『ソロモンに散った聯合艦隊参謀』 余話 III

2019.08.15 Thursday

0

    去る8月3日(土)、郷里の東かがわ市交流プラザにおいて『樋端さんのこと』と題する講演を行いました。現在、東かがわ歴史民俗資料館に於いて開催されている「帝國海軍の至宝 樋端久利雄」特別展の一環として、東かがわ市が計画して下さったものです。主催者のご尽力により350人収容の会場はほぼ満席で、講師冥利に尽きる講演になりました。地元市民を始め高松や西讃(丸亀・観音寺方面)、或いは県外からも多くの方が駆けつけて下さり、いつになく私も力が入りました。金毘羅さんの参拝を兼ねて東京から来た、と言う人もおられました。有り難いことです。

    何といっても、戦死された樋端さんの遺児でご長男の樋端一雄さん(90歳)が、必ずしも体調万全でないところ本講演会のために京都から足を運んで下さり、冒頭で御父君への思いを述べられました。それによって、とても重厚で意義ある講演会になりました。あとで知人が教えてくれたのですが、涙ぐんでいるご夫人もおられた由。

     

    少し長くなりますが、以下は一時間講演の要旨です。

     

    まず最初に本日の講演では、事柄の性格上、専門(軍事)用語が頻繁に出てきますので理解が難しいと思います。できるだけ平易に語るよう努めますのでご容赦ください。 さて演題を「樋端さんのこと」としていますが、これは海軍の伝統によるものです。海軍ではどんなに高官(元帥や大将)であっても、退役した人は「〇〇さん」と呼びます。従って、本日は終始「樋端さん」と呼ばせて頂きます。

    私が初めて「樋端久利雄」という名前を知ったのは、昭和43年4月18日です。この日、母校(香川県立三本松高校)では、大先輩である毎日新聞社会長(当時)田中香苗さんの講演会が行われました。私は10日前に入学したばかりの一年生でしたが、田中さんの話(樋端さんのこと)を聞いて防衛大学校への進学を決意しました。この日は、奇しくも樋端さんがソロモン(ブーゲンビル)に散ってから数えて丁度25年目の日でした。不思議な縁(えにし)を感じます。

     

    帝國海軍の至宝はどれほど優秀であったか:

    樋端さんは、生まれてから39歳で戦死するまでの間、成績という成績において全て首席(一番)を通しました。当時、海軍兵学校は「一高(旧制第一高等学校)か海兵か」と言われる難関校でした。それを、中学4年修了(飛び級)で悠悠と合格です。

    江田島(海軍兵学校)に向かうに際し樋端さんは、半紙一枚に墨痕鮮やか、両親と長兄宛に「告辞」と題する決意の書を残しております。中でも、特に次の一節は秀逸です。

    ・・・将来ノ敵ハ先ズ海上ニオイテ雌雄ヲ決セントス 天ニ二日(にじつ)ナシ海ニニ覇アルベカラズ・・・

    これを現代語に訳すると、後段は「天に二つの太陽がないように、海に二つの覇権(海軍力)は存在し得ない」と言います。そして前段に帰って「従って近い将来、太平洋において日米両海軍が衝突する」と予言します。当時(大正9年:1920)、情報源は新聞程度しかない田舎の中学四年生(現在の高校一年生)が、真珠湾攻撃の20年以上前に日米開戦を看破している。樋端さんにはそれだけの先見性と歴史観があり、であるが故に海軍を志す、という国家観をも持っていたということです。

    しかもこの「海にニ覇あるべからず」は、現在の国際情勢においても生きている真理です。例えば東西の冷戦時代、太平洋では米第7艦隊+海上自衛隊とソ連太平洋艦隊が拮抗していました。ソ連はレーガン大統領が打ち上げた”600隻艦隊構想”に対抗して軍拡に走りますが、経済が疲弊して国そのものが無くなりました。冷戦の終焉です。現在はロシア(旧ソ連)海軍にとって代わって、中国海軍が勃興しつつあります。果たして二十年後の太平洋の力学は、どのようになっているのでしょうか? 本日は趣旨が違うので多くを語りませんが、我が国にとって死活的に重要な問題です。 

     

    樋端さんは海軍兵学校を首席で卒業します。卒業式のご名代は、伏見宮博恭殿下(海軍大将、軍事参議官)です。卒業式には、両親が讃岐から駆けつけ参列しています。恩賜の短剣を拝受する我が息子を、どれほど誇らしく感じたでしょうか。

    同期生の2割弱が入学試験を経て海軍大学校に進みますが、樋端さんはここも首席で卒業します。天皇陛下の行幸を仰ぎ、卒業式では軍刀(長剣)を下賜される栄に浴します。海軍兵学校・海軍大学校ともに首席で卒業(所謂、二冠を達成)したのは、帝國海軍76年の歴史でたったの二人しかおりません。

    昭和11年3月、樋端さんは恩賜の軍刀を引っ提げて故郷に凱旋し、母校(大川中学校)で講演をします。この時の記念(集合)写真が残っておりますが、彼はなぜか平服(背広)です。海軍大学校恩賜となれば、周りには将来の海軍大臣・軍令部総長と目され、本人の心情も”飛ぶ鳥落とす勢い”のはずです。彼が平服で帰郷したのは、本人のシャイな性格もあるでしょうが、要は「ほんまもん」は裃を付ける必要がない、即ち何ら自分を大きく見せる必要がない。従って、常に淡々としているということでしょう。

     

    その後、樋端さんは海軍省(霞が関)勤務となります。配置は軍務局第一課(員)。軍務局は海軍省の筆頭局、第一課はその筆頭課です。この時に一緒に勤務した東大出の書記官が、戦後述懐して曰く:

    ・・・軍人はバカと石頭の集団とばかり思っていたが、樋端中佐が起案する文書は完璧で文句のつけようがない。質問に対する説明は丁寧で、しかも軍事専門家として理路整然としている。それでいて謙虚でおごり高ぶるところは微塵もない。これが本当の海軍の秀才かと頭が下がる思いがした。・・・

    斯様に樋端さんは、人格識見ともに兼ね備えた稀有な人材でしたが、私は彼を天才と呼ぶのには違和感があります。即ち、彼は努力の人でもあった。中学時代には、学校への登下校時に歩きながら本を読む。家に帰ると農作業が待っている。その合間に、庭の柿の木に登って英語を暗唱する。なぜか? 木に登って勉強すると、居眠りをすると落下するので自然と集中できるから。夜は油代が勿体ないので、遅くまでは勉強できない。後年、本人が当時を振り返って「あの頃はまさに蛍の光・窓の雪の世界だった」と。

     

    海軍大学校の学生時代、樋端さんは空母の運用について提案します。当時、教官の一人に小澤治三郎大佐(最後の聯合艦隊司令長官、中将)がいました。後年、空母運用の第一人者と言われた提督です。彼は「空母の使い方(作戦)については樋端に教えて貰った」と述懐しています。

    もう御一方、大西瀧治郎中将。この人は特攻の生みの親と言われ、多くの若い命を死に至らしめたと責任を感じて、終戦時に自決した人です。大西さんは山本(五十六)さんと同じように航空機推進派ですが、彼の空母+航空機作戦の理論的な裏付けは樋端さんがやった。樋端さんが大西さんに直接仕えたことはないのですが、大西さんの陰の参謀と言われています。

    更に、このときの樋端さんの発想は、現在、世界第一級の米海軍が採用している空母打撃任務群の原型と言えます。私には、今封切中の映画「アルキメデスの大戦」の主人公(菅田将暉が演じる東大出の天才数学者:海軍技術少佐)と樋端さんがピッタリ重なります。勿論、樋端さんはバリバリの兵科将校ではありますが。

     

    支那事変における飛行長としての戦績:略

     

    聯合艦隊航空参謀:

    昭和17年11月20日付、樋端さんは聯合艦隊航空甲参謀に補されます。司令長官は山本(五十六)さん。この人事には、山本さんの強い引きがあったと推察しております。理由を挙げて説明します。

    1.樋端さんの岳父(井上繁則)は、山本さんと海軍兵学校の同期(32期)です。山本さんは井上さんに「貴様の婿を借りるぞ」と事前に仁義を切ります。この仁義は「自分はいずれ逝く。婿さんについても(戦死を)覚悟してくれ」と言う意味です。井上さんは「こういうご時世だ。覚悟はできている」と応じています。

    2.樋端さんの聯合艦隊航空参謀への補職は二回目であり、私の経験からして、これは通常あり得ない人事です。即ち、同じ配置(航空参謀)で、しかも自分より序列後任の者の後を襲うと言うことは、ある意味降任・降格に等しいからです。従って、山本さんにとっては「樋端でなくてはならなかった」ということ、即ち余人を持って代え難しの人事です。次の作戦参謀へ、という含みがあったと考えます。

    3.山本さんの国葬が終わって数日後、山本禮子夫人が樋端邸を弔問して千代夫人に「大切な人を道連れにして申し訳ありません」と詫びました。禮子夫人は戦後(昭和37年)も、樋端家に弔意を表しています。この年、練習艦隊が初めて赤道を南下するとの情報を得た禮子夫人は、出港準備中の練習艦隊を訪れて「これは樋端航空参謀への追悼文です」「ブーゲンビル島の近傍を通過する際に海に投げ入れて下さいませんか」と白い封筒を艦長に託しました。これ即ち、山本さんは生前、自分の参謀として樋端さんを引っ張ることを、しばしば禮子夫人に話していたのは間違いないでしょう。

     

    ではなぜ、山本さんは樋端久利雄に白羽の矢をたてたのか? 一言で言えば樋端さんは「山本さん好み」だった。具体的には:

    1.聯合艦隊は既にじり貧の状態にあり、戦勢を回復するためにエースを登板させた。

    2.地球儀で国際情勢を判断する・できる山本さんは、遠からず日本は負けると思っていた。従って、聯合艦隊の後始末のため、もう一歩踏み込んで言えば、海軍の敗戦処理のために樋端さんをもってきた。 

    というのが私の推理です。

    そして、昭和18年4月18日、山本さんが岳父井上さんに告げたことが現実のものになります。

     

    前々回のブログ『海軍と日本』関連:

    歴史にif(もしも)は通じないが、もし樋端さんが生き残って戦後の復興にどれほど貢献されたかと思うと、歯ぎしりする思いです。そして樋端さんと南原さん(元東大総長)、同郷の二人が対談したなら・・・東讃(旧制大川中学)が生んだ不世出の二つの知性、類まれな二つの頭脳が膝を交えた時、どのような話の展開になるのだろうか? 

    最近、そんなことを思います。

     

    【眦菁郢襪離フィシャル・サイト】

    http;//www.umihiro.jp

     

    博海堂

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    コメント
    コメントする