楢山節考再考

2019.03.14 Thursday

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    前回は言葉の難しさについて描いているつもりが、いつの間にかボヤキになってました。今回もそうなるような予感がします(笑)。

    今日の日本社会の風潮を憂えているのですが、言葉の暴力は手足を使った暴力と同じレベルの力があります。そして多くの場合、陰湿なだけにタチが悪い。一方で、と言うよりも更に、言葉の暴力どころか実際に手を出す、しかも我が子に手をかける親や大人が顕在化しています。

    顕在化と言いますのも、おそらくは今までも件数は少なかったにせよ、同じような事案・事件はあったと思います。しかし今日では、それが弱者、即ち抵抗できない老人や子供や障碍者、或いは動物などに向けられ、最悪の事態は命を奪うケースが頻発しています。これは凶悪犯罪です。千葉で小学4年生の女の子が自宅で亡くなり、両親が逮捕されたことによって一気に社会問題になりました。遅きに失したとの思いを強くすると同時に、識者の声や議論を聴いていて、何かピントがずれてるのではないかと感じています。

     

    それにしても、誇り高き日本人のモラルはいったいどこに行ったのだろう。昔、緒方拳主演の「楢山節考(ならやまぶしこう)」という映画がありました。とてもセンセーショナルな映画でした。極貧の村には掟があり、息子は老母を背負って山を登る。その老婆自身が、家族のために捨てられる自分を納得し望んでいる。捨てられる母と捨てる子、家族の悲しさと苦しみ、そんな中にあってお互いに通い合う人間のこころ。泣かされた記憶があります。早世しましたが、緒形拳は良い役者でした。

    翻って今日の我が国の現状、子供の虐待や殺人の実態をどのように理解すればいいのか。現在大きな問題になっている件(ケース)には、「楢山節考」に見られるような、家族間の心の交流や愛の形を見ることはできません。自分の子供を手にかけて恥じないどころか、人間の心(こころ)の欠片さえも感じられない。野生動物の生態においても、このようなケースは少ないのではないでしょうか。勿論、ごく一部の日本人なのではありますが・・・。なぜ、こんな社会になり下がったのか。なぜ、現代社会はこれほどに荒んだのか。なぜ、なぜ、なぜ・・・。前回のブログではこのような大人を、「こどな(小大人)」と表現しました。

     

    親と学校や児童相談所・警察など関係機関との関わり方、方法論としては多々あるでしょう。しかし、何か大きな視点が抜けているのではないか、との思いを禁じ得ません。議論の中で、人間が持つ(べき)「こころ」という視点がすっぽり抜けているような気がするのです。確かに「こころ」では抽象的です。しかし、そこをゴールとして位置づけないと、施行する法律や具体的な対策が単なる小手先の手段に終始し、ピント外れなものになるではないか。

     

    再度、考えてみたいと思うのです。なぜ、日本の社会はこうなったのかを。

    まずは、社会全体として子供に「こころ」の教育をしてこなかった。或いは、そのような視点が希薄になっているから、ではないのか。その大きな要因の一つとして、家族の形があると思う。現在、日本人家族の絶対多数が核家族、即ち二世代(親と子供)だけの家族構成です。母子家庭も多い。しかも両親は仕事に追われて、子供の躾けや情操を育む教育に時間をかけるゆとりがない。子供は子供で、塾や習いごとに追われる毎日。

    もう一つの視点は、日常の生活にお祖父さんやお祖母さんの存在がない。私どもの子育ては終わりましたが、私の家族も例外ではありませんでした。祖父母は今や、夏休みや冬休みなど年に数回・数日会いに行く存在、そういう人たちになりました。じぃちゃん・ばぁちゃんも「孫は来て良し帰って良し」で、ただ可愛いだけの存在になった。だから、久しぶりに会う孫に小言を言ったり、社会の様子や人間の在り方をそれとなく教えることは殆どありません。毎日傍にいることがないので、親と子のバッファーにもなり得ない。それでもまだ、孫と祖父母の間で心の交流があれば救われるのですが・・・。

    実の祖父母にしてそのような状態ですから、いわんや社会として子供を育てると言う視点は皆無に近い状態です。逆に下手によその子を叱ったりしようものなら、大概の親はお礼を言うどころか余計なお節介だと文句をつける。このような風潮下では、学校の先生や周囲の大人たちの腰は一様に引けたものになります。

     

    もう一点:手前味噌ではありますが、子供が土に触れることが少なくなった。畑や田んぼや公園でゴロンゴロン寝っ転がって、どろどろになった子供を見ることは殆どありません。人間(子供)は大地に触れることで、知らず知らずのうちに成長していきます。理屈ではありません。もしこれが、ただ遊ぶだけでなく植物、とりわけ野菜や果物を栽培するために土に触れれば、更には自分が育てた収穫物を食すれば、それは最高の教育であり将来の心の糧になります。大地や海や山林、これら自然は人間の肥やしでもあるのです。植物だけでなく、ペットなど動物を飼うことも同じような力を持っていると思う。要するに、動物だろうが植物だろうが、生き物に触れることによって子供の優しい「こころ」が育まれ、命の尊厳を理解できる大人に成長する。

    私の実家は昔貧しかったので、遠来のお客さんが久し振りに見えるとなると、飼っている鶏をシメて料理をしもてなすのが通例でした。幼かった私も、何回かシメに立ち会ったことがあります。そこで動物の血を見る。ああ人間ってのは、大変むごいことをするもんだ。他の生き物を犠牲にし、食して生きているんだ。勿論、そんな難しいことは分かりませんよ。しかし、理屈で分からなくても、他の「命を頂いている」ということを体感するわけです。

    牛は農耕の必需品(家畜)でしたが、副産物として子を産ませて売り何がしかの収入を得ます。ですから、私の家で飼っていたのは雌だけです。種付けに立ち会ったこともあります。ベコ(牛の子)が生まれると、農家はまず”あそこ”を見るんです。雌は高く売れますから。雌だろうが雄だろうが、母牛は子供が売られていく日が空気で分かるんですね。その日(子牛がセリに出される日)になると、朝から異様に啼きます。売られていった後は一日中啼いてます。母の大きな目には涙がいっぱい(のような気がしました)。子供心に可哀そうだな、人間は理不尽なことをするな〜と思いました。

     

    感傷にふけってる場合じゃないですね。

    日本の社会の形が徐々に、或いは急速に変わってきたことによって、人々の「こころ」も変化してきた。残念ながら良い方にではなく、徐々に荒み病んできた。戦後の日本・日本人は、お金(銭)と効率を追求して世界に冠たる経済大国に成長したが、何か大きな忘れ物をしてきているのではないか。GHQ(マッカーサー)の手によって、我が国が・日本人が骨抜きにされたのは間違いない。しかし、あれから3/四世紀が経とうとしている現在、もういい加減修正にかかって良いのではないか。

    顕在化する諸問題の水面下には、必ずその原因が隠れています。前回は敢えて言及しませんでしたが、今日、一部の日本人が人間性を見失っている大きな要因として「戦後の教育」がある。断言します。教育には家庭における教育、社会における教育などいろいろありますが、子供の将来に大きく影響するのは「学校(義務)教育」家庭における教育(躾けなど)です。学校は、単に算数や国語を教えるだけの場所ではない。

    教育については、言いたいことが山ほどありますが・・・。今ここ(教育)に手を付けないと、日本は取り返しがつかいないことになる。と言うよりも、既に取り返しがつかないことが頻発しています。将来に大きな禍根を残すのではないか、と危惧するものです。

     

    今回は自戒を込めて、かなり強い表現になりました。しかし単なる批判であれば、どこぞの先生(?)でもできる。一つからでも具体的に自分が何をできるのか、模索の日々が続いております。残り時間は少ないぞ(笑)

     

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