言葉の難しさ

2019.02.28 Thursday

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    過去のことになりますが、幸運に恵まれ、また多くの方々の協力を得て三冊の本を上梓・出版することができました。本当に有り難いことです。四冊目にトライするテーマはあるのですが、郷里で農園を本格的にやろうとしていることもあり、私にしては珍しく躊躇しております。素人が本を書くのには、結構体力が要るのです。その代わりにということではないのですが、二週間に一回、A4版に2〜3枚ほどグダグダと描いたブログを公開しております。ものを書くという作業を5〜6年続けておりますと、つくづく言葉(使い)の難しさを感じます。他愛もない内容でも他人様が目にしてくれると思うと、何回も何回も読み返して修正します。最低でも10回、状況によっては20回以上も自分で校閲をします。そして、誤字脱字は勿論のこと言葉遣いや言い回し、起承転結に照らし文脈から見た前後の入れ替えなどを試みます。それでもこの程度の文章ですから、私の知識や筆力は推して知るべしです。

    かかる作業は面倒ではあるのですが、何度も自分が書いた文章を読み返していくうちに、不思議なものでボンクラ頭が徐々に整理されてくる。何回かに分けて書き進めていくうちに、当初頭に描いたものとは違った方向に展開してしまい、タイトルを変更することもままあります。素人故の悲しさですね。

     

    言葉と言えば最近、大臣や国会議員、或いは著名な方の発言=失言が問題視されることが多い。昔からよくある話で有名税と割り切ればいいのかもしれませんが、今ほど加熱な報道はなかったような気がします。とりわけ大臣の発言になりますと、野党の恰好の餌食になり、あたかも鬼の首を取ったかのようにやれ職を辞せ、やれ総理の任命責任を問うなどなど喧しい。またこれがセンセーショナルに、繰り返し報道される。聞かされる多くの、良識ある国民はもうウンザリしています。もっと他にやるべき仕事があるんじゃないのか。誠に能天気で平和な、平和そうに見える国です。

     

    上記には、主体・客体を含めて何点か問題があると思う。

     

    まずは、発言(失言)する側の資質の問題。その人の能力もあるでしょうし、性格が災いすることもある。実は私も、時折上司や目上の人にため口を言うことがありました。その度に反省はするのですが、今もってその癖や性格は治りません。それが私の限界です(でした)。必ずしも本心から思っていないことを、つい口走ってしまうこともありますし、逆に心の中で思っていることが自然と口から出ることもあります。前者は、男の子が好意を抱いている女の児に、わざと嫌なことを言ったりからかったりする、そんな感じでしょうか。こういうひねた性格は、還暦を過ぎても変わりません。悲しいかな、人間ってのはなかなか成長しないもんです。

    自分がそんな性格ですから、失言する人のことがよく分かります。軽率ではあるのですが。しかし責任ある人の発言は重く、他に及ぼす影響も大きいですから、あの人はそういう人間なんだから許してやれ、大目に見てやれという訳にはいかない。行動ではなく口の問題ではありますが、それ相応のペナルティは覚悟しなければならない。昔から口は災いと言います。自己責任です。

     

    一方で、他人の失言を捉えて、ここぞとばかりに口をとんがらせて批判する人。そんな人、チョイチョイ目にします。こういう人は、どんなに貌(かお)のお造りが良くても、とてもとても、美しくなど見えたものではありません。陰でコソコソいうよりも、声に出して自分の考えを明確にする方が立派だと言う見方もあります。しかし、何事も程度と常識ってものがあります。票が命の政治家さんなどは、言うほどに票が離れて行ってるってことが分からないのでしょうか? 有権者(国民)はそれほど馬鹿じゃないですよ。特に多くの情報を持っていて、思考が柔軟な若い人たちは。

     

    最近つくづく嫌になるのは、第三者で客観的であるはずの報道、メディアの在り様です。とにかく、一つの単語(失言など)を捉えて議論を展開し発信する。製品を売るキャッチ・コピーみたいに。そして、どう見ても素人と思しき参会者が、寄ってたかって叩きまくる。責任のない人、責任を取らない・取れない人の放言ですよ。お笑いで終わればそれでいいのですが、こうなると言葉狩りと言うよりも陰湿な虐めに近い。例えば誰かが話の中で「アホ!」って言ったりすると、その言葉だけを捉えて世の中がひっくり返るように発信する。こういう、最近の報道の姿勢や手法は危ないし怖いですよ。単体の言葉は、必ず一つの状況下において大きな文脈の中で使われている。或いは多くを語ってはいなくても、心の中にある思いから出ているはずです。それ(報道など)を観た人・聞いた人・読んだ人で話の全体や大枠を知らない庶民は、報道されるままに「そうだよな」って思います。仮に話の中で(やや)不適切な表現があったにしても、その人が発信した全部を聴くと、それほどおかしいところはない(こともある)。おかしくないどころか、ごく当たり前で納得のいく正論を述べていることもあります。勿論、中には稚拙な表現があることも確かです。

    さりとて忙しい一般庶民が、いろんな人の意見や見解の全てについて、その細部まで把握するのは物理的に難しい。日々あくせく働いている人々に、それを求めるのも酷な話です。従って報道の使命は、国民に事実を正しく、そして分かり易く伝えることだと思うのですが・・・。残念ながら、最近では首をかしげることが多い。

     

    昔は新聞や本など、活字を読む人は知識人であり偉い人=正しい判断ができる人という感覚がありました。今日の大きな問題は、書かれたものの多くには(それは当然でもあるのですが)、書いた人のバイアスがかかっているということ。このバイアスというのはスパイスみたいなものです。言葉(発言)も同じですが、強烈であればあるほど痺れる。そして、この痺れは或る種の快感に転化します。従って、バイアスの利いた活字をよく読む人が、真っ当な判断をできるかというと必ずしもそうでもない。痺れているわけですから、偏った意見を聴き続ける、偏ったものを読み続けていると、むしろ逆の場合もあり得ます。人間ってのは、毎日毎日同じことを聴かされ、繰り返しある種の考えを吹き込まれると、最初はこの人の言うことはおかしいと思っていても、次第にそれが正しいと思うようになります。辛いものを辛いと感じなくなるのと同じ。感覚が麻痺するわけです。きつい言葉で言えば「洗脳」です。

    とりわけ、幼い時、或いは弱っている時や疲弊した時に受けた教育(洗脳)は、岩盤のように強固になっています。バリバリの何とか、って言いますよね。かく言う私自身も、考えが違う人からすれば同じように妥協を許さない、バリバリに見えているかもしれません。こうなったマインド(岩盤)を溶かすには、余程インパクトがある被害を被るとかがない限り、膨大な時間を要します。周りの人たちが、何とか方向転換させたいと思って手を尽くしても、一生溶けずに向こうまで持って行く人もいる。それでも他に影響がなければ個人の勝手でいいのですが、凝り固まった考えを発信して同志を増やそうとする人もいます。こうなると厄介で始末に負えない。

     

    言葉から何か妙な話になりました。これを要するに、いろんな情報が氾濫する今日では、我々一人一人がきちんとした物差しを持たなければいけないってことです。目盛がズレている物差しでは、何度測っても正しい値はでてきません。でもそれ(正しい物差しを持つこと)は、特段難しい話ではない。ごく普通の「人間らしさ」さえ持ち合わせている人は、正しい判断に資する物差しを持っています。難しい勉強などする必要はありません。ごくふつ〜で良いのです。なまじっか下手に勉強したことによって、ズレた目盛の物差しを持つこともあります。そうすると事の本質を見誤ります。

     

    今日の日本の大きな問題は、この普通で当たり前の人間の「こころ」を失いつつあることだと感じています。子供や動物など弱い者に向けられる暴力や虐めなど。ちょっとした失言に対する、理不尽で執拗な攻め・責めも同じです。このように、大人が幼児化し心が退化しているという現実があります。成長期に正しい物差しを持つことができなかった「こどな」に育てられる子供は、一体どんな「おとな」になるのか? 今日では、このような「こどな」が顕在化している。その原点は那辺にあるのか? それは、今次拙稿の主題ではありませんので言及しません。

    しかし、そんな「おとな」が、高学歴かつハイ・ソサエティであり、選良であるはずの政治家やメディアにも及んでいる。そんな気がしてなりません。

     

    今回は old sailor のボヤキに終始しました。許してたもれ!

     

    【眦菁郢襪離フィシャル・サイト】

    http;//www.umihiro.jp

     

    博海堂

     

    追伸 前々回の拙稿「ノルウェー紀行(後編)」末尾に掲載した写真は、エドワルド・ムンクの自画像でした。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

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