一方で、自衛官の靖國神社参拝が物議をかもしています。ただ、騒いでいるのは内外の、一部のマスコミのようです。そりゃそうでしょう。常識ある人は、何が問題なのかが理解できないと思う。戦後間もない頃には、島倉千代子さんの歌にも出てくる「?國」であり「九段」です。?國神社と聞いただけで条件反射の如く、やれ戦前への回帰だとか軍国主義の復活だと煽る。マスコミなどが騒ぐことによって、徐々に国民の脳味噌に刷り込まれていきます。先ずは国内で騒いで、(結果的にせよ)近隣諸国にご注進する。これを受けた国が外交問題に発展させる。という、いつもの流れです。デザインが旭日旗に似ているというだけで大騒ぎする隣国ならいざ知らず、如何に主義主張が自由であるとはいえ、現在なされている国内の議論には疑問を感じます。
そう言えば、海上自衛隊の哨戒機(P3C) に対する射撃管制用(FC)レーダー照射問題も、いつの間にかうやむやになってしまっている。FC レーダーの照射は、明確な軍事的敵対行動と見做されます。従って、仮に何らかの錯誤によって電磁波が出た場合であっても、本来ゴメンナサイで済む問題ではない。徴兵制を敷き常に臨戦態勢にある K 国が、そんなことを知らないわけがない。日本側が証拠を突きつけて抗議しても、知らぬ存ぜぬでホッカムリをしたままだ。あの国(日本)には何を言っても、何をやっても大丈夫。自ら足枷を張り巡らし、しかも政府(政治家)も役所(官僚)も腰抜けばかりだから、此方が強気に出れば必ず引く、と思われている。残念ながらこの国は、そう思われても仕方がない実績(失政)を半世紀以上も重ねてきた。
記者会見でご自身の靖国参拝を問われた石原さん(都知事)が、「何処の国の新聞だ!」と記者を一喝する動画(YOUTUBE)が残っていますが、ことは自衛官20万人の士気に関わる問題です。いい加減に(決着)してもらいたいが、残念ながら期待はできそうにもない。この国のことです。おそらくは敗戦から百年経っても、営々と不毛の議論を重ね、何ら伸展していないような気がする。しかしそれも、日本と言う国が存在しておれば・・・の話です。絶対多数の国民は「国が亡くなる」なんて夢にも思ってないでしょうが、世界史にはいくらでもある話です。
先ずは、国家と国民の護りに就いている自衛官に、軍人としての位置づけのみならず、処遇も名誉も与えず、任務や役割、そして仕事の結果には諸外国の軍人と同等のものを求める。と言うのは筋が通らない。かつて吉田茂(首相)さんが防衛大学校の1期生に「諸君がもてはやされない時代こそ、この国が平和なのだ」なる旨の話をされたと仄聞する。我々も先輩から自虐的に、そのような意味のことを伝承で教わった。しかしそれは、防大の草創期、或いは自衛隊の建設期であれば通じた話です。あれから半世紀以上が経ち、これほど内外の情勢が不安定な今日にあって、自衛隊には訓練ではない、命を懸ける実任務が与えられている。そんな情勢下で「(平和なん)だから我慢してくれ」は全く説得力がないし、よしんば頭では理解しても隊員の心には響かない。
現役自衛官の?國神社参拝を指摘された防衛省・自衛隊も、「公務ではなく休みを取って、或いは休み時間に・・・」「公人ではなく、個人の意志で・・・」などと言い訳がましい。遂には、公用車の使用が不適切とかの理由を付けて、当該隊員に懲戒処分を食らわせてお茶を濁す。嘘ではないが、詭弁であるのは明らか。誰に遠慮をして、ピシャリと正論を言えないのか。省内の官僚のみならず、制服自衛官上層部の多くも「余計なことをしてくれて、仕事が増える」と内心は思っている・・・かもしれん。これを、制服の官僚化と言う。先の大戦はそれで敗けた、と言っても過言ではない。
東郷神社や明治神宮はよくて、なぜ?國はダメなのか? 東郷(平八郎)さんも明治天皇も、戦犯に問われなかったからか? お伊勢さんや鹿島神宮、出雲はよくて、なぜ?國はダメなのか? 戦勝国が勝手に「A 級戦犯」などとレッテルを張った、軍人等が祀られているからか? A 級戦犯を合祀から外せ、という意見もある。身を切って実を取れということかもしれないが、姑息な手段であり稚拙な戦術に過ぎない。到底、相手の戦略には敵わない。仮に外しても、言う人は言うし、言いたい国は言う。しかしそもそも、この A 級戦犯ってなんなの?
次官通達に抵触すると言う論調もあったが、要は、本件に対する日本国(政府)の姿勢の問題です。勿論、規則や規範の良し悪し(内容)は横においても、規律違反は軍隊の根幹に関わる。よって自衛官は、仮に悪法であっても遵守しなければならない。しかし法律や規則は憲法と同じで、時代や情勢に応じて、適時に見直しをすべきである。そこを逃げていると、結局、しわ寄せは国民や現場に行くことになる。
と言いつつも、私自身は現役の時も退役後も、靖國神社にはさほど参拝していない。参拝するにしても、旧軍に似せた出で立ちの人が来るような時機(日にちと時間)は避ける。失礼だが、気持ちの上で一緒にされたくないから。だから、特に記憶に残っている参拝は生涯で2回しかない。
1回目は防衛大学校の学生(4年生)のとき:昭和49年12月8日の未明、浦賀駅から始発の電車に乗った。制服の上には外套を纏った。最上級生と言えども、時間外の外出には届が必要だ。幸いこの日は日曜だったので、特段の横やりや問題もなく校外に出ることが出来た。勿論、早朝外出の申請はしている。同室の腹心の3年生が、目をこすりながら見送ってくれた。制服が効いたのか、神社は若造を丁重に扱ってくれた。お茶もいただいたと記憶する。帰りの電車(京浜急行の下り)で、一人の先輩(一年生の時の4年生)に遭遇した。日曜早朝の下り電車ということもあり、車両(箱)の乗客は我々二人だけだった。当時彼は艦隊の旗艦に乗り組んでおり、私にとっては眩しい、溌溂とした青年士官だった。「?國神社に行ってきました」と告げると、照れ隠しだったのか「君は偉いな〜」と褒められた。憧れの先輩は朝帰りの風情でした。
2回目は海上部隊の中間指揮官のとき:限りなく実戦に近い訓練(検閲)に備えて、徹底的に部隊と自分自身を鍛え上げ、出撃前の休日に参拝した。幕僚(スタッフ)や副官にも告げず、一人で九段まで足を延ばした。本来、指揮官が所在不明になるのは許されないことだ。勿論、移動には電車を利用し私費で行った。私服による通常の参拝なので、本殿には上がっていない。その必要性も感じなかった。部下を帯同しなかったのは、問題が起きて迷惑を掛けてはいけない、と言う些末な理由よりも、戦闘に赴く一人の指揮官として、心静かに先人と対峙したかった。
二回とも、参拝に特段の理由はない。参拝がなんちゃらかんたら言う、正直、その意味が小生にはよく理解できない。敢えて言うなら、先人に裸の自分をお見せして、ご加護を願ったのは確かだが、「私の血がそうさせた」が最も正鵠を射ている。祝祭日や節目の日には、玄関に国旗を掲げるのと同じ。「なんで国旗を揚げるのか?」と問われても、「私の国家観です」と応えるしか術がない。キザに言えば、私の身体に宿る文化と言えるかもしれない。普通の国(諸外国)では、普通に国民に根付いていることだ。衆参両院議員会館、何人の議員さんのオフィスに国旗を見ることができるだろうか? 国旗の有無は、国家・国民に対する忠誠心を測る指標になる。
勿論、上記二回の参拝とも、決行の前には自分なりに検討を重ねている。初詣の様に、単なる思い付きで参拝したのではない。ややこしい問題がある、即ち、自衛官の参拝を問題視する、人や国が存在するのは承知している。しかし仮に、私の行動を批判されても、或いは難癖を付けられても、今もって自分に恥じることはない。
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13年前の3.11(金)2030頃、自衛艦隊司令部に移動する車窓から観た宵闇の横須賀は、猫一匹見当たらず静まり返っていた。映画で観るゴーストタウンのような、初めて経験する街、第二の故郷・横須賀だった。ここ数年間(当時)にわたって心配していたことが、現実となって目の前に広がっている。一刻を争う命令は既に口頭で発出しているが、今後、全軍に布告すべき「指揮官としての情勢判断」や「細部に亘る作戦要領」などが頭を巡る。
大正12年(1923)の関東大震災、戒厳令が敷かれた横須賀もかくの如しであったか。いやいや、東京、横浜に次ぐ大被災地であった横須賀の街並みは、震度5弱の今回とは比較にもならない、さながら地獄絵であったろう。頼みとする聯合艦隊は旅順を緊急出港し、最大戦速で大平洋を駆けているが、東京湾に入って救援活動を開始するまでには今しばらく時間を要する。今日の様に大型スクリーンで、部隊や現地の状況がつぶさにわかる指揮システムなどない。鎮守府の建屋が崩壊したため、横須賀鎮守府司令長官は庭にテントを張り、地図と海図を持って指揮を執った。そして、横須賀・三浦地区の戒厳司令官に任じつつ、市民の救済・救援に当たった。加えて、復興作業に向けた木材の買い付けまでやった。
市内全域が停電となり、交通信号に灯はないが、行き交う車もない。たった10分ほどの移動であったが、不気味な静寂を眺めつつ、時の鎮守府司令長官に思いを致し、そして我が身を重ねる。「しっかりせい!」と自らを鼓舞した。
一国(或いは二国)が戦争に至るには、通常、外交を含めた内外情勢に大きな変化があり、張り巡らしたアンテナ(情報網)に引っ掛かる、何らかの兆候を事前に察知することが出来る。従って、攻撃する方もされる側も、寝耳に水的な咄嗟攻撃(sudden attack)の事態は考え難い。しかし地震だけは、前もって知ることができない。能登の場合も、発生した後に「前兆があった」と専門家は言うが、ならば何故、発生の前に注意喚起しないのか。失礼ではあるが、後知恵ではないかと疑ってしまう。人間の叡智、総力を挙げた今日の科学を持ってしても、直前(1〜2秒前)に「大きな揺れがくるぞ〜!」の予告があるだけ。しかも、日本全国どこで発生するか誰も分からない。その規模はまさに出たとこ勝負。起きてみないと分からない、のが実態である。我々は誠に悩ましい国に住んでいるが、これからもこの国で生きていく以上、残念ながらこれを逃れることはできない。
ということを前提にして、では我々一般国民には何ができるのか、具体的にどんな備えをすればいいのか?
東日本大震災における津波では、ひとつの例として、この地方(三陸)に伝わる「とにかく高台を目指せ!」で九死に一生を得た人もいる。先ずは、長年にわたる、地方の伝承を丹念に拾い集めること。伝承の中には、現在の社会や生活環境からは乖離しており、陳腐化した教えもあるだろう。しかし、単純にアナログで思考するのが賢明である。先人が遺した言葉には、積年によって得られた教訓と切実な思いが込められている。私は講演や講義で、「年に一回でいいから、一日24時間、ライフライン(電気、水道、ガス)+通信機器(スマホ、タブレットなど)が使えない状況を作為する、即ち手軽な防災訓練を行う」ことを提唱している。2回目、3回目の訓練では、より困難な状況を作為し、住んでいる家など建物が崩壊して使えないことを想定する。さすれば、「何を準備すればいいのか、が自ずと見えてくる」
準備することは、個人や家庭によって違うはずだ。家の位置や大きさ、室内の模様、家族構成とか、或いは仕事場とか、いろいろな条件(ファクター)が個人個人、家庭家庭によって異なる。従って、自分(たち)に合った準備が必要となる。とにかく、ライフラインが途絶したことを想定して、24時間を生きてみること。準備することや物は季節によっても異なるので、訓練をやる時期は真夏とか厳冬、即ち最も厳しい季節がいい。
先般、或るテレビ番組で専門家が、「食糧は特段の準備をしなくても、実は各家庭には皆さん一週間程度の備蓄があります。即ち、冷蔵庫にはその程度の食糧が保存されており、BBQ(焼いて)でそれを食べればいい」などと言っていた。一見ナルホドと思えるが、一例とは言えとても安易な発想だ。そのためには家が崩壊しておらず、ライフラインも生きている、とても軽微な被害が前提となる。従って、大災害の被災地ではおよそ適用できない。
かと言って、狭い家に大量の食糧を備蓄・保管しても、緊急時に取り出すのは困難だろう。従って、当面は三日分の食料を Backpac(リュックサック)に詰めて、枕元など直ぐに持ち出せる所に置いておく。三日間を自力で何とか凌げば、現在の国や自治体、自衛隊の体制・態勢であれば、その間に必ず救援が来る。十分とは言えなくても、生きるための食糧は届く。何の権限もない老兵(Old Sailor)の言葉ではあるが、信用してくれていい。
冒頭に述べた石巻の幼稚園は、電線を超える津波に襲われたが、流れ出て波間に浮かぶ一斗缶の乾パンを拾い寄せ、それを食して、氷点下の一夜を屋根の上で凌いだと言う。危機に直面した先生の機転に負うところ大であるが、生き延びるためには、最低限の食糧と飲料水の備蓄が必須要件であることを教えてくれている。
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小生の郷里讃岐は風光明媚で、年間を通じて気候は温暖、誠にゆったりとした空気が流れています。人間は生まれ育った、或いは生活している土地の空気や環境、特に気候風土に大きな影響を受けます。私はかつて海の男だったのでよく分かるのですが、太平洋の波と瀬戸内海の波(の荒さ・穏やかさ)は桁違いに違います。内海とはよく言ったもので、太平洋に比べると瀬戸内海は湖みたいなものです。
そこで小生の仮説ですが、何事にもゆったりした讃岐から坂本龍馬は生まれないし、もし彼が讃岐に生まれ讃岐で育っていたなら、あのような生涯は送らなかったと思う。勿論これは、偏見に満ちた仮説かつ一般論ですが、自虐しているのではなく、況や郷里を貶めようとしているのではありません。当然のことながら、讃岐・香川にも立派な方が大勢いらっしゃいます。因みに、総理大臣はお一人(大平正芳さん)、東京大学総長もお一人(南原繁さん)出ておられます。しかし残念ながら、帝國陸海軍・自衛隊を含め大将は一人も輩出しておりません。明治維新において官軍に与しなかったためか、或いは歴史的に尚武の地ではない、と言うことでしょうか。
何が言いたいのかというと、ひとつの例として、土佐(高知)と讃岐(香川)では防災に関する感覚=危機感に大きな差がある(あった)、と言うことです。何年か前ですが、上記の同僚先生(と言うのはおこがましいが)に紹介されて、高知で開催された防災学会に参加したことがあります。そこでは何組かの地元の人が、地域の防災計画について紹介されました。或る地域の方が、「私たちが住んでいる村は、宮城県の○○湾に似ている」と言って、(近い将来に生起するであろう)南海トラフ大地震を真剣にとらえ、その対策を思考していました。東日本大震災を「明日は我が身」として認識し、南海トラフに備えようとしている姿に驚きました。3.11の救援活動に関わった私は、或る種の感動さえ覚えました。
翻って我が郷里を概観すると、この高知県民の様な捉え方をして、大災害に備えようとしている地元民は、当時はほとんどいなかった。多くの県民にとって大災害は他人事でした。但し、数年前の小生の感覚です。念のため。いたずらに脅威を煽るわけではないのですが、元旦の能登半島大地震が示すように、もう何時・どこで大災害(震災)が起きるか、正直誰にも分らない。私など学識がないので見当も尽きません。でも40年間、洋上の危機の中で生きてきたので、経験に裏打ちされた直感は働くのです。神様は実に冷酷な一面をお持ちです。
話を元に戻します。AEON 綾川では持ち時間が30分しかなかったので、また主催者の趣旨からも外れると思い、上記のような過激な発言はしませんでした。トークショーだけではなく、広場の一角では、防災に関する相談受付や備蓄品の説明コーナーなどもありました。ゲスト・スピーカー(小生)写真入りのチラシや、地元新聞を通じたイベント情報の告知、更には FM ラジオによるお知らせなど、主催者側はあの手この手で広報に尽力されたようです。しかし残念ながら、視聴者は午前・午後(昼食をはさんで二回実施)とも20人程度でした。この20人には、どこからか聞きつけた小生の知人や親戚筋も含まれているので、実質的には各回15人(計30人)程度の方が関心を持って参加された、と言うのが実態でしょう。因みに、知人・友人や親せきには何方にもお知らせしてなかったので、その多くは新聞を観て来られたようでした。今なお丹念に新聞を観ておられる人がいることに、正直驚きました。各ブースには買い物客の立ち寄りなど、一日ではかなりの人数が訪れていたと拝察します。
そして、上から目線で恐縮ですが、数年前に比べると、県当局も県民もかなり意識が変わってきているな、と感じました。
肝心の小生の話(トーク)ですが、時間が限られているので、東日本大震災の写真4〜5枚を用いて、大震災(津波被害)の実相や実態について、私の経験やそこから得られる教訓などをお話しました。講演ではないので、FM 香川専属のパーソナリティ(市川智子さん)のご質問に、私が応える形で進行されました。過去にも何回かラジオ番組に呼ばれたことがありますが、MC さんは皆さん、流石に語りのプロですね。たった数分の事前打ち合わせで、ゲスト(小生)が応え易いように、とても上手に誘導してくれます。今回も小生は、市川さんが手にするお茶碗の(中の)サイコロのように、汗をかきながらコロコロ転がってるだけでした。FM 香川の営業兼ねてスタッフさん(偶然にも高校の後輩君でした)がソデで示してくれる、「終了○○分前」の表示に気づくこともなく、持ち時間の30分があっという間に過ぎました。
そんな感じで、今回は草の根的なイベントではありましたが、小生が抱く(学術的な理論に全く裏打ちされていない)直感の危機感を、一人でも二人でも郷里の人たちが共有して下されば、本イベントの意義はあったと思います。企画から実施までご尽力下さった関係各位、参加された県民・市民の皆様、本当に有り難うございました。お疲れさまでした。
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PS 事前確認の為、綾川 AEON の会場に足を運んだ時、一人の中年男性が小生の前にツツっと進み出てこられて直立、ピシッと美しく厳正な敬礼をしてくれました。そして「私は陸上自衛隊 OB の○○○○ であります!」と、現役に優るとも劣らない、素晴らしい申告をして下さった。案内してくれた FM 香川の関係者も、びっくりしてました。AEON の警備に当たっておられるようでした。何十年ぶりかで、『男たちの旅路』の鶴田浩二さんを思い出した。能天気に生きている小生は、予想もしなかった事態に一瞬面食らったのですが、とても有り難くて感激し、清々しい気持ちで深く頭を下げました。
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近頃の自分の癖を顧みると、嫌な性格であることが自分でも分かります。特に若い子や女性には、嫌われる(既に嫌われている)と思います。例えば、食卓にせよ仕事の机にせよ、卓上に置かれたものは卓・机の縁(ふち)と平行、若しくは直角でないと気に入らない。下着など衣類はそれなりに畳んであって、棚に整理して置かれてある(べき)。朝起きて、畳んであった服に袖を通すのと、昨夜脱ぎ捨てた服を着るのでは、着る時の気持ちに大きな違いがあります。朝一でキチンとたたまれた服を着る時の爽快感、何に例えればいいのか、ボキャ貧の小生には紡ぐ言葉がありませんが、 敢えて言えば、口にすると精神(心)がシャキッとする、夜明けのコーヒーみたいなものでしょうか。ただ、これらは自分一人で完結する、そして他人様に迷惑は掛からないので特段の問題はない。
しかし例えば、調理用の IH ヒーターには、大概丸い輪っかが何個か描いてあります。鍋などを乗せて加熱・温める時、鍋底がこの輪っかにキチンと均等に乗ってないと気が済まない。これには私なりに正当な理由があって、それは単に熱効率の問題です。なんせ貧しく育ったもんで、電気の消費が勿体ない、と思う。これを繰り返していると、ただ置いてあるだけ、即ち温めてない時であっても、均等に乗ってないと何となく気になる。そして置き直す。こうなると、もう病気の域に入ってます。他人がやったことに手を加えると、間違いなく嫌みに取られるよね。でも、ちょっと言い訳すると、これらは私の性癖や性格ではなく、職業病とも言えます。テレビなどで時々紹介されます、自衛隊のベッドメイキングが。あの辺りが原点のような気がする。
とは言え、中学生や高校生の時には、制服のズボン(パンツ)は自分で洗濯し、母親の手を煩わすことはなかった。だから防衛大学校に進んでも、洗濯・アイロンなんかは得意だったので、何ら戸惑うことはなく、苦労とも思わなかった。
几帳面な一面はあるが、何事についてもキチンキチンとこなす、律儀な人間ではありません。むしろ、仕事は溜める方です。特に厄介な事案については。現役時、大概はお上が能力以上の仕事をくれたので、勢い仕事が後手になりがちでした。その癖は未だに治らず、面倒なことは後回しになります(します)。例えばおひとり社長の業務で、処理がやや面倒な年末調整とか確定申告など。会社を建てて10年近くになるので、手順は分かっており、その気になって集中すれば短時日で完了するのですが、尻に火が付かないと本気にならない。悪い癖です。
若い頃、先輩が「拙速優遅」という言葉を教えてくれました。「出来がまずくても速いのは、遅くて出来が良いのに勝る」という意味です。勿論、この考え方は何事にも通じるものではありません。事柄によっては、逆の場合もある。ケースバイケースです。落合打法(引き付けて打つ)をやっても、空振り三振したらバカって言われるだけ。拙速が良いのは、修正が利くってことです。時限がある軽易な仕事は、拙速がいいと思う。一方戦術や戦略に関わることは、腹を据えて思考するのが宜しい。それでも時限はありますが。
65歳になると市役所から「介護保険被保険者証」が、古稀で「健康保険高齢受給者証」が送られてきて、何か外堀を埋められたような気がしたものですが、あと数年経つと「後期高齢者」の大きな括りに仲間入りです。自分では「若い」と思っていても、客観的な姿勢で天井を見つめてみると、頭の回転(これは元々よくない)、面相、肌の張りや皺(特にほうれい線)、運動能力、体力、もの忘れ、などなど、やはり歳相応であることを、ひしひしと感じる今日この頃。一方で飲み食いの方は若いもん並み、だと思いますが・・・これはこれで困ったもんです。で最近では、いたずらに加齢に逆らうよりも、それを認めたうえで、では如何に生きるか、と考えた方が楽ではないか、と思っています。
今実践している、具体的な加齢対策を披露します。
毎夜、小さなメモに翌日の行動予定、起床時刻から夕食までを書き出します。就寝はいつも23時〜24時なので、特段のことがなければオミット。そして当日は、終わったものから一つずつ線を引いて消していきます。勿論、出かける時にはポケットに、この紙片があります。現役の最後の頃には副官(秘書)が作ってくれていたものを、自分でやるわけです。作成するのも、終わった順に抹消していくのも、何となく自分を律しているようで、かつ充実感があって意外と楽しい。かと言って自分にノルマを課しているのではなく、その日にできなかった、或いはやり残したことは翌日以降の予定に組み込みます。だから今頃では、確定申告、確定申告・・・と毎日続くことになります。
寝室の出口ドアには、「電気 水道 財布 スマホ 免許証 鍵」と描いた小紙を貼ってあるのですが(拙宅にはガスは通じておりません)、如何せん出かけにこれを見るのを忘れる。だから、玄関の鍵や車のキーを家に閉じ込めて、風呂の窓から家宅侵入したこともあります。田舎のこととて、パトカーの見回りなどないのが幸いです。かかる非常時に備えて、身体はスリムにしております。歳は取りたくないものですな。
筋トレは簡単なものであっても、基本的には毎日実践しないと身に付かないし、私の様に自分に甘い人は続きません。今日は疲れたからいいや、などと理由を付けて自分を納得させるのが常です。昨年までは土・日曜は休みにしていたのですが、週日で物理的・時間的に出来ない日もあるので、今は赤字(祝祭日)に関係なく、行動予定や体調によってできない日を除き、基本的には毎日することに「変針」しました。ストレッチを含めて1時間弱の、極めて安易な体操です。事情や気分によって一時休止したこともありますが、20年ほど継続してやってます。先日のこと、調子に乗って腹筋を少し頑張ってやったのですが、二日ほど軽い腰痛がありました。この歳になると、無理をしないのが長続きのコツだね。
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しかし厳しい言い方だが、政府や自治体そして自衛隊は、そもそもゴメンナサイが許される組織なのか? はっきり言えば、大して汗をかかなくても、結果が良ければ all right 、逆にどんなに努力しても、成果を出せなければ X 。勿論、今回の救援活動がダメだと言ってるのではない。関係機関やそれに属する人たちは、寝る時間を削って計画し、現在できることを最大限に行っていると推察します。
かなり前のブログに描いた話ですが、極めて重要な意味を含んでいるので再度取り上げます。小生が防衛大学校の学生だった(昭和49年:1974)時のこと、「第十雄洋丸事件(海難事故)」が起きた。同船(タンカー)と貨物船が、海上交通の要所、東京湾で衝突したもので、現場は防大の眼下だった。政府は当該船(雄洋丸)を太平洋で撃沈すると決定し、その指揮を当時の自衛艦隊司令官が執られた。司令官(海将)は人格識見ともに優れた方で、しかも大東亜戦争で実戦の経験がおありになる、海上自衛隊の星だった。後に、海上幕僚長に栄進されています。しかし結果的に、雄洋丸を沈めるのに時日を要した。何も分かっていない学生も、その推移に心を痛めたことを思い出します。
同事件の数年後、幹部候補生学校(江田島)の卒業式に、呉地方総監である某海将(司令官の海軍兵学校同期)が列席された。彼は幕僚が書いた原稿を、棒読みするようなことはしない方だった。原稿なしで、自分の言葉で語りかけるのが常だった。卒業式の来賓として我々卒業生に祝辞を述べられたが、その中で「雄洋丸」事件に言及された。後輩に対する餞(はなむけ)と、戒めの言葉であったと思う。50年経った今でも、彼の言葉を鮮明に覚えています。要旨は次の通り:
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高松宮宣仁親王殿下(海軍兵学校52期)とお会いする機会があり、殿下に雄洋丸事件(の経緯)についてご縷々ご説明申し上げた。静かに話を聴いて下さった殿下が一言、「総監よ (帝國)海軍は言い訳しないのを美徳とした」と仰った。
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先輩の教にも拘わらず、現役時代には何度も何度も言い訳をした。上司にも部下にも、そして自分自身にも。それで窮地を逃れたことも度々ある。しかし、心の深層にはしこりが残った。決して後味が良いものではなかった。軍事、軍事組織は結果が全て、と私は思っている。人事評価も、基本的には結果(成果)をもってすべきである。勿論、個人の人格や識見、努力も重要な要素ではあるが、結果に優るものはない。今次、政府(最高指揮官)のイニシャティブと命令、それを受けた防衛省・自衛隊の対応、現場の衝に当たる者には言いたいことも多々あるだろう。しかし、例として何回も繰り返して恐縮だが、「(一夜明けて)尖閣に上陸されました」が許されるか? 「我々はこれほど頑張りました。装備も人も金(予算)も貧弱すぎます」と言っても、国民は誰も許してくれないだろう。それが軍事組織の宿命である。
繰り返すが、いたずらに今回の震災対応を批判するものではありません。被災地の道路が途絶して、兵力を投入したくてもできない(できなかった)事情は理解している。しかし、であれば他の方法、例えば海から空からのビークルを使った救援救助は、より早期に、より果敢にできたのではないか?
1月5日の報道と記憶しているが、総理が記者会見で「未だ被害の全貌が見えない」と宣われた。誠に正直で宜しい・・・が。東日本大震災が生起するや否や、米海軍は即座に航空機を飛ばして数万枚の写真を撮った。その写真を分析して、状況の深刻さは勿論のこと、被災者の孤立位置まで細部を把握していた。だから彼らの対応は迅速で、的を得たものだった。今回も米軍は同じことをやったと思う。
批判だけなら子供でもできるので、ひとつだけ提案したい。能登半島の教訓として、「震度7」を超える地震が起きた場合には「大震災」になることを予期し、関係機関は勿論のこと、周辺地域を含め当該地域の個人も、出来得る限りの準備に着手し、速やかに行動する。極めて効率が悪い作戦であり、拙速な対応になるかもしれない。しかし、拙速は優遅に勝る。後日、過剰な反応だったと誹られるかもしれない。しかしそうすることで、一人でも多くの命が救われるのであれば、それでいいと私は思う。元旦の日、NHK の女性職員が「早く逃げて!」と叫び続けた。放送史に残る、素晴らしい対応であったと思う。彼女の決断と行動を非難する者は(おそらく)いないだろう。
南海トラフも首都直下も、何時あってもおかしくない。そしてその時には、日本(人)は逃げることが出来ない、極めて過酷な状況に直面する。見えない敵はヒタヒタと、もうそこまで迫っている、と考えるのが賢明である。一日も早く「震度7」を一つの大きな指標にすること、そしてその対応要領を明文化するよう提案する。この時に、国会は今、何をしているのだろうか?
1月22日の報道によると、能登半島に対する台湾の加油(義捐金)は、22億円に上ったという。政府の支出ではない。台湾の人たちの懐から出た「おかね」である。勿論、おかねが全てではない。しかし日本国民は、台湾人の心を銘記すべきである。
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お正月には一年の計を立てるのが、ここ数年の小生の習わしです。ただ「計」などと称するのはおこがましく、今年はこんな風に過ごしたいな〜という、個人的な願望に過ぎません。でフト思ったのですが、小生、今春には72歳を数えます。「72」ということは、干支で言えば第7周目に入るということ。よくも長い間、お米をいただいてきたものです。さて、1〜6周の間に自分は何をしていたのか? これを回顧してみると、今年は何をすべきか、どうあるべきかのヒントが見つかるかもしれない。との思いで、先ずは過去を概観してみます。
第1周(0〜11歳):3〜4歳頃までの記憶は殆どありません。僅かに記憶があるのは二つだけ。一つは便秘になって大変苦しい思いをしたこと。母と叔母がガン泣きする小生の肛門に、湿らしたガーゼを当てて何とか排便に至った。情けない話です。もう一つは、秋の刈り入れ時、田圃の畔で母が「稔るほど頭を垂れる稲穂かな」と呟いたこと。勿論、私に対する戒めとして言ったのでしょうが、当時の私には理解し難い言葉でした。だからでしょうか、今なお「頭が高い」と言われる歳寄りです。
1周めの淡い想い出:小学校も半ばを過ぎたころ、ひとつ年上の女の子を好きになりました。それがまた、文字は違うが私と同じ名前でした。これが、所謂初恋です。理由は自分でも分からないのですが、小さい頃からやけに年上の女性に憧れました。頭でっかちだったのかもしれません。これをカワギリに、以降、私はさしずめ「寅さん」になりました。
第2周(12〜23歳):幸いなことに、この期間に中学、高校、大学(準大学)と歩を進めることができました。高等専門学校や他の大学(商船大学など)を受験する選択肢はあったのですが、結果的に防衛大学校に進んだことによって、その後の人生が決まりました。複式学級の田舎の分校から中学校に進んで間もなく、2歳年上の女子生徒に恋をしました。当時はその人が、とても大人に見えたものです。多少は知恵がつき始めており、また心理的にもやや高まりのある感情だったので、これが実質的な初恋と言えるかもしれません。詳細は省きますが、勿論、桜はむなしく散りました。そりゃそうだわな。中学3年生の女子が1年坊主を見ると、子供にしか見えんでしょう。因みに、その他にもいろいろな条件が合致したこともあるのですが、そのひとを追って同じ高校に進みました。ちょっと勉強ができる子、という評価は中学校で終わりです。肝心の数学、物理、英語が苦手な山出しの少年は、高校・大学(校)を超低空飛行で過ごしました。幸いにも墜落しなかったのは、ただただウンが良かっただけ。
第3周(24〜35歳):南米方面への遠洋練習航海を終えて昭和51年の暮れ、勇躍佐世保に赴任しました。早速大晦日に当直が当てられ、士官室のテレビで観たレコード大賞の番組、石川さゆりさんの『津軽海峡冬景色』、最優秀歌唱賞だったかな、白いドレスを纏った彼女は本当に清純で、しかし大人びた綺麗な人だった。資料によると、この唄は昭和52年のヒットになっているので、翌年(昭和52年)のことかもしれません。ただ、彼女の映像は今も目に焼き付いています。その後は右往左往しながら、艦隊勤務に没頭しました。青年士官と言えば聞こえはいいのですが、自らの能力と部下の扱いに悩み苦しんだ時代です。不甲斐ない仕事しかできない自分が情けなくて、夜な夜な、飲めない酒の力を借りて過ごしました。佐世保はそんな青年を包み込んでくれる、優しい街でした。ちょっぴり仕事に自信がついたのは、30(歳)にならんとする頃です。艦隊一の航海長になる、が当面の目標でした。
第4周(36〜47歳):厄年ってのは本当にあるのでしょうか。41歳の夏、奄美大島出張中に交通事故に遭いました。四周が砂糖キビ畑の十字路でした。担ぎ込まれた病院の先生が、レントゲン写真を観ながら制服を着た傷痍軍人に、「せめて敬礼だけはできるようにしてあげたい」と言った。あゝ俺は片端になるのか、もう第一線での艦隊勤務はできないのか、と思うと目の前が真っ暗になった。数か月後、何とか敬礼が出来るまでに回復し、上司である人事課長に「こんな身体なので、海外赴任(アタッシェ)は辞退したい」と願い出たのですが、笑って取り合ってくれなかった。人生の岐路でした。ええ〜いどうにでもなれ、と北欧(在ノルウェー日本大使館)に向けて飛んだ。ところが豈(あに)図らんや、北欧で過ごした3年間は人生至福の時でした。不勉強に因る言葉のハンディキャップは大きかったが、この大使館勤務を通じ、人間、開き直ると何とかなるということを悟った。
第5周(48〜59歳):失敗を重ねヨタヨタしながら歩を進め、武人としての最終章は拙著『武人の本懐』に記した通りです。
第6周(60〜71歳):第5周ではいつも過分な配置を頂いて、それなりに頑張った者へのご褒美でしょうか、この間に運がウンを呼び、多くの皆様のご支援を頂いて、上記拙著の英語版を含め4冊の本を上梓することができました。ご尽力いただいた、関係者の皆々様には感謝しかありません。ここ7年ほど郷里の畑でパパイヤなる植物を栽培しておりますが、そのキッカケを与えてくれたのも、拙著がらみの人脈でした。遡れば、第5周の最後で東日本大震災に関わったことが、結果的に、その後の人生を大きく変えた。ここも大きな岐路でした。
そして、今年は佳境の第7周に入ります。直感ですが、人生の大きな節目・転換点になりそうな気がする。それが何なのか、未だ朧気にも見えません。更には、小生に次の周(第8周)があるのか否か、それは神のみぞ知る。何れにしても、新しい年を迎え、気を引き締め、背筋を伸ばして3本先の電柱の天辺を見ながら、限りある一日一日、一年一年を大切に生きたいと思う。イエ〜イ! と、ここで目が醒めた。
下らん初夢でした。ちょっとお屠蘇が過ぎたか? 本年も宜しくお願い申し上げます。
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PS この原稿を描いている時に、たまたま次の本に出合いました。さらっと読める、そして元気をくれる好著です。本を読んだのは久しぶりです。生意気言うようですが、本ってのは学術書を除けば、難しい言葉を使えばいいというものではない。むしろ平易な言葉で、読者に訴えることができるのが高著と言える。
『人生は80歳からがおもしろい』 吉川幸枝著(アスコム)
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テレビをつけると、NHK の女性アナウンサーが繰り返し繰り返し、津波から逃げるよう叫んでいた。この注意喚起の報道(アナウンサー)は、結果から言えば過剰であったかもしれないが、極めて適切なアナウンスであったと思う。一方で某テレビ局は、暫くの間、能天気な番組を放送していた。なんだかんだと批判が多い公共放送ではあるが、やはり NHK と思った人も多いのではないか。テレビ局の組織図は承知していないが、報道局長等のセンスの違いと思われる。
当日の夜までの報道では、「6人が生き埋めになっている」だった。私見では、大災害の場合、初期調査結果の概ね10倍の被害があると考えることにしている。震度7という地震の大きさから推察すると、しかもこの時期の気象条件を鑑みると、最終的には10倍以上の被害が予想される。救助する側はそのくらいの認識を持って、派遣する兵力の規模を含め、自分自身と送り込む救援物資などを準備して救援に臨む必要がある。被害状況が判明するのに応じて、防衛大臣が兵力の増強を表明したが、私には???である。段階的な増強ではなく、初動全力が結果を良とする。
報道で観る限り、陸海空自衛隊の統合任務部隊編制や救援物資の海上輸送指示命令など、防衛省の対応は遅いように見える。阪神淡路大震災の教訓を得て、震度5弱以上の地震が発生した場合には、部隊指揮官は独自の判断で部隊を動かすことができるようになっている。現場の部隊は大臣が発信(公表)するよりも、もっともっと早い時機に始動していると推察する。
神様は時に皮肉である。この国の近年の大災害は、何れも政情不安な時に起きている。阪神淡路大震災、東日本大震災然り。今回、当該知事の名前を思い出して、ああ〜と思った。最高指揮官は言わずもがな。ご本人にとっては誠に不運であったろうが、そもそも地方の知事が正月休暇で東京に居ていいのか。今の時代、遠隔地からでも指揮はできる。そのようなケースに備えて、副司令官が存在するのも事実である。直ちに官邸に出向いたのも、適切な判断・行動であったとは思う。しかし持ち場を離れて、東京の家族の元で(?)年末年始を過ごすという判断は、自らの権限と責任をどう捉えているのか、の疑問がある。家族を公邸に呼び寄せる、という選択肢はあったはず。正月くらいはゆっくりしたい、という気持ちは分かるが、はっきり言えば、指揮官としての認識が甘い。本県は大きな災害が少ない、或いはないと思っている地域の知事や市町村長も、他人事と思ってスルーすることなく、他山の石としてもらいたいものである。
羽田空港で二次被害が起きたのは、本当に残念で悲しい。作戦の遂行が困難であればあるほど、急げば急ぐほど二次被害のリスクは高まる。それを如何にマネージするかは、レベルに応じて現場を任されている各級指揮官の仕事である。特に航空機の運用には、細心の注意が求められる。それにしても、あの切迫した非常事態において、民航機(JAL)の乗員・乗客が全員無事であったのは、改めて日本人の民度の高さを世界に示したと思う。本件については、現時点で、素人の部外者が軽々に物申すのは差し控える。今後の正式な調査結果を待ちたい。
特筆すべきは、今回も台湾の対応が極めて早かったこと。発災後、直ちに救援態勢を取り、総統自ら被災地・被災者を気遣うメッセージを発出してくれた。本当の友人は誰か、を伺い知ることができる。間もなく行われる彼の地の総統選挙は、近い将来の我が国にも大きな影響を及ぼす、極めて重要な案件である。その動向を注視したい。
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さて現政権や自民党の脆弱性は、年間を通じて顕著になってきておりましたが、所謂政治資金パーティ(券)なるものの実態が暴露されるに至って、いよいよ黄昏が近づいているような気がします。政局以外にもいろいろありました。ビッグ・モーター、日大、宝塚歌劇団、そして自衛隊(におけるセクハラ事案)などなど。あれやこれや、どいつもこいつも、と言えば誠実に勤務している絶対多数の職員に失礼になりましょう。
しかし、上記の事案には共通項があります。過去に何回か、或いは何回もこの場を借りて述べておりますが、醜聞が顕在化するのはひとえに組織に問題があるからです。勿論、大きな問題に至る過程には、何時か誰かが悪事をやりだし、それが徐々に拡散して組織の風土となり、何処かで(大部分のトリガーは内部告発)爆発して世間の知るところとなる。或いは氷山の一角を、あの『文春』のような輩が嗅ぎつけて世に発信する。それにしても、文春は高性能のレーダーを持ってますね。もっと他に使ってもらいたい。
このような成り行きは、悪いことばかりではなく、良い風土を醸成する場合も流れは同じです。だから、リーダーの在り様が極めて重要であり、極端に言えばリーダーの胸三寸で、組織の上昇・下降が決まります。部下のせいにしてはいけない。
語るに落ちる誠に恥ずかしい話ですが、小生の失敗例を挙げます。退役後に小生が語っていることの殆どは、多くの失敗と反省に基づく見解に他ありません。現役の時、「テロ対策特別措置法」に基づき、イージス艦を含む数艦を率いて半年間印度洋に展開しました。展開中は勿論のこと、出国準備から帰国まで、周到な準備と水も漏らさぬ実施で「ほぼ満点に近いできだった」と充実感を持って、意気揚々と横須賀に帰港しました。ところがところが、若い頃から「詰めが甘い」と言われ続けた男です、そうは問屋が卸さなかった。
簡潔に言うと、私が印度洋で指揮していた某艦で、停泊を問わず艦内飲酒が行われていた。艦内での飲酒は、指揮官が認める極々稀な機会を除きご法度です。だったら飲ませてやりゃいいじゃないか、は別の議論です。経緯は端折りますが結果的に、タレコミによってその事実を或る写真週刊誌が掴み、これが飲んで騒いでいる部下どもの写真付きで販売された。青天の霹靂とはこのこと。この報告をスタッフから受けた時、暗闇の中で後ろからハンマーかバットで、ガツ〜ンと殴られたような気がした。後日事の詳細が明らかになり、規則違反をした数十人の部下に懲戒処分を申し渡すときは、涙が出るほど情けなかった。
そして無力感。俺は何を間違ったんだろう? 此度の印度洋展開は、任務期間中にイラク攻撃が始まり、現場にいる我々は何らかの形で戦闘に巻き込まれる可能性がある。かかる微妙な情勢下での任務であった。そのことや意味を、展開前から折に触れて何回も総員に語ってきた。にも拘わらず・・・この体たらく。部下隊員の安全を確保しつつ、如何にして任務を達成するか。これが私に与えられた最大の命題であり、任務行動中は毎日そのことを考えていた。それだけに、私の悔しい思いと無力感は強かったのである。ただ不思議と、規律違反者や艦長に対する怒りは湧いてこなかった。むしろ、指揮官である自分が至らなかったために、この子たちの将来を閉ざしてしまった、と自分の不甲斐なさを嘆いた。
もし私が、部下隊員の間で「鬼のような指揮官」との評判であれば、このような規則違反はなかったと思う。印度洋から帰国後、直属の上司である司令官と私がタッグを組んで臨んだ、数か月にわたる訓練(検閲)期間中には一件の不祥事も起きなかった。この検閲訓練は、有事を想定・設定した模擬の実動の作戦だった。従って隷下隊員には、事前に「本行動中は、親御さんに不幸があっても帰さない」と申し渡したのである。そして、数年後に生起した東日本大震災における救援活動。数か月にわたる作戦中、一件の規律違反や不祥事もなく、整斉と任務を遂行することができた。いろんな意味において、先の有事演習の延長線上に震災への対応があった、と私は考えています。
これを要するに指揮官は、先ずは組織としてのゴール(短期的+長期的)を明確にすることです。そして大きな組織では、それぞれの中間管理職に任務を分割して付与すると同時に、任務に相応しい権限を付与すること。加えて、末端の構成員ひとりひとりに至るまで、それぞれの役割を納得させて強固な動機付けをすること。これに尽きると私は思っています。
読者諸兄弟・姉妹、一年間お世話になりました。有り難うございます。佳いお年をお迎えください。
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郷里の高松空港からは九州への直行便がないため、お隣の徳島空港から福岡に飛びました。幸い私が住んでいる「さぬき市」は東讃、即ち香川県の東に位置するため、高速道路を使うと高松空港に行くのと同じくらい、渋滞などの状況によっては、より短時間で行くことが出来ます。しかし徳島からも九州便は一日に2便しかなく、それも朝と夜の便でやや不便ではあります。四国は三つの(瀬戸)大橋で本土と繋がりましたが、4県とも近年とみに衰退が著しく、陸続きの孤島になりはしないかと懸念しています。殖産興業の代替として観光を目玉にして生きるのは、将来を見据えると脆弱です。例えば、近年のコロナ災禍のような事態が生起して、お客さんが来てくれなければ終わりです。徳島(阿波踊り)空港1階ロビーの大スクリーンには、阿波踊りの様子が常時放映されています。地元の人たちが阿波踊りを誇りに思うのは理解できるし、とても喜ばしいことではありますが、空港名からして「阿波踊り」一辺倒というのも、同じ四国人としてはやや寂しいものがあります。
福岡空港から佐世保までは、高速バスを利用しました。私の確認不足だったのですが、福岡空港の国内線と国際線のターミナルは、少し離れたところにあります。空港も充実しており、今更ですが福岡・博多は大都市だと再認識しました。バスのチケットをネットで購入する際、佐世保への出発地は「国際線ターミナル」とあったのですが、歩いて行けるだろうと踏んだのが甘かった。到着後、国内線ターミナルの案内で訊くと、国際線にはシャトルバスで10分ほどかかるとのこと。乗り換えには、余裕を持って計画していたので問題はなかったのですが、明らかに事前の準備・勉強不足でした。
高速バスの出発まで少し時間があったので、国際線ターミナルを散策しました。1階到着ロビーにある総合案内所には、九州各地のパンフレットや地図などが置いてあります。久し振りの佐世保なので地図を貰おうと探したのですが、英語、中国語、ハングル語はあるが日本語版がない。カウンターに行って「佐世保の日本語版地図を下さい」と言ったところ、「すみません。日本語は置いてないんですよ」とのこと。な、な、なんとな。いくら国際線ターミナルとはいえ、なんぼ外国人客が多いとはいえ、建屋の外には九州各地行のバス・ターミナルがあり、日本人だって結構利用するだろうに。「此処日本だよな。何かおかしくないか?」 思ったことが直ぐ口に出る、厄介な老人です。勿論、カウンターの女性を責めるものではないのですが、国民・市民の声を聞かせなきゃ、などと自分に勝手な言い訳をしながら。確かに、国際線ターミナルには外国人が多かった。しかもその殆どはアジア系、特に中国語があちこちから聞こえてくる。大陸の人は大声で話をするので、直ぐに分かる。台湾人は普通に話すので、中国語と台湾語の微妙な違いが分からなくても識別できます。
外に出て佐世保行のバスを待っている時、小生の横を「sorry」と言って抜けていった、明らかに日本人と思われる女性がいました。西日がきつかったのでサングラスを掛けていた白髪のおっちゃんは、「俺はホリが深いので、いつも外国人或いはハーフと間違えられるんや」とニンマリ。しかし、いや待てよ。その女性が外国人であることに思いが至った。何歳になっても困った老人です。
我が国(政府も民間も)がやることは、何かにつけて外国人に優しく、また在日外国人を優遇することが多い。敗戦後の被害妄想が未だに解けていない。そもそも、九州各地に行くバスが何故国際線ターミナルからだけなのか? 出発地は国際線でもいいけど、なぜ国内線ターミナルを経由しないのか? 分らん。それ(外国人を遇すること)が悪いとは言わんが、一方で自国民にはとても厳しい。特に政府がやってることは、他人の子供には親切丁寧で優しいが、我が子にはとても厳しい親御さんみたいなもの。あんまりやると、いじけますよ、子供は。
例えば、海外からの留学生には補助金で手厚いが、苦学する日本の学生は奨学金さえも返還を求められる。小生も息子を米国に留学させた経験がありますが、学費はアメリカ国籍の学生よりも格段に高かった。学校は米国が経営しているので、それは当然のことだと思うし、何の疑問も感じなかった。日本人ファーストではない、この国のやり方は何かおかしいと思う。
他の例では、全国的に同じだと思うが、空港から高速バスに乗ると、車内の案内は必ずと言っていいほど、日本語・英語・中国語・韓国語が流れます。乗る度に車内を見回すが、外国人など乗ってない。それでも機械的に(機械ですが)4か国語が流れるので、ちょっと鬱陶しい。あれって本当に必要なの? 勿論、我々が海外に行った時に、日本語の案内があれば大いに助かるのは確か。でも百歩譲って、世界の共通語である英語だけでいいんじゃないのか。
因みに、現役時代に仕事で対馬に行った際、予約していた民宿の玄関を開けると、正面に大きなハングル語(歓迎)が掲げてあったのにはビックリした。良きにつけ悪しきにつけ、此処(対馬)は朝鮮に対峙する最前線であることを実感した。
福岡空港(国際線ターミナル)を出発し、最初の停車地である筑紫野の基山(きざん)でのこと。バスを待つお客さんの中に、小生よりも少し年配と思しき初老の男性がいた。彼は帽子のツバ(庇)に、我々が言う「カレーライス」が付いた squadron hat を被っていた。前面には AEGIS KONGO の刺繍があり、いでたちと風貌、目つき、そして醸し出す空気からして、一目で同業者と認識できた。面識はない方だった。このおっちゃんがバスに乗り込んできて、誰に言うとなく第一声「ガラガラたい!」。そして私の前の席に座った。小生の座席番号は 2A なので、彼は 1A 即ち最前列の最左翼だった。お疲れだったのか、発車後は殆ど目をつむっていたが、佐世保の一つ手前で降りた。それがどうしたって? ただそれだけだが、「○○たい!」の響きが妙に心地よかった。地元の言葉はよかね〜。
翌日の午前中は時間があったので、朝食後に街中を歩いた。10年でどれほど変わったか、或いは変わってないかを確認したかったから。佐世保一の繁華街である、四ケ町〜三ケ町に掛かっているアーケードを歩いたが、他の軍港に比べると、思いのほか活気があるような気がした。現在はどうなっているのか知らないが、小生が現役の頃には年度初めに「艦隊集合」があり、全国の艦艇が一堂に集まって意思の疎通と年間の頭揃えを図っていた。開催地(艦隊の集合場所)は例年各軍港で持ち回りだったが、街への経済効果、即ち艦隊が地元に落とすお金(燃料、食糧、講演会場やバスの借料、何千人の乗員が街に繰り出して使う飲食代やお土産代など)が半端じゃないので、例年各市(軍港)や商工会の誘致合戦が繰り広げられた。例えば艦隊が一週間滞在し、仮に3千人の隊員が飲食やお土産に一人平均5万円消費すると、大雑把に言ってこれだけで「1億5千万」が街に落ちることになる。あれこれ合算・試算すると、およそ3億の経済効果があると言われていた。そりゃ誘致するわな。
佐世保のアーケードはおよそ1キロメートルで、日本一の長さを誇る。艦隊集合の時には、アーケードの中央に長テーブルを並べて、大勢の市民有志が制服と財布の歓迎会を催してくれた。勿論、佐世保市民は国防・安全保障にも大いに理解があることを申し添える。一般論として言えば、原爆を落とされた長崎(市)と佐世保では、軍(自衛隊)に対するメンタリティーが全く違う。佐世保の市民は昔から我々にとてもフレンドリーだったので、乗員にはとても評判が良かった。(佐世保以外の)艦隊の乗員は、佐世保寄港が予定されると、佐世保上陸に備えて貯金をするほどだった。
10年ぶりに佐世保の街を歩きながら、あの頃が我が人生(艦隊勤務)の「華」だったな〜などと思いつつ。海側にも足を延ばして、潮のかおりを嗅いだ。久し振りに海に還り、若い頃、当地の映画館で観た『聯合艦隊(主題歌は「群青」)』を想起した。でも、一人で映画を観たのかな〜? 思い出せん。
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ずっと前から、特に自分自身が組織の人事に関わるようになった時から、組閣の度に「どうやって人選しているんだろう?」と思っていました。一般国民は報道でしか分からないのですが、昔から、基本的には総理が一人で閣僚の人選をしているように観えます。人間、人事権を手にするのはとても嬉しい。現役時代のこと、初めて人事の担当を命ぜられ、人事課長に着任の申告に行ったときに言われました。「いいか?嶋、中毒になっちゃいかんぞ!」。勿論、担当は案を作るだけであり、決裁権者ではありませんが、彼の忠告は正鵠を射ていた。
総裁選挙に勝って総裁になった方が、鉛筆を持って白いノートに向かうとき、この国の最高権力者として、最も気持ちが高揚しているときだと思う。願わくばそのノートには、閣僚候補者の人物評価がびっしりと記されておればいいのですが。それでも、閣僚とか党三役などの重要人事は何とかなるかもしれないのですが、大臣への待合室(waiting room)、即ち副大臣とか政務官などになると結構な人数になります。この人事をどうやって決めているのだろう? 本当に疑問でした。私の経験に照らして、結論を急ぐと「それはムリ」ってこと。何十人の人事を、短時間で、しかも適材適所を勘案して、一人でやるのは絶対に不可能です。実態は知る由もないのですが、想像するに魑魅魍魎、派閥やらなにやら、いろんな力が交錯する世界なのでしょう。だから、ポロポロと「ぼろ」が出てくるのは必定。選考後・就任後に醜聞が出てきても、驚くには至らない。人間、そんなに「きれいな人」ばかりじゃないよ。
その点、政権を奪取した(する、かもしれない)野党などは、或る意味やり易いと思う。限られた人材から、多くの人を選ぶのだから。しかしそれで被害を被るのは、選んだ国民です。以前の例もあり、国民はそこが分かっているので、「あれよりはまし」と与党に属する多くの人を国会に送り込んできた。しかし彼(彼女)らは、余りにも胡坐をかき過ぎた。学習しないんだね。これだけピント外れの政策が多いと、国民の我慢も限界に近付いているんではないか。
主題から外れました。では、どうすればいいのか、ってことです。私は、官邸に(政治家登用の)組織が必要だと思う。誰がその任に当たるかは難しいが、少なくとも政治家は利害が絡むのでオミット。政治家は組織のトップになる総理大臣だけ。謂わば、将軍に仕える御庭番みたいなもの。個人的に文春は嫌いですが、そして多分ですが、彼(彼女)らにはお金儲けの他に、そんな使命感みたいなものも多少はあるのではないかな・・・ないか! この官邸の闇組織に勤務する者は、高額の給料を手にはするが、決して偉くはならない、ことが必須要件です。偉くなってはいけない。偉くなると、任務を遂行できないから。そして、絶対的な守秘義務を課すること。
有権者から選ばれて国会に来ている先生、全員の人格から政治家としての能力、健康状態などなど、あらゆるデーターを収集する。そして、指揮官である総理大臣から「資料(データー)を出せ」と命ぜられたら、「はいどうぞ」と即座に出せること。担当者のさじ加減で日本の将来が決まりかねない、それはそれは大変な仕事になる。宝塚以上に、寝る時間を削る必要がある。極端なことを言ってますが、そうでもしない限り、適材適所に人を配するのは絶対に無理です。それでも人間がやることだから、間違いや錯誤はあります。
最後に安倍(総理)人事の最大の失敗は、某女性議員を登用して、あろうことか国の根幹に関わる防衛大臣に据えたこと。あの時に、非常事態が起きなくて本当に良かった。六法全書で国を護ることが出来れば、自衛隊は要りません。事程左様に人事は、時計を止めるのはまだいい方で、ことによっては組織をゆがめたり破壊したり、或いは国を誤ることさえもあり得る。この国は今、何処に向かって進んでいるのでしょうか?
訳が分らん話になりました。ゴメンナサイ
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何故、今になって下らんことに腹を立てるのかと言いますと、スーパーなどで買い物をする度に不便な思いをするからです。これを提唱し主導したのは、小生もよく知るあの有名な先生(郷里の讃岐では、このようなお方を皮肉を込めて「あのセンセは・・・」と言う)です。逆恨みと言われるかもしれないのですが、また小生とは反対のご意見もあるかと思うのですが、ホンマに余計なことをしてくれた。流石、日本の生存に関わる近年の大失策、郵政民営化を成し遂げた方のご子息、パフォーマンスは一流です。
最近では、コロナ禍などの影響で諸物価が上がっていることもあると思いますが、レジ袋に便乗して紙の袋も有料にした店が多い。他方で、かつて小池さんが提唱したクールビズは、時機を得た政策(と言えるかどうか?)であったと思います。それ故に、この国で定着した。彼女のクリーンヒットでした。レジ袋については定着と言うよりも、諸国民は致し方なく政府の決定に従った、というのが実態でしょう。弱小国民には、なす術がないのですから。流石にレジ袋がトリガーになって、政権が倒れるまでには至らなかったが。この国の弱点は、多少の反対はあっても、多くの国民が ” ご時世だから ” と環境に馴染み受け入れることです。長い物には巻かれろの、誠に素直で愛すべき国民です。レジ袋ならまだいいが、国際情勢や安全保障に関わってくると話は違う。この純粋さが、国の将来を誤る恐れがあります。但し、そのような政治家を世に出しているのは、ポピュリズムに迎合する、他ならぬ政策の犠牲者、即ち国民自身であることを銘記する必要があります。自分で自分の首を絞めている。
その頃、しきりにプラスチックごみによる海洋汚染が叫ばれていました。その象徴的かつ具体的な例として使われたのが、ウミガメが涙している絵です。では、レジ袋を有料にして、どれほどのウミガメが救われたのか? その後の実態や効果を証明する、データーなどは見たことがない。おそらくは、実証効果を示すことなど出来ないでしょう。更には、有料化によるレジ袋減産の効果です。スーパーを訪れる多くの買い物客がマイバッグを持参しており、レジ袋を購入する人が格段に減ったのは事実です。しかし有料化によって、どれほどのプラスチック(生産)削減がなされたか? これによって、原油の輸入がどれほど減ったのか? かつては、多くの日本人がレジ袋をゴミ出しに使っておりました。ならばレジ袋の使用減によって、この国のCO2 排出削減に如何ほどの効果があったのか? これらについて、件のセンセやお先棒を担いだ官僚には、責任を持って説明して頂きたい。
私だけかもしれないのですが、品物を買って支払いをするときに「袋は有料になりますが、如何なさいますか?」と訊かれるのがストレスになります。これほど購入してるのだから、「袋くらいサービスせんかい」と言いたくもなるのは、私だけでしょうか? 要は消費者の気持ちであり、心理なのです。私は天邪鬼なので、「どうしますか?」と訊かれると、余程のことでない限り、即座に「必要ありません」と応える。袋に5円10円かかっても、懐にはさほどの影響はない。でも不便ではあっても、品物を抱えて車まで運ぶ方を選ぶ。或いは郷里のスーパーには、使用済みの段ボール箱が何時も積んであるので、これを利用します。持ち帰った段ボールは、資源ごみに出します。よって、この段ボール箱は、生まれてから2回活用されたことになる。そして再生されて世に出ます。ゴミ袋として2回目の役割を果たす、レジ袋も同じだと思うのですが、皆様はどのように考えられますでしょうか? ご意見を賜りたいと思います。
もしレジ袋が元の状態に戻れば、裕福な上級国民でない限り、絶対多数の市井の民は「これでゴミ袋を買わなくて済む」と喜んで受け入れると思う。たとえその経費が、品物に上乗せされててもいい。それは、或る種のトリックではありますが、たとえ一円のものでも、別枠で取られるのと、商品の中に含まれているのでは、人の気持ちは格段に違ってきます。送料無料と同じです。庶民の心理は単純なのです。過ちて、これを正すことに躊躇することなかれ。何時の世も政策の要諦は、「誰のために、何のためにこれをやるのか」です。理念なき政策は意味がないし、多くの国民を不幸にするだけです。
話しは変わりますが、岸田総理の「” 国民への還元(と言う名のバラマキ)”と、一方で ” 消費税を上げる ”は矛盾しない」との説明、何方かその意味を分かりやすく教えて頂けないでしょうか。無学な小市民には理解不能です。LGBT 法などと相俟って、次の選挙で政権与党(自民党)はボロボロになるのではないか。さりとて現在、これにとって代わり、この国の舵取りを任すことが出来る、力のある政党(野党)はない。阪神淡路大震災と東日本大震災が、どんな時(政情)に生起したか想起して欲しい。神様は非情です。大地震が来なければいいが・・・。
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一方で宝塚(歌劇団)が揺れています。ビッグもジャニーも同じですが、一旦導火線に火が付くと「これでもか、これでもか」と芋づる式に醜聞が出てくるもの。現役団員の投身自殺に端を発した宝塚問題は、一部の OG や元団員・生徒の家族、或いは過去の醜聞を多少聞きかじっていたマスコミ関係者(記者)などが、「実は以前からこのようなことがあった」などと、にわかに告発する様子はビッグ&ジャニーにも共通している成り行きです。多くのファンを獲得し、そして数多名優を輩出してきた組織が叩かれ、衰退していくのは寂しいものがありますが、さりとて火のない所に煙は立ちません。いずれ事実関係が明らかになるでしょうが、庶民の口に上り、巷間ささやかれている宝塚の内情は、大なり小なり事実でありましょう。危機管理の要訣は、下手に取り繕わないことです。隠ぺいなど最悪の危機管理です。当面は苦しいでしょうが、これは恥の上塗りにしかなりません。
ネットで面白い記事がありました。音楽学校の生徒は、阪急電車を見るとお辞儀をするというものです。勿論、躾けの一環として始められたものでしょう。我々(海上自衛隊)の場合も、基地内を歩いている隊員が将官車に出くわすと、自衛官は敬礼、その他の隊員(事務官や技官)はお辞儀をします。実際に将官が乗車しているか否かは、フロントの表示(階級に応じた桜の数)で判別します。因みに、私がある配置に着いた時、後部座席の窓ガラスにはシールドが貼ってありました。従って、敬礼してくれた隊員に私が答礼しても、隊員は小生の顔さえ認識できない状態でした。勿論、隊員が敬礼してくれるのは、司令官個人に対してではなく、階級に対して敬礼してくれていることは重々承知しています。ですが一風変わった将官は、この習慣が我慢ならなかった。直ちにドライバーに、「速やかにシールドを剥がせ」と指示しました。ドライ―バはかなり抵抗しましたが、理由を説明すると渋々応じてくれた。ドライバーが抵抗した理由は、司令官には車中くらいはゆっくりして欲しい、加えて、うたた寝をしている親分の姿を隊員に見せたくない、というものでした。剥がすのが面倒くさい、もあったと思います。それ程の大物ではありませんが、大袈裟に言えば「将官の安全確保」の一環でもあります。いろいろ理由は付けられる。しかしそれでも、仮に敬礼の対象が「桜(階級)」であっても、敬礼してくれる隊員に対しては、誠意をもって応えるべきだと私は判断した。
長々と自慢話をしたい訳ではありません。音楽学校の生徒が阪急電車にお辞儀をすることが、長年にわたって定着しているのは、当初は高邁な考え方があったと思われるのです。問題は、その原点を生徒に理解させてきたか? ということです。勿論、形から入るやり方もある。しかし、多様化と言う言葉が、あたかも最高の価値であるかのように喧伝される時代であるからこそ、「なぜ、これをやるのか」を懇切丁寧に教える必要がある。或いは、その意味を生徒自身に考えさせることが重要なのです。ハードであろうとソフトであろうと、形で示すものは経年によって劣化します。劣化しなくても、時代にそぐわなくなることも多い。形骸化した躾けや習慣は、いつか本筋を外れて違ったものになり、そしてほころびが出ます。
ビッグやジャニーそして日大など、何れの組織についても、最大の問題は危機管理が如何様になされてきたかです。以前のブログにも描きましたが、小生に『海軍と日本』(池田清:海軍兵学校73期 著)の存在を教えてくれたのは、当時阪急電鉄の総帥であった小林公平さんです。その後(現役時代)、新生海軍(海上自衛隊)の在り方を模索する上で、この本は私のバイブルになりました。壁にぶち当たった時は、この本を開いた。小林さんは池田さんの2期後輩で、兵学校75期の卒業です。75期生は帝國海軍兵学校、最後の卒業生です。たった数年であっても、多感な青少年期に海軍(兵学校)に身を投じた小林さんの思想や考え方が、音楽学校と歌劇団に浸透したこと。そして、その組織においては、今なお海軍色が強いことは容易に想像できます。しかし、あの人格高潔な小林さんが、例えば海軍兵学校の悪弊であった「鉄拳制裁」などを、隷下の組織に持ち込むなど想像もできないし、あり得ないことです。
時が流れ人が替わると、如何に高邁な思想や考え方も、本来のあるべき姿から変質し乖離していきます。如何なる組織も、大きくなればなるほど、そういう危険性を孕んでいる。だから、組織の舵取りを担う社長や取締役は、常に組織のシャッフルに意を用いる必要があります。例えば世界のトヨタ、仮に創設者一族がトップになっても、現在のポジションを維持できているのは、常時、組織の改革と浄化に努めているのだと思います。
如何なる組織にも栄枯盛衰があり、永遠に存続することはできません。さて「どうする、社長!」
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それで暫く放置していたのですが、いよいよ開始日(10月1日)が近づいてきたので、お尻に火がついて、にわか勉強を始めたものです。なのですが、40年もの間、敵の潜水艦を沈めたり、ミサイルを撃墜することに全力を注入してきた小生には、この手の話はなかなか手強い。先ず役所の、おびただしい専門用語の理解が容易ではない。会社設立以来、紙媒体で提出すれば簡単に済む確定申告なども、悪戦苦闘しつつ電子提出をやってきました。お陰で随分勉強にはなったのですが、今回は費用対効果を考えると、情けないが税務署に出向いて教えを乞うのが手っ取り早いと判断した。
そんで小一時間ほど、懇切丁寧に教えてもらいました。お勉強が終わり、礼を述べて帰ろうとすると、人柄の良さそうな署員さんが「9月30日までに取り下げを申請すれば、登録を取り消すことも出来ますよ」と。おそらく私の知識を観て、「これじゃ話にならん」と思われたのでしょう。意地っ張りな小生は、「う〜ん、でもこれ(インボイス)をやらないということは、弊社の成長を諦めたことになるな。何とかやってみます」と応じた。帰宅して実務的な所を再度確認・勉強していくと、具体的な説明は省きますが、まぁ面倒くさい。請求書に登録番号を記載するだけ、と言うものではなかった。頭を抱えた私が出した結論は、弊社が課税業者になったとき、即ち1千万円を超える売り上げを出すまでに成長した暁には登録し、その時には税理士を雇ってきちんと経理をやろう。そう、会社を設立して10年が経過しますが、弊社の経理担当は「弥生ちゃん」であり、今まで一度も税理士や社会保険労務士の世話になったことがないのです。勿論、決算や申告などは法律が定める通り、鉢巻きして真面目にやっております。
さて、このインボイスなるもの。財務省はなんやかんや言って法案を通したけれど、親方日の丸で半生を過ごしてきた経済音痴の私には、その理由や趣旨などがよく分かりません。「登録せんと取引先から弾かれる可能性があります。早く登録した方が良いですよ」と喧伝して、ピーピー言ってる零細企業から税金を取り立てる。さしもの、INVOICEを日本語で言えば「請求書」だから、小生にとってこの制度は「税金の請求書」と読める。そんな風に見えるのですが、被害妄想でしょうか?
10月1日が迫ってきたので、ホッカムリしておく訳にもいかないので、登録番号を通知している取引先などに通知しました。
弊社「(おそるおそる)申し訳ないのですが、熟考した結果、インボイスの登録を取り下げました。消費税を御社に被って頂くことなりますが、ご容赦ください。ゴメンナサイ」
B 社「(いとも簡単に)いいですよ。その分(消費税分)支払いから引きますから」
なんじゃい、大きい所は損をしないようになっとるやないか。早く言ってくれれば、余分な作業をせんでもよかったのに。まっそれでも勉強にはなったし、取り敢えずは煩雑な経理業務から解放されるだけでも良しとするか。褌(ふんどし)締め直して、早く大きくなるぞ〜! でも・・・あんまり時間はないな。
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さて、どうでもいい話のようですが、ビッグとジャニー両者には、実はどうでもよくない共通の問題があります。それは組織管理の問題です。企業の創設者の殆どは、草創期には寝食を忘れて事業の拡大に奔走し、努力の末に現在のポジションを獲得しています。多少はウンがあったかもしれないが、それも先を見通す眼力があってのこと。その後、仮に不祥事があったにしても、そこ(初期の努力)まで否定してはいけない。両者の成功〜失敗に至る過程には、組織管理上、我々が学ぶところは多い。
例えては失礼かもしれないが、なんだかんだと言われながら、今なお政権与党に居座る某宗教団体のこと。昭和30年代には、絶対多数の国民から鼻つまみ状態でした。しかしよく言えば、この困難な時代を乗り越えて、現在の地位を獲得した。その要因を考えてみると、先ずは女性を味方につけたこと。決して女性の力を侮ってはいけません。おもいッきりがいいし、男性の様に引きずることがない。また、家庭と言う単位(組織)を牛耳っているのは、殆どが女性です。次には、法曹界に目を付けたこと。弁護士を始めに、検事、判事を組織に取り込んでいった。或いは、大学を作って自ら養成した。さすれば怖いものなしで、何をやっても合法になる。多少危ない橋を渡っても、大概の法廷闘争において勝つことができる。この二点が、組織拡大の、そして政権与党に至る大きな要因であったと推察します。池田さんや取り巻きには、遠大な構想と大戦略があったと言えます。草創期の主要メンバーの一人に、海軍兵学校出身者がいたと記憶しています。終戦直前に海軍は、戦後を見据えて国内中の優秀な少年を青田刈りした。当然、とびっきり優秀な人材が含まれていたと推察できます。
更には、世界に展開する野望を達成するため、加えてノーベル平和賞を視野に入れて、外交を司る某役所に浸透していった。除草剤なんてちっちゃい。まるで視点が違う、目の付け所が違うのです。斯様に、組織の拡大と言う側面から観れば、この組織から学ぶところは多い。某新興宗教の関係者に冗談で、「あの組織に学んでは如何か」と申し上げたことがあります。
本題から論点がずれました。話を戻して、今回、ビッグとジャニーが「こけた」のは、創業者、或いは創業一族が神様になってしまったことです。因みに、全国には戦死した軍人、小生にとっては先輩を祀る神社があります。所謂、軍神と称された人たちを祀っている。祀られた先人のご功績や、国を想うお気持ちには頭を垂れますが、神社の建立には絶対に反対です。人間が神になってはいけない。だから私は、東郷神社にも乃木神社にも、参拝することはありません。直接ご挨拶したいときや、お会いしたいときには墓前、若しくは靖國神社に参ります。神になっていいのは、天皇陛下だけです。元々、そういう立場のお方だから。勿論、戦前の天皇陛下の神格化とは全く違った視点です。
さて上記創業者の一声が、従業員にとっては神のお告げの如くになってしまった。他人様のことを言えた義理ではありませんが、人間って生き物は、とりわけメンタルが弱い。他の動物に比べて、脳みそが大きすぎるのでしょう。組織の絶対多数の構成員は、YES MEN & WEMEN です。そうしないと、組織の中では生きていけないから。或いは、反抗すると不利益を被るから自然とそうなる。しかし稀に、諫言する人もいます。本当に偉いと思う。諫言とは、自らの命をかけて他者、多くのケースでは上司をお諫め申し上げることです。40年間、厳しい世界で生きてきましたが、自分自身を含め、陰でブツブツ文句言う人間はそこら中にいますが、本当の意味で諫言した人、諫言できる人は殆どいなかった。恥ずかしながら、私もできなかった部類です。
なぜか? 状況が一変しない限り、例えば上司が失脚でもしないかぎり、諫言した人の将来は危うい。如何に正論を吐いても、プラスに作用することは殆どなく、親分との人間関係が壊れることも多い。その多くは、諫言される側の度量・器量に因ります。組織の将来を憂いて、「社長、それ間違ってます!」と直談判した人が、出世した例を見たことがない。大概は憎まれて左遷されるか、首になる。或いは、その才を危険視されて、即ち近い将来自分(ボス)の地位を脅かす存在と認識されて、排除されることもある。組織の長であっても弱い人間であり、それが人間社会の常であるとも言えます。勿論、経験や知識が豊富で、高所大所から判断する社長が正しいケースも多い。所謂、鳥瞰・俯瞰です。その場合には、意見した側がボスを逆恨みすることが多い。他人が人間の妬みを管理するのは、なかなか難しい。
今問題になっている両社では、ボスの悪行を知りながら諫言できる、する人がいなかった。知らなかったが故に、適切に対応できなかったことと、知っていて三🐒になる人には雲泥の差があります。それどころか、多くの従業員やマスコミを含む関係者は、虎の威を借りてこれに乗っかる(加担する)側についた。私は『必殺仕事人』が大好きですが、両社には仕事人も仕置き人もいなかった。或いは仮に居たとしても、嫌気がさして、危険を感じて去って行った。
たった一人でも勇気ある社員が居て、かつそれを受け入れる、或いは少なくとも検討する度量を持った、人間的として幅が広い創業者であれば、現在のような事態にはなっていない。組織を束ねる人が、神様、まではいかなくても、裸の王様になってしまった。それに同調・加担した、取り巻きにも責任の一端はある。後は、つるべ落としで転がり落ちるだけ。努力と才覚で、汗を流して今日の地位を築いた会社を、自らが(おそらくは)葬るトリガーとなってしまった。組織を束ねる者は、時には清濁併せ呑むことも必要だが、誠に勿体なく残念なことです。
組織論から言えば、両社とも一旦潰してしまった方が宜しい。時代を席巻し、ひとつの時代を築いた創業者の着眼は素晴らしかった訳で、良識かつ能力ある人が良い所を受け継いで、再建してくれるのを待ちたいと思う。駄文を連ねました。
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最初に明確にしておきたいのは、同教授がいたずらに防衛大学校や国防・安全保障に否定的と言うことではなく、むしろ逆で、学生時代には海上自衛隊に体験入隊するような、ご本人曰く「防衛青年」、昔流に言えば軍国少年だったようです。日本国として防大の重要性を認識するが故に、謂わば「已むに已まれぬ」告発である、という趣旨のことを序文で述べておられます。教授には大変失礼ながら、ご自分が描く理想の防大像と現実のそれには乖離があり、謂わば「贔屓の引き倒し」みたいなことはよくある話です。しかし、彼の意図が那辺にあるかに関わらず、論述内容はかなり偏っており、かつ表層的でもあります。
私事ながら、およそ40年間に亘る海上自衛隊でのキャリア形成の入り口で防大の教育を受け、そのおかげで今日の自分があると認識している小生にとっては、看過できない内容が含まれています。同教授は海上自衛隊の各種学校でも、時折講義を行ってこられたようで、私が退役後のことかもしれないのですが、そのような事実(海自の学校が彼を招聘していた)は承知しておりませんでした。有名な学者さんの様ですが、記事で初めて知ったお名前でした。そして彼は、防大のみならず、各自衛隊部内の学校教育にも言及しています。現役時代、海上自衛隊の人事教育に関わった一人として、教授の指摘を真摯に受け止めると同時に、「それは違う」或いは違和感を感じる点については明確にしておきたい。何故なら、等松論文を読む・読んだ絶対多数の人にとっては、彼の主張が全てであり、多くの国民が防大教育について誤った先入観を持ち、また誤解を誘引するとの懸念があるからです。校長の反論も、小生と同じような観点・視点からなされていると思います。
前置きが長くなりました。先ずは論文(記事)の題名が、「危機に瀕する防衛大学校の教育」と如何にもセンセーショナルです。版元の(売るための)意図が透けて見えますが、ご本人も了解してのタイトルでしょう。もうこれだけで、十分に読者の興味を引きます。記事を読み進めて、以下、小生が違和感を感じた箇所について、順次所見を添えて小生なりの見解を開陳します。
注:青字は等松教授の告発文から抜粋
1 「積年の(筆者注:憲法と現実の)ねじれによって、自衛隊・防衛省および防大は「軍隊と士官学校」としての役割を果たせぬまま、自壊に追い込まれつつある」:真面目に自衛隊を語る時には、必ずこの議論(憲法問題)が出てきます。しかし、彼の主張の半分は正しいが、半分は正しくない。現行憲法と自衛隊がねじれ現象にあることは、今日では多くの国民が理解しているでしょう。象徴的な例を挙げれば、海上自衛隊は古稀(70歳)を過ぎても「海上自衛隊」のままであり「日本海軍」ではありません。防衛庁は省に昇格したが、国防省にはなれなかった。防大に入校して1学年の憲法の授業で、「前項(即ち、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれ=国権の発動たる戦争、武力による威嚇又は武力の行使)の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」と描かれているので、自衛のために存在する自衛隊は憲法違反ではない、と担当教授は主張された。そもそも自衛のための戦争と、能動的に「自らしかける」戦争の切り分けなどできない。自衛のための戦力と、侵略攻撃のための戦力に線引きなどできるはずがない。自衛のための先制攻撃だってあり得る。相手が攻撃してくるのを待っていて国がなくなったら、年間何兆円もの予算を投入して軍事力を維持している意味がないでしょう。
当該箇所(9条)を素直に読むと、上から読んでも下から読んでも、よしんば裏から読んでも、どう読んでも、現状をOKとする解釈には無理がある。小学生が読んでも理解不能であり、とても苦しい解釈だと感じたものです。おそらく多くの学生が、私と同じ思いを持っていたのではないか。我が国の国防や自衛隊が抱える多くの問題が、突き詰めればこの憲法に遡ることは間違いありませんが、しかし一方で、母校や陸海空自衛隊が自壊の瀬戸際に立たされているとは思わない。我々の先人、そして我々自身も、この「ねじれ」の中で呻吟しつつ、如何にしてこの国を護るか、に焦点を合わせて思考してきました。と同時に、この「ねじれ」を解消すべく、制服(自衛官)なりの努力もしてきた。政治の怠慢はいつの世も、末端の国民や現場に負担を強いるものです。夏休みに国費(税金)で海外旅行をし、エッフェル塔を背にしてとんがりコーンになってる場合ではないのです。
2 「優秀で使命感の強い学生ほど防大の教育の現状に失望して辞めていく傾向」:これは主として、所謂「任官拒否」問題を指すものです。「傾向」という表現で逃げ道を作ってはいますが、彼の指摘は明らかに間違いです。私が知る限り、防大で優秀な成績を収めた者は皆、自衛隊における自らの将来に夢を馳せています。だから特別な事情がない限り、輝かしい将来を捨てることはありません。もしかしたら、ごく一握りの優秀な学生が自身の将来について悩み、同教授に相談して辞めていったのかもしれません。私自身も、人物識見ともに優秀な学生が、防大・自衛隊を去ったのを見ています。しかし、それは極めて希なケースです。また、此れを言ったら身も蓋もないのですが、学校の成績と卒業後の仕事の出来は必ずしもリンクしません。
因みに、前のブログにも書きましたが、防大を卒業しても、必ずしも全員が自衛隊に身を投じる必要はない、と私は考えています。自分が「もう無理」と判断し、防大や自衛隊に見切りをつければ、他の分野で国家に貢献すれば宜しい。その方が、組織にとっても個人にとっても幸せです。
3 「制服教員の資質」:彼は制服の防大教員(現役の自衛官)の多くが、修士も博士も持っておらず、論文も書いてないと指摘します。これは、残念ながら事実です。しかし、だから教員の資質が低いと判断するのは軽率です。人事異動の一環で防大に補された自衛官が学生に教えるのは、各自衛隊の基本的な戦術や技術です。問題は、自衛官の階級に応じて教員のタイトル、即ち准教授や教授の称号を付与していることです。なぜそんなことをするのか、昔からそうしているので理由は知りません。本人は、自衛隊の階級よりも国民受けすると思うかもしれませんが、意味がないし、自衛官教員に学者の称号は要りません。制服は階級だけで宜しい。1佐(大佐)に教授の称号を与えて、文官の教授と比較するのはナンセンスです。ならば逆に、文官の防大教授をイージス艦に乗せて「さぁ指揮しろ」、「日本海に展開して北朝鮮が発射するミサイルに対処しろ」と言われても、右往左往さえできないでしょう。
私事ながら、大使館勤務をする際、出向先の外務省から「一等書記官兼一等海佐」という、誠にへんてこりんな辞令を貰いましたが、「一等書記官」と記した名刺は作らなかったし、「一等書記官の?嶋です」と自己紹介したこともありません。念のために申し添えますが、自衛官は学識など必要ない、と言いたいのではありません。全くの逆で、一国の防衛を担う者、とりわけ組織を支える幹部は、文系、理系に拘わらず、より高度な知識を身に着ける必要があります。我々の相手は、机に向かっている学窓の先生ではありません。命を懸けて戦っている、諸外国の軍人です。
4 「学生舎(寮)生活における、パワハラ、セクハラ、いじめ、学習妨害、公私混同の上級生による下級生への無意味な指導。賭博、保険金や補助金の搾取等が学生舎内ではびこっている」:ここ10年ほどの間に防大で起きた不祥事をてんこ盛りにしている、との印象です。自衛隊や防大は社会の縮図であり、聖域ではありません。確認はしてないのですが、部内の責任ある人が言ってるので、何れも実際にあったことでしょう。しかしかかる不祥事を列挙して、防大や防大学生の全体が腐っていると判断するのは早計ではないか。最近の学生の様子は知りませんが、絶対多数の学生は健全である、と確信を持って言えます。
現役時代に多くの事故対応をしてきた一人として、自省を込めて言えば、組織は不祥事に極めて敏感であり、とりわけマスコミには気を使います。しかし最も重要なことは、火消しに躍起になることではなく、ことの問題点を分析して、根本的な要因を取り除くとともに、健全な空気を醸成することです。何でも憲法のせいにしとけばいい、と言うものではありません。当然のことながら、法や規則に抵触した者は厳罰に処すべきです。恥ずかしながら小生も、学生舎ではご法度である酒を飲んで(飲酒)処罰を受けた経験があります。
5 「リーダーシップ、フォロアーシップ教育の弊害」「集団の団結が強調される中で思考停止に陥る」:教授は問題のある具体的な例として、学生舎の8人部屋を挙げています。彼の告発には「士官学校」という言葉が何回か出てきますが、はたして同教授が防衛大学校を士官学校と見做しているか、軍学校として論考しているのか、との疑問を感じます。防大の卒業者は任官と同時に、責任ある配置に就いて、多かれ少なかれ部下を持ちます。そして、自分の知識や技量に関わらず、部下に命令することを余儀なくされる。部下の中には、親の年代に近い人もいます。有事には彼らに、時には彼女らにさえも、砲煙弾雨の中を「行け!」と命じなければならない。これからの国際情勢は待ったなしです。如何に厳しい状況下に置かれても、それこそ「思考停止」など許されません。防大は、朧気ではあっても、学生がその足掛かりをつかむ、掴ませる場所です。
学生舎では、各学年二人ずつの計8人が、一つの部屋で起居を共にしています。そして、最下級性から最上級生までの4年間を通じて、それぞれが何がしかの手がかり掴んで巣立っていきます。数十年前にも同じような議論があり、某校長のイニシャティブで学年別の部屋にしたことがあります。その結果、同期の絆は深まったかもしれないが、現場の部隊からは悲鳴が上がった。楽しい大学生活を終えて任官した幹部たちの指揮能力が、押しなべて著しく劣っているという現実です。部隊の切実な声を受けた防大では、再度議論を重ねて元の8人部屋に戻し、現在に至っているという経緯があります。
私個人の経験としては、教授が懸念を示しているような、重要な意思決定の局面、即ち印度洋での補給支援活動や東日本大震災における救援活動において、この学生舎生活(8人部屋)であったが故に、指揮官としての思考に支障をきたしたと感じたことはありません。8人部屋の弊害は? と問われても、思いつくことはありません。苦しいことや悩んだことはありますが、それも勉強になっったし、任官後の指揮統率に資するものでありました。上級生下級生を問わず、消灯後のベッドで人生や恋愛などを語り合ったのは、懐かしくもあり楽しい想い出です。8人部屋は人間を成長させると思う。
後編に続く
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