     

    年末に届く喪中の挨拶を含め、年賀状が有する唯一の意味・意義を「生存確認」に見出しております。この一年間、実質的には残り10ヶ月程度ですかじっくり考えます。そう言いながら、一年があっという間に過ぎるのですが。。。。

     

    今年も正月から駄文を連ねました。さても、来年の年賀状に「以後、ゴメンナサイ」の一文がありましたら、それこそゴメンチャイです。そこんとこ、宜しく!

     

    【眦菁郢襪離フィシャル・サイト】

    http;//www.umihiro.jp

     

    博海堂

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    コメント
    コメントする