顔と年輪

2019.09.26 Thursday

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    何回か堅い話が続いたので、今回は軟らかく纏めたいな。

    歳を取ったせいか最近、人間の顔についてよく思いを致します。自分の顔のみならず、失礼ながら他人様の顔もやたら気になるのです。甚だ嫌な性格ですが、ご容赦願います。

     

    小学生の時「人間、四十(歳)になったら自分の顔に責任を持て」と誰かが言ってました。そう言った人も小学生だったので、随分ませた小学生だね。山の分校の教育レベルはかくも高かったのです(笑)。当時は、40(歳)の自分を想像することなどできませんので、その意味するところが那辺にあるのかさっぱり分かりませんでした。しかし今にして思えば言い得て妙であり、とても重い言葉です。だからということではないのですが、柱に掛けたり机の上に置いたり、姿見を含め家の中には大小何個もの鏡を設置してあります。そして折に触れて、自分を映して観ます(観察です)。なかなかエエ男やん、なんてことは思いませんよ(笑)。ともあれ、今日のように正確に顔を映す鏡を発見したのは何処の何方でしょうか? 素晴らしいですね。一日に何回も鏡(自分の顔や体)を見るのは、その日の健康状態を把握することもありますが、それよりも鏡に映る自分の顔を見て「心を観る」ことの方が大きい。何故かと言いますと、瞳や表情で今思っていることや感情など、自分の腹の中が見えるんです。謂わば、精密精巧な「内視鏡」だな。残念ながら、腫瘍や癌細胞を直接見ることはできません。いずれ発明されるでしょうが、そこまで行ったらノーベル賞もんだ。

     

    腹が立って我慢できない時、本当に苦しい時、辛くてどうしょうもない時、それを外に吐き出したりお腹にため込んだりする前に、先ずは鏡を見ることをお勧めします。時には鬼と対面したりしますが、少しは気が休まる(こともある)。私は冗談で「俺の腹を切ってごらん。ヘドロで真っ黒だから」とよく言います。そう言うと大概の人は「いいえ、そんなことありませんよ」と応じてくれます。逆説的な「うけ」を狙ってるわけですが、そんなことを言うこと自体が腹黒い証拠ですよね。

     

    話を元に戻して、人間も動物も同じですが、赤ちゃんの頃はみな可愛い。特に目が愛くるしい。穢れというものを全く知らない、真っ白な状態ですもの。これに仕草が加わるので、可愛いさが二倍三倍になる。人間は誰もがそうだったんだよな。なんでこうなったんだろう。そして、思春期から青年期になると、女性も男性もみ〜んな美しくなります。WHY? 人間の生理のことは専門外なのでよく分かりませんが、種の保存のために自然とそうなるのかな・・・? しかし問題はそこからです。今は皆さんお若いので、おそらく四十〜四十五歳を過ぎる頃から、体とともにお顔の劣化も確認できるようになります。おそらく二十五〜三十歳頃をピークにして徐々に下り坂にあるのでしょうが、自他ともに認めることができるのは四十歳頃からではないでしょうか。それで、特に紅組(女性陣)は何とかこの現象を食い止めようと、涙ぐましい努力をすることになります。今時は白組も同じかもしれません。斯く言う私も、貧乏ですからお金は使いませんが、毎日の筋トレを欠かさず、食するものもそれなりに気を遣います。これも傍から見ると、涙ぐましい努力に見えるかもしれません。「無駄な抵抗」って天の声が聞こえそうです。本人はいたって真面目で、かつ楽しんでいるのですが(笑)

       

    しかし、捨てる神あれば拾う神あり。世の中は大層良くできております。顔には年輪という強い味方が存在するのです。この年輪に比べると、青年期の美しさなんかはノッペラボウみたいなもんです。ただ問題は、年輪には人それぞれの生き様が出るってこと。これを、瞳や表情から読み取ることができます。ひとつ厄介なのは、年輪にはつける薬も化粧品もないってことです。なんぼ塗っても隠すことはできません。唯一(一時的に)隠すことができる手段は、マスクとかサングラスなどでしょうか。物理的に覆うしかない。でもね実は特効薬があるんですよ。お金はかかりません。しかし、簡単なようでとても難しい。

    その人の内面、即ちお腹を綺麗にすることです。宿便を出し切るってことではないですよ(笑)。それも大事なことではあるのですが、そんな些末なことではありません。その人の生き方・生き様や、ものの考え方の問題です。これが年輪として、自然と顔に現れる。

     

    例えば年がら年中、周りの人や世の中の出来事や、果てはテレビ・ドラマの筋書きにさえ文句を言っている人。そういう人って結構います。これ即ち、他人様や森羅万象に感謝するということを忘れている人は、それが明確に顔に出てきます。逆の場合も然りです。長年に亘って、心の在り様を「感謝」ベースに置いている人と「不満」を中心に生きている人では、瞳が全く違ってきます。当然ではありますが、お顔の造作や経済力(貧富)や社会的な地位とは全く関係ありません。生まれながらにしてお造りがとてもよくできている人、或いはどんなに大金持ちの人でも、日々(大変失礼な言い方ですが)卑しい生き方をしている人は、間違いなく相応のものが顔に出ます。卑しいとは言えないかもしれませんが、他人様を批判してなんぼの人、或いは仕事として他を批判する人など、気の毒だなと思います。ホンマに。出発点はそうでなかったにしても、そんなことを日々繰り返していると、発信していることが自分の真実(本気)になり、そしてその人の年輪になるわけですから。

    別の視点から:どんな人の人生にも、大なり小なり苦労や苦難があります。その過程で、中には修羅場をくぐることを余儀なくされる人もいる。しかし、過去の航路で修羅場があったか無かったかではなく、それを如何にして乗り越えてきたか、我が身に降りかかる困難をどのように捉えて、どのように生きてきたかによって年輪の出方が違ってくる。しかもこの年輪は、絶対に隠すことができません。言葉では上手く繕えたと思っても、瞳が勝手にモノを言うので隠しようがない。

     

    「四十を過ぎたら自分の顔に責任を持て」の意味は、そう言うことだと思うのです。同じように貧しい境遇にあっても、卑しく生きるか清貧を貫くかで人の顔は全く違ってくると思う。そして歳を取ればとるほど、その違いが歴然としてくる。何事も蓄積ですから。最近では一般に長生きになったので、多くの人が美しく老いたいと願っています。それは多分、それほど難しいことではない(のかもしれない)。現在、私の友人知己は同年配か少し年上又は年下の方が多いのですが、その多くの方が美しい顔をしておられます。美しいと言うのはイケメンとか美人さんという意味ではなく、「涼しい」という表現が適切かもしれません。仮に過去にご苦労があったにしても、そういう人は自分自身の力で、誠実で良い人生を送ってこられたんだな〜と思います。

     

    母の口癖は「まぁまぁ、悪い中に良かった」、即ち「不幸中の幸い」です。嫌なことや辛いこと苦しいことなどが身に降りかかった時、必ずこの言葉が口から出ます。この言葉で九十三歳は今も元気です。願わくば私もそうありたいと思うが、先ずは宿便をなくそう。だめだこりゃ(笑) 汚くまとめて申し訳ありません。

     

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    追伸 ケチと始末(倹約)、指導と虐め、厳しさと優しさ、これらの分岐点に何がある? 「こ・こ・ろ」

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

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