一方で、自衛官の靖國神社参拝が物議をかもしています。ただ、騒いでいるのは内外の、一部のマスコミのようです。そりゃそうでしょう。常識ある人は、何が問題なのかが理解できないと思う。戦後間もない頃には、島倉千代子さんの歌にも出てくる「?國」であり「九段」です。?國神社と聞いただけで条件反射の如く、やれ戦前への回帰だとか軍国主義の復活だと煽る。マスコミなどが騒ぐことによって、徐々に国民の脳味噌に刷り込まれていきます。先ずは国内で騒いで、(結果的にせよ)近隣諸国にご注進する。これを受けた国が外交問題に発展させる。という、いつもの流れです。デザインが旭日旗に似ているというだけで大騒ぎする隣国ならいざ知らず、如何に主義主張が自由であるとはいえ、現在なされている国内の議論には疑問を感じます。
そう言えば、海上自衛隊の哨戒機(P3C) に対する射撃管制用(FC)レーダー照射問題も、いつの間にかうやむやになってしまっている。FC レーダーの照射は、明確な軍事的敵対行動と見做されます。従って、仮に何らかの錯誤によって電磁波が出た場合であっても、本来ゴメンナサイで済む問題ではない。徴兵制を敷き常に臨戦態勢にある K 国が、そんなことを知らないわけがない。日本側が証拠を突きつけて抗議しても、知らぬ存ぜぬでホッカムリをしたままだ。あの国(日本)には何を言っても、何をやっても大丈夫。自ら足枷を張り巡らし、しかも政府(政治家)も役所(官僚)も腰抜けばかりだから、此方が強気に出れば必ず引く、と思われている。残念ながらこの国は、そう思われても仕方がない実績(失政)を半世紀以上も重ねてきた。
記者会見でご自身の靖国参拝を問われた石原さん(都知事)が、「何処の国の新聞だ!」と記者を一喝する動画(YOUTUBE)が残っていますが、ことは自衛官20万人の士気に関わる問題です。いい加減に(決着)してもらいたいが、残念ながら期待はできそうにもない。この国のことです。おそらくは敗戦から百年経っても、営々と不毛の議論を重ね、何ら伸展していないような気がする。しかしそれも、日本と言う国が存在しておれば・・・の話です。絶対多数の国民は「国が亡くなる」なんて夢にも思ってないでしょうが、世界史にはいくらでもある話です。
先ずは、国家と国民の護りに就いている自衛官に、軍人としての位置づけのみならず、処遇も名誉も与えず、任務や役割、そして仕事の結果には諸外国の軍人と同等のものを求める。と言うのは筋が通らない。かつて吉田茂(首相)さんが防衛大学校の1期生に「諸君がもてはやされない時代こそ、この国が平和なのだ」なる旨の話をされたと仄聞する。我々も先輩から自虐的に、そのような意味のことを伝承で教わった。しかしそれは、防大の草創期、或いは自衛隊の建設期であれば通じた話です。あれから半世紀以上が経ち、これほど内外の情勢が不安定な今日にあって、自衛隊には訓練ではない、命を懸ける実任務が与えられている。そんな情勢下で「(平和なん)だから我慢してくれ」は全く説得力がないし、よしんば頭では理解しても隊員の心には響かない。
現役自衛官の?國神社参拝を指摘された防衛省・自衛隊も、「公務ではなく休みを取って、或いは休み時間に・・・」「公人ではなく、個人の意志で・・・」などと言い訳がましい。遂には、公用車の使用が不適切とかの理由を付けて、当該隊員に懲戒処分を食らわせてお茶を濁す。嘘ではないが、詭弁であるのは明らか。誰に遠慮をして、ピシャリと正論を言えないのか。省内の官僚のみならず、制服自衛官上層部の多くも「余計なことをしてくれて、仕事が増える」と内心は思っている・・・かもしれん。これを、制服の官僚化と言う。先の大戦はそれで敗けた、と言っても過言ではない。
東郷神社や明治神宮はよくて、なぜ?國はダメなのか? 東郷(平八郎)さんも明治天皇も、戦犯に問われなかったからか? お伊勢さんや鹿島神宮、出雲はよくて、なぜ?國はダメなのか? 戦勝国が勝手に「A 級戦犯」などとレッテルを張った、軍人等が祀られているからか? A 級戦犯を合祀から外せ、という意見もある。身を切って実を取れということかもしれないが、姑息な手段であり稚拙な戦術に過ぎない。到底、相手の戦略には敵わない。仮に外しても、言う人は言うし、言いたい国は言う。しかしそもそも、この A 級戦犯ってなんなの?
次官通達に抵触すると言う論調もあったが、要は、本件に対する日本国(政府)の姿勢の問題です。勿論、規則や規範の良し悪し(内容)は横においても、規律違反は軍隊の根幹に関わる。よって自衛官は、仮に悪法であっても遵守しなければならない。しかし法律や規則は憲法と同じで、時代や情勢に応じて、適時に見直しをすべきである。そこを逃げていると、結局、しわ寄せは国民や現場に行くことになる。
と言いつつも、私自身は現役の時も退役後も、靖國神社にはさほど参拝していない。参拝するにしても、旧軍に似せた出で立ちの人が来るような時機(日にちと時間)は避ける。失礼だが、気持ちの上で一緒にされたくないから。だから、特に記憶に残っている参拝は生涯で2回しかない。
1回目は防衛大学校の学生(4年生)のとき:昭和49年12月8日の未明、浦賀駅から始発の電車に乗った。制服の上には外套を纏った。最上級生と言えども、時間外の外出には届が必要だ。幸いこの日は日曜だったので、特段の横やりや問題もなく校外に出ることが出来た。勿論、早朝外出の申請はしている。同室の腹心の3年生が、目をこすりながら見送ってくれた。制服が効いたのか、神社は若造を丁重に扱ってくれた。お茶もいただいたと記憶する。帰りの電車(京浜急行の下り)で、一人の先輩(一年生の時の4年生)に遭遇した。日曜早朝の下り電車ということもあり、車両(箱)の乗客は我々二人だけだった。当時彼は艦隊の旗艦に乗り組んでおり、私にとっては眩しい、溌溂とした青年士官だった。「?國神社に行ってきました」と告げると、照れ隠しだったのか「君は偉いな〜」と褒められた。憧れの先輩は朝帰りの風情でした。
2回目は海上部隊の中間指揮官のとき:限りなく実戦に近い訓練(検閲)に備えて、徹底的に部隊と自分自身を鍛え上げ、出撃前の休日に参拝した。幕僚(スタッフ)や副官にも告げず、一人で九段まで足を延ばした。本来、指揮官が所在不明になるのは許されないことだ。勿論、移動には電車を利用し私費で行った。私服による通常の参拝なので、本殿には上がっていない。その必要性も感じなかった。部下を帯同しなかったのは、問題が起きて迷惑を掛けてはいけない、と言う些末な理由よりも、戦闘に赴く一人の指揮官として、心静かに先人と対峙したかった。
二回とも、参拝に特段の理由はない。参拝がなんちゃらかんたら言う、正直、その意味が小生にはよく理解できない。敢えて言うなら、先人に裸の自分をお見せして、ご加護を願ったのは確かだが、「私の血がそうさせた」が最も正鵠を射ている。祝祭日や節目の日には、玄関に国旗を掲げるのと同じ。「なんで国旗を揚げるのか?」と問われても、「私の国家観です」と応えるしか術がない。キザに言えば、私の身体に宿る文化と言えるかもしれない。普通の国(諸外国)では、普通に国民に根付いていることだ。衆参両院議員会館、何人の議員さんのオフィスに国旗を見ることができるだろうか? 国旗の有無は、国家・国民に対する忠誠心を測る指標になる。
勿論、上記二回の参拝とも、決行の前には自分なりに検討を重ねている。初詣の様に、単なる思い付きで参拝したのではない。ややこしい問題がある、即ち、自衛官の参拝を問題視する、人や国が存在するのは承知している。しかし仮に、私の行動を批判されても、或いは難癖を付けられても、今もって自分に恥じることはない。
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13年前の3.11(金)2030頃、自衛艦隊司令部に移動する車窓から観た宵闇の横須賀は、猫一匹見当たらず静まり返っていた。映画で観るゴーストタウンのような、初めて経験する街、第二の故郷・横須賀だった。ここ数年間(当時)にわたって心配していたことが、現実となって目の前に広がっている。一刻を争う命令は既に口頭で発出しているが、今後、全軍に布告すべき「指揮官としての情勢判断」や「細部に亘る作戦要領」などが頭を巡る。
大正12年(1923)の関東大震災、戒厳令が敷かれた横須賀もかくの如しであったか。いやいや、東京、横浜に次ぐ大被災地であった横須賀の街並みは、震度5弱の今回とは比較にもならない、さながら地獄絵であったろう。頼みとする聯合艦隊は旅順を緊急出港し、最大戦速で大平洋を駆けているが、東京湾に入って救援活動を開始するまでには今しばらく時間を要する。今日の様に大型スクリーンで、部隊や現地の状況がつぶさにわかる指揮システムなどない。鎮守府の建屋が崩壊したため、横須賀鎮守府司令長官は庭にテントを張り、地図と海図を持って指揮を執った。そして、横須賀・三浦地区の戒厳司令官に任じつつ、市民の救済・救援に当たった。加えて、復興作業に向けた木材の買い付けまでやった。
市内全域が停電となり、交通信号に灯はないが、行き交う車もない。たった10分ほどの移動であったが、不気味な静寂を眺めつつ、時の鎮守府司令長官に思いを致し、そして我が身を重ねる。「しっかりせい!」と自らを鼓舞した。
一国(或いは二国)が戦争に至るには、通常、外交を含めた内外情勢に大きな変化があり、張り巡らしたアンテナ(情報網)に引っ掛かる、何らかの兆候を事前に察知することが出来る。従って、攻撃する方もされる側も、寝耳に水的な咄嗟攻撃(sudden attack)の事態は考え難い。しかし地震だけは、前もって知ることができない。能登の場合も、発生した後に「前兆があった」と専門家は言うが、ならば何故、発生の前に注意喚起しないのか。失礼ではあるが、後知恵ではないかと疑ってしまう。人間の叡智、総力を挙げた今日の科学を持ってしても、直前(1〜2秒前)に「大きな揺れがくるぞ〜!」の予告があるだけ。しかも、日本全国どこで発生するか誰も分からない。その規模はまさに出たとこ勝負。起きてみないと分からない、のが実態である。我々は誠に悩ましい国に住んでいるが、これからもこの国で生きていく以上、残念ながらこれを逃れることはできない。
ということを前提にして、では我々一般国民には何ができるのか、具体的にどんな備えをすればいいのか?
東日本大震災における津波では、ひとつの例として、この地方(三陸)に伝わる「とにかく高台を目指せ!」で九死に一生を得た人もいる。先ずは、長年にわたる、地方の伝承を丹念に拾い集めること。伝承の中には、現在の社会や生活環境からは乖離しており、陳腐化した教えもあるだろう。しかし、単純にアナログで思考するのが賢明である。先人が遺した言葉には、積年によって得られた教訓と切実な思いが込められている。私は講演や講義で、「年に一回でいいから、一日24時間、ライフライン(電気、水道、ガス)+通信機器(スマホ、タブレットなど)が使えない状況を作為する、即ち手軽な防災訓練を行う」ことを提唱している。2回目、3回目の訓練では、より困難な状況を作為し、住んでいる家など建物が崩壊して使えないことを想定する。さすれば、「何を準備すればいいのか、が自ずと見えてくる」
準備することは、個人や家庭によって違うはずだ。家の位置や大きさ、室内の模様、家族構成とか、或いは仕事場とか、いろいろな条件(ファクター)が個人個人、家庭家庭によって異なる。従って、自分(たち)に合った準備が必要となる。とにかく、ライフラインが途絶したことを想定して、24時間を生きてみること。準備することや物は季節によっても異なるので、訓練をやる時期は真夏とか厳冬、即ち最も厳しい季節がいい。
先般、或るテレビ番組で専門家が、「食糧は特段の準備をしなくても、実は各家庭には皆さん一週間程度の備蓄があります。即ち、冷蔵庫にはその程度の食糧が保存されており、BBQ(焼いて)でそれを食べればいい」などと言っていた。一見ナルホドと思えるが、一例とは言えとても安易な発想だ。そのためには家が崩壊しておらず、ライフラインも生きている、とても軽微な被害が前提となる。従って、大災害の被災地ではおよそ適用できない。
かと言って、狭い家に大量の食糧を備蓄・保管しても、緊急時に取り出すのは困難だろう。従って、当面は三日分の食料を Backpac(リュックサック)に詰めて、枕元など直ぐに持ち出せる所に置いておく。三日間を自力で何とか凌げば、現在の国や自治体、自衛隊の体制・態勢であれば、その間に必ず救援が来る。十分とは言えなくても、生きるための食糧は届く。何の権限もない老兵(Old Sailor)の言葉ではあるが、信用してくれていい。
冒頭に述べた石巻の幼稚園は、電線を超える津波に襲われたが、流れ出て波間に浮かぶ一斗缶の乾パンを拾い寄せ、それを食して、氷点下の一夜を屋根の上で凌いだと言う。危機に直面した先生の機転に負うところ大であるが、生き延びるためには、最低限の食糧と飲料水の備蓄が必須要件であることを教えてくれている。
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小生の郷里讃岐は風光明媚で、年間を通じて気候は温暖、誠にゆったりとした空気が流れています。人間は生まれ育った、或いは生活している土地の空気や環境、特に気候風土に大きな影響を受けます。私はかつて海の男だったのでよく分かるのですが、太平洋の波と瀬戸内海の波(の荒さ・穏やかさ)は桁違いに違います。内海とはよく言ったもので、太平洋に比べると瀬戸内海は湖みたいなものです。
そこで小生の仮説ですが、何事にもゆったりした讃岐から坂本龍馬は生まれないし、もし彼が讃岐に生まれ讃岐で育っていたなら、あのような生涯は送らなかったと思う。勿論これは、偏見に満ちた仮説かつ一般論ですが、自虐しているのではなく、況や郷里を貶めようとしているのではありません。当然のことながら、讃岐・香川にも立派な方が大勢いらっしゃいます。因みに、総理大臣はお一人(大平正芳さん)、東京大学総長もお一人(南原繁さん)出ておられます。しかし残念ながら、帝國陸海軍・自衛隊を含め大将は一人も輩出しておりません。明治維新において官軍に与しなかったためか、或いは歴史的に尚武の地ではない、と言うことでしょうか。
何が言いたいのかというと、ひとつの例として、土佐(高知)と讃岐(香川)では防災に関する感覚=危機感に大きな差がある(あった)、と言うことです。何年か前ですが、上記の同僚先生(と言うのはおこがましいが)に紹介されて、高知で開催された防災学会に参加したことがあります。そこでは何組かの地元の人が、地域の防災計画について紹介されました。或る地域の方が、「私たちが住んでいる村は、宮城県の○○湾に似ている」と言って、(近い将来に生起するであろう)南海トラフ大地震を真剣にとらえ、その対策を思考していました。東日本大震災を「明日は我が身」として認識し、南海トラフに備えようとしている姿に驚きました。3.11の救援活動に関わった私は、或る種の感動さえ覚えました。
翻って我が郷里を概観すると、この高知県民の様な捉え方をして、大災害に備えようとしている地元民は、当時はほとんどいなかった。多くの県民にとって大災害は他人事でした。但し、数年前の小生の感覚です。念のため。いたずらに脅威を煽るわけではないのですが、元旦の能登半島大地震が示すように、もう何時・どこで大災害(震災)が起きるか、正直誰にも分らない。私など学識がないので見当も尽きません。でも40年間、洋上の危機の中で生きてきたので、経験に裏打ちされた直感は働くのです。神様は実に冷酷な一面をお持ちです。
話を元に戻します。AEON 綾川では持ち時間が30分しかなかったので、また主催者の趣旨からも外れると思い、上記のような過激な発言はしませんでした。トークショーだけではなく、広場の一角では、防災に関する相談受付や備蓄品の説明コーナーなどもありました。ゲスト・スピーカー(小生)写真入りのチラシや、地元新聞を通じたイベント情報の告知、更には FM ラジオによるお知らせなど、主催者側はあの手この手で広報に尽力されたようです。しかし残念ながら、視聴者は午前・午後(昼食をはさんで二回実施)とも20人程度でした。この20人には、どこからか聞きつけた小生の知人や親戚筋も含まれているので、実質的には各回15人(計30人)程度の方が関心を持って参加された、と言うのが実態でしょう。因みに、知人・友人や親せきには何方にもお知らせしてなかったので、その多くは新聞を観て来られたようでした。今なお丹念に新聞を観ておられる人がいることに、正直驚きました。各ブースには買い物客の立ち寄りなど、一日ではかなりの人数が訪れていたと拝察します。
そして、上から目線で恐縮ですが、数年前に比べると、県当局も県民もかなり意識が変わってきているな、と感じました。
肝心の小生の話(トーク)ですが、時間が限られているので、東日本大震災の写真4〜5枚を用いて、大震災(津波被害)の実相や実態について、私の経験やそこから得られる教訓などをお話しました。講演ではないので、FM 香川専属のパーソナリティ(市川智子さん)のご質問に、私が応える形で進行されました。過去にも何回かラジオ番組に呼ばれたことがありますが、MC さんは皆さん、流石に語りのプロですね。たった数分の事前打ち合わせで、ゲスト(小生)が応え易いように、とても上手に誘導してくれます。今回も小生は、市川さんが手にするお茶碗の(中の)サイコロのように、汗をかきながらコロコロ転がってるだけでした。FM 香川の営業兼ねてスタッフさん(偶然にも高校の後輩君でした)がソデで示してくれる、「終了○○分前」の表示に気づくこともなく、持ち時間の30分があっという間に過ぎました。
そんな感じで、今回は草の根的なイベントではありましたが、小生が抱く(学術的な理論に全く裏打ちされていない)直感の危機感を、一人でも二人でも郷里の人たちが共有して下されば、本イベントの意義はあったと思います。企画から実施までご尽力下さった関係各位、参加された県民・市民の皆様、本当に有り難うございました。お疲れさまでした。
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PS 事前確認の為、綾川 AEON の会場に足を運んだ時、一人の中年男性が小生の前にツツっと進み出てこられて直立、ピシッと美しく厳正な敬礼をしてくれました。そして「私は陸上自衛隊 OB の○○○○ であります!」と、現役に優るとも劣らない、素晴らしい申告をして下さった。案内してくれた FM 香川の関係者も、びっくりしてました。AEON の警備に当たっておられるようでした。何十年ぶりかで、『男たちの旅路』の鶴田浩二さんを思い出した。能天気に生きている小生は、予想もしなかった事態に一瞬面食らったのですが、とても有り難くて感激し、清々しい気持ちで深く頭を下げました。
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近頃の自分の癖を顧みると、嫌な性格であることが自分でも分かります。特に若い子や女性には、嫌われる(既に嫌われている)と思います。例えば、食卓にせよ仕事の机にせよ、卓上に置かれたものは卓・机の縁(ふち)と平行、若しくは直角でないと気に入らない。下着など衣類はそれなりに畳んであって、棚に整理して置かれてある(べき)。朝起きて、畳んであった服に袖を通すのと、昨夜脱ぎ捨てた服を着るのでは、着る時の気持ちに大きな違いがあります。朝一でキチンとたたまれた服を着る時の爽快感、何に例えればいいのか、ボキャ貧の小生には紡ぐ言葉がありませんが、 敢えて言えば、口にすると精神(心)がシャキッとする、夜明けのコーヒーみたいなものでしょうか。ただ、これらは自分一人で完結する、そして他人様に迷惑は掛からないので特段の問題はない。
しかし例えば、調理用の IH ヒーターには、大概丸い輪っかが何個か描いてあります。鍋などを乗せて加熱・温める時、鍋底がこの輪っかにキチンと均等に乗ってないと気が済まない。これには私なりに正当な理由があって、それは単に熱効率の問題です。なんせ貧しく育ったもんで、電気の消費が勿体ない、と思う。これを繰り返していると、ただ置いてあるだけ、即ち温めてない時であっても、均等に乗ってないと何となく気になる。そして置き直す。こうなると、もう病気の域に入ってます。他人がやったことに手を加えると、間違いなく嫌みに取られるよね。でも、ちょっと言い訳すると、これらは私の性癖や性格ではなく、職業病とも言えます。テレビなどで時々紹介されます、自衛隊のベッドメイキングが。あの辺りが原点のような気がする。
とは言え、中学生や高校生の時には、制服のズボン(パンツ)は自分で洗濯し、母親の手を煩わすことはなかった。だから防衛大学校に進んでも、洗濯・アイロンなんかは得意だったので、何ら戸惑うことはなく、苦労とも思わなかった。
几帳面な一面はあるが、何事についてもキチンキチンとこなす、律儀な人間ではありません。むしろ、仕事は溜める方です。特に厄介な事案については。現役時、大概はお上が能力以上の仕事をくれたので、勢い仕事が後手になりがちでした。その癖は未だに治らず、面倒なことは後回しになります(します)。例えばおひとり社長の業務で、処理がやや面倒な年末調整とか確定申告など。会社を建てて10年近くになるので、手順は分かっており、その気になって集中すれば短時日で完了するのですが、尻に火が付かないと本気にならない。悪い癖です。
若い頃、先輩が「拙速優遅」という言葉を教えてくれました。「出来がまずくても速いのは、遅くて出来が良いのに勝る」という意味です。勿論、この考え方は何事にも通じるものではありません。事柄によっては、逆の場合もある。ケースバイケースです。落合打法(引き付けて打つ)をやっても、空振り三振したらバカって言われるだけ。拙速が良いのは、修正が利くってことです。時限がある軽易な仕事は、拙速がいいと思う。一方戦術や戦略に関わることは、腹を据えて思考するのが宜しい。それでも時限はありますが。
65歳になると市役所から「介護保険被保険者証」が、古稀で「健康保険高齢受給者証」が送られてきて、何か外堀を埋められたような気がしたものですが、あと数年経つと「後期高齢者」の大きな括りに仲間入りです。自分では「若い」と思っていても、客観的な姿勢で天井を見つめてみると、頭の回転(これは元々よくない)、面相、肌の張りや皺(特にほうれい線)、運動能力、体力、もの忘れ、などなど、やはり歳相応であることを、ひしひしと感じる今日この頃。一方で飲み食いの方は若いもん並み、だと思いますが・・・これはこれで困ったもんです。で最近では、いたずらに加齢に逆らうよりも、それを認めたうえで、では如何に生きるか、と考えた方が楽ではないか、と思っています。
今実践している、具体的な加齢対策を披露します。
毎夜、小さなメモに翌日の行動予定、起床時刻から夕食までを書き出します。就寝はいつも23時〜24時なので、特段のことがなければオミット。そして当日は、終わったものから一つずつ線を引いて消していきます。勿論、出かける時にはポケットに、この紙片があります。現役の最後の頃には副官(秘書)が作ってくれていたものを、自分でやるわけです。作成するのも、終わった順に抹消していくのも、何となく自分を律しているようで、かつ充実感があって意外と楽しい。かと言って自分にノルマを課しているのではなく、その日にできなかった、或いはやり残したことは翌日以降の予定に組み込みます。だから今頃では、確定申告、確定申告・・・と毎日続くことになります。
寝室の出口ドアには、「電気 水道 財布 スマホ 免許証 鍵」と描いた小紙を貼ってあるのですが(拙宅にはガスは通じておりません)、如何せん出かけにこれを見るのを忘れる。だから、玄関の鍵や車のキーを家に閉じ込めて、風呂の窓から家宅侵入したこともあります。田舎のこととて、パトカーの見回りなどないのが幸いです。かかる非常時に備えて、身体はスリムにしております。歳は取りたくないものですな。
筋トレは簡単なものであっても、基本的には毎日実践しないと身に付かないし、私の様に自分に甘い人は続きません。今日は疲れたからいいや、などと理由を付けて自分を納得させるのが常です。昨年までは土・日曜は休みにしていたのですが、週日で物理的・時間的に出来ない日もあるので、今は赤字(祝祭日)に関係なく、行動予定や体調によってできない日を除き、基本的には毎日することに「変針」しました。ストレッチを含めて1時間弱の、極めて安易な体操です。事情や気分によって一時休止したこともありますが、20年ほど継続してやってます。先日のこと、調子に乗って腹筋を少し頑張ってやったのですが、二日ほど軽い腰痛がありました。この歳になると、無理をしないのが長続きのコツだね。
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しかし厳しい言い方だが、政府や自治体そして自衛隊は、そもそもゴメンナサイが許される組織なのか? はっきり言えば、大して汗をかかなくても、結果が良ければ all right 、逆にどんなに努力しても、成果を出せなければ X 。勿論、今回の救援活動がダメだと言ってるのではない。関係機関やそれに属する人たちは、寝る時間を削って計画し、現在できることを最大限に行っていると推察します。
かなり前のブログに描いた話ですが、極めて重要な意味を含んでいるので再度取り上げます。小生が防衛大学校の学生だった(昭和49年:1974)時のこと、「第十雄洋丸事件(海難事故)」が起きた。同船(タンカー)と貨物船が、海上交通の要所、東京湾で衝突したもので、現場は防大の眼下だった。政府は当該船(雄洋丸)を太平洋で撃沈すると決定し、その指揮を当時の自衛艦隊司令官が執られた。司令官(海将)は人格識見ともに優れた方で、しかも大東亜戦争で実戦の経験がおありになる、海上自衛隊の星だった。後に、海上幕僚長に栄進されています。しかし結果的に、雄洋丸を沈めるのに時日を要した。何も分かっていない学生も、その推移に心を痛めたことを思い出します。
同事件の数年後、幹部候補生学校(江田島)の卒業式に、呉地方総監である某海将(司令官の海軍兵学校同期)が列席された。彼は幕僚が書いた原稿を、棒読みするようなことはしない方だった。原稿なしで、自分の言葉で語りかけるのが常だった。卒業式の来賓として我々卒業生に祝辞を述べられたが、その中で「雄洋丸」事件に言及された。後輩に対する餞(はなむけ)と、戒めの言葉であったと思う。50年経った今でも、彼の言葉を鮮明に覚えています。要旨は次の通り:
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高松宮宣仁親王殿下(海軍兵学校52期)とお会いする機会があり、殿下に雄洋丸事件(の経緯)についてご縷々ご説明申し上げた。静かに話を聴いて下さった殿下が一言、「総監よ (帝國)海軍は言い訳しないのを美徳とした」と仰った。
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先輩の教にも拘わらず、現役時代には何度も何度も言い訳をした。上司にも部下にも、そして自分自身にも。それで窮地を逃れたことも度々ある。しかし、心の深層にはしこりが残った。決して後味が良いものではなかった。軍事、軍事組織は結果が全て、と私は思っている。人事評価も、基本的には結果(成果)をもってすべきである。勿論、個人の人格や識見、努力も重要な要素ではあるが、結果に優るものはない。今次、政府(最高指揮官)のイニシャティブと命令、それを受けた防衛省・自衛隊の対応、現場の衝に当たる者には言いたいことも多々あるだろう。しかし、例として何回も繰り返して恐縮だが、「(一夜明けて)尖閣に上陸されました」が許されるか? 「我々はこれほど頑張りました。装備も人も金(予算)も貧弱すぎます」と言っても、国民は誰も許してくれないだろう。それが軍事組織の宿命である。
繰り返すが、いたずらに今回の震災対応を批判するものではありません。被災地の道路が途絶して、兵力を投入したくてもできない(できなかった)事情は理解している。しかし、であれば他の方法、例えば海から空からのビークルを使った救援救助は、より早期に、より果敢にできたのではないか?
1月5日の報道と記憶しているが、総理が記者会見で「未だ被害の全貌が見えない」と宣われた。誠に正直で宜しい・・・が。東日本大震災が生起するや否や、米海軍は即座に航空機を飛ばして数万枚の写真を撮った。その写真を分析して、状況の深刻さは勿論のこと、被災者の孤立位置まで細部を把握していた。だから彼らの対応は迅速で、的を得たものだった。今回も米軍は同じことをやったと思う。
批判だけなら子供でもできるので、ひとつだけ提案したい。能登半島の教訓として、「震度7」を超える地震が起きた場合には「大震災」になることを予期し、関係機関は勿論のこと、周辺地域を含め当該地域の個人も、出来得る限りの準備に着手し、速やかに行動する。極めて効率が悪い作戦であり、拙速な対応になるかもしれない。しかし、拙速は優遅に勝る。後日、過剰な反応だったと誹られるかもしれない。しかしそうすることで、一人でも多くの命が救われるのであれば、それでいいと私は思う。元旦の日、NHK の女性職員が「早く逃げて!」と叫び続けた。放送史に残る、素晴らしい対応であったと思う。彼女の決断と行動を非難する者は(おそらく)いないだろう。
南海トラフも首都直下も、何時あってもおかしくない。そしてその時には、日本(人)は逃げることが出来ない、極めて過酷な状況に直面する。見えない敵はヒタヒタと、もうそこまで迫っている、と考えるのが賢明である。一日も早く「震度7」を一つの大きな指標にすること、そしてその対応要領を明文化するよう提案する。この時に、国会は今、何をしているのだろうか?
1月22日の報道によると、能登半島に対する台湾の加油(義捐金)は、22億円に上ったという。政府の支出ではない。台湾の人たちの懐から出た「おかね」である。勿論、おかねが全てではない。しかし日本国民は、台湾人の心を銘記すべきである。
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お正月には一年の計を立てるのが、ここ数年の小生の習わしです。ただ「計」などと称するのはおこがましく、今年はこんな風に過ごしたいな〜という、個人的な願望に過ぎません。でフト思ったのですが、小生、今春には72歳を数えます。「72」ということは、干支で言えば第7周目に入るということ。よくも長い間、お米をいただいてきたものです。さて、1〜6周の間に自分は何をしていたのか? これを回顧してみると、今年は何をすべきか、どうあるべきかのヒントが見つかるかもしれない。との思いで、先ずは過去を概観してみます。
第1周(0〜11歳):3〜4歳頃までの記憶は殆どありません。僅かに記憶があるのは二つだけ。一つは便秘になって大変苦しい思いをしたこと。母と叔母がガン泣きする小生の肛門に、湿らしたガーゼを当てて何とか排便に至った。情けない話です。もう一つは、秋の刈り入れ時、田圃の畔で母が「稔るほど頭を垂れる稲穂かな」と呟いたこと。勿論、私に対する戒めとして言ったのでしょうが、当時の私には理解し難い言葉でした。だからでしょうか、今なお「頭が高い」と言われる歳寄りです。
1周めの淡い想い出:小学校も半ばを過ぎたころ、ひとつ年上の女の子を好きになりました。それがまた、文字は違うが私と同じ名前でした。これが、所謂初恋です。理由は自分でも分からないのですが、小さい頃からやけに年上の女性に憧れました。頭でっかちだったのかもしれません。これをカワギリに、以降、私はさしずめ「寅さん」になりました。
第2周(12〜23歳):幸いなことに、この期間に中学、高校、大学(準大学)と歩を進めることができました。高等専門学校や他の大学(商船大学など)を受験する選択肢はあったのですが、結果的に防衛大学校に進んだことによって、その後の人生が決まりました。複式学級の田舎の分校から中学校に進んで間もなく、2歳年上の女子生徒に恋をしました。当時はその人が、とても大人に見えたものです。多少は知恵がつき始めており、また心理的にもやや高まりのある感情だったので、これが実質的な初恋と言えるかもしれません。詳細は省きますが、勿論、桜はむなしく散りました。そりゃそうだわな。中学3年生の女子が1年坊主を見ると、子供にしか見えんでしょう。因みに、その他にもいろいろな条件が合致したこともあるのですが、そのひとを追って同じ高校に進みました。ちょっと勉強ができる子、という評価は中学校で終わりです。肝心の数学、物理、英語が苦手な山出しの少年は、高校・大学(校)を超低空飛行で過ごしました。幸いにも墜落しなかったのは、ただただウンが良かっただけ。
第3周(24〜35歳):南米方面への遠洋練習航海を終えて昭和51年の暮れ、勇躍佐世保に赴任しました。早速大晦日に当直が当てられ、士官室のテレビで観たレコード大賞の番組、石川さゆりさんの『津軽海峡冬景色』、最優秀歌唱賞だったかな、白いドレスを纏った彼女は本当に清純で、しかし大人びた綺麗な人だった。資料によると、この唄は昭和52年のヒットになっているので、翌年(昭和52年)のことかもしれません。ただ、彼女の映像は今も目に焼き付いています。その後は右往左往しながら、艦隊勤務に没頭しました。青年士官と言えば聞こえはいいのですが、自らの能力と部下の扱いに悩み苦しんだ時代です。不甲斐ない仕事しかできない自分が情けなくて、夜な夜な、飲めない酒の力を借りて過ごしました。佐世保はそんな青年を包み込んでくれる、優しい街でした。ちょっぴり仕事に自信がついたのは、30(歳)にならんとする頃です。艦隊一の航海長になる、が当面の目標でした。
第4周(36〜47歳):厄年ってのは本当にあるのでしょうか。41歳の夏、奄美大島出張中に交通事故に遭いました。四周が砂糖キビ畑の十字路でした。担ぎ込まれた病院の先生が、レントゲン写真を観ながら制服を着た傷痍軍人に、「せめて敬礼だけはできるようにしてあげたい」と言った。あゝ俺は片端になるのか、もう第一線での艦隊勤務はできないのか、と思うと目の前が真っ暗になった。数か月後、何とか敬礼が出来るまでに回復し、上司である人事課長に「こんな身体なので、海外赴任(アタッシェ)は辞退したい」と願い出たのですが、笑って取り合ってくれなかった。人生の岐路でした。ええ〜いどうにでもなれ、と北欧(在ノルウェー日本大使館)に向けて飛んだ。ところが豈(あに)図らんや、北欧で過ごした3年間は人生至福の時でした。不勉強に因る言葉のハンディキャップは大きかったが、この大使館勤務を通じ、人間、開き直ると何とかなるということを悟った。
第5周(48〜59歳):失敗を重ねヨタヨタしながら歩を進め、武人としての最終章は拙著『武人の本懐』に記した通りです。
第6周(60〜71歳):第5周ではいつも過分な配置を頂いて、それなりに頑張った者へのご褒美でしょうか、この間に運がウンを呼び、多くの皆様のご支援を頂いて、上記拙著の英語版を含め4冊の本を上梓することができました。ご尽力いただいた、関係者の皆々様には感謝しかありません。ここ7年ほど郷里の畑でパパイヤなる植物を栽培しておりますが、そのキッカケを与えてくれたのも、拙著がらみの人脈でした。遡れば、第5周の最後で東日本大震災に関わったことが、結果的に、その後の人生を大きく変えた。ここも大きな岐路でした。
そして、今年は佳境の第7周に入ります。直感ですが、人生の大きな節目・転換点になりそうな気がする。それが何なのか、未だ朧気にも見えません。更には、小生に次の周(第8周)があるのか否か、それは神のみぞ知る。何れにしても、新しい年を迎え、気を引き締め、背筋を伸ばして3本先の電柱の天辺を見ながら、限りある一日一日、一年一年を大切に生きたいと思う。イエ〜イ! と、ここで目が醒めた。
下らん初夢でした。ちょっとお屠蘇が過ぎたか? 本年も宜しくお願い申し上げます。
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PS この原稿を描いている時に、たまたま次の本に出合いました。さらっと読める、そして元気をくれる好著です。本を読んだのは久しぶりです。生意気言うようですが、本ってのは学術書を除けば、難しい言葉を使えばいいというものではない。むしろ平易な言葉で、読者に訴えることができるのが高著と言える。
『人生は80歳からがおもしろい』 吉川幸枝著(アスコム)
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テレビをつけると、NHK の女性アナウンサーが繰り返し繰り返し、津波から逃げるよう叫んでいた。この注意喚起の報道(アナウンサー)は、結果から言えば過剰であったかもしれないが、極めて適切なアナウンスであったと思う。一方で某テレビ局は、暫くの間、能天気な番組を放送していた。なんだかんだと批判が多い公共放送ではあるが、やはり NHK と思った人も多いのではないか。テレビ局の組織図は承知していないが、報道局長等のセンスの違いと思われる。
当日の夜までの報道では、「6人が生き埋めになっている」だった。私見では、大災害の場合、初期調査結果の概ね10倍の被害があると考えることにしている。震度7という地震の大きさから推察すると、しかもこの時期の気象条件を鑑みると、最終的には10倍以上の被害が予想される。救助する側はそのくらいの認識を持って、派遣する兵力の規模を含め、自分自身と送り込む救援物資などを準備して救援に臨む必要がある。被害状況が判明するのに応じて、防衛大臣が兵力の増強を表明したが、私には???である。段階的な増強ではなく、初動全力が結果を良とする。
報道で観る限り、陸海空自衛隊の統合任務部隊編制や救援物資の海上輸送指示命令など、防衛省の対応は遅いように見える。阪神淡路大震災の教訓を得て、震度5弱以上の地震が発生した場合には、部隊指揮官は独自の判断で部隊を動かすことができるようになっている。現場の部隊は大臣が発信(公表)するよりも、もっともっと早い時機に始動していると推察する。
神様は時に皮肉である。この国の近年の大災害は、何れも政情不安な時に起きている。阪神淡路大震災、東日本大震災然り。今回、当該知事の名前を思い出して、ああ〜と思った。最高指揮官は言わずもがな。ご本人にとっては誠に不運であったろうが、そもそも地方の知事が正月休暇で東京に居ていいのか。今の時代、遠隔地からでも指揮はできる。そのようなケースに備えて、副司令官が存在するのも事実である。直ちに官邸に出向いたのも、適切な判断・行動であったとは思う。しかし持ち場を離れて、東京の家族の元で(?)年末年始を過ごすという判断は、自らの権限と責任をどう捉えているのか、の疑問がある。家族を公邸に呼び寄せる、という選択肢はあったはず。正月くらいはゆっくりしたい、という気持ちは分かるが、はっきり言えば、指揮官としての認識が甘い。本県は大きな災害が少ない、或いはないと思っている地域の知事や市町村長も、他人事と思ってスルーすることなく、他山の石としてもらいたいものである。
羽田空港で二次被害が起きたのは、本当に残念で悲しい。作戦の遂行が困難であればあるほど、急げば急ぐほど二次被害のリスクは高まる。それを如何にマネージするかは、レベルに応じて現場を任されている各級指揮官の仕事である。特に航空機の運用には、細心の注意が求められる。それにしても、あの切迫した非常事態において、民航機(JAL)の乗員・乗客が全員無事であったのは、改めて日本人の民度の高さを世界に示したと思う。本件については、現時点で、素人の部外者が軽々に物申すのは差し控える。今後の正式な調査結果を待ちたい。
特筆すべきは、今回も台湾の対応が極めて早かったこと。発災後、直ちに救援態勢を取り、総統自ら被災地・被災者を気遣うメッセージを発出してくれた。本当の友人は誰か、を伺い知ることができる。間もなく行われる彼の地の総統選挙は、近い将来の我が国にも大きな影響を及ぼす、極めて重要な案件である。その動向を注視したい。
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さて現政権や自民党の脆弱性は、年間を通じて顕著になってきておりましたが、所謂政治資金パーティ(券)なるものの実態が暴露されるに至って、いよいよ黄昏が近づいているような気がします。政局以外にもいろいろありました。ビッグ・モーター、日大、宝塚歌劇団、そして自衛隊(におけるセクハラ事案)などなど。あれやこれや、どいつもこいつも、と言えば誠実に勤務している絶対多数の職員に失礼になりましょう。
しかし、上記の事案には共通項があります。過去に何回か、或いは何回もこの場を借りて述べておりますが、醜聞が顕在化するのはひとえに組織に問題があるからです。勿論、大きな問題に至る過程には、何時か誰かが悪事をやりだし、それが徐々に拡散して組織の風土となり、何処かで(大部分のトリガーは内部告発)爆発して世間の知るところとなる。或いは氷山の一角を、あの『文春』のような輩が嗅ぎつけて世に発信する。それにしても、文春は高性能のレーダーを持ってますね。もっと他に使ってもらいたい。
このような成り行きは、悪いことばかりではなく、良い風土を醸成する場合も流れは同じです。だから、リーダーの在り様が極めて重要であり、極端に言えばリーダーの胸三寸で、組織の上昇・下降が決まります。部下のせいにしてはいけない。
語るに落ちる誠に恥ずかしい話ですが、小生の失敗例を挙げます。退役後に小生が語っていることの殆どは、多くの失敗と反省に基づく見解に他ありません。現役の時、「テロ対策特別措置法」に基づき、イージス艦を含む数艦を率いて半年間印度洋に展開しました。展開中は勿論のこと、出国準備から帰国まで、周到な準備と水も漏らさぬ実施で「ほぼ満点に近いできだった」と充実感を持って、意気揚々と横須賀に帰港しました。ところがところが、若い頃から「詰めが甘い」と言われ続けた男です、そうは問屋が卸さなかった。
簡潔に言うと、私が印度洋で指揮していた某艦で、停泊を問わず艦内飲酒が行われていた。艦内での飲酒は、指揮官が認める極々稀な機会を除きご法度です。だったら飲ませてやりゃいいじゃないか、は別の議論です。経緯は端折りますが結果的に、タレコミによってその事実を或る写真週刊誌が掴み、これが飲んで騒いでいる部下どもの写真付きで販売された。青天の霹靂とはこのこと。この報告をスタッフから受けた時、暗闇の中で後ろからハンマーかバットで、ガツ〜ンと殴られたような気がした。後日事の詳細が明らかになり、規則違反をした数十人の部下に懲戒処分を申し渡すときは、涙が出るほど情けなかった。
そして無力感。俺は何を間違ったんだろう? 此度の印度洋展開は、任務期間中にイラク攻撃が始まり、現場にいる我々は何らかの形で戦闘に巻き込まれる可能性がある。かかる微妙な情勢下での任務であった。そのことや意味を、展開前から折に触れて何回も総員に語ってきた。にも拘わらず・・・この体たらく。部下隊員の安全を確保しつつ、如何にして任務を達成するか。これが私に与えられた最大の命題であり、任務行動中は毎日そのことを考えていた。それだけに、私の悔しい思いと無力感は強かったのである。ただ不思議と、規律違反者や艦長に対する怒りは湧いてこなかった。むしろ、指揮官である自分が至らなかったために、この子たちの将来を閉ざしてしまった、と自分の不甲斐なさを嘆いた。
もし私が、部下隊員の間で「鬼のような指揮官」との評判であれば、このような規則違反はなかったと思う。印度洋から帰国後、直属の上司である司令官と私がタッグを組んで臨んだ、数か月にわたる訓練(検閲)期間中には一件の不祥事も起きなかった。この検閲訓練は、有事を想定・設定した模擬の実動の作戦だった。従って隷下隊員には、事前に「本行動中は、親御さんに不幸があっても帰さない」と申し渡したのである。そして、数年後に生起した東日本大震災における救援活動。数か月にわたる作戦中、一件の規律違反や不祥事もなく、整斉と任務を遂行することができた。いろんな意味において、先の有事演習の延長線上に震災への対応があった、と私は考えています。
これを要するに指揮官は、先ずは組織としてのゴール(短期的+長期的)を明確にすることです。そして大きな組織では、それぞれの中間管理職に任務を分割して付与すると同時に、任務に相応しい権限を付与すること。加えて、末端の構成員ひとりひとりに至るまで、それぞれの役割を納得させて強固な動機付けをすること。これに尽きると私は思っています。
読者諸兄弟・姉妹、一年間お世話になりました。有り難うございます。佳いお年をお迎えください。
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郷里の高松空港からは九州への直行便がないため、お隣の徳島空港から福岡に飛びました。幸い私が住んでいる「さぬき市」は東讃、即ち香川県の東に位置するため、高速道路を使うと高松空港に行くのと同じくらい、渋滞などの状況によっては、より短時間で行くことが出来ます。しかし徳島からも九州便は一日に2便しかなく、それも朝と夜の便でやや不便ではあります。四国は三つの(瀬戸)大橋で本土と繋がりましたが、4県とも近年とみに衰退が著しく、陸続きの孤島になりはしないかと懸念しています。殖産興業の代替として観光を目玉にして生きるのは、将来を見据えると脆弱です。例えば、近年のコロナ災禍のような事態が生起して、お客さんが来てくれなければ終わりです。徳島(阿波踊り)空港1階ロビーの大スクリーンには、阿波踊りの様子が常時放映されています。地元の人たちが阿波踊りを誇りに思うのは理解できるし、とても喜ばしいことではありますが、空港名からして「阿波踊り」一辺倒というのも、同じ四国人としてはやや寂しいものがあります。
福岡空港から佐世保までは、高速バスを利用しました。私の確認不足だったのですが、福岡空港の国内線と国際線のターミナルは、少し離れたところにあります。空港も充実しており、今更ですが福岡・博多は大都市だと再認識しました。バスのチケットをネットで購入する際、佐世保への出発地は「国際線ターミナル」とあったのですが、歩いて行けるだろうと踏んだのが甘かった。到着後、国内線ターミナルの案内で訊くと、国際線にはシャトルバスで10分ほどかかるとのこと。乗り換えには、余裕を持って計画していたので問題はなかったのですが、明らかに事前の準備・勉強不足でした。
高速バスの出発まで少し時間があったので、国際線ターミナルを散策しました。1階到着ロビーにある総合案内所には、九州各地のパンフレットや地図などが置いてあります。久し振りの佐世保なので地図を貰おうと探したのですが、英語、中国語、ハングル語はあるが日本語版がない。カウンターに行って「佐世保の日本語版地図を下さい」と言ったところ、「すみません。日本語は置いてないんですよ」とのこと。な、な、なんとな。いくら国際線ターミナルとはいえ、なんぼ外国人客が多いとはいえ、建屋の外には九州各地行のバス・ターミナルがあり、日本人だって結構利用するだろうに。「此処日本だよな。何かおかしくないか?」 思ったことが直ぐ口に出る、厄介な老人です。勿論、カウンターの女性を責めるものではないのですが、国民・市民の声を聞かせなきゃ、などと自分に勝手な言い訳をしながら。確かに、国際線ターミナルには外国人が多かった。しかもその殆どはアジア系、特に中国語があちこちから聞こえてくる。大陸の人は大声で話をするので、直ぐに分かる。台湾人は普通に話すので、中国語と台湾語の微妙な違いが分からなくても識別できます。
外に出て佐世保行のバスを待っている時、小生の横を「sorry」と言って抜けていった、明らかに日本人と思われる女性がいました。西日がきつかったのでサングラスを掛けていた白髪のおっちゃんは、「俺はホリが深いので、いつも外国人或いはハーフと間違えられるんや」とニンマリ。しかし、いや待てよ。その女性が外国人であることに思いが至った。何歳になっても困った老人です。
我が国(政府も民間も)がやることは、何かにつけて外国人に優しく、また在日外国人を優遇することが多い。敗戦後の被害妄想が未だに解けていない。そもそも、九州各地に行くバスが何故国際線ターミナルからだけなのか? 出発地は国際線でもいいけど、なぜ国内線ターミナルを経由しないのか? 分らん。それ(外国人を遇すること)が悪いとは言わんが、一方で自国民にはとても厳しい。特に政府がやってることは、他人の子供には親切丁寧で優しいが、我が子にはとても厳しい親御さんみたいなもの。あんまりやると、いじけますよ、子供は。
例えば、海外からの留学生には補助金で手厚いが、苦学する日本の学生は奨学金さえも返還を求められる。小生も息子を米国に留学させた経験がありますが、学費はアメリカ国籍の学生よりも格段に高かった。学校は米国が経営しているので、それは当然のことだと思うし、何の疑問も感じなかった。日本人ファーストではない、この国のやり方は何かおかしいと思う。
他の例では、全国的に同じだと思うが、空港から高速バスに乗ると、車内の案内は必ずと言っていいほど、日本語・英語・中国語・韓国語が流れます。乗る度に車内を見回すが、外国人など乗ってない。それでも機械的に(機械ですが)4か国語が流れるので、ちょっと鬱陶しい。あれって本当に必要なの? 勿論、我々が海外に行った時に、日本語の案内があれば大いに助かるのは確か。でも百歩譲って、世界の共通語である英語だけでいいんじゃないのか。
因みに、現役時代に仕事で対馬に行った際、予約していた民宿の玄関を開けると、正面に大きなハングル語(歓迎)が掲げてあったのにはビックリした。良きにつけ悪しきにつけ、此処(対馬)は朝鮮に対峙する最前線であることを実感した。
福岡空港(国際線ターミナル)を出発し、最初の停車地である筑紫野の基山(きざん)でのこと。バスを待つお客さんの中に、小生よりも少し年配と思しき初老の男性がいた。彼は帽子のツバ(庇)に、我々が言う「カレーライス」が付いた squadron hat を被っていた。前面には AEGIS KONGO の刺繍があり、いでたちと風貌、目つき、そして醸し出す空気からして、一目で同業者と認識できた。面識はない方だった。このおっちゃんがバスに乗り込んできて、誰に言うとなく第一声「ガラガラたい!」。そして私の前の席に座った。小生の座席番号は 2A なので、彼は 1A 即ち最前列の最左翼だった。お疲れだったのか、発車後は殆ど目をつむっていたが、佐世保の一つ手前で降りた。それがどうしたって? ただそれだけだが、「○○たい!」の響きが妙に心地よかった。地元の言葉はよかね〜。
翌日の午前中は時間があったので、朝食後に街中を歩いた。10年でどれほど変わったか、或いは変わってないかを確認したかったから。佐世保一の繁華街である、四ケ町〜三ケ町に掛かっているアーケードを歩いたが、他の軍港に比べると、思いのほか活気があるような気がした。現在はどうなっているのか知らないが、小生が現役の頃には年度初めに「艦隊集合」があり、全国の艦艇が一堂に集まって意思の疎通と年間の頭揃えを図っていた。開催地(艦隊の集合場所)は例年各軍港で持ち回りだったが、街への経済効果、即ち艦隊が地元に落とすお金(燃料、食糧、講演会場やバスの借料、何千人の乗員が街に繰り出して使う飲食代やお土産代など)が半端じゃないので、例年各市(軍港)や商工会の誘致合戦が繰り広げられた。例えば艦隊が一週間滞在し、仮に3千人の隊員が飲食やお土産に一人平均5万円消費すると、大雑把に言ってこれだけで「1億5千万」が街に落ちることになる。あれこれ合算・試算すると、およそ3億の経済効果があると言われていた。そりゃ誘致するわな。
佐世保のアーケードはおよそ1キロメートルで、日本一の長さを誇る。艦隊集合の時には、アーケードの中央に長テーブルを並べて、大勢の市民有志が制服と財布の歓迎会を催してくれた。勿論、佐世保市民は国防・安全保障にも大いに理解があることを申し添える。一般論として言えば、原爆を落とされた長崎(市)と佐世保では、軍(自衛隊)に対するメンタリティーが全く違う。佐世保の市民は昔から我々にとてもフレンドリーだったので、乗員にはとても評判が良かった。(佐世保以外の)艦隊の乗員は、佐世保寄港が予定されると、佐世保上陸に備えて貯金をするほどだった。
10年ぶりに佐世保の街を歩きながら、あの頃が我が人生(艦隊勤務)の「華」だったな〜などと思いつつ。海側にも足を延ばして、潮のかおりを嗅いだ。久し振りに海に還り、若い頃、当地の映画館で観た『聯合艦隊(主題歌は「群青」)』を想起した。でも、一人で映画を観たのかな〜? 思い出せん。
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ずっと前から、特に自分自身が組織の人事に関わるようになった時から、組閣の度に「どうやって人選しているんだろう?」と思っていました。一般国民は報道でしか分からないのですが、昔から、基本的には総理が一人で閣僚の人選をしているように観えます。人間、人事権を手にするのはとても嬉しい。現役時代のこと、初めて人事の担当を命ぜられ、人事課長に着任の申告に行ったときに言われました。「いいか?嶋、中毒になっちゃいかんぞ!」。勿論、担当は案を作るだけであり、決裁権者ではありませんが、彼の忠告は正鵠を射ていた。
総裁選挙に勝って総裁になった方が、鉛筆を持って白いノートに向かうとき、この国の最高権力者として、最も気持ちが高揚しているときだと思う。願わくばそのノートには、閣僚候補者の人物評価がびっしりと記されておればいいのですが。それでも、閣僚とか党三役などの重要人事は何とかなるかもしれないのですが、大臣への待合室(waiting room)、即ち副大臣とか政務官などになると結構な人数になります。この人事をどうやって決めているのだろう? 本当に疑問でした。私の経験に照らして、結論を急ぐと「それはムリ」ってこと。何十人の人事を、短時間で、しかも適材適所を勘案して、一人でやるのは絶対に不可能です。実態は知る由もないのですが、想像するに魑魅魍魎、派閥やらなにやら、いろんな力が交錯する世界なのでしょう。だから、ポロポロと「ぼろ」が出てくるのは必定。選考後・就任後に醜聞が出てきても、驚くには至らない。人間、そんなに「きれいな人」ばかりじゃないよ。
その点、政権を奪取した(する、かもしれない)野党などは、或る意味やり易いと思う。限られた人材から、多くの人を選ぶのだから。しかしそれで被害を被るのは、選んだ国民です。以前の例もあり、国民はそこが分かっているので、「あれよりはまし」と与党に属する多くの人を国会に送り込んできた。しかし彼(彼女)らは、余りにも胡坐をかき過ぎた。学習しないんだね。これだけピント外れの政策が多いと、国民の我慢も限界に近付いているんではないか。
主題から外れました。では、どうすればいいのか、ってことです。私は、官邸に(政治家登用の)組織が必要だと思う。誰がその任に当たるかは難しいが、少なくとも政治家は利害が絡むのでオミット。政治家は組織のトップになる総理大臣だけ。謂わば、将軍に仕える御庭番みたいなもの。個人的に文春は嫌いですが、そして多分ですが、彼(彼女)らにはお金儲けの他に、そんな使命感みたいなものも多少はあるのではないかな・・・ないか! この官邸の闇組織に勤務する者は、高額の給料を手にはするが、決して偉くはならない、ことが必須要件です。偉くなってはいけない。偉くなると、任務を遂行できないから。そして、絶対的な守秘義務を課すること。
有権者から選ばれて国会に来ている先生、全員の人格から政治家としての能力、健康状態などなど、あらゆるデーターを収集する。そして、指揮官である総理大臣から「資料(データー)を出せ」と命ぜられたら、「はいどうぞ」と即座に出せること。担当者のさじ加減で日本の将来が決まりかねない、それはそれは大変な仕事になる。宝塚以上に、寝る時間を削る必要がある。極端なことを言ってますが、そうでもしない限り、適材適所に人を配するのは絶対に無理です。それでも人間がやることだから、間違いや錯誤はあります。
最後に安倍(総理)人事の最大の失敗は、某女性議員を登用して、あろうことか国の根幹に関わる防衛大臣に据えたこと。あの時に、非常事態が起きなくて本当に良かった。六法全書で国を護ることが出来れば、自衛隊は要りません。事程左様に人事は、時計を止めるのはまだいい方で、ことによっては組織をゆがめたり破壊したり、或いは国を誤ることさえもあり得る。この国は今、何処に向かって進んでいるのでしょうか?
訳が分らん話になりました。ゴメンナサイ
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何故、今になって下らんことに腹を立てるのかと言いますと、スーパーなどで買い物をする度に不便な思いをするからです。これを提唱し主導したのは、小生もよく知るあの有名な先生(郷里の讃岐では、このようなお方を皮肉を込めて「あのセンセは・・・」と言う)です。逆恨みと言われるかもしれないのですが、また小生とは反対のご意見もあるかと思うのですが、ホンマに余計なことをしてくれた。流石、日本の生存に関わる近年の大失策、郵政民営化を成し遂げた方のご子息、パフォーマンスは一流です。
最近では、コロナ禍などの影響で諸物価が上がっていることもあると思いますが、レジ袋に便乗して紙の袋も有料にした店が多い。他方で、かつて小池さんが提唱したクールビズは、時機を得た政策(と言えるかどうか?)であったと思います。それ故に、この国で定着した。彼女のクリーンヒットでした。レジ袋については定着と言うよりも、諸国民は致し方なく政府の決定に従った、というのが実態でしょう。弱小国民には、なす術がないのですから。流石にレジ袋がトリガーになって、政権が倒れるまでには至らなかったが。この国の弱点は、多少の反対はあっても、多くの国民が ” ご時世だから ” と環境に馴染み受け入れることです。長い物には巻かれろの、誠に素直で愛すべき国民です。レジ袋ならまだいいが、国際情勢や安全保障に関わってくると話は違う。この純粋さが、国の将来を誤る恐れがあります。但し、そのような政治家を世に出しているのは、ポピュリズムに迎合する、他ならぬ政策の犠牲者、即ち国民自身であることを銘記する必要があります。自分で自分の首を絞めている。
その頃、しきりにプラスチックごみによる海洋汚染が叫ばれていました。その象徴的かつ具体的な例として使われたのが、ウミガメが涙している絵です。では、レジ袋を有料にして、どれほどのウミガメが救われたのか? その後の実態や効果を証明する、データーなどは見たことがない。おそらくは、実証効果を示すことなど出来ないでしょう。更には、有料化によるレジ袋減産の効果です。スーパーを訪れる多くの買い物客がマイバッグを持参しており、レジ袋を購入する人が格段に減ったのは事実です。しかし有料化によって、どれほどのプラスチック(生産)削減がなされたか? これによって、原油の輸入がどれほど減ったのか? かつては、多くの日本人がレジ袋をゴミ出しに使っておりました。ならばレジ袋の使用減によって、この国のCO2 排出削減に如何ほどの効果があったのか? これらについて、件のセンセやお先棒を担いだ官僚には、責任を持って説明して頂きたい。
私だけかもしれないのですが、品物を買って支払いをするときに「袋は有料になりますが、如何なさいますか?」と訊かれるのがストレスになります。これほど購入してるのだから、「袋くらいサービスせんかい」と言いたくもなるのは、私だけでしょうか? 要は消費者の気持ちであり、心理なのです。私は天邪鬼なので、「どうしますか?」と訊かれると、余程のことでない限り、即座に「必要ありません」と応える。袋に5円10円かかっても、懐にはさほどの影響はない。でも不便ではあっても、品物を抱えて車まで運ぶ方を選ぶ。或いは郷里のスーパーには、使用済みの段ボール箱が何時も積んであるので、これを利用します。持ち帰った段ボールは、資源ごみに出します。よって、この段ボール箱は、生まれてから2回活用されたことになる。そして再生されて世に出ます。ゴミ袋として2回目の役割を果たす、レジ袋も同じだと思うのですが、皆様はどのように考えられますでしょうか? ご意見を賜りたいと思います。
もしレジ袋が元の状態に戻れば、裕福な上級国民でない限り、絶対多数の市井の民は「これでゴミ袋を買わなくて済む」と喜んで受け入れると思う。たとえその経費が、品物に上乗せされててもいい。それは、或る種のトリックではありますが、たとえ一円のものでも、別枠で取られるのと、商品の中に含まれているのでは、人の気持ちは格段に違ってきます。送料無料と同じです。庶民の心理は単純なのです。過ちて、これを正すことに躊躇することなかれ。何時の世も政策の要諦は、「誰のために、何のためにこれをやるのか」です。理念なき政策は意味がないし、多くの国民を不幸にするだけです。
話しは変わりますが、岸田総理の「” 国民への還元(と言う名のバラマキ)”と、一方で ” 消費税を上げる ”は矛盾しない」との説明、何方かその意味を分かりやすく教えて頂けないでしょうか。無学な小市民には理解不能です。LGBT 法などと相俟って、次の選挙で政権与党(自民党)はボロボロになるのではないか。さりとて現在、これにとって代わり、この国の舵取りを任すことが出来る、力のある政党(野党)はない。阪神淡路大震災と東日本大震災が、どんな時(政情)に生起したか想起して欲しい。神様は非情です。大地震が来なければいいが・・・。
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一方で宝塚(歌劇団)が揺れています。ビッグもジャニーも同じですが、一旦導火線に火が付くと「これでもか、これでもか」と芋づる式に醜聞が出てくるもの。現役団員の投身自殺に端を発した宝塚問題は、一部の OG や元団員・生徒の家族、或いは過去の醜聞を多少聞きかじっていたマスコミ関係者(記者)などが、「実は以前からこのようなことがあった」などと、にわかに告発する様子はビッグ&ジャニーにも共通している成り行きです。多くのファンを獲得し、そして数多名優を輩出してきた組織が叩かれ、衰退していくのは寂しいものがありますが、さりとて火のない所に煙は立ちません。いずれ事実関係が明らかになるでしょうが、庶民の口に上り、巷間ささやかれている宝塚の内情は、大なり小なり事実でありましょう。危機管理の要訣は、下手に取り繕わないことです。隠ぺいなど最悪の危機管理です。当面は苦しいでしょうが、これは恥の上塗りにしかなりません。
ネットで面白い記事がありました。音楽学校の生徒は、阪急電車を見るとお辞儀をするというものです。勿論、躾けの一環として始められたものでしょう。我々(海上自衛隊)の場合も、基地内を歩いている隊員が将官車に出くわすと、自衛官は敬礼、その他の隊員(事務官や技官)はお辞儀をします。実際に将官が乗車しているか否かは、フロントの表示(階級に応じた桜の数)で判別します。因みに、私がある配置に着いた時、後部座席の窓ガラスにはシールドが貼ってありました。従って、敬礼してくれた隊員に私が答礼しても、隊員は小生の顔さえ認識できない状態でした。勿論、隊員が敬礼してくれるのは、司令官個人に対してではなく、階級に対して敬礼してくれていることは重々承知しています。ですが一風変わった将官は、この習慣が我慢ならなかった。直ちにドライバーに、「速やかにシールドを剥がせ」と指示しました。ドライ―バはかなり抵抗しましたが、理由を説明すると渋々応じてくれた。ドライバーが抵抗した理由は、司令官には車中くらいはゆっくりして欲しい、加えて、うたた寝をしている親分の姿を隊員に見せたくない、というものでした。剥がすのが面倒くさい、もあったと思います。それ程の大物ではありませんが、大袈裟に言えば「将官の安全確保」の一環でもあります。いろいろ理由は付けられる。しかしそれでも、仮に敬礼の対象が「桜(階級)」であっても、敬礼してくれる隊員に対しては、誠意をもって応えるべきだと私は判断した。
長々と自慢話をしたい訳ではありません。音楽学校の生徒が阪急電車にお辞儀をすることが、長年にわたって定着しているのは、当初は高邁な考え方があったと思われるのです。問題は、その原点を生徒に理解させてきたか? ということです。勿論、形から入るやり方もある。しかし、多様化と言う言葉が、あたかも最高の価値であるかのように喧伝される時代であるからこそ、「なぜ、これをやるのか」を懇切丁寧に教える必要がある。或いは、その意味を生徒自身に考えさせることが重要なのです。ハードであろうとソフトであろうと、形で示すものは経年によって劣化します。劣化しなくても、時代にそぐわなくなることも多い。形骸化した躾けや習慣は、いつか本筋を外れて違ったものになり、そしてほころびが出ます。
ビッグやジャニーそして日大など、何れの組織についても、最大の問題は危機管理が如何様になされてきたかです。以前のブログにも描きましたが、小生に『海軍と日本』(池田清:海軍兵学校73期 著)の存在を教えてくれたのは、当時阪急電鉄の総帥であった小林公平さんです。その後(現役時代)、新生海軍(海上自衛隊)の在り方を模索する上で、この本は私のバイブルになりました。壁にぶち当たった時は、この本を開いた。小林さんは池田さんの2期後輩で、兵学校75期の卒業です。75期生は帝國海軍兵学校、最後の卒業生です。たった数年であっても、多感な青少年期に海軍(兵学校)に身を投じた小林さんの思想や考え方が、音楽学校と歌劇団に浸透したこと。そして、その組織においては、今なお海軍色が強いことは容易に想像できます。しかし、あの人格高潔な小林さんが、例えば海軍兵学校の悪弊であった「鉄拳制裁」などを、隷下の組織に持ち込むなど想像もできないし、あり得ないことです。
時が流れ人が替わると、如何に高邁な思想や考え方も、本来のあるべき姿から変質し乖離していきます。如何なる組織も、大きくなればなるほど、そういう危険性を孕んでいる。だから、組織の舵取りを担う社長や取締役は、常に組織のシャッフルに意を用いる必要があります。例えば世界のトヨタ、仮に創設者一族がトップになっても、現在のポジションを維持できているのは、常時、組織の改革と浄化に努めているのだと思います。
如何なる組織にも栄枯盛衰があり、永遠に存続することはできません。さて「どうする、社長!」
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それで暫く放置していたのですが、いよいよ開始日(10月1日)が近づいてきたので、お尻に火がついて、にわか勉強を始めたものです。なのですが、40年もの間、敵の潜水艦を沈めたり、ミサイルを撃墜することに全力を注入してきた小生には、この手の話はなかなか手強い。先ず役所の、おびただしい専門用語の理解が容易ではない。会社設立以来、紙媒体で提出すれば簡単に済む確定申告なども、悪戦苦闘しつつ電子提出をやってきました。お陰で随分勉強にはなったのですが、今回は費用対効果を考えると、情けないが税務署に出向いて教えを乞うのが手っ取り早いと判断した。
そんで小一時間ほど、懇切丁寧に教えてもらいました。お勉強が終わり、礼を述べて帰ろうとすると、人柄の良さそうな署員さんが「9月30日までに取り下げを申請すれば、登録を取り消すことも出来ますよ」と。おそらく私の知識を観て、「これじゃ話にならん」と思われたのでしょう。意地っ張りな小生は、「う〜ん、でもこれ(インボイス)をやらないということは、弊社の成長を諦めたことになるな。何とかやってみます」と応じた。帰宅して実務的な所を再度確認・勉強していくと、具体的な説明は省きますが、まぁ面倒くさい。請求書に登録番号を記載するだけ、と言うものではなかった。頭を抱えた私が出した結論は、弊社が課税業者になったとき、即ち1千万円を超える売り上げを出すまでに成長した暁には登録し、その時には税理士を雇ってきちんと経理をやろう。そう、会社を設立して10年が経過しますが、弊社の経理担当は「弥生ちゃん」であり、今まで一度も税理士や社会保険労務士の世話になったことがないのです。勿論、決算や申告などは法律が定める通り、鉢巻きして真面目にやっております。
さて、このインボイスなるもの。財務省はなんやかんや言って法案を通したけれど、親方日の丸で半生を過ごしてきた経済音痴の私には、その理由や趣旨などがよく分かりません。「登録せんと取引先から弾かれる可能性があります。早く登録した方が良いですよ」と喧伝して、ピーピー言ってる零細企業から税金を取り立てる。さしもの、INVOICEを日本語で言えば「請求書」だから、小生にとってこの制度は「税金の請求書」と読める。そんな風に見えるのですが、被害妄想でしょうか?
10月1日が迫ってきたので、ホッカムリしておく訳にもいかないので、登録番号を通知している取引先などに通知しました。
弊社「(おそるおそる)申し訳ないのですが、熟考した結果、インボイスの登録を取り下げました。消費税を御社に被って頂くことなりますが、ご容赦ください。ゴメンナサイ」
B 社「(いとも簡単に)いいですよ。その分(消費税分)支払いから引きますから」
なんじゃい、大きい所は損をしないようになっとるやないか。早く言ってくれれば、余分な作業をせんでもよかったのに。まっそれでも勉強にはなったし、取り敢えずは煩雑な経理業務から解放されるだけでも良しとするか。褌(ふんどし)締め直して、早く大きくなるぞ〜! でも・・・あんまり時間はないな。
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さて、どうでもいい話のようですが、ビッグとジャニー両者には、実はどうでもよくない共通の問題があります。それは組織管理の問題です。企業の創設者の殆どは、草創期には寝食を忘れて事業の拡大に奔走し、努力の末に現在のポジションを獲得しています。多少はウンがあったかもしれないが、それも先を見通す眼力があってのこと。その後、仮に不祥事があったにしても、そこ(初期の努力)まで否定してはいけない。両者の成功〜失敗に至る過程には、組織管理上、我々が学ぶところは多い。
例えては失礼かもしれないが、なんだかんだと言われながら、今なお政権与党に居座る某宗教団体のこと。昭和30年代には、絶対多数の国民から鼻つまみ状態でした。しかしよく言えば、この困難な時代を乗り越えて、現在の地位を獲得した。その要因を考えてみると、先ずは女性を味方につけたこと。決して女性の力を侮ってはいけません。おもいッきりがいいし、男性の様に引きずることがない。また、家庭と言う単位(組織)を牛耳っているのは、殆どが女性です。次には、法曹界に目を付けたこと。弁護士を始めに、検事、判事を組織に取り込んでいった。或いは、大学を作って自ら養成した。さすれば怖いものなしで、何をやっても合法になる。多少危ない橋を渡っても、大概の法廷闘争において勝つことができる。この二点が、組織拡大の、そして政権与党に至る大きな要因であったと推察します。池田さんや取り巻きには、遠大な構想と大戦略があったと言えます。草創期の主要メンバーの一人に、海軍兵学校出身者がいたと記憶しています。終戦直前に海軍は、戦後を見据えて国内中の優秀な少年を青田刈りした。当然、とびっきり優秀な人材が含まれていたと推察できます。
更には、世界に展開する野望を達成するため、加えてノーベル平和賞を視野に入れて、外交を司る某役所に浸透していった。除草剤なんてちっちゃい。まるで視点が違う、目の付け所が違うのです。斯様に、組織の拡大と言う側面から観れば、この組織から学ぶところは多い。某新興宗教の関係者に冗談で、「あの組織に学んでは如何か」と申し上げたことがあります。
本題から論点がずれました。話を戻して、今回、ビッグとジャニーが「こけた」のは、創業者、或いは創業一族が神様になってしまったことです。因みに、全国には戦死した軍人、小生にとっては先輩を祀る神社があります。所謂、軍神と称された人たちを祀っている。祀られた先人のご功績や、国を想うお気持ちには頭を垂れますが、神社の建立には絶対に反対です。人間が神になってはいけない。だから私は、東郷神社にも乃木神社にも、参拝することはありません。直接ご挨拶したいときや、お会いしたいときには墓前、若しくは靖國神社に参ります。神になっていいのは、天皇陛下だけです。元々、そういう立場のお方だから。勿論、戦前の天皇陛下の神格化とは全く違った視点です。
さて上記創業者の一声が、従業員にとっては神のお告げの如くになってしまった。他人様のことを言えた義理ではありませんが、人間って生き物は、とりわけメンタルが弱い。他の動物に比べて、脳みそが大きすぎるのでしょう。組織の絶対多数の構成員は、YES MEN & WEMEN です。そうしないと、組織の中では生きていけないから。或いは、反抗すると不利益を被るから自然とそうなる。しかし稀に、諫言する人もいます。本当に偉いと思う。諫言とは、自らの命をかけて他者、多くのケースでは上司をお諫め申し上げることです。40年間、厳しい世界で生きてきましたが、自分自身を含め、陰でブツブツ文句言う人間はそこら中にいますが、本当の意味で諫言した人、諫言できる人は殆どいなかった。恥ずかしながら、私もできなかった部類です。
なぜか? 状況が一変しない限り、例えば上司が失脚でもしないかぎり、諫言した人の将来は危うい。如何に正論を吐いても、プラスに作用することは殆どなく、親分との人間関係が壊れることも多い。その多くは、諫言される側の度量・器量に因ります。組織の将来を憂いて、「社長、それ間違ってます!」と直談判した人が、出世した例を見たことがない。大概は憎まれて左遷されるか、首になる。或いは、その才を危険視されて、即ち近い将来自分(ボス)の地位を脅かす存在と認識されて、排除されることもある。組織の長であっても弱い人間であり、それが人間社会の常であるとも言えます。勿論、経験や知識が豊富で、高所大所から判断する社長が正しいケースも多い。所謂、鳥瞰・俯瞰です。その場合には、意見した側がボスを逆恨みすることが多い。他人が人間の妬みを管理するのは、なかなか難しい。
今問題になっている両社では、ボスの悪行を知りながら諫言できる、する人がいなかった。知らなかったが故に、適切に対応できなかったことと、知っていて三🐒になる人には雲泥の差があります。それどころか、多くの従業員やマスコミを含む関係者は、虎の威を借りてこれに乗っかる(加担する)側についた。私は『必殺仕事人』が大好きですが、両社には仕事人も仕置き人もいなかった。或いは仮に居たとしても、嫌気がさして、危険を感じて去って行った。
たった一人でも勇気ある社員が居て、かつそれを受け入れる、或いは少なくとも検討する度量を持った、人間的として幅が広い創業者であれば、現在のような事態にはなっていない。組織を束ねる人が、神様、まではいかなくても、裸の王様になってしまった。それに同調・加担した、取り巻きにも責任の一端はある。後は、つるべ落としで転がり落ちるだけ。努力と才覚で、汗を流して今日の地位を築いた会社を、自らが(おそらくは)葬るトリガーとなってしまった。組織を束ねる者は、時には清濁併せ呑むことも必要だが、誠に勿体なく残念なことです。
組織論から言えば、両社とも一旦潰してしまった方が宜しい。時代を席巻し、ひとつの時代を築いた創業者の着眼は素晴らしかった訳で、良識かつ能力ある人が良い所を受け継いで、再建してくれるのを待ちたいと思う。駄文を連ねました。
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最初に明確にしておきたいのは、同教授がいたずらに防衛大学校や国防・安全保障に否定的と言うことではなく、むしろ逆で、学生時代には海上自衛隊に体験入隊するような、ご本人曰く「防衛青年」、昔流に言えば軍国少年だったようです。日本国として防大の重要性を認識するが故に、謂わば「已むに已まれぬ」告発である、という趣旨のことを序文で述べておられます。教授には大変失礼ながら、ご自分が描く理想の防大像と現実のそれには乖離があり、謂わば「贔屓の引き倒し」みたいなことはよくある話です。しかし、彼の意図が那辺にあるかに関わらず、論述内容はかなり偏っており、かつ表層的でもあります。
私事ながら、およそ40年間に亘る海上自衛隊でのキャリア形成の入り口で防大の教育を受け、そのおかげで今日の自分があると認識している小生にとっては、看過できない内容が含まれています。同教授は海上自衛隊の各種学校でも、時折講義を行ってこられたようで、私が退役後のことかもしれないのですが、そのような事実(海自の学校が彼を招聘していた)は承知しておりませんでした。有名な学者さんの様ですが、記事で初めて知ったお名前でした。そして彼は、防大のみならず、各自衛隊部内の学校教育にも言及しています。現役時代、海上自衛隊の人事教育に関わった一人として、教授の指摘を真摯に受け止めると同時に、「それは違う」或いは違和感を感じる点については明確にしておきたい。何故なら、等松論文を読む・読んだ絶対多数の人にとっては、彼の主張が全てであり、多くの国民が防大教育について誤った先入観を持ち、また誤解を誘引するとの懸念があるからです。校長の反論も、小生と同じような観点・視点からなされていると思います。
前置きが長くなりました。先ずは論文(記事)の題名が、「危機に瀕する防衛大学校の教育」と如何にもセンセーショナルです。版元の(売るための)意図が透けて見えますが、ご本人も了解してのタイトルでしょう。もうこれだけで、十分に読者の興味を引きます。記事を読み進めて、以下、小生が違和感を感じた箇所について、順次所見を添えて小生なりの見解を開陳します。
注:青字は等松教授の告発文から抜粋
1 「積年の(筆者注:憲法と現実の)ねじれによって、自衛隊・防衛省および防大は「軍隊と士官学校」としての役割を果たせぬまま、自壊に追い込まれつつある」:真面目に自衛隊を語る時には、必ずこの議論(憲法問題)が出てきます。しかし、彼の主張の半分は正しいが、半分は正しくない。現行憲法と自衛隊がねじれ現象にあることは、今日では多くの国民が理解しているでしょう。象徴的な例を挙げれば、海上自衛隊は古稀(70歳)を過ぎても「海上自衛隊」のままであり「日本海軍」ではありません。防衛庁は省に昇格したが、国防省にはなれなかった。防大に入校して1学年の憲法の授業で、「前項(即ち、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれ=国権の発動たる戦争、武力による威嚇又は武力の行使)の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」と描かれているので、自衛のために存在する自衛隊は憲法違反ではない、と担当教授は主張された。そもそも自衛のための戦争と、能動的に「自らしかける」戦争の切り分けなどできない。自衛のための戦力と、侵略攻撃のための戦力に線引きなどできるはずがない。自衛のための先制攻撃だってあり得る。相手が攻撃してくるのを待っていて国がなくなったら、年間何兆円もの予算を投入して軍事力を維持している意味がないでしょう。
当該箇所(9条)を素直に読むと、上から読んでも下から読んでも、よしんば裏から読んでも、どう読んでも、現状をOKとする解釈には無理がある。小学生が読んでも理解不能であり、とても苦しい解釈だと感じたものです。おそらく多くの学生が、私と同じ思いを持っていたのではないか。我が国の国防や自衛隊が抱える多くの問題が、突き詰めればこの憲法に遡ることは間違いありませんが、しかし一方で、母校や陸海空自衛隊が自壊の瀬戸際に立たされているとは思わない。我々の先人、そして我々自身も、この「ねじれ」の中で呻吟しつつ、如何にしてこの国を護るか、に焦点を合わせて思考してきました。と同時に、この「ねじれ」を解消すべく、制服(自衛官)なりの努力もしてきた。政治の怠慢はいつの世も、末端の国民や現場に負担を強いるものです。夏休みに国費(税金)で海外旅行をし、エッフェル塔を背にしてとんがりコーンになってる場合ではないのです。
2 「優秀で使命感の強い学生ほど防大の教育の現状に失望して辞めていく傾向」:これは主として、所謂「任官拒否」問題を指すものです。「傾向」という表現で逃げ道を作ってはいますが、彼の指摘は明らかに間違いです。私が知る限り、防大で優秀な成績を収めた者は皆、自衛隊における自らの将来に夢を馳せています。だから特別な事情がない限り、輝かしい将来を捨てることはありません。もしかしたら、ごく一握りの優秀な学生が自身の将来について悩み、同教授に相談して辞めていったのかもしれません。私自身も、人物識見ともに優秀な学生が、防大・自衛隊を去ったのを見ています。しかし、それは極めて希なケースです。また、此れを言ったら身も蓋もないのですが、学校の成績と卒業後の仕事の出来は必ずしもリンクしません。
因みに、前のブログにも書きましたが、防大を卒業しても、必ずしも全員が自衛隊に身を投じる必要はない、と私は考えています。自分が「もう無理」と判断し、防大や自衛隊に見切りをつければ、他の分野で国家に貢献すれば宜しい。その方が、組織にとっても個人にとっても幸せです。
3 「制服教員の資質」:彼は制服の防大教員(現役の自衛官)の多くが、修士も博士も持っておらず、論文も書いてないと指摘します。これは、残念ながら事実です。しかし、だから教員の資質が低いと判断するのは軽率です。人事異動の一環で防大に補された自衛官が学生に教えるのは、各自衛隊の基本的な戦術や技術です。問題は、自衛官の階級に応じて教員のタイトル、即ち准教授や教授の称号を付与していることです。なぜそんなことをするのか、昔からそうしているので理由は知りません。本人は、自衛隊の階級よりも国民受けすると思うかもしれませんが、意味がないし、自衛官教員に学者の称号は要りません。制服は階級だけで宜しい。1佐(大佐)に教授の称号を与えて、文官の教授と比較するのはナンセンスです。ならば逆に、文官の防大教授をイージス艦に乗せて「さぁ指揮しろ」、「日本海に展開して北朝鮮が発射するミサイルに対処しろ」と言われても、右往左往さえできないでしょう。
私事ながら、大使館勤務をする際、出向先の外務省から「一等書記官兼一等海佐」という、誠にへんてこりんな辞令を貰いましたが、「一等書記官」と記した名刺は作らなかったし、「一等書記官の?嶋です」と自己紹介したこともありません。念のために申し添えますが、自衛官は学識など必要ない、と言いたいのではありません。全くの逆で、一国の防衛を担う者、とりわけ組織を支える幹部は、文系、理系に拘わらず、より高度な知識を身に着ける必要があります。我々の相手は、机に向かっている学窓の先生ではありません。命を懸けて戦っている、諸外国の軍人です。
4 「学生舎(寮)生活における、パワハラ、セクハラ、いじめ、学習妨害、公私混同の上級生による下級生への無意味な指導。賭博、保険金や補助金の搾取等が学生舎内ではびこっている」:ここ10年ほどの間に防大で起きた不祥事をてんこ盛りにしている、との印象です。自衛隊や防大は社会の縮図であり、聖域ではありません。確認はしてないのですが、部内の責任ある人が言ってるので、何れも実際にあったことでしょう。しかしかかる不祥事を列挙して、防大や防大学生の全体が腐っていると判断するのは早計ではないか。最近の学生の様子は知りませんが、絶対多数の学生は健全である、と確信を持って言えます。
現役時代に多くの事故対応をしてきた一人として、自省を込めて言えば、組織は不祥事に極めて敏感であり、とりわけマスコミには気を使います。しかし最も重要なことは、火消しに躍起になることではなく、ことの問題点を分析して、根本的な要因を取り除くとともに、健全な空気を醸成することです。何でも憲法のせいにしとけばいい、と言うものではありません。当然のことながら、法や規則に抵触した者は厳罰に処すべきです。恥ずかしながら小生も、学生舎ではご法度である酒を飲んで(飲酒)処罰を受けた経験があります。
5 「リーダーシップ、フォロアーシップ教育の弊害」「集団の団結が強調される中で思考停止に陥る」:教授は問題のある具体的な例として、学生舎の8人部屋を挙げています。彼の告発には「士官学校」という言葉が何回か出てきますが、はたして同教授が防衛大学校を士官学校と見做しているか、軍学校として論考しているのか、との疑問を感じます。防大の卒業者は任官と同時に、責任ある配置に就いて、多かれ少なかれ部下を持ちます。そして、自分の知識や技量に関わらず、部下に命令することを余儀なくされる。部下の中には、親の年代に近い人もいます。有事には彼らに、時には彼女らにさえも、砲煙弾雨の中を「行け!」と命じなければならない。これからの国際情勢は待ったなしです。如何に厳しい状況下に置かれても、それこそ「思考停止」など許されません。防大は、朧気ではあっても、学生がその足掛かりをつかむ、掴ませる場所です。
学生舎では、各学年二人ずつの計8人が、一つの部屋で起居を共にしています。そして、最下級性から最上級生までの4年間を通じて、それぞれが何がしかの手がかり掴んで巣立っていきます。数十年前にも同じような議論があり、某校長のイニシャティブで学年別の部屋にしたことがあります。その結果、同期の絆は深まったかもしれないが、現場の部隊からは悲鳴が上がった。楽しい大学生活を終えて任官した幹部たちの指揮能力が、押しなべて著しく劣っているという現実です。部隊の切実な声を受けた防大では、再度議論を重ねて元の8人部屋に戻し、現在に至っているという経緯があります。
私個人の経験としては、教授が懸念を示しているような、重要な意思決定の局面、即ち印度洋での補給支援活動や東日本大震災における救援活動において、この学生舎生活(8人部屋)であったが故に、指揮官としての思考に支障をきたしたと感じたことはありません。8人部屋の弊害は? と問われても、思いつくことはありません。苦しいことや悩んだことはありますが、それも勉強になっったし、任官後の指揮統率に資するものでありました。上級生下級生を問わず、消灯後のベッドで人生や恋愛などを語り合ったのは、懐かしくもあり楽しい想い出です。8人部屋は人間を成長させると思う。
後編に続く
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田舎(郷里)には、いろんな習慣や年中行事が残っています。田園生活を始めて時折自治会の行事に参加すると、昭和の伝統や習慣がほぼそのまま残っていることに驚かされます。夏になると思い出すのは、表題の夏越しです。
旧暦の6月末(新暦では7月末)に行われる行事ですが、郷里では少し訛って「なごせ」と呼んでました。ネット情報によると、個人の疫病避けや農作物(主として稲)が害虫や台風などの影響を受けないよう、即ち厄除けの行事であったとあります。村の氏神さまには、茅で作った直径2メートルほどの大きな輪があり、それをくぐると健康でいられる、即ち病気にならないとの伝承がありました。昔は茅ではなく藁でできていたように記憶していたのですが、此度ウン十年ぶりに参加してみると、表面はしっかりと茅で覆われていました。人間の記憶なんてものは、いい加減なもんです。
子供の私はこれにあやかりたいと言うよりも、この日はなぜか両親が「夏越し(なごせ)に行ってこい」と言うので、親公認で夜間に外出できる絶好の機会だったのです。即ち夜遊びできるのが嬉しくて、毎年、大輪をくぐりに行きました。大人(男性)たちは神社で酒を飲んでいた、と記憶しているのですが定かではありません。参道や境内には夜店が出ていたようにも思うのですが、はっきりとは思い出せません。輪をくぐる行為は単に「輪くぐり」と称するらしいのですが、宮司さんに訊いてみると、正式には「茅の輪くぐり」と言うそうです。我が家には「輪くぐり」の名称はなく、「なごせ=輪くぐり」であったような気がします。
7月31日(月)1800から、町内の神社で夏越祭が営まれる、と当該神社の掲示板に通知が貼ってあったので、昔を偲んで行ってきました。百聞は一見に如かず、足を運んでよかった! 定刻になると例の木靴を履いた宮司が、巫女の姿をした女児(小学校2〜3年生)4人を導いて、しずしずと建屋から境内に出てきました。そして先ずは「茅の輪くぐり」です。手前からくぐって、左に1回、右に1回、そして再度左に1回と、決まりがあるみたい。横断歩道でもないのに、何故「左ー右ー左」なのか、訊くのを失念しました。その後は宮司さんが、何回かに分けて祝詞をあげます。結構な時間(約1時間)なのですが、お寺さんの念仏とは少し趣が違い、所々意味を理解することができます。そして大トリというか、この日のメインエベント、見せ所は先の女児四人による舞です。この子たちは「舞姫」と呼ばれるそうな。神主さんが教えてくれました。可愛らしい舞姫による「豊栄舞」は、厳かでとてもよかった。「豊栄の舞」もおそらくは、五穀豊穣の願いが込められているのでせう。
時代ですね、親御さんたちは写メと動画の撮影に大忙しです。ただ一つ残念だったのは、参加(参列)者が30人程度だったこと。しかもその殆どは、舞姫さんの関係者のようにお見受けしました。年中行事は日本の文化や伝統に触れることができる、貴重な機会であり誠に勿体ないと思う。昔は大層賑わっていた夏越しですが、今は昔です・・・。でも、久し振りに心が洗われました。先の戦争に敗けた日本は、GHQの占領政策に従って多くの古いものを脱ぎ捨てたのですが、大切なものまで投げてしまったような気がしてならない。少なくとも、日本の良き伝統、日本人としての誇りや矜持は持ち続けたい。強くそう感じたひと時でした。
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さても、担当してくれた社員さんは、なかなかのイケメンで親切そうな方だった。契約するまでは! しかしその後の対応は、長期的に顧客を掴んでおくような態度ではなかった。何が痴呆性老人の気に触ったかと言うと、担当者の対応だけでなく、購入後、車に小さな問題と、取り扱いに質問があって訪問した際、とにかく待ち時間が長かった。十人以上のオペレーターが座っているにも関わらず、お客さんの捌きが遅い遅い。楽しそうに隣とお喋りをしている者もいるのですが・・・。忙しいのは分かるのですが、歳老いて益々堪え性がなくなった私は、「もういい!」と捨て台詞を吐いて席を立ったものです。あれから数年経ちますが、この会社には二度と立ち寄っておりません。今次事案・事件が世に出て、購入したことを悔やんでも遅きに失していますが、ここで車検をしなくてよかった〜と思った。今後は、かなり多くの(殆どの)お客さんが離れるはず。敢えてこんな会社で、高い買い物をしようとは誰も思わんし、車検をしようという気にもならんでしょう。
前置きが長くなりました。本論に入ります。本事案は、小生がメインテーマとする組織論、組織の問題です。一部のはねっかえりがやったこととして、所謂トカゲのしっぽ切りで済ませてはいけない。当該社長の記者会見も、更には損保○○社長の発言も誠に見苦しい。仮に隷下の兵隊(従業員)が勝手にやったことであっても、これほど大きな世間を騒がす事件であれば、組織のトップ自らが、自らのこととして措置すべきであり、「私は知らなかった。部下が勝手にやったことです」などと口が裂けても言ってはいけない。それは社長としての責任感や誇り、トップリーダーとしての矜持に通じるものです。それよりも何よりも、そのような社風、会社の風土にしたのは、経営者自身だという自覚がまるで観えない。これは、組織として致命傷です。従って、もし今後も会社を継続したいのであれば、少なくとも経営に参画していた者、加えて実際に犯罪(と言っても差し支えないと思う)を犯した者の総員に対して、厳しいペナルティーを科すべきです。これは BIG のみならず、グルになって甘い汁を吸っていた保険会社も同じです。取り急ぎ部外機関による厳正な査察を行って、膿を出し切るのが先決です。組織ぐるみの事案ですから、自浄作用は利かないでしょう。
以前のブログに描いたことと一部重複しますが、一般論として、株式を公開募集しておりながら同族経営、即ち親族にバトンタッチするのは極力避けるべきです。勿論ケースバイケースではありますが、そして創業者の才覚と努力は尊重されるべきですが、人事は決して情に流されてはいけない。そして組織の盲点は、創業者が余りにも優秀であるが故に、彼・彼女がカリスマになることです。下位の者が上位(カリスマ)に意見具申できない、或いは上位が下位の意見を吸い上げることができない状況になると、組織のモラルは転がり落ちるだけ。組織の建設には膨大なエネルギーを必要としますが、崩れるのは一瞬です。BIG さんは誠に残念な結果になりました。此処までくるともう、廃業或いは他の会社に吸収された方が宜しいかと。
所謂醜聞の一つですが、除草剤にはまいった。自分の敷地内であれば、他人がとやかく言う筋はないのですが、よそ様の植物に除草剤を散布するのはご法度です。専門の業者に委託したのではなく、社内の従業員にやらせたのでしょうか? プロがそんな杜撰なことをするとは思えないのです。私もごく最近除草剤を使いだしたので、除草剤の有効性や手軽さは理解しておりますが、常軌を逸脱している。そこいらじゅうに、人や車がいる状況ですから。除草剤は直接的・間接的に大なり小なり人体に影響を及ぼす、と考えておいた方がいい。おそらくは、二種類ある除草剤のうち強烈な方、即ち根こそぎやっつける薬剤を使ったと推察します。因みに私は、軽い方(葉っぱを枯らす)しか使っておりません。他人様に食べて頂くものを栽培しているので、そこはとても神経質かつ慎重になるのです。
上記、リーダー(指揮官)の責任について偉そうなことを言いましたが、情けないことに、私にも悔やまれる失敗があります。部下を庇ってやることができず、庇うことなく突き放した経験があるということです。勿論その時には、大局を観て判断したと考えていたのですが、退役して10年以上経った今も、あの時の部下の悲しそうな目は、大きな「しこり」として私の胸に残っています。一生消えない汚点です。
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表題の懐古話をしだすと、優に1時間はかかります。小生にとってロシア(ウラジオストク)訪問はそれ程に強烈な経験であり、思わせぶりではありますが、今なお言えないこともあります。数日間の滞在ではありましたが、多くのエピソードから、公開可能なものをかいつまんで開陳します。
ロシアは近くて遠い国です。海上自衛隊の基地がある舞鶴からウラジオストクまでは、およそ560マイル(約1100キロメートル)、船だと一泊二日で行ける距離です。冷戦中は情報収集のため、毎日のように日本海や太平洋でソ連の艦艇を追っかけておりました。大砲を向けられたこともあります。ですが隣の某国(友達の友だち)の様に、射撃管制用レーダーでロックオンするような、稚拙なことはしなかった。冷戦中は一触即発の状態なので、お互いに大人の対応をしていたと言うことです。ソ連はやはり大国ではありました。冷戦が終わると我々は、信頼醸成の一環として、ロシア太平洋艦隊と簡単な共同訓練を始めました。これは純粋に、我が国(海上自衛隊)のイニシャティブによるものです。米海軍に本件を提示した時の彼の反応は、「やりたければ、やれば」みたいな、否定はしないが積極的に賛成はしない態度だった。
毎年、交互にホストを交代して訓練を行うのですが、つい先日まで仮想敵国だった海軍と、作戦行動に資する共通のドキュメントなどあるはずもなかった。訓練の中身は双方にとってお遊び程度ですから、主たる目的はまさしく信頼の醸成、即ち外交です。端的に言えば「酒飲み外交」、少なくとも先方にとっては。
私が2隻の艦を率いてウラジオを訪問したのは、平成15年(2003)の夏でした。世界中いずれの海軍も独自の伝統や慣習を持っていますが、ロシア海軍が他と変わっている一つは、艦艇を岸壁に付ける要領です。通常、船は岸壁と平行に横付けしますが、ロシア海軍は基本的に「艫(とも)付け」です。即ち、先ず艦(船)尾を岸壁に付けて舫を取った後、艦首から錨を降ろして艦を固定する。なぜそうするのか? 確か「風に強いから」と聞いたのですが、グラグラしてそうとも思えなかった。ただこの方式だと、限られた岸壁で多くの艦艇を係留できるのは確かです。メザシを縦に並べるか、横に並べるかの違いです。訪問時には当然、我々にもそれ(艫付け)を要求されるので、横須賀で事前に練習して本番に臨みました。岸壁では多くの出迎えやマスコミが日本海軍の練度を注視しているので、艦長には大きなプレッシャーになります。幸い隷下二隻の艦長が操艦技量に優れていたこともあり、訓練の成果宜しく、難なく横付けすることが出来ました。
我々の慣例として、入港後速やかに太平洋艦隊司令官を表敬しました。高台にある司令部から観ていたのでしょう、司令官から「日本海軍の入港は素晴らしかった」と褒められた。すかさず彼は、「先日アメリカ海軍が来たが、彼らは下手糞だった」と付け加えたものです。冷戦終焉後数年のことであり、言葉の端々に米海軍への対抗心や、冷戦に敗北した複雑な思いを垣間見ることができた。因みに、多分に外交辞令もあるでしょうが、ウラジオ滞在中を通して我々にはとても友好的だった。これでもか、これでもかとウオッカの攻撃を受け、酒に強くない小生にとっては地獄のような寄港だった。彼らは「これで胃を保護する」と言いながら、カナッペなどを口に運んでいるが、そんなもんで胃を護れるはずがない。ロシア人、特に男性の平均寿命が短いのは、明らかに酒(ウオッカ)が原因でしょう。
入港翌日の地方新聞には、「日出ずる国から提督来る」との見出し。日露戦争(日本海海戦)における先人の偉業は、今なお大なるものがあるのです。
太平洋艦隊司令官に続いて、市長を表敬しました。この市長が面白い男(食わせ者)で、「貴方の艦の錨をウラジオ市に寄贈して欲しい。寄贈してくれたら、公園に貴兄の銅像を建てる」と言います。勿論冗談で言ってるのですが、公的な場であり奇抜な御仁だった。公電で日本(外務省・防衛庁)に届くことも考えられるので、「(日露の交流には)素晴らしいご提案だが、国有財産であり小生の一存では決めかねる」と、真面目な顔をして応じると先方は笑っておった。領事館員が言うには、司令官と市長は完全に繋がっているとのこと。そういう国柄なんでしょう。
当たり前のことですが、ウラジオストックはやはり外国でした。車の排気ガスで空気は濁っているが、活気があり、ヨーロッパの趣がある街並みだった。驚いたのは、街中を走っている車の絶対多数が日本製であったこと。その殆どが中古車らしかった。多くの車体に、日本語の文字が見える。例えば「函館テニススクール」とか、「登別温泉○○旅館」みたいな。日本語の表示があるのがまた人気で、或る種のプレミアが付くのだそうな。面白いですね。そんな車がいっぱい走っているので、函館か小樽を走っているような錯覚に陥った。日本の車検や整備は必要以上にやるので、中古車の輸出入で儲けてる人がいるんだろうな〜。理由は分からないのですが、バスは殆どが韓国製だった。こちらにはハングルが見えます。
若い頃、日本海で行動していると、荷崩れしそうなほどに自転車を山盛りに搭載して、西に向かっている小さな貨物船を時々見かけました。仕向け地は、おそらくロシア(当時のソ連)か北朝鮮でしょう。子供らが使っていて行方不明(盗難)になった我が家の自転車も、あの中にあるのか・・・と思ったものです。我が国が貧しい頃には高級品だった自転車も、今では使い捨て状態の日本。理不尽な世界ではあるが、飽食と飢餓は隣り合わせのような気がする。
亡父から生前、「極寒の奴隷作業に従事しながら帰国を待ちわび、母国が見えそうな所まで辿り着いたが、港(ペトロパブロフスク)で息絶えた人がいた」話を聴いたことがあります。ウラジオにも日本人墓地があるとの情報を得て、計画外ではありましたが、総領事にお願いして墓参をさせてもらいました。粗末で小さな数体の墓は、山の斜面、林の中にあった。あと一歩のところで故国の土を踏むことが叶わなかった同胞の無念、舞鶴の岸壁で息子の還りを待ちわびる母の姿に思いを致し、手を合わせた。そぼ降る雨が白い詰襟にやけに堪(こた)え、線香が目にしみた。
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戦局が行き詰りつつあった昭和18年(1943)、家元は同志社大学在学中に学徒出陣で海軍予備学生となり、特別攻撃隊に志願されました。短期間のにわか訓練を経て、多くの同期生が南の海に向けて出撃し、一人欠け二人欠けと還らぬ人となった。生還するあてのない戦友に「帽振れ」をしながら、出撃命令が下されない自分自身への忸怩たる思い。その胸中には深い憂いと、心の葛藤があったものと拝察します。多感な青年期であり、責任感が旺盛な人であればあるほど、その苦しみは大きい。そして、昭和20年8月15日(敗戦)を迎える。
戦争中に辛く苦しい思いをした、多くの兵員が陥ったのは、所謂、空想的平和論です。その人たちの多くが、戦時中の抑圧に対する反動で、世界の厳しい現実や人間の本質から目を背けた。そして、戦争は悪であり、その先兵となる軍隊も悪だと、鉄板のような、短絡的な信念を心に宿した。理念は美しいが、しかし人間社会も国際情勢も、現実はそれほど甘く綺麗なものではない。激動の最中(さなか)を生き抜き、百歳になられた家元の胸の内には今なお、散華した戦友の面影がおありになる。僭越ではありますが、特攻隊員としての複雑な思いと亡き戦友の供養を茶の湯に昇華させて、精進を続けられたものと推察します。
家元が海軍のご出身であることから、我々(海上自衛隊)現役の代表は毎年、「今日庵」の初釜に招かれて末席を占めます。制服を纏った我々は、客人の中では目立つ。日頃は無作法な制服ですが、正座して大先輩(家元)のお出ましを待ちます。しばし緊張の時間が流れ、茶室に入ってこられた家元は、他の招待客を気に留める風もなくスス〜と我々の前に進まれて、「(作法など気にせず)ええ〜膝を崩して下さい」と言いながら自ら胡坐をかき、まるで我が子を観るような、慈愛に満ちた眼差しで我々と歓談される。そりゃみんな、ファンになりますよ。新生海軍(海上自衛隊)が、帝國海軍から受け継いだ遺産には正と負が混在しますが、裏千家や武者小路家の知遇は「まさしく正」の一つです。「すみれのは〜な」の宝塚歌劇団との関係も然り。
余談ですが、小生が初釜にお呼ばれした時、待合室に女優の「いしだあゆみ」さんが背筋をスッと伸ばして座っておられた。彼女のいでたちは、正月に相応しい品の良いお着物だった。その場には某先輩と小生、そして「いしださん」の三人だけ。目が合って(互いに?)小さく会釈したのですが、先輩が横にいたので声は掛けなかった。ああ〜いつも控えめで、小心な性格が悔やまれる〜〜。
若い人はご存じないでしょうが、家元のお姉さんに塩月弥栄子さんという方がおいででした。若い頃には、テレビやラジオによく出ておられました。弟さん(家元)が元海軍のご縁で、塩月さんも随分、我々(海上自衛隊)と交流がありました。お元気だった頃には、初級士官の鹿島立ち(遠洋練習航海)に際し、毎年、お点前や礼儀作法の講習をお願いしておりました。この国の将来を担う若者(海軍士官)が諸外国を観て廻る前に、先ずは日本文化への造詣を深めさせる。外(国)に出して恥ずかしくない、軍人かつ外交官を育てるのが我々の伝統です。因みに、海上自衛隊の艦(ふね)に女性が泊まられたのは、塩月さんが第一号です。
小生が北欧で大使館勤務をしていた1996年、文化広報事業の一環として、大使主催のお茶会が公邸で催されました。武官の私は文化・広報と直接的な関係はないのですが、広報担当の同僚から「塩月さんがお見えになる」と聞いたので、大使に願い出て公邸に挨拶に伺いました。その場の空気を乱してはいけないので、本当は大使に遠慮して平服で行ったのですが、自己紹介すると塩月さんが大層喜ばれて随分と話が盛り上がった。諸外国の外交官や現地高官に対する説明は一時中断し、しばし二人だけの会話になりました。塩月さんが一向に話を止めようとしないので内心ハラハラしたのですが、塩月さんの機関銃のように出てくる専門用語に汗をかいていた女性通訳(広報担当の外交官)は、ホッとしてしばし休息していた。とは言え長居してはいけないと思い、切りの良い所でおいとますべく「それじゃ失礼します」と言うと、塩月さんがすっと椅子から立ち上がり、玄関まで小生を見送りにこられた。一部始終を観ていた大使を始め、他の外交官や職員が唖然としているのを背中で感じた。
帰途の車中、しみじみと帝國海軍の遺産(その有り難さ)をかみしめたものです。
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さて、農園経営10年目にして今更なのですが、雑草と格闘している小生に、地元の或る先輩が「草は刈るもんじゃない。剃るのが鉄則」と教えてくれました。なるほど彼は朝早くから畑に出て、こまめに手入れをしている。耕作地には雑草が殆どなく、最近植え付けたと思われる各種の野菜がスクスクと育っています。ご自宅の庭を覗いてみると、一本の草もなく綺麗な花がそこかしこに咲いている。この時期、紫蘇(しそ)も元気いっぱいです。
こういう人は、何かにつけて几帳面なのだと思う。外見しか知りませんが、ご自宅もピシャリと整備されています。彼曰く「草剃りは(太陽が顔を出して)暑くなる前の、朝の早い時間がええ(いい)」とのこと。我々船乗りが言う「薄明」の時間帯です。グングン外気温度が上がる日中は、軽く酎ハイを飲んで、涼しい所で一休みするのだそうな。たかが雑草への対応ではありますが、生き方の参考にもなります。
彼に言わせると、雑草は3ミリがポイントだそうです。とにかく小さな緑の芽を発見したら、根こそぎやっつける。それも、雨が降る前がいいとのこと。確かに、雨後は竹の子同様に、植物はグ〜ンと伸びます。雑草君にはちょっと可哀そうな気もしますが、淡々と剃るんだそうな。短時間で済み、楽で、とても効率がいい。当たり前と言えば当たり前なのですが、それをできないのが凡人の悲しさです。小生など、結果、自らを苦しみに追いやるのが常です。自分がきついだけでなく、草刈り機の燃料も余計に要ります。二重の残念です。農園を始めておよそ10年、除草剤は一切使わずにきました。しかし古稀を過ぎ、ここで大きく方針を転換しました。根こそぎ絶やす薬は使いませんが、栽培に影響がない範囲でゆるい薬を使うことにした。自分が育てる野菜へのこだわりは、勿論ありますが、文明や科学の恩恵はその時に生きる人間として、状況に応じて受け入れることにしました。
雑草の退治に限らず、小生は昔からそうでした。会社の確定申告などを始め、兎に角、切羽詰まらないとエネルギーが湧いてこないのです。そんな性格を補うために、その場その場で、努めて退路を断つようにして生きてきました。誰も言ってくれないので言いますが、それでも私が偉い(?)のは、後手後手に回って悪戦苦闘しながらも、何とかかんとか「一応のけじめ」をつけてきたこと。いつだって、にわか勉強ですから百点は取れません。試験で満点を取れたのは、小学生の時だけ。中学校以降は、良くても70点で時間切れです。俺の人生、まぁそれでもいいか〜と納得する。別に他人様に迷惑をかける訳でもないし。自分が自分を苦しい場所に導いているだけだから、本人が納得すれば、それはそれでエエのです。何時まで経っても駄目な私で、成長しない古稀です。残された時間はあんまりないんだけど・・・な。
上記の趣旨とは真逆になりますが、そして表題とは大きく離れるのですが、「鉄は熱いうちに打て」と言う言葉があります。これも防大でよく言ってました。この教えは、私に残された時間のメイン・テーマであり、最終ゴールでもある、青少年・少女の育成に通じるものです。戦後の教育は、悪い方向にこれを実践してきました。そして今なお、その残滓が跋扈している。この失政・失策を是正するためには、膨大な時間と汗を必要とします。今この問題に手を付けないと、将来に大きな禍根を残すことになる。
今まさに議論になっている LGBT 法案、屋上屋の表現ではありますが、笑えるほど可笑しな法案だ。呆れたを通り越して反論する気にもならん。決して人間そのもの、そして男女の差別などをもって言うのではありません。生まれて物心ついた頃から、自らの性(別)に悩む人もおられる。その人たちを含め、体型や能力、思想、性別、職業、貧富などに関わらず、この世に生を受けた人間は、みな平等であるに決まっています。また、マイノリティ−(少数の国民)を保護するのは、国家としての責任だと思う。しかしかと言って、絶対多数の国民(特に女性)が被害を被るような法律を制定していいのか? 大きくは、神の意志に反していいのか? そして、文明とはいったい何なのか?
このままいくと近い将来、必ずや手痛いしっぺ返しを食らうことになると思う。思い過ごしであればいいのですが、地球上から日本と言う国が無くなる、その序章のような気がしてならないのです。最近の政府の動きを観ていると、暗澹たる気持ちになります。なんで現政権の支持率が高いのか、よう分らん。
事のついでにもう一点:かつては、或いは今でも、小学校や幼稚園など、学校近くの不動産(戸建てやマンション)は買わない、買うなと言う人がいます。何を考えてるんだろう? 自分だって子供だったんだよ。子供はいつの時代でも国の宝です。運動場で元気よく走り回る子らの歓声を聞くと、こちらまで元気をもらいます。 騒音クレーマーはそれ程多くないと思うのですが、我が国のそこかしこに末期症状が出ている。悪性の腫瘍は、小手先の手術でリカバリーするのは不可能です。一日も早く教育に手を付けないと、日本国が大変なことになる。今取り掛かっても、50年は要すると見ています。一人でもいい、将来、国難を救うことができる人材を育成すること。それは、神様が私に与えて下さった使命だと思っています。
ゴメン、支離滅裂な草刈り(草剃り)になりました。
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現役の時にある民間の方から、「戦争をして平和を手にすることはできるのでしょうか? また、戦争をして得た平和で、本当に幸せになれるのでしょうか?」と問われたことがあります。難しい質問でした。今なおロシア・ウクライナ間の戦争が継続しているなか、加えて大国の脅威が直ぐそこに迫っている情勢下、およそ40年間、国家防衛の最前線で戦争と平和に関わってきた、自分の思考を整理してみるのも意味がある、との思いで今回の表題を出してみました。タイトル通りの整理ができるかどうか、自信はありません。
こう言ってしまうと身も蓋もないのですが、人間が人間である限り、戦争或いは戦いは無くならないと思っています。熱い戦争(熱戦)に至る理由は、さまざまです。まさしく、戦争の数の倍だけ理由があります。どんな国にも、戦争を始める、或いは受けて立つ理由があるのです。相手が殴ってきたので殴り返した、ということもある。殴られることが必至の情勢だったので、已むに已まれず先制パンチを食らわせた、もある。この種の戦争は多いですね。水面下で自分が仕掛けたにも関わらず、そう言って自らを正当化する国もある。世界の戦争史を概観すると、むしろそちらの方が多いのではないか。
勿論、かつての日本にも宣戦を布告する理由がありました。ヒタヒタと迫りくる赤い軍靴の足音。これが、日本が大陸という泥沼に足を踏み込んだ大きな理由の一つです。列国に首根っこを押さえられて、生きていく術をことごとく潰された。これが真珠湾に至る理由です。何れも、我が方の言い分ではありますが。斯様に、ロシアにもウクライナにも、双方に言い分や、自分たちが考える正義があります。そして、それぞれが自国の正当性を主張します。それが客観的に観て正しいか否かは、当事者ではなく、時の国際情勢が判断します。その国際情勢は、力関係に拠って決まるのが常識です。共通の価値観を有する者が繋がり連携する。先般、広島で行われたG7サミットを観れば、自ずと明らかです。そして恐るべきは、戦争に勝った方が正義になる、という現実です。敗者は間違いなく悪です。正確には、悪の烙印を押されて終わり。東京裁判では結果ありきの、問答無用の判決がなされた。勝ち組(連合国側)の歴史に残る恥部ではありますが、これもまた人間社会の必然であると言えます。
だから、後世の史家から観れば、あの時の判断は間違いであった、ということが往々にしてあります。まずは、この大前提を押さえておく必要があります。もう一度確認しておきます。この地球上においては、残念ながら戦争は絶対になくならない。これは40年間、海上防衛の最前線にいた私が出した結論です。さりとて、何の対策も打たずそのまま放置すると、どうなるかは火を見るよりも明らか。ならばどうするのか、が次の重要なステップになります。他の動物に比べると人間の脳味噌はやたら大きいので、大きな戦争が終わるたびに、もう戦争はしまいと決心します。そして、戦争を回避するための考え方や枠組みを構築します。しかし、国際連盟は、あっという間にその役割を終えて機能不全になった。国際連合(UN)もまた現在、ほぼ死に体の状態にあるのは周知のとおりです。両極に位置する戦争と平和が、イタチごっこをしていると言えます。
さて冒頭の命題、「人類は戦争に訴えて、平和を手にすることができるのか?」、そして「戦争で得た平和で、人間は幸せを掴み取ることができるのか?」に還ります。結論を急げば、両方とも可能。私はそう考えています。
現在、殆どの日本人が「我々は今、平和に過ごしている」と思っている。勿論、人それぞれ環境が違うので、そう思う・そう感じる程度やレベルは個人によって差があります。しかし、全体的に観れば「日本は今、平和」と言って差し支えないでしょう。しかし、現在の状況、即ち平和を今後とも維持したいと思うのであれば、どのようにして今日の平和を手にすることが出来たのか、ということに思いを致さなければならない。でないと、先人が血をあがなって遺してくれた財産を、子孫である我々が食いつぶしてしまうことになりかねない。そして、そこに「戦争で平和を手にすることが出来るのか?」の、手掛かりがあるはず。熱戦に至るまでには、長年にわたる歴史と経緯があります。その過程において、時々の衝に当たる者は、何とかして戦争を回避したい、軟着陸したいと煩悶します。戦争には多大の犠牲を伴うからです。下手をしたら国家が転覆するかもしれない。国対国の戦いでは、お金だけではなく、人の命をも失うことになる。
一方で、この国はかつて、血はおろか汗さえも流すことなく、何でもお金で解決しようとしてきました。それは、先の大戦で余りにも大きな犠牲を強いられたので、その反省と恐怖(反動)に立脚した思考です。しかし、そのような考え方が、国際社会でオーソライズされているわけではない。むしろ逆で、場合によっては世界に迷惑をかけることになって、軽蔑の目で観られることさえある。ハイジャックに対する身代金の提供は、その典型的な例です。時の総理が放った有名な言葉、「人の命は地球より重い」は、国際社会では受け入れられなかった。他にも湾岸戦争における拠出金、いくらお金を出しても、軽いタッチで Thank you! とは言ってくれても、1ミリとて尊敬されることはなかった。日本国民の血税は砂に水が浸み込むように、膨大な戦費の一部として何処かに消えた。そして我が国には、無力感だけが残った。時の海上幕僚長は、同盟国である米海軍作戦部長と第7艦隊司令官宛に、苦しい胸の内ともどかしさを伝えている。
これを要するに、いろいろな事情があるにせよ、戦うことでしか得られない平和がある、ということです。勿論、そこにはリスクがあり、大概の場合は犠牲を伴う。従って我々(自衛隊)は、日々、このリスクと犠牲を最小限にして、如何にして目標(任務)を達成するかを考えているのです。
二つ目のテーマ「戦いによって得た平和で、国民は幸せになれるのか?」 答えは明確に YES ですが、実はその答えは一人一人の胸の内にある。投げやり的な言い方ですが、その人が幸せと思えば幸せだし、幸せでないと思えばそうなのです。どちらに自分の心を置くかは、国民・個人に任されている。私の父方、母方ともに伯父が戦死しています。特に父方の場合、小生の祖父は若くして病死したので、戦後、祖母が歩んだ苦難の道は、言葉に表せないものがあった(と推察します)。祖母は元々、性根の座った明治の女ではありましたが、国や社会に対して恨みがましいことは一切口にしなかったし、聞いたこともありません。環境が彼女を強くしたのだと思う。
多くの犠牲を払い、戦うことによって手にした平和であればこそ、尚更のこと、今日の幸せを大切に生きたいと思う。
PS 尻切れトンボになりました。表層的で、思考の掘り下げが不十分です。昼寝をしながら、もう少し考えてみます。
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「讃岐と言えばうどん、うどんと言えば讃岐」今日では、そんなイメージでしょうか。確かに小生も小さい頃からよく食べたし、何かお客ごとや季節の節目ふしめにはうどんが出るのですが、それほど食したと言う記憶はありません。そもそも白い粉ものですから、昔は大名など上級国民の食べ物であり、一般庶民は偶にしか食べることができなかったと聞きます。今日では、ワンコイン(500円)で食べることができるランチとして、都会の OL さんにも人気があるみたいです。なのですが、食べ過ぎには要注意! 冗談ではありましょうが、香川県の子供には高脂血症が多いという話があります。かく言う私も、高品質の冷凍ものがスーパーにあり、また通り沿いのそこかしこにうどん屋さんがあるので、手軽に週に1〜2回は食べます。
さて前回のブログ(源内さん)の関係で言えば、さぬき市から国道11号線を西(高松方面)に走ると天野峠があり、峠を越えると直ぐ左手(南)に「源内」の大きな看板が目に入ります。私が高校を卒業して、故郷を出た(昭和46年)頃に創業した店だと思います。夏休みなどで帰省すると、両親が「エエ店がある」と言って何回か連れて行ってくれました。当時のウリは茶わん蒸し風のうどんで、物珍しさもあり、これが受けたようです。今もお客さんで賑わっており、リピーターも多い。裏手には何室かハナレがあり、静寂な中で讃岐うどんに舌鼓を打つことができます。従業員の躾けが良くなされており、如才ない若い店主にも好感が持てます。
ところで、外野から余計なお節介なのですが、「源内」と言う店名は特許などを得てるのでしょうか? 勝手に使うわけにはいかんよね。公共に資するもの、例えばアメリカの軍艦には、「ジョージ・ワシントン」とか「ロナルド・レーガン」など、その殆どは国家に貢献した人の名前を頂いてますが、少なくともご遺族の了解は取り付けてると思う。
高松の市街地から「空港通り(国道193号)」を塩江方面(南)に向けて30分ほど走り、「高松空港」の看板に従って右折すると、丘の上にレーダーの鉄塔が見えてきます。因みに空港と言えば、四国四県でオリジナルの名前を維持しているのは香川県だけです。お隣の徳島は「阿波踊り空港」、愛媛は「ぼっちゃん空港」、そして高知は「龍馬空港」です。外国でも「ドゴール空港」などがあるのですが、先人におすがりするしか術がないのは情けない。血の小便が出るくらい知恵を絞って、町おこしをせんかい。我が故郷・讃岐人よ、間違っても「うどん空港」などと名前を変えてはいけない。この 「T の路」から300メートルほど坂道を上って行くと、右手に「川田」という名のうどん屋さんがあります。場所柄か、県外ナンバーも多く見られる。同店の一押しは、何と言っても鍋焼きうどん。お好みでオリーブ牛を始めとする各種の肉に加え(肉の種類によって値段が異なります)、野菜やエビの天麩羅、鳴門に溶き卵などが鍋にひしめいています。健康にも良さそう。更に、下の方には お餅が入っており、少し疲れた時などはお腹に溜まるので有り難い。身体がとても温まるので、寒い時に食するのがお勧めです。私は季節に関わらず、此処では鍋焼きしか注文しません。それが男の美学、な〜んて全く関係ないのですが、夏の暑い時に大汗をかきながら、ビールがうま〜〜〜い。勿論、車を運転する人は飲んではいけません。
志度街道(国道11号)を快走し、志度の中心部にある交差点(天野峠西)の、南約300メートルにある T の路を西に折れる(県道272号)と、左手(南側)奥には讃岐山脈が連なり、緑がやさしく包んでくれます。かなり古い話ですが、天地真理さんが歌って大ヒットした「若葉が町に急に萌えだした・・・」を思い出します。この歌を初めて聴いたのは昭和46年、防衛大学校のピカピカの一年生でした。桜の季節には、一面に広がる山桜を楽しむことができます。山全体が、と言えば大袈裟ですが、讃岐山脈全面に広がるピンクの絨毯を観ると、ああ此の地に生まれて良かった〜との思いを強くします。
遠方のピンクをチラ見しながら15分ほど走ると右手に、白壁に門構えのある古風な佇まいが目に入ります。ここが「郷屋敷」と言う名の有名な店です。レストランの建屋と庭園を含む、敷地全体が有形文化財であり、静謐を感じながら食事を楽しむことができます。店の前にある「郷屋敷の由来」には、元々は高松藩に仕えた与力の屋敷で、人望のあった三代目の当主が「各地の粋人、名人、達人、奇人をもてなして宴を催し、文化交流の場として栄えた」と記されています。コース料理のメニューでは、釜揚げ、ぶっかけ(うどん)などをお好みで選べるようになっており、和食の懐石とうどんの両方を一膳で楽しむことができます。食卓に置かれた紙の下敷きと小さな置物(本物の植物)は、毎月、その時季に合わせて入れ替えるとのこと。下敷きには、季節に合わせた和歌などが記されています。格式と上質な空間の割にはお手頃の値段であり、県外ナンバーの大型バスが何台も留まる有名店です。支配人によると、食後、隣接する喫茶部に行くとコーヒーが半額になる、とのことです。和食の後のコーヒーもいいですね。
うどん専門店のトリはこちら、「山田屋」さん。ネット情報によると、創業は昭和53年(1978)で意外と若い。これも地元の同級生に教えて貰った店ですが、さぬき市の実家からは少し距離があり、高松市郊外の牟礼町にあります。つい先日、住所を car navi に入れて足を延ばしてみました。大層混むと聞いていたので、平日の、食事の時間帯をずらして訪れたにも関わらず、何か所かある駐車場は満杯で、お客さんが列をなしておりました。今時、田舎にこんな店もあるんだね。「ぶっかけ」うどんには、肉ぶっかけ、ざるぶっかけ、普通のぶっかけと三種類あるのですが、お腹が空いていたので、「ざるぶっかけの定食」をいただきました。冷やしのざるぶっかけ。うどん自体の旨味は勿論ですが、こだわりの「だし」が格別だった。ここでは脇役の、お稲荷さんや天麩羅も言うことなし。いや〜ほんまに美味しかった。
こちらも建屋などが有形文化財で、赤い大きな傘をあしらった庭は、鎌倉庭園のような趣があり、お店の品(ひん)を感じます。これであの値段は安い。何のことか分らんでしょうが・・・お客さんが並ぶのも納得できます。帰りがけに、レジに置いてあった「山田屋倶楽部 VOL 29」なる小冊子を貰ってきました。勿論、店の宣伝用パンフレットですが、大変勉強になりました。讃岐うどんは奥が深い。素人があれこれは言いません。とにかく一度訪ねてみることをお勧めします。
パンフから一点、引用します。「ぶっかけ」若しくは省略して「かけ」に、ネギ・天かす・薬味などをトッピングするのは讃岐うどんの定番ですが、これは元々、山田屋さんの「まかない」だったそうな。職人さんは忙しいので、その辺りにあるものをまとめてどんぶりに入れ、それをかき込んだのが好評だったので、裏メニューとして出した(らしい)。今日、セルフサービスのうどん店はどこも、ネギ、天かす、おろし生姜をサービスで置いてあります。私の場合、天かすには手を出しませんが、ネギと生姜はたっぷり頂きます。因みに、讃岐でネギと言えば、それは細ねぎのことです。
番外編:小生には、今となっては「幻の讃岐うどん」があります。以前のブログにも描きましたが、それは宇高連絡船の第2甲板(後甲板)で食べた「うどん」。旧い時代のことであり、お味は上記のうどんに勝てる訳もないのですが、また実家に着けば母のうどんが待っているのは分かっているのですが、それが待てない。うどんは別腹だからいいんだ、と自分を納得させる。宇野(岡山)のマラソン桟橋を経て連絡船に乗り込み、先ずは荷物を座席にポンと投げて席を確保します。そしてラッタルを駆け上がり(毎日鍛えているので、なんてことはない)、後甲板に向けてダッシュする。それでも一番にはなれん。事情通の強者がいるのです。かけ(うどん)一杯が、200円くらいだっと思います。どんぶりを手にする頃には、連絡船は岸壁を離れており、瀬戸内の心地よい夜風が優しく頬を撫でる。勿論、お客さん用の椅子などはなく、みんな甲板で立ち食いです。船尾から後方に流れるウエイキ(航跡)が郷愁をそそる。石川さゆりさんが歌った「あ〜れ〜は たかまつ〜 さ〜いしゅう〜〜便」を想う。讃岐特有の、ちょっと甘いお揚げさんが一枚入っただけの素うどんは、「あぁ讃岐に帰った〜」の感慨を抱かせる。そして、懐かしい味にホッとする。防衛大学校学生時代の望郷の念は忘れ難く、古稀を過ぎた今でも昨日のことのように蘇るのです。
さて、次は何処にいく?
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因みに「探訪」は「たんぼう」と読むんですね。いい歳して恥ずかしいのですが、知らんかった。71年間ずっと「たんほう」と思っていました。表題を PC で書いていて、何回か「たんほう」と打ち込んで変換したのですが漢字が出てこない。それで調べてみて、初めて誤りに気が付きました。古稀を過ぎてなお、不明を恥じるばかりです。
讃岐には多くの景勝地や、歴史的に価値のある史跡などが散在していますが、讃岐(さぬき)出身の偉人と言えば・・・空海さんは別格として、何と言ってもこの方、平賀源内さんです。因みに、本文には全く関係ない話ですが、私はどんなに偉い人でも、どれほど高名な方であっても、全て「さん」付けて呼びます。我々の大先輩である、山本五十六元帥も「山本さん」です。お会いする多くの方々の中には、気を悪くされる人がいるかもしれませんが、これは海軍の文化です。現役を退けば、人間みな同じと言うこと。現役で位階のある方は、それだけで敬語になるのでまた別の話です。
さて源内さん、先ずは取材の定番、さぬき市内にある記念館を訪ねました。文章を紡ぐには「とにかく取材してなんぼ」です。それを教えてくれたのは、作家の曽野綾子さんでした。勿論、彼女が書いたものを読んだだけなのですが。三冊目の拙著は歴史ものでノンフィクションですから、原稿を書きおろしていく過程においては、取材と調査を最も重視しました。
JR 志度駅から車で北(海側)に3分ほど走ると、平賀源内記念館があります。大層高名な方の記念館にしては、正直言って大した建屋ではない。讃岐人の控えめな性格でしょうか。或いは、貧乏県・貧乏市の故でしょうか。
源内さんは、江戸時代中期の方です。幼名を「四方吉」と言った。そもそも名前からして、およそこの狭い讃岐に納まる器ではなかったと言えるでしょう。彼は発明家としてつとに有名ですが、源内さんが非凡であるのは、それだけの人ではなかったと言うこと。彼はいろんな顔を持っている、謂わば天才です。発明家の他に、本草(ほんぞう)学者、陶芸家、俳人、鉱山技師、洋画家、作家などなど。浄瑠璃も描いている。1739年(元文4)、11歳にして早くも「からくり掛軸」なるものを考案・作製して大人たちを驚かせた。「御神酒天神」と称される掛け軸は、下の紐を引っ張ると、掛け軸の中の天神さんの顔が赤くなるという代物。大人たちは、この子は人の子ではない・天狗の子だと噂し、付いたあだ名が「天狗小僧」だと。彼の発明で最も有名なのが、日本製エレキテルと呼ばれる発電機です。製作に7年かかったと言われています。この他にも、石綿で作った火浣布(かかんぷ:燃えない布)、国倫織(くにともおり:羅紗)など。一つの事業や勉強に満足できない、積極果敢な性格で、尚かつ何事に対しても行動的だった。多くの分野において、発想がとても豊かだったのだと推察します。若くして長崎に遊学し、多くの外国人と接して国際感覚を磨いたことも、その後の研究や仕事、事業に大きく影響したことでしょう。
我が国には「土用の鰻」と言って、古くから夏の暑い時期にウナギを食する習慣があります。小生も先日、スーパーで求めたものですが、農園作業の後の夕食にいただきました。とても軟らかくて美味しかった〜。おそらく絶対多数の日本人は、何となく力が付きそうに思って食べている。でもこの発案が、源内さんであることは知らんかった。夏の或る日に、源内さんが江戸のうなぎ屋に行ったときのこと。店主が「こう暑くちゃ、お客さんがさっぱりです」と愚痴ったそうな。そこで先生は、これを逆手にとって「こういう時にこそ、暑気を乗り切るためにウナギを食べよう、と宣伝すればいい」と閃いた。医学、薬学その他諸々、いろんな知識があればこその柔軟な発想だと思う。基礎学問が如何に重要であるかと言うことです。「土用の鰻」は栄養学的にも理にかなっていると思いますが、ものを売って・広めて儲けるキャッチコピーは、それらしくあれば何でもいいわけで、これが宣伝効果です。勿論、嘘を言ってはいけませんが、源内さんの発想がこの国の習慣や伝統になり、日本の食文化の一つになった。
ショップ TV を観てると、まぁ口達者な人がやってるので、視聴者は要注意です。その場の空気や勢いで購入すると、しまった〜ってことになります。ただ、最近はお客さん(視聴者)の目が肥えてきているので、勿論、良いものも沢山あります。最近、近しい友人が電動の剪定鋏(せんてい・ばさみ)をテレビの通販で購入したと聞いたので、厚かましくも借用して垣根の整備に使わせてもらいました。とても庭師さんのようには行きませんが、そしてちょっと腕が疲れますが優れものでした。
記念館を出て西に5分ほど走ると、左手(南側)に源内さんの旧邸があります。米酢を生産販売する末裔の方が商売用に建てた家のようで、生家ではないとのこと。記念館は入館料が500円ですが、旧邸は無料(タダ)です。しかも訪問者には皆、源内さんゆかりの「源内健康茶(どくだみ、エビス草、ジュズダマ、アロヱ含有)」と、一粒の甘味(和三盆)が振る舞われます。小生も有り難くいただきました。薬草茶を飲むとお腹がスッキリして、何故かホッとします。お茶を接待して下さった受付の方も地元の人で、話が盛り上がりました。裏にある「平賀源内先生ゆかりの薬草園」(庭園)には、数十種類の薬草が所狭しと植えられています。薬草のひとつひとつに、名前と効能が紹介されている。例えば、「えびすぐさ 便秘・高血圧予防」「じゃのひげ せき止め・滋養・強壮」などなど。
邸内に目を引く新聞記事がありました。2000年10月23日付の朝日新聞です。朝日さんも、偶には良い記事を書くんだね。タイトルは「この1000年 ”日本の科学者" 読者人気投票」。結果、1位が野口英世、2位湯川秀樹、そして我が郷土の偉人、源内さんは、杉田(玄白)さんや北里(柴三郎)さんを押さえて、堂々の3位を占めています。20年前にはまだまだ、日本の良識が生きていた証左でしょうか。或いは、1971〜1972年に放送された、 NHK のドラマ「天下御免」(主演:山口崇)の余韻が残っていたのかもしれません。今じゃ「平賀源内」と聞いても、その名前さえ知らない人(日本人)が大多数でしょう。つくづく教育の重要性を痛感します。
ネット情報によると源内さんは、誤解により殺人を犯して牢獄に投ぜられています。記念館ではそこのところを、「源内入牢の原因として諸説あり確定できない」と表現している。ただ、牢屋に入れられたのは確かで、1779年(安永8)に獄中で病死しています。享年51歳。時代とは言え、日本を代表する天才の若すぎる最期です。しかし大正13年にはその功績が広く認められ、従五位に叙せられています。身贔屓もあると思いますが、地元記念館では「これにより源内先生の無罪が確定した」と記されています。彼が犯した罪の事実関係は、もう少し文献を当たらないと何とも言えないのですが、地元顕彰会の言い分にも一理あると思う。現在では、交通違反一つでも叙位叙勲はないですからね。いずれにせよ、久し振りに知的な作業をしました。
追伸:つい先日、中学校の同級生に「健康を考えて粗食や筋トレを継続して、ストイックに生きるのは素晴らしいと思うけど、ちょっと痩せてきてない?」とやんわり注意されました。身体を絞り込んで筋力をつけるため、20年近くこの生活を続けてきたのですが、やはり歳も考えんといかんな。実は最近、自分でも何となく顔が細くなったような気がしていたので、彼の注意喚起は「やっぱり」と、ちょっとショックでした。健康と貧相、なかなか天秤に掛けるのは難しい命題です。でも、そんなことを言ってくれる竹馬の友は得難いですね。次回の探訪は近辺の食べ歩きでもして、経年劣化が著しい脳みそに栄養を与えようかな、と思っています。
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まず前提として、自衛隊が保有する航空機の絶対多数は作戦機、即ち有事の作戦に使用されるものです。現役中には私も、随分ヘリを活用させてもらいましたが、単なる人員の移動に供するのは、作戦機本来の目的ではありません。従って、例えば洋上作戦中(訓練を含む)に、或る乗員に親御さん危篤の報がもたらされたとします。すれば当該指揮官はここで、大変悩ましい決断を強いられることになります。即ち気持ちとしては、一刻も早く部下隊員を親御さんの元に還してやりたい。それには、ヘリで陸上に送り届けるのが一番早い。しかし一方で、虎の子の作戦機をそのようなこと(私情)に使っていいのか、という問題がある。幸い私は、そのような決断を強いられる事案に直面したことはありませんが、しばしば実際に起きることです。
因みに、私が現役時代を通じて最も過酷な訓練であったと今も思っている訓練(上級部隊指揮官による検閲)の出動に際し、隷下部隊の総員に「この訓練は演習ではあるが、私は有事と位置付ける。よって、訓練中に貴兄らの身内に不幸があっても還すことはないので、その旨を関係者によく伝えて理解を得ておくよう」指示しました。事前にお別れを済ませろ、その為の特別休暇は与える、という趣旨です。実際にかかる案件が生起した場合には、指揮官としての腹案を持っておりましたが、部下隊員からは、血の通わない冷徹な指揮官と思われたかもしれません。さりとて勿論、今回の陸自機の使用を批判するものではありません。新たに着任した指揮官が、自分の責任範囲を視察して廻り、地形などを頭に叩き込むことは爾後の作戦に資するものであり、作戦の一環と捉えることができます。
さて山本事案の危機管理上の大きな問題点の一つは、指揮官と司令部の NR2 である参謀長が同一行動を取ったことです。但し、流石に司令長官と参謀長は別の航空機に分乗しています。参謀長はあくまでも参謀(スタッフ)の長であって、部隊の指揮権はないのですが、しかしこの時は有事のしかも最前線であり、参謀長は留守を守ることに徹すべきでした。そのことを拙著では厳しく糾弾しているのですが、今事案では副師団長が留守を預かっているので、この点に関する危機管理上の問題はありません。山本さんの場合は、紆余曲折はあるのですが、結果的に大名行列になりました。今回も報道だけを観ていると若干そのような印象を受けますが、師団司令部が全滅するような事態ではないので、外から指摘さるほどのものではないと思います。
また今回の事案で、予備機を準備し飛行させていないことを指摘する意見もありました。しかし、このクラス(中将)の指揮官の視察に際して、予備機を飛ばすことはありません。しかも、現在は平時です。
上級指揮官を乗せて飛行するからには、担当部隊は入念に機体の点検を行ったと思われます。加えて、パイロットを始めとする搭乗員は心身ともに健康かつ思想健全で、技量優秀なベテランの勇士が選抜されます。Old Sailor がことの実態を知る由もありませんが、おそらく私が推察する通りだと思います。ではなぜ事故は起きたのか? と言うことになります。事故の原因を究明するに際しては、あらゆる可能性を排除するものではありませんが、地理的な状況等から推察すると、周辺国や第三者機関による陰謀説には与しません。
ひとつだけ人間の心理として考えられるのは、上級者に対する過剰サービスという、或る種の名誉欲です。昨年(2022年)4月に北海道知床沖で、観光船が沈没した痛ましい事故がありました。腕に覚えのある優秀なパイロットや船長であればあるほど、過剰サービスの誘惑にかられがちです。俺ならここまでできる、という自負がそうさせる。例えばですが、搭乗している指揮官が地形などを見やすいように、或いはピンポイントを説明するために、飛行の限界ギリギリの低い位置まで下りていく。或いは、ここぞというポイントに来たら、ホバリングをしてみせる、などなど。そしてそこに、予期しない突風が発生した。突風は突風であり、天気図や事前の気象ブリーフでは把握できない環境条件のひとつです。当該機が墜落した辺り(岬)の当日・当該時刻には、鉄塔に上っていた人が落ちそうなほどの強い風が吹いていた。実際に鉄塔に上って作業をしていた人の証言があります。
以上のことから、私が推察する事故原因は上記の二点、即ちパイロットの心理と風(突風)ではないかと考えています。或いは、搭乗している指揮官が、「もっと降りろ、もっと近づけ」と指示したことも、可能性としては考えられる。しかし、それは神のみぞ知ることであり、事故原因の究明に資することはない。私は元パイロットでもなく、航空機事故に精通しているわけでもないので、私の見解が正鵠を射ていると言い切る自信はありません。イチ Old Sailor の推測であることを、ご承知おきください。
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偉そうに言ってはいたのですが、自らを振り返るとその行動は甚だ怪しいもんです。指揮官は自分ができないことでも、部下に要求するのです。むしろ私の生き方は真逆で、行き当たりばったりの人生でした。そして現在も。中学校時代、社会科の先生でとても生徒に人気のある方がいました。担任ではなかったのですが、その先生が卒業前の最後の授業で、クラスの一人一人を指して「君はこういう人です」と、それぞれの人となりを真面目に評価してくれました。洞察力の鋭い先生でした。私の番になると彼は、「君を見ていると、例えて言えば、線路がない所を電車が走っているようなものだ」と言われました。私の将来を案じて注意喚起してくれたのか、或いは呆れて観ておられたのかは分かりません。いつか訊いてみたいと思っていたのですが、数年前に鬼籍に入られたので確かめる機会を逸しました。ですが私はこの評価が痛く気に入って、今だによく覚えています。「こいつは、いざとなったら何をしでかすか分からん。暴走する」みたいな感じでしょうか。
部下に「定年後のことを、現役である今から考えておけ」と言っていたのは、あながち出まかせではなく、私もそれなりに第二の人生を思考錯誤していたためです。無謀にも小生が試みた例を列挙すると:
スイミングクラブの経営 中学校の時から水泳をやっていたので、これは実現の可能性が高いと思っていました。前の東京オリンピック後にスイミングクラブが雨後の竹の子のように誕生して、極端な話、都会では各駅ごとにクラブがあるような感じでした。実際、海上自衛隊を中途退職してその道に進んだ先輩もいました。水泳はオリンピックで惨敗したことから、選手層を厚くする必要があるとの大方針が打ち出され、これに関係者が乗っかったのですが、次第にクラブ間での競争がし烈になり、また子供の数が少なくなってきて徐々に淘汰されていきました。恩師が経営していたクラブが閉まったこともあり、水泳を教えて生計を立てる熱意は次第に冷めていった。
中小企業診断士 単に新聞のチラシで見つけた資格なのですが、何となく良さそうな感じがした。しかし、仕事で「億」の買い物はしても、一円とて自分が汗をかいて稼いだことはないので、あっとそうだ、高校三年の三学期に土方をしていくらか貰いましたが、はなから無理な相談でした。我々の本業は、生産ではなく破壊です。今まで壊すことだけを考えてやってきた人間に、にわかに生産しろと言われても無理というものです。これも途中で投げ出して、残ったのは大枚はたいて購入した教本だけ。昔から、見積もりがとても甘い男でした。
カラーコーディネーター 夢を見ることができる住宅展示場や、新築マンションの内覧会に行くのが好きで、休日には何度も足を運びました。それなりに目が肥えてきた、と思って挑戦したのですが、世の中はそんなに甘くない。勤務の殆どを艦隊で過ごしていたということもあります。勉強が調子に乗ってきても、出港となると中断せざるを得ないのです。そうこうする内に「もういいや!」となってしまった。これも、何の成果もなく教本だけが残りました。
臨床心理士 自称ですが、私は人の話を聴くのが好きです。部下の話も真摯に受け止めて、いろいろな悩みを聴いていました。そして、一緒になって解決策を見出そうと努めていました。或る隊員が「どうしても鉄道員になる夢を諦めることができないので、退職したい」と言ってきました。「退職するのは宜しい。しかし夢を叶える手立てはあるのか?」と問うと、「ありません」と言います。その頃、たまたま京浜急行電鉄に勤務する知り合いがいたので相談すると、「京急で今、操縦員の中途採用をしている。是非とも連れてきなさい」と言います。これは吉報と部下を引き合わせて、彼の夢の実現にチョビット手助けをすることができました。袖触れ合うも多少の縁と思っています。
そんなことで、この資格は自分に向いている、勤務にも活かせそうだと思って勉強を始めました。しかし前に進めていって、この世界の実態を知るほどに、本当に申し訳ないのですが、だんだんと気がめいってきた。艦隊勤務との兼ね合いもあるのですが、私の思い入れや心が弱かったのだと思います。そして挫折しました。
社会人向け大学院(国際関係論) たった三年間ではありますが、在外公館で勤務したことがあるので、退役後はこの経験を活かして大学の教員になろうと思った。欧州情勢とか欧州の安全保障などであれば、仕事でやってきたので、教えることができそうな気がしたのです。その為には、常識的に博士(ドクター)の資格は必須だと思った。そう、当時の防衛大学校の卒業生には博士・修士どころか、学士さえなかったのです。私はそれでいい、軍人に学問の資格など要らないと思っているのですが、外に出ると単なる専門学校出(高卒)に過ぎません。ですから、博士や大学教員のステータスに憧れもありました。旧い言葉で「末は博士か大臣か」ってあるじゃないですか。それで、夜間と通信課程を考えたのですが、どうしてもスクリーニングの時間を捻出することができない。今では PC とネットがあるので、如何様にもなると思いますが。
因みに大学教員になるには、極端な話、義務教育を終えておればいいんですよね。退役してから知りました。大学の採用基準の最後に「一芸に秀でている者」という一項があります。別に小生が一芸に秀でているわけではないのですが、高校の或る先輩が奔走して下さって、今日の自分(客員教授)があります。彼に足を向けて寝ることはできません。
英検一級 これも一応ですが、海外で勤務した実績があるので、また諸外国、特に米海軍との付き合いが長かったので、加えて心臓英語とパーティ英語はそれなりに体感しているので、退役したら英語塾でもやろうかな、と思った。どこまで面の皮が厚い人間なのか、と自分でも笑えます。できれば一級が欲しいが、せめて準一級くらいは取らんといかんな、と勉強を始めました。これは本当に真剣に何回も試みたのですが、もう一歩のところまではいくのですが、結局手にすることはできなかった。ネイティブなら子供でもできる、所詮は言葉、即ちコミュニケーション・ツールですから、それほど難しいものではなく、おそらくアプローチの仕方が違ったのだと思います。ゴルフも最初から自己流でやったので、ちっとも上達しなかった。ですが、世の中にお喋りな人とそうでない人がいるように、その人のセンスもあると思う。私の脳味噌は、縦のものを瞬時に横に変換することができない構造になっているらしい。自分への言い訳でしかありませんが。
このように、私の人生は挫折と反省に終始するのですが、終活はできるだけ早く始めた方がいいと思う。頭の中にボンヤリとでも計画があるのと、全くの白紙状態では、イザという時の対応がかなり違ってきます。災害に対する備えも同じです。と言いながらも「運命を引き受ける勇気」も必要。人生は節目節目において、全て自分が決心・決断して前に転がせている訳ですから、間違っても他人様を恨んだりするのは筋違いで、あっちに行くまで、淡々と日々を過ごせればと思う。そんなことをつらつら思いながら、今日もトラクターに乗っています。
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なぜ終活をやるのか? です。私の場合は、昨年末に母を亡くして、その片づけをしていて気が付いたことがあります。田舎のことですから、いろんな物があちこちに溢れています。一例として、昔の商店や公的な組織などは、盆正月にタオルを一筋持参して挨拶するのが習わしだったようです。他にも子供ができた、などのお祝い事に引き出物として、箱に詰めたそれなりに高級そうなタオルを貰うことも結構あったみたいです。実家の未使用のタオル類に総員集合をかけると、大きなゴミ袋に5〜6杯ありました。殆どは新品ですが、経年劣化がひどくて使用を躊躇うものもあります。それらは、靴磨きや雑巾として使うことにしました。
実家は裕福ではなかったので、値が張りそうな洋服や着物はないのですが、それでも洋服箪笥にはびっしりと、下着を含め沢山の衣類が後継者である私に遺されました。入れ物である箪笥も4個ありました。人生90年は凄いですね。これらを全て処分して、家の中がスッキリしました。勿論、その一つ一つに両親のみならず、自分自身の歴史を証明するものもありました。しかし、新しい自分を見出し、残り少ないとは思いますが、新たな歴史を紡いでいくためには、過去を整理する必要がある。とうちゃん・かあちゃんゴメンな、と言いつつ。
それで、なんで終活なのかと言うと、いずれ自分も消え行く運命にあるということ。それも、そう遠い話ではありません。その時に、残った人たちに極力迷惑を掛けたくない。後始末の手を煩わせたくない、ということです。「こんなもん残しやがって」と言われないようにしたい。残った人が喜んでくれるもの、それは思い出であるとともに経済的に助かるもの。
終活の具体的なやり方として:
1 書籍や資料や衣類や諸小物などなど:スペースが限られた小さな家・部屋の中に保管している意味を問うてみること。モノを観ると、実用的な意味の他にも、多くの思い出がよみがえってきます。これを着ていた頃は、ああだったな〜、この本を読んでこんなことを感じたな〜などなど。写真など観てると、ふと気が付くと30分近く経っていることもあります。しかし感傷に耽ると、何時まで経っても断捨離はできません。思い切りが必要です。本や資料については、自分だけしか持っていないもの、そして希少価値となると殆どないはずです。国会図書館などに行けば、大概のものは閲覧することができます。お金は要りますが、コピーを貰うこともできます。だから、どうしても手元に残したいものだけに限定する。身に付けるものは、日々の生活を営む上での必需品と、特に気に入っているものだけ。
写真:私は絶対にアナログ派です。デジタルものはきめ細やかで綺麗ですが、見た時の感動は、紙媒体には到底及びません。とりわけ、セピア色は良いですね。ですから、特に気に入ったものだけをプリントアウトして、「超いいね」のアルバムに保管することにします。これだと、アルバム一冊で済みます。
2 スッキリするコツは、繰り返し断捨離を行うこと。昨年末に「これは残しておこう」と思ったものが、年が明けてみると「なんで、こんなのが残ってるんだろう?」「要らんでしょう」というのが結構あります。それらは、思い切って処分する。断捨離は一回やって終わりではなく、時間をおいて繰り返しやること。前回以降の日々の生活の中から、新たな不用品も出てきてます。そうして気分がスッキリすると、拡がった空間に新鮮な空気が入ってきて、仕事や作業の効率が上がりそうな気がする。新たな発想も湧いてきそうです。今ちょびっと思っていること:死ぬまでに一冊でいいから、小説(フィクション)を書いてみたいな。目的は何? ボケ防止と・・・一山(ひとやま)当てた時の印税! いつまで経っても、甘いオッサンです。
3 後悔しない:断捨離を続けていると、必ず「しまった!」が出てきます。先日のことです。購入してから殆ど使うことなく、数年間本棚に立てかけていた某社製のタブレットを開いてみました。何故、何年も使ってなかったのかと言うと、それを購入した直後に「世界一軽いノート」なるものが、違う会社から発売されたから。タブレットよりも断然軽かった。頻繁に関東と讃岐を行き来する私にとって、「重量(軽い)」はとても重要な要素なのです。さて電源を入れようとしたのですが、家中どこを探しても、どうしてもアダプターが見つかりません。よ〜く考えてみると、昨年末の片づけで処分したようです。特殊な形のアダプターだったので、「何に使うんだこれ? 要らんな!」と、勢いよく不燃ごみ(ゴミ箱)に投げ入れたことを思い出しました。
ネットで検索すると、まぁまぁ新しい機種なので(アダプターを)新たに購入できるようです。余計な出費になりますが、全ては自分がやったこと。新たな空間と、新しい歴史の始まりを貰った代償として受け入れることにします。そうだ、このタブレットで小説を書こう!
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講演などで、東日本大震災について私が経験したことを話すと、時折「先生がやられたことについて、あれはこうすればよかった(反省)と言うようなことはありますか?」と問われます。その都度「う〜ん」と頭をひねってみるのですが、「実はないんですよ」「ありません」と言う回答しか思い浮かびません。誠に不遜な男ではあるのですが、あの時点では、組織としても個人としても、力の限りを尽くしたとの思いが残っているだけです。ただ一つの不安事項としては、私が関わった救援活動中(小生は活動の終盤で退役)に、たった半日しか現地に行ってないので、本当の意味で被災者のこと(深層心理)が分かっているか。そして、最前線で活動する部下隊員の苦しみや悲しみを間違いなく把握できていたか、との思いはあります。ただ、現地に派遣した部下指揮官とは、常時、綿密に調整しながら任務を遂行したので、左記の懸念が作戦(救援活動)の成否に大きな影響を及ぼしたとは考えていません。
翻って、近い将来、南海トラフ巨大地震は必ず起きる、と思っています。私が現役中に最も恐れていた、首都直下型大地震もいずれあります。多くの専門家や国民の目が今、南海トラフに集中しているので、首都直下が先かもしれない。何れにしても、大災害は必ずあります。それを理論的、学術的に説明する術(すべ)は持ちません。私は不勉強でいつも直感で生きてるのですが、阪神・淡路大震災と東日本大震災に共通して言えることは、事実として時の政治が不安定であったこと。だから今、不安なのです。北朝鮮や中国のミサイルは人間の叡智によって、努力によって回避することも可能ですが、残念ながら現在の科学では、巨大地震の発生を正確に予測し、況やこれを止めることは誰にもできません。従って、未だ準備が整ってないので暫く待って下さい、は通じない世界です。自分や家族や知人が被災者の一人になるかならないかは、ただただ「うん」に任すしかない。
ではあるのですが、その稀少な運を多少なりとも手繰り寄せることはできます。即ち、少なくとも「心の準備」だけは、誰にでもできるということ。実はこれ、物理的な準備よりも余程安価、と言うよりも「ただ」で、しかもとても有効な代物です。多分に手前味噌になりますが、大きな心の動揺もなく、私がスッと東日本大震災の救援活動に入って行くことができたのは、ひとえに心の準備ができていたからです。それは、首都直下型大地震に対する準備だったのですが、場所を東京湾から三陸沖に、その態様や主体を地震から津波に置き換えて思考した。それだけのことです。勿論、多くのスタッフや現地に派遣した部下隊員が、寝食を忘れてこれ(具体的な作業)をやり、加えて周りの方々の絶大な協力があってのことです。軍事組織と言うのは、とても効率よくできているのです。
もう少し規模を大きくして例えると、有事に備えて我々が訓練し準備していたことを、大災害に転用したということです。うがった見方と言われるかもしれないのですが、もし我々が災害に特化した組織(部隊)であったならば、必ず能力に限界があり、あれほど円滑な救助活動や被災者の支援はできなかったと思う。常に有事と言う「究極の事態」を想定して、準備していたからこそできた業であったと思う。小生が北欧に居た、およそ30年ほど前のこと、当時、飛ぶ鳥落とす勢いの某政治家が、自衛隊に災害派遣部隊(国土建設隊と呼んでいたと記憶してます)を作ることを提唱していました。失礼ながら、「軍隊と言うものが何なのか、その本質をな〜んも分かっとらんな」との印象しかなかった。この御仁、今なお時々ピント外れのことを発信しておられるやに仄聞します。老害そのものです。有事には軍に取り込まれる、民防(市民防衛)のような、パラ・ミリタリーの組織があるのに越したことはないが、少ない資源の中で極めて効率が悪い。そのような組織を作るのであれば、消防か警察に作るのが宜しかろう。地域に密着した、より良い組織になるでしょう。
事前に心の準備をするためには、何よりも当該事案について、日頃から「関心」を持っていることが必須となります。何事もそうですが、関心を持つと多少なりとも情報収集をしたり、そのことについて勉強してみようか、と言う気になります。そこが重要なのです。このような思考がウンを手繰り寄せ、そして自分自身や愛する人の命を護ることに繋がります。関心がないと、足元にダイヤモンドが転がっていても、ガラスの破片程度にしか見えません。人間の目は、常に心と一体なのです。ウンはウンだが、ウンではない。
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かつて日本は、ロシアの南下政策に脅威を感じて、大陸と言う泥沼に足を踏み込みました。まさに朝鮮半島に及ばんとするロシアの力を、日本は大きな危機として捉え、打って出たということです。時系列で追えば、機に応じていろいろなボタンの掛け違えがあったと思われます。国の大きさや状況は大きく違いますが、現在のロシア(プーチン大統領)がウクライナ侵攻を決断したのも、同じような構図だと私は観ます。ロシアにとって、ヒタヒタトと迫りくる脅威は NATOの東方への拡大 です。とは言え、決してロシアの行動(侵攻)に与するものではありません。念のため。
さて今日、我々は如何なる国難に直面しているのでしょうか? 或いは、直面していないのでしょうか? 北朝鮮による東に向けた度重なるミサイル発射は、既に日常化しています。最初のテポドン騒ぎの時、小生は市ヶ谷の中枢にいましたが、あの朝野を挙げての大騒ぎは何処に行ったのやら、と感じます。これは決して、我々が成熟したからではありません。一言で言えば「危機に慣れた」ということです。勿論、「具体的な目に見える被害がない」が大きいのですが、しかし慣れとは怖ろしいものです。今は被害がなくても、いつかデッドブローのように効いてきます。日本人は何かにつけて、実際に被害が出ないと動かない。予防措置を取るのが、とても不得意な民族です。実被害が出ると大騒ぎしますが、被害が出てからアタフタしても遅きに失する。被害が出てから騒ぐのと、被害を想定して準備するのでは、結果は推して知るべし。
怖ろしいことがもう一件あります。昨年の8月、ペロシ米下院議長の訪台に応じて、中国は日本の EEZ(排他的経済水域)内に5発のミサイルを撃ち込みました。この意味・意義は、とてつもなく大きいと私は考えています。謂わば、我が国に匕首を突きつけたと言えます。このミサイル発射事案を、台湾海峡の危機と観ると判断を誤ります。これは我が国に対する明白な恫喝であり、日米同盟に対する挑戦であり、そして太平洋覇権の大きな一歩だと観るべきです。
上記二つの事案から言えるのは、我が国は今、冷戦終焉後、最大の危機(国難)に直面していると言うことです。国会で能天気につまらん議論をしている場合ではない。統一選挙が近いようですが、一般国民にできる唯一のことは、国難を憂い、確かな国家観を持った人を政治の場に送り出すことです。しかしこれは、とても難しい。太平洋で針を探すようなもの、と言えば言葉が過ぎますか。それほどに希少だということです。教育とはげに恐ろしきものなり。一方、政治への志を持つ人は、日本の或いは地方のあるべき姿を国民に提示して、審判を仰ぐ必要があります。有権者である国民も、利権や目の前の利益に心を奪われていては、我々自身が将来、大きな痛手を被ることになります。既に、その域(危険水域)にあるのですが・・・。
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我々自衛隊の OB が民間の方と接するとき、しばしば先方さんから軍事専門家としての見解を求められます。一般国民からすれば、老いぼれても元自衛官なんだから、何でも知ってるだろうと思われるのも無理はありません。日本を取り巻く軍事情勢は勿論のこと、防衛予算や装備、隊員の士気、宇宙からサイバーまで、質問の分野はとても広い。最近一番多い質問は、「中国と戦争したら勝てるんですか?」です。良識ある国民が、昨今の情勢を大変憂慮しておられる証左です。しかしながら我々の引き出しは限られており、専門外のことや経験がないことに関しては、ヨタヨタしながら、当たらずとも遠からず的な回答をすることになります。白書レベルのことは老兵でも言えるのですが、聴衆が訊きたいのは裏話や意外性のある内容が多い。そんな時には、「どらえもん(どこでもドア〜)」になりたい、と思う。ですから、いきおい自分の経験に基づく意見を開陳することになります。経験を踏まえた見解であれば鬼に金棒、自信を持って説明できるし説得力もあります。しかし一方で、国際情勢、とりわけ安全保障問題や軍事技術は日々・時々刻々と変化しています。だから私の様に不勉強で、10年前、20年前の経験と知識だけを核にして物申すと、陳腐化したピント外れのことを発信する恐れが多分にあります。
私が講演や講義で、時局に言及するのを努めて避けようとするのは、浅学の誹りを回避したい、からではありません。ひとえに、不正確な情報を一般聴衆や学生諸君に提供したくないだけです。謂わば、不勉強でも乗り切れる、安直な道を選択しているとも言えます。例えば今日のロシア・ウクライナ問題についても、大使館勤務の時に、冷戦後の欧州の安全保障の動きを垣間見て得られた知識を幹にして、私なりの見解を述べています。それ以外の方法としては、公刊・公開資料を丹念に拾って分析し、結論を導くやり方もあります。しかし、この方法で的確な情勢判断をしようとすれば、多少の知識と経験があっても、それはそれは体力が要ります。何百人と言う現役の専門家が、寝る時間を削ってやってる仕事を一人でするのですから、とても農作業の片手間とはいかない。しかも、汗をかいて導いた結論が正しいと言う保証は全くないのです。
昨年、海上自衛隊 OB が関与した情報漏洩事案が明るみになりましたが、要求した側(OB)は、安易な手段で知識のアップデートを図ったということです。高位高官に登った人物ですから、自分がやっていることが法に触れるのは重々承知の上で、禁断の果実に手を出した。しかし、国民や同盟国の信頼を失墜するなど、そのツケはとてつもなく大きかった。
不勉強を横に置いて言い訳がましいのですが、退役後に私が選択した生き方は、変化を続ける情勢を逐一追っかけるのではなく、より普遍的な真実を追求する姿勢です。人間が生きていく上においては、社会がどのように変わっても、動かない原則みたいなものがあるのではないか。謂わば、人間そのものを見つめると言うことです。そして、それらの多くは歴史の中に見出すことができる。これを背骨として持っておれば、一生、心安らかに生きていける。物事は頭で描くようには転がってくれないが、それでもアクセクした生活からは多少でも解放される。この幹と根(背骨)に、市井で拾った僅かな枝や葉を付けていく。人生の第三コーナーを回った現在、そんな生き方でもいいのではないか、と思っている。ただ注意すべきは、時代(科学技術や若い人の考え方)に多少でも追随していくことも重要だと考えている。そうしないと、時代の落ちこぼれになてしまうような危機感を持っています。あ〜忙しい!
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ただ一つ言えることは、酒にしても煙草にしても、臭いなどが嫌いな人は周りに沢山いる訳で、他に迷惑を掛けてはいけないということです。こちらが素面(しらふ)なのに、酔っぱらいに絡まれたりグダグダ言われると、狭量な私は相手の頭をどついたろうかと思います。近年では、パチンコ屋の前を通る時には息を止めて足早に通り過ぎます。あんな臭い中で、よく楽しめるな〜と思う。
話は我が青春の煙草です。時折 You Tube で昭和の映画を観ますが、殆どの映画には主役の俳優(男優)さんが煙草を吸うシーンがあります。若い頃にはとても格好良く見えたんだな〜これが。男性の俳優さんにしてそうだから、きれ〜な女優さんが吸うとそれはもう・・・。かつては妖艶女優の若尾文子さんが、映画か TV ドラマの中で紫煙をくゆらすシーンがあり、あれには痺れました。若い頃から単純な男です。
さて、高校2年の時に覚えた煙草ですが、防衛大学校の一年(4年生)と江田島(幹部候補生学校)の計2年間は「ハイライト」と無縁の生活を送りました。私の人生で、頭は相変わらず軽かったですが、体力が最も充実していた時期です。一年間の江田島生活を終えると、およそ半年間の遠洋練習航海に出ます。我々のクラスは南米方面で、我々実習の幹部や乗り組み員に最も好まれるコースです。出国前には、米・味噌・醤油から訪問国(寄港地)で開催するレセプション(パーティ)用の酒など、必要なあらゆる物品を搭載します。その際には、個人でも酒や煙草を免税で艦に持ち込むことができるのです。酒には強くない私ですが、同期生とのお付き合いもあるので、「大関」のワンカップを少々搭載しました。しかし煙草は一箱も購入しなかった。なにせ2年間、煙草には無縁(無煙)で健全な生活をしてきたので、まさかまた煙草を吸うことになろうなんて、出国時には夢にも思わんかったのです。
その私にまさかの時が訪れたのは、遠洋航海の丁度折り返し点であるブエノスアイレス(アルゼンチン)に寄港した時です。話は違うのですが、敢えて私の恥部に言及すると、横須賀を出て最初の寄港地であるシアトル(アメリカ)とのほぼ中間の海域において、全くの個人的な不注意で右手の薬指を1センチほど短くしました。日本(横須賀)からアメリカ大陸に船で行くのには、最も効率が良い(航走距離が短い)大圏航法(北回り)を用います。地球は丸いので、平面の地図でコースを引くと走る距離が長くなるのです。しかし、北の海は霧がよく出るし結構荒れもします。真珠湾攻撃時の目標地点はハワイですが、我が機動部隊は単冠湾に終結して、北から南に落としてパールハーバーを目指しました。などと先人に思いを馳せつつ航海していたのですが、鹿島立ちの出鼻をくじかれてかなり落ち込みました。これからの海上自衛隊生活、どうなるんだろう。山本(五十六)さんも若い頃に指を短くしてますが、それは従軍しての名誉の負傷であり、俺の場合は単なる不注意だからな〜・・・。
さてブエノスアイレスでは、アルゼンチン海軍が北半球から来た日本海軍の青年士官のためにダンスパーティを催してくれました。集まった、或いは集められたお嬢さんたちは、将官の娘さんなど見るからに育ちのよさそうな女性ばかり。たまたま私のパートナーになった女性は、品のある顔立ちで聡明そうなお嬢さんでした。ところがところが、ダンスとダンスの休憩時間になると彼女は、当たり前のように煙草を吸うのです。そして私にも吸え吸えと勧めます。最初の2〜3回は断ったのですが、あまりに勧めてくれるので断るのも申し訳ない。遂に清楚なお嬢さんの勧めを断ることができず、「そうだ、出国前に教官が ”一人一人が外交官になれ” と言ってたな。これも外交の一環だ。一本だけ、肺に入れなきゃいいだろう」などと、都合のよい言い訳を頭に描いて唇に持って行きました。三年ぶりに手にした、しかも美女から勧められた煙草です。頭がクラクラするほど ”うま〜い”。
この一本が運の尽きでした。酒や薬物に溺れる人はこれだし、弱い自分と闘いつつも、なかなかトンネルから抜け出すことができないのもここでしょう。たった二年の中休みなので、まだ脳みそがニコチンを記憶していたのだと思う。それからというもの、長期航海の復路では同期の連中から免税の煙草を譲ってもらい、それでも足りないので寄港地に入ると、先ずはその国の煙草、所謂「洋もく」を買って帰国までしのぎました。「一度止めて再度吸い出すと、前回の二倍になる」は、本当のことだと実感しました。
ダンスパーティに話を戻します。パーティの途中で悪友と相談し、パーティが終わったらお互いのパートナーを気の利いたバーか何処かに誘おう、ということで即決、合意が得られました。幸いなことに、それぞれのパートナーが連れであったこともあり、2+2で街に繰り出しました。と、そのつもりでした。しかし、彼女たちはいずれも高官のお嬢さん。故に、父親の副官たちが付いてきよった。おそらくは親御さんが命じたのでしょう。「あんたらは、来んでええんや」とも言えず、とあるホテルの最上階で護衛・監視付きで夜景を楽しみました。
この話には後日談があり、悪友のパートナーの父君(当時少将)は、その後中将に昇進、在京のアルゼンチン大使として赴任してこられました。友人が「その節は」と大使を表敬したかどうかは知りません。しかしあの時のお嬢さんたちも、もう孫がいる歳ですね。地球の裏側で経験した、楽しくもあり懐かしい思い出です。
ー次回に続くー
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報道によると、当該護衛艦はかなり高速で航行していたようですが、であるならば尚更のこと、艦長以下何十もの眼が周囲の警戒や海図に注がれているはずなのです。ではあるのですが、小生が艦隊の元締め(護衛艦隊司令官)をしていた時にも、あのコンピューターの塊であるイージス艦が漁船と衝突して、魚船員の親子が帰らぬ人となりました。いみじくも着任時に「如何にハイテクの護衛艦であっても、魂が入ってなければ単なる鉄くずに過ぎない」と訓示して警鐘を鳴らしたのですが、危惧したことが起きてしまいました。あの事件は今なお、私の心に滓の様に沈殿して消えることはありません。
では、あり得ないことが、時としてなぜ起きるのか? 事故調査の途中であり軽々に物申すことは避けますが、小生の長年に亘る海上経験に照らして、一般的なことを思いつくままに述べてみたい。
仮に、艦橋・作戦室合わせて10名の乗員が見張りの配置に就いていたとします。しかし目を開けていなければ、或いは物理的に目は開いていても、与えられた任務に対する意識が希薄であれば、目を閉じているのとほぼ同じ状態であるということです。この中のたった一人でも「そこは危ない!」と感じて声を上げるか、或いは艦の運航に携わる人にその旨を伝え、そして操艦している当直士官や航海長が回避措置を取っておれば、危機一髪ででも大事故には至らなかった。事故が起きてから「たら・れば」を言っても詮無いことですが、(元)航海の専門家としては誠に悔しい。
先輩から教えられ、そして小生もよく言っていたのは、「一ヶ月停泊すると艦も人(乗員)も腐る」ということです。この言葉の意味は、艦底にフジツボなどが付着したり、海水で船体が腐食するなど、物理的な「くさる」だけを指しているのではありません。信じられないと思いますが、精巧なコンピューターも腐ります。だから久し振りに海に出る時には、数日前から機械(エンジン)を含め全ての装備に火を入れます。すると、正常に作動しないことがママあります。そして、部品の交換など出港に間に合うよう整備と修理に努めます。これが、静から動への準備です。
もう一つ、更に重要なのは「人」です。人も腐るのです。旧い言葉で言えば、潮気が抜けるということ。実は機械やシステムよりも、むしろこちらの方が怖い。因みに、家族にはとても不評でしたが、私は「船(艦)に帰る」という言葉をしばしば使いました。冗談で「艦が住処であり、家(自宅)は止まり木だ」とも言ってました。身内からは「家族をないがしろにしている」、と思われていたと推察しますが、言い訳がましいですが、これは任務に対する自分自身への警鐘です。
前もって機械に火を入れると言うことは、物の準備を通じて人(乗員)の心の態勢をも整えると言うことです。海に出てただ航海する(通常航海)場合でもそうですから、定期的な修理後の試験航海を含め、何らかの作戦行動や訓練を行う場合には、より入念な事前の準備が求められます。艦に関わること全てに責任を負う艦長は勿論のこと、艦の運航運営を担っている幹部(士官)の責任も大なるものがあります。
艦の運航・航海については、とりわけ航海長の責任が重大です。航海長は海図(チャート)に航路を引いて、艦の全般行動計画を策定します。当然のことながら航路を引く際には、使用する速力や天候・汐・風などを考慮し、浅瀬や暗岩など航海の障害物を詳細に確認しつつ、行動海域の船舶の輻輳状況なども細かくチェックします。海図は船乗りのバイブルです。従って航海長は、こと艦を動かすことについては、艦長が最も信頼する部下のはずなのです。勿論、航海長とて超人ではないので、他の幹部も交代で操艦にあたります。航海長はもし仮に、自分よりも先任の幹部や先輩が操艦している場合であっても、或いは全責任者である艦長が操艦している時であっても、危険を察知したならば機を失することなく意見を述べることができるし、やらなければならない。
ここ数十年の傾向として、艦の省人化があります。任務と組織の拡大に応じて、艦はどんどん大きくなる。常識的に考えれば、船が大きくなり、装備が高度化すれば定員も増えそうなものですが、それがそうでないところに大きな落とし穴があります。近年の建艦思想は、全くその逆を行ってます。これには、海上自衛隊の慢性的な人員不足が根底にあります。艦艇の建造に併せて、子細に検討して定員を定めますが、現役の艦艇で定員100パーセントの船はおそらくないでしょう。100%の充足は就役した時の瞬間値です。後は歯が欠けるように人が抜かれていく。よって、乗員一人一人の負担がどんどん大きくなり、組織に余裕が無くなります。省人化は装備の高度化によってこれを補うという思想ですが、物ではカバーできないこともある。この視点が抜けると、兵力整備の判断を誤ります。
深刻な問題は隊員のリクルート(隊員の確保)です。少子化に伴って隊員の募集が困難となり、リクルートは極めて深刻な状況にあります。こと人員に関しては崖っぷちに立たされている、と言っても過言ではない。この問題と上記省力化は裏表です。今回の座礁事案は、これらの諸問題を海上自衛隊に突き付けている。僭越ではありますが、事故調査はこのような観点からも観て欲しい。
そんなこと分かってるよ、と関係者の誰もが言うでしょう。しかし、20年・30年前から、いえもっと前から同じことを言い、同じ失敗を繰り返している。外野から批判するのが、いとも簡単であることは百も承知しています。私自身も力不足で、抜本的な対策を打てなかった。
事故を起こして批判に曝されるのは仕方がない。難問山積みで待ったなしの難しい時代ではありますが、後輩諸官には厄介な問題をひとつずつ解決していって欲しい。そして任務を整斉とこなし、再び国民の信頼を得ることを切に願うものです。
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昨年末、私の出自である海上自衛隊の情報漏洩事案が明らかになりました。現役の時にイージス漏洩事案に関わったことがありますが、今回は情報の総本山である部隊において起きた事件です。敢えて「事件」と言います。卒業生の一員として、とても悲しい事件でした。関係する両者(情報要求と情報の提供)が、何れもよく知った後輩だと聞き及び、誠に申し訳なく思います。同時に、他山の石として、自分自身の情報発信の在り方について見つめ直すと共に、現役後輩諸君との接し方についても考えさせられる事案でした。因みに小生の場合、講演などで国防や安全保障に言及する時には、「個人的な見解です」と付言するようにしています。本事案に関して一つだけ明確に言えるのは、「我々 OB は自らの利益のために、現役諸官に迷惑を掛けてはいけない」ということ。例えば、民間会社に所属している OB が、会社の営業員を帯同して自社の商品や役務を提案するにしても、その商品が現役諸君のためになるか否か、部隊が導入してプラスになるかどうかを自らの知見に照らして吟味し、その結果が「よし」と信じるものだけを持ち込むようにしたいものです。勿論、採用するか否かを決めるのは現役であり、購入などを(半ば)強要するようなことがあってはならない。かつて高位であった者は、存在それだけで無言の圧力になります。
本件関係者には現役と OB が混在していることから、法律や規則にはいろいろ難しい問題があると思う。しかし、双方に対して公平な審判が下されることを強く望むものです。
話は全く変わります:
私事ですが、元旦には一年の計を心に刻むのが、ここ数年の習わしになっています。自分で思うだけでなく、つまらないことではあっても、それを周りの人に宣言することにしております。そうしないと、心の弱い私は直ぐに挫折するからです。大袈裟に言えば、退路を断つと言うことです。古稀を迎える昨年の場合は、「明日できることは、今日しない」でした。一年間この計に従って行動してみて分かったことは、「やはりこれではいかん」ということです。自分の行動を、年齢のせいにして安易に妥協してはいけない、とも感じました。当日の計画外ではあっても、或いは少し無理をしてるかなと感じても、体力と気持ちと時間に余裕があれば、先の仕事にも手を付けるのが正解だと反省しました。
笑ってやって下さい。今日、自分にとって最も重要、かつ喫緊の課題は健康です。まだまだやり残したことがあるので、あと十年くらいは健康寿命で居たいと思う。そんな切実な理由により、令和5年の計として「15分間のジョギング」を掲げました。たったそんだけ? とても安易な宣言です。しかし、脹脛(ふくらはぎ)は第二の心臓と言われるように、足下に滞留する血液を心臓に環流させる、とても重要な部位(筋肉)なんだそうな。これを活性化したい。いろいろ方法はあるのでしょうが、短時間かつ簡単で費用もかからない、有酸素運動であるジョギングをすることにしました。実は年末にお試しで一回やってみたのですが、ここ数年走ったことが全くなかったので足がつりそうになった。両方の脛(すね)も痛くなり、日頃の運動不足を痛感しました。歩くことと走るのでは、使う筋肉が違うことを実感しました。年間を通じて筋トレ(スクワットなど)をやってるのですが、走る筋肉は全く鍛えてないことがよく分かった。些細なことですが勉強になりました。今年はこれで行きます。
今更ですが、最近言葉の重要性をしばしば感じます。人間が社会生活をしていく上において、言葉を通じたコミュニ―ケーションは欠かすことができません。しかし、自分が思っていることや考えていることを、正確に相手に伝達するのはとても難しい。経験(失敗)から推察するに、誤解を生む多くのケースは言葉足らずの場合が多いように思います。自分の投げたボール(言葉)が、相手のグローブに正確にキャッチされていないと分かった時には、「そういう意味で言ったんじゃないんだけどな〜」と思うことがしばしば。覆水盆に返らずではありますが、小生の場合は、だれかれ構わず軽口とため口が多いのも確かです。
若い頃には「君の発言は命中率が高い」と言われたこともあったのですが、最近ではその精度がため口に出て、相手を傷つけることが多いみたい。本当に成長しないおっさんです。阿吽の呼吸で理解しろよ・理解して欲しいなんてことは、近しい間柄ではあっても、いえむしろ関係が近いほど思わない方が宜しいかと。さりとて、ことごとく細かに説明するのも大儀だし・・・とにかく人間ってのは、とても複雑でややこしい動物です。一点注意を要するのは、どんなに誠意と真心をもって説明しても、理解が得られないこともあります。他人の言うことに聴く耳を持たない人は、常に一定数います。自分自身もケースバイケースでそうかもしれない。人間社会とはそういうもんだ、ということを理解しておく必要があります。
それにしても、高倉健さんの晩年の演技は凄かった。寡黙でありながら、立っているだけで絵になる俳優さんでした。
師走に母が静かに逝きました。96歳でした。大往生と言えるのでしょうが、また何時かはその日が来ることを頭では分かっていても、一日でも長く生きていて欲しかった。ただ母には申し訳ないのですが、10年前の経験(父の場合)があり、一連の見送る行事などは淡々とこなすことができました。他界した日には大学の講義があり、翌日の通夜の日には Zoom による講演が入っておりました。直前のこととて交代をお願いする訳にも行かず、まともな仕事ができるかな・・・とややナーバスな精神状態で臨んだのですが、結果的には何時になく饒舌で、自分では満足できる結果になりました。母が後ろで「しっかりせんか!」、とネジを巻いてくれていたような気がします。心の中で、母の首に金メダルをかけて送りました。
チリも積もればで、このブログも200本近くになります。懲りることなく、今年もグダグダを継続したいと思っておりますので、引き続きご交誼を賜りますよう宜しくお願い申し上げます。
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選良の集まりである(はずの)国会では、抽象論と言葉の遊び、並びに忖度が跋扈しており、実質的に重要な議論には至っていないように感じる。そもそも国の安全保障や国防は、将来、悪意(侵略の意図)を持って迫りくる潜在的な相手国や組織から、如何にして自国・国民を護るかである。その「如何にして」の方法・手段を導くためには、先ずは相手の能力を見積もり、そして侵略の意図を見抜くことから始まる。であるならば、現状、相手が有する能力は明らかに我が国のそれを凌駕しており、しかも「よこしまな」意図を隠そうともしない。そして相手は、毎日のように大小のジャブを出しながら、決行(武力侵攻)のタイミングを見計らっている。いたずらに危機感を煽りたくはないが、この国はそこまで追い詰められているのである。かつて仕えた上司が何時も言っていたが、「明日に備える」べきである。大災害も同じだが、今日、彼の言葉をとても重く感じる。
時此処に至っても、「反撃能力=先制攻撃能力である」とか「専守防衛の大方針に抵触する」とか、「憲法違反だ」とか・・・訳(当該者の脳味噌の構造)が分からん。百歩譲って仮にそうであっても、再び我々が敗けたら、今度こそ日本と言う国が終わる。と観た方がいい。なぜなら、以前の相手(米国)と今度の相手では、ものの考え方などが全く異なるからだ。国の体制も違う。一党独裁の国家である。専守防衛と言う言葉は残った、憲法も残りました。でも国が亡くなくなりました、では全く本末転倒の事態であり、被害を被るのは常に一般国民である。遠い将来、世界中の人々が、歴史に埋没した国を想って、「そう言えば昔アジアの小国で、とても美しい理念を掲げて滅亡した国があったな〜」などと懐古されたくない。かつて、ベネツアが衰退して国際政治の舞台から姿を消したのは、為政者が国家戦略を誤り、国家としてのあるべき姿を見失ったからである。
国防力は、先に言った「相手の能力と意図」を見極めて、具体的に積み上げていくもの。それには時間を要する。政府が推進する諸施策の中でも、とりわけ国防については常に「時間軸」を考慮しなければならない。今予算を付けたからとて、それが実際に「力として」効力を発するのは5年先、10年先のことです。相手も同じ思考過程を踏んで、今日の姿がある。にわかに予算を倍増したからとて、「これで勝てるだろう」と言われても、それは無理筋というもの。国家予算には限りがある。従って、ギリギリのところで、最も効率の良い積み上げが求められる。現状、国を誤るのは「昔軍閥、今財務(大蔵)」のように私には見えるが、如何か。小国民の幸せから乖離した税金の取り立てや予算の計上は、「欲しがりません、勝つまでは!」みたいな、「いつか来た道」に繋がる恐れがある。
国家防衛の基本は、考え得る限りの選択肢(オプション)を複数持ち、準備しておくこと。「これしかない」では、それが消滅したときに手の施しようがないことになる。先の大戦(敗戦)から77年、この国は今なお「平和憲法」と「専守防衛」の呪縛から脱しきれないでいる。GHQ の占領政策は、時を経て占領した側の大きな足かせとなっている。平和憲法も専守防衛も、 タテマエとしては美しい(かもしれない)。しかし中身はスカスカ。良識ある国民は、「専守防衛」なる考え方が如何に脆弱であるかを知っている。国と国民を護ることができるのは、平和憲法でもタテマエ論でもない。それは、相手につけ入るスキを与えない、そして「ちから」に裏打ちされた備えに他ならない。
仮に絶対防衛圏に「専ら守りの楯」を構築しても、相手がその気になれば早晩破られる。しかも、自国領域に絶対防衛のための楯を張り巡らせるためには、天文学的なお金(予算)が必要になる。その財源を国民一人一人に求めるなら、国民が疲弊するのは必定。国民が疲弊したらどうなるか? 先の大戦に至る前の状況が再現する。即ち、潜入した輩が日本国民を煽ると、国内で動乱が起きる。相手はその日を待っており、まさにその時こそが、満を持して決断し行動に移すときになる。我々自らが、相手にトリガーを与えるということだ。サッカーで言うところの、「オウンゴール」みたいなもの。これを要するに、徹底的に議論すべきではあるが、言葉遊びに終始することなかれ。
いろいろ言う人がいるが、この国が安倍さんというリーダーを失った損失は計り知れない。しかもなぜか、事件から半年が過ぎたにも拘わらず、統一教会問題を隠れ蓑にして、警察当局は未だに事の詳細(真実)を公表しない。最早、何事もなかったかのように時間だけが過ぎていく。多々悩ましい問題があるにしても、何時までホッカムリを続けるつもりなのか。とっくに分かっているであろうに。日本の警察がそれほど無能だとは思わない。しかしそのことを、マスコミも政治家も誰も指摘しない。ご遺族のみならず国民に対しても、失礼極まりない態度である。誰に忖度しているのか? もし仮に(小生はそうは思わないが)、事の真相が故人の名誉を著しく傷つける内容であったとしても、速やかに開示すべきではないか。それが、民主国家のあるべき姿でありましょう。
今年の〆は過激な表現に終始しました。ご容赦ください。
当方喪中につき、こころ静かに除夜の鐘を聞きたいと思っております。明くる年には、一筋の光明が射しますようにと祈りつつ。一年間、辛抱強く駄文をお読みくださった諸兄弟姉妹、良いお年をお迎えください。
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遅れ遅れではありますが、小生も多くの皆さん同様にワクチンを接種してきました。個人情報ではありますが、摂取記録は次の通りです。
2021.11.09 1回目(ファイザー)
2021.11.30 2回目( 同 )
2022.09.10 3回目( 同 )
そして4回目摂取の案内が、かなり前に市役所から届いております。ですが、(現在のところ)もう摂取する気はありません。そもそも私は、このワクチン接種には当初から乗り気ではありませんでした。素人の直感なのですが、な〜んとなく胡散臭さを感じた。世界を股に掛けた利権が絡んでいる、そんな気がしてならんのです。情報開示が限定的な状況下では、我々市井の人間にことの真実や実態など分かろうはずがありません。絶対多数の国民には、権威ある人(政府など)の指示に従うしか選択肢がないのです。それが生死にかかわる問題であれば、尚更そうせざるを得ません。
以下の私見は全くの直感であり、戯言に過ぎないかもしれません。では、それほど懐疑的であるにも拘らず、何故に3回も摂取したのかと言うと、単に周りの空気や圧力に負けたからです。私が仙人のように、全く社会から隔絶して生きているなら摂取しなかったと思う。しかし、たとえ老人であっても、やはり普通に社会生活を送りたいと思う。そして、できるだけ周りとの軋轢や衝突は避けて生きて居たい。「おじいちゃんだけの問題じゃないんだからね」と言われると、自らの信念に拘泥して周りの方たちに迷惑を掛けてはいけないと思う。摂取された方々の中には、私と同じような思いで決心した人も、多数おられるのではないでしょうか。初期段階においては、祈るような気持ちで摂取した人もいるでしょう。しかし一方で、このワクチンで世界中の多くの人が助かり、感染の拡大防止と鎮静化に寄与したことは間違いないと思います。でも・・・もういいのではないか。
次のデーターはネット情報であり、数字の出典や根拠ついては承知しておりません。国内を対象とした大雑把な数字として:
摂取から2週間以内に亡くなった方 2千人
数か月後に亡くなった方 10万人
後遺症がある方 500万人
他の病気や症状があっての数字でしょうが、実態はもっともっと多い(2〜3倍)のではないかと思う。この数字がむべなるかなと私が思うのは、自分自身がこの「後遺症」の部類に入ると思われるからです。
私のケースについて述べます:
1回目と2回目は、当日及び翌日に少し体調に違和感があるのと、チョビット筋肉痛があった程度で、何ら大した症状もなく通常の生活を継続することができました。問題が起きた(と思われる)のは3回目です。摂取の当日と翌日は前回と同様であり、なんてことはなかった。今回も OK だったと安心しておりました。しかし3日目が過ぎて、僅かに鼻づまりみたいな症状が出てきた。昼間から酒飲んでごろ寝するのが習慣になっているので、寝冷えでもしたかな? と考えたのですが、思い当たる節がありません。ただ、何度測っても平熱です。平熱を維持しつつ日が経つにつれて、鼻詰まりから鼻水が垂れるように変化した。私は昔から、風邪をひくと先ずは喉にきて、次に鼻づまり、そして2〜3日の間大量にハナが出て終わり(快復)というパターンです。だから一週間が経過して、「やはり夏風邪だったか」と思っていました。
しかし、2週間経っても3週間たっても状況が改善しません。市販の風邪薬や喉の薬を飲んでも、一向に変化なし。かつてのマドンナが宣伝していた、私の常備薬「早めのパブロン」も今回は効き目なし。「遅めのパブロン」になったから、マドンナが怒ってるのかな・・・なんて。たまに友人知人から電話がきて、鼻声で応じると「風邪ひいてる?」と訊かれることがしばしばありました。また、主催者さんには申し訳なかったのですが、ぐすんぐすんで満足できない講演をしたこともあります。そして1か月が過ぎ、完治とは言えないものの、ハナの方は「ほぼ」治まりました。その後、症状が出てから現在まで、倦怠感もなく通常通り仕事をし、ルーティン化している毎日の筋トレも欠かすことなく、普段通りの食事で平穏に暮らしております。
しかし、摂取から3か月が過ぎた現在、有り難くない置き土産、一つの後遺症が残りました。それは喉、気管支の異常・違和感です。喘息気味の方や喉が弱い方、或いは煙草を吸っている方は経験がおありだと思うのですが、湯気が出るもの、例えば熱々のうどんやラーメンなどを食べようとすると、蒸気にむせて咳が出るという症状です。現在は多少改善しているのですが、最初の頃は、帰郷して定番の「讃岐うどん」を食べようとすると、むせて食べることができなかった。周りのお客さんや従業員にコロナ(災禍)と疑われるのも嫌なので、外国人のような食べ方で食しました。これじゃ〜美味しくないわ。
実は若い頃(前のブログで小生の喫煙歴を披露しております)、ヘビースモーカーであった時に同じような症状があったので、ああ気管支がやられたなとピンときました。亡父も愛煙家だったので、生前には、食事中にそのような(湯気にむせる)状況を度々目にしました。早世しましたが父方の叔母に喘息持ちがいたので、喉が弱い家系だと思います。私の場合には、煙草を止めると同時にそのような症状はピタッとなくなりました。従って、今回の症状はウン十年(ほぼ半世紀)ぶりのことです。年末まで様子を観て状況に変化がなければ、年明けにはかかりつけの「自衛隊中央病院」に受診しようと考えています。専門家の見解を聞いてみたいし、ひとつのエビデンスを得るためにも・・・。
ここだけの話です(どこだけの話やねん):こう言うと専門家からタコ殴りにされるかもしれないのですが・・・敢えて。このワクチン接種は、第二のB型肝炎、第二のアスベストになるのではないか、と危惧しています。根拠は全くないのですが、どうしてもその思いをぬぐい切れない。 Old Sailor の直感です。長年に亘って海上防衛に携わってきたにも拘わらず、この人物は科学的な知識に乏しいのです。しかし、敵の潜水艦が潜んでいる方向や、大震災が起きるときなど何となく感じるものがある。ここまで言うと、もう自説の信頼性はゼロですな。さて今後、科学や医学は飛躍的に発展すると推察します。そしていつか、何十年後かに、あの「令和の(摂取)大号令」は何だったのか。或いは間違いだった、という時が来るような気がしてならん。しつこいですが、もう一度言います、直感です。悪しからず。
政府や役人の狡猾なところは、摂取するしないは「個人の自由・選択ですよ」と言い張るところ。私も長年そちら側にいた人間ですから、そう言わなければならない訳があり、多々事情があるのは理解します。しかしこれは、どう見ても将来に向けた逃げ・責任逃れであり、或る種の担保だと邪推せざるを得ない。「今度北朝鮮が発射するミサイルは、この辺りに落ちる可能性があります。住民には避退するためのバスを準備しますので、早めに退避して下さい。ただし、リスクを承知の上で此処に止まるのは自由です。バスに乗る・乗らないの決心はご自分でしてください」なんて国民に言えますか? 私が司令官だったら、そんなことよう言わん。一般国民は、判断に資する何の物差しも持たないんですよ。勿論、ミサイルとコロナ災禍を同列に扱うことはできない。事案に関する情報量や、国の態勢も全く異なる。しかし、国民の生命に関わると言う一点は同じです。
摂取した人みんなに長期的な副作用があったり、後遺症が残るということではないでしょう。絶対多数の人は、それぞれが持つ免疫力によって問題がないのだと思う。しかし現実に、亡くなった人や重症になった人、私の様に軽度の後遺症が認められる人もいる。現役の時に人事担当者として、何十年も前に罹患したと訴える、アスベストの案件に対応したことがあります。同じ状況の下で仕事をしても、病気になる人とならない人がいる。それは仕方がないことです。人の体は遺伝子と同じように、それぞれ違っているのだから。入念な身体検査を経て、国家組織として受け入れた人に対して、「お前が弱かったからだ!」の一言で切り捨てるわけにもいかない。ここんとこの仕分けは、とても難しくて悩ましい。だから頭のいい役人は事前に予防線を張って、国民から「自己責任」という名の担保を取りつけようとする。
私が今、最も懸念するのは乳幼児への摂取の動きです。この子たちは、将来の日本を背負って立つ「宝」です。間違いがあったら取り返しがつかない。国家が危機に陥る可能性さえもある。政府や行政の思考過程で最も重要なポイントは、「何のためにこの施策を推進するのか」。そして「ゴールを何処に置くか」です。絶対にここを外してはいけない。施策を推進する関係者(政府によって選ばれた有識者、役人、政治家)は、厳しい言い方ですが「血の小便が出るくらい」検討しろ。と言いたい。老兵の直感が老婆心に終わることを願うばかりです。
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なぜ私が睡眠に関心があるのかと言えば、単(ひとえ)に長年に亘って洋上にいたからです。艦が行動・航海している時には、乗員が交代で艦を動かしています。これを当直(ワッチ)に就くと言います。余談ですが、当直を免除されるのは原則として艦艇長以上の指揮官だけです。何故かと言いますと、これ即ち指揮官は24時間勤務であることを意味します。一ヶ月の行動であろうと半年間の展開であろうと、艦が何処かに錨を降ろす或いは岸壁に舫(もやい)を取るまでは、指揮官は常に100パーセントの責任を負っているということです。そのストレスと疲労は尋常なものではありません。だから乗員は、一命を預けている指揮官には相応の待遇を持って接します。
指揮官であると無いとを問わず、艦乗り(ふなのり)は個人的に如何なる状況・状態にあっても、一旦事があった時、例えば敵のミサイルが飛んできたり、敵の潜水艦を探知した時など、昼夜を問わず即座に全力発揮を求められます。私は当直を終えたばかりで大変疲れております、現在深い眠りについております、なんて自己都合は全く関係ありません。従って我々にとっては、食事を摂るのも寝るのも、敢えて言えば用便を足すことも、配置に就いているのと同じように重要なことなのです。ですから間隙を縫って、寸暇を惜しんで寝ることは仕事の一環と位置付けられるのです。
話を戻します。睡眠のリズムに関する記事を読んだ時には陸上勤務でしたが、私にはヒットする内容の記事でした。洋上では自分が好きな時に起きる(起床)ことはできず、全てが艦の都合なのですが、陸上の場合は比較的融通が利きます。記事を読んで、艦隊勤務を離れている時くらいはスッキリと目覚めたい、と思ったのです。ですが「今から寝るけど何時に起きればいいか」などと、毎夜計算するのは面倒くさい。大した算数じゃないのですが。そこで副官にポンチ絵を描いて見せて、こんなのを作れないかな〜と持ちかけました。決して私事の理不尽な命令ではありませんよ。上司が快眠してスッキリと覚醒し、仕事に集中することは国家への貢献である。その一環なのだ、などと都合のいい屁理屈をつけて(笑)
さて昼休みが終わると、「できました」と私が要求した計算盤らしいものを手にしているではありませんか(下写真)。ひとつ言えば十理解する、ホンマに俺の副官でエエんかいなと言うほど優秀な男でした。私であれば4〜5日は要する仕事を、彼は昼休みにちょこちょこっと仕上げた。忘れ難い思い出の一つです。断捨離が大好きな私ですが、貰ったものは私のものですから、いつか特許を取れるのではないかと保管してあります。
写真(計算盤)について簡単に説明します。外側の数字は謂わば時計です。内側の小円は自在に回転でき、記された数字は睡眠が浅い時間(レム睡眠)を示しております。これの使い方は、例えば上記の写真では矢印で夜の11時半(23:30)就寝に設定しており、内側のそれぞれの数字の先にある時間(レム睡眠)、即ち01:00 / 02:30 / 04:00 / 05:30 / 或いは07:00のいずれかで起床すると、スッキリして目覚めることができます。従って、例えば08:00に起きるよりも、睡眠時間は1時間少ないが07:00に起きた方が良い目覚めになるということです。そして、トータルの睡眠時間や出勤の時間を勘案し、時計のアラーム(目覚まし)を07:00にセットして床に就く、ってな感じです。逆に換算して、7時間の睡眠時間を確保して、なおかつ06:00にスッキリ起きるためには、何時に就寝すればいいかもセットすることができます。私が言うのも何なのですが、大変な優れものです。
視点を変えます。以前のブログに描いた頻尿の件:あれから数か月にわたり毎日、排尿時間(時刻)と回数を記録してきました。その結果はその日の体調や水分の摂取量によって異なりますが、概ね一日に6〜8回の排尿でした。このうち夜間(睡眠時)の用足しは1〜2回でした。夜中に一回も起きないのは極ごくまれで、歳並みに頻尿を患っているってことでしょうか。そこで分かったのが、小用を催す時間と睡眠のリズムとの関係です。用足しに起きる時間と睡眠が浅い(レム睡眠)時間帯が、概ねリンクしておりました。ものの本によれば、このレム睡眠の時には大脳皮質の活動が活発になるとのこと。そこで私の疑問は、大脳皮質が活動することによって膀胱の(満タン)状態を認知するのか、或いは膀胱の状態を大脳に通知して「用を足せ」と私に指示するのかですが、そこのところは分かりません。脳が先か膀胱が先か、どうでもエエことですがご存知の方はご教示下さい。
もう一点面白い(或いは面白くない)現象として、睡眠中に小用をもよおす前には、必ずと言っていいほど下らない夢を見ているかウトウトしているってことです。全く何事もなくグッスリ眠っていて、突然に尿意を感じて起きるということではないんだよね。私特有の現象かもしれません。この脳と睡眠と尿意と夢は何か関係ありそうな・・・、或いは相互にリンクしているような気がします。いずれにしても、先ずはよい睡眠をとるべしとの認識の下、就寝前のPC操作やスマホは極力控える必要があると考えました。しかしこれは、なかなか手強い。重要な情報源である Twitter は秒単位分単位で入ってくるし、SNS をスクロールするのが半ば癖になってます。これは一種の中毒であり、水分補給を我慢するよりも難しい。そこで差し当たり、スマホを枕元に置いて寝るのを止めます。そして深夜(午前零時以降)のメールなどには、原則として対応しないことにしました。友人知人にはご迷惑をおかけするかもしれませんが、ご容赦ください。
下らんことに脳みそと体力を使う老人です。「チョビットでエエけん(翻訳:いいので)、ちった〜社会貢献できることを考えろよ!」と天の声が聞こえました。
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昭和46年3月31日の朝、生まれ育った讃岐をたって勇躍横須賀に向かいました。駅(讃岐津田)のホームで、「都会の色に染まらないでね」と黒い瞳に涙をため、木綿のハンカチーフを振ってくれた人は・・・残念ながらおらんかった。宇高連絡船経由で、岡山から新幹線「こだま」に乗りました。高校の?学期に土方をして稼いだ貴重な軍資金なので、勿論自由席です。席は空いてたのですが、横浜まで立ったまま行った。いよいよ防衛大学校の学生になるのだと言う高揚感と、帝國海軍の兵学校生徒であれば必ずそうするであろうという、今思えば笑えるような矜持がそうさせた。そのころから時代遅れで、ちょっと変わった少年ではありました。
夕食は横須賀駅前の食堂で摂りました。宿の手配などしてなかったので、女将に「明日防大に行くのですが、今夜ここに泊めて貰えないでしょうか」とお願いすると、学ランとスーツケース一つの姿に同情してくれたのか、「あらま〜。大した部屋はないですが宜しければ・・・」と言いながら、二階の屋根裏みたいな部屋に案内された。布団一枚がやっと敷ける広さ(狭さ)の、ウナギの寝床のような部屋だった。普段は物置に使っている部屋だったと思う。でも、とても有り難かった。なぜ事前に宿の手配をして行かなかったのか、どうしても思い出せません。
布団を運んでくれた女将さんは、割烹着がよく似合う清楚で優しい人だった。疲れていたこともあり、階下の喧噪など全く気にならなかった。田舎のカ〜チャンは今頃泣いとるかな、などと思いつつ瞬く間に眠りについた。翌朝、女将さんは「宿代など要らないわよ」とおっしゃったのですが、お礼にと千円か二千円置いたと記憶しています。後年、横須賀駅前を通るたびに、俺の海への入り口は「ここだったな〜」と思い出したものです。そのお店、今はありません。それにしても、両親は当然防大に泊まると思っていたのか、出立前、旅程については何も訊かなかった。多くの親御さんが受験どころか、学校の下見にさえ同行する今日、およそ考えられない話だよな。翌4月1日、初めて小原台(防衛大学校)の土を踏んだ。その後の1ヶ月は、疾風怒濤の如く過ぎた。
多々エピソードはあるのですが・・・。小生、小さい頃はちょびっと勉強ができた(みたい)だけど、決して優等生でもいい子でもありませんでした。つるんで遊ぶ友達は、生徒指導の教員にマークされている生徒ばかり。正確には、勉強の友達と遊びともだち、これを使い分けて付き合っていました。後年、悪友の一人はバリバリ(本物)のやくざ屋さんになったと仄聞しました。村で営まれた彼の父親の葬儀は、それはそれは映画のシーンの様だったと知人が語ってくれました。
中学生の時、興味本位で仲間と1本だけ吸った煙草を件の先生が知るところとなり、大眼玉を食らったことがあります。でも不思議なことに、担任の先生からは何のお叱りもなかった。そんなことをしながらも、中学校は何とか無事に終えました。高校では、受験勉強一辺倒で三年間を過ごすのは嫌だ、運動(水泳)もしたいとの思いで、(偏差値を)ワンランク下げて水泳の名門校に入りました。なぜか両親は、意見がましいことを何も言わなかった。入学した高校は、旧制中学からの伝統ある素晴らしい学校だったのですが、小生の学園生活はちょっとヤバかった。自分で言うのも何なのですが、入った時は優等生で、最も優秀と言われる進学組に属した。生まれて初めて少し大きな社会(学校)に入り、「なんだ、みんな大したことないな」と高を括ってクラブ活動に熱中していたら、一年が終わる頃にはクラスの落ちこぼれとなり、とうとう卒業するまでリカバリーできなかった。私が今もって各種のシステムや IT に弱いのは、この時の勉強不足(数学・物理と英語)に因ります。海軍士官にとっては致命傷ですな。
2年生の或る日、私と一緒にクラスの底辺を争っていた級友の家に遊びに行くと、ななっなんと、彼が当然の如く煙草を吸うではないですか。それを見て直ぐに思った。「俺はこいつに負けとる。もっと頑張らんといかん!」。目の前に進学を控えた高校生としては、努力の方向が全くズレとるわけです。翌日、直ちに「ハイライト」を一箱購入しました。使ったお金は、町(役場)から貰っている、なけなしの奨学金。町長さん・教育長さん、町民の皆さま、ゴメンナサイ。どこで煙草を求めたのかは記憶にありません。その頃に自動販売機があったのかな〜。大概は1ダースで買ってたと思うのですが・・・。この日から、私と煙との共存が始まった。
父親はヘビースモーカーだったのですが、両親、特に母親に見つかったら、こっぴどく叱られるのは必定。隠れて吸っているので、吸殻はコーヒーの空き瓶に水を入れて、この中に詰め込んでいく。空いた箱は、本棚と壁の隙間にポンポン投げ捨てていきました。横須賀に出立する前に部屋の掃除をしたのですが、本棚の裏からでるわでるわ。2年間の努力の成果が、山ほど出てきた。これを大きな袋に押し込んで、両親がいないときにこっそり焼いて事なきを得ました。天気のいい春の日、空に昇る煙を観ながら「いよいよ古里を離れるんだ〜」と感傷に耽った。そして「こころざ〜しをはたして〜 いつの日〜にか帰らん」、と「故郷」を口ずさんだのが昨日のようです。でも両親は、本当に気づいてなかったのかな〜。
あれから早や半世紀・・・ニコチンのせいかどうかは分かりませんが、最近やけに目立つ口元のほうれい線を鏡で映し観ながら思う。少年老い易く学成り難し!
防大では夜の自習時間が決められています。勉強する時間さえも限られているのです。これ即ち、如何に効率よく目標・目的を達成するか。毎日の学生舎(寮)生活を通じて、集中する術を体で覚えさせる。自習時間の真ん中に、10分ほど休憩時間があります。「自習中休み(なかやすみ)」のマイクが入ると、愛煙家はみな「煙缶(海軍では煙草盆)」を囲みます。小生には既に2年間のニコチン歴があり、法令や規則に極めて厳格な組織にいるからとて、或いは最下級生であっても、にわかに煙草を止められるわけがありません。もう、中毒になっとるんだから。躊躇することなく先輩に交じってプッハーとやってると、或る先輩が私に言いました。「あれ〜、お前浪人してたか?」。間髪を置かず「はい、二浪で4月生まれです!」。勉強はでけんけど、不良とばかり遊んできたので悪知恵は働くのです。先輩がニヤッと笑って、それで終わり! あの先輩の顔を、今でも覚えています。かつての防衛大学校は、なんでん・かんでん、規則でがんじがらめではなかった。それが良いか悪いかは分かりませんが、厳しい修練の場ではあっても、人(学生)の心にどこかゆとりと温かみがある良き時代でした。
防大時代は3学年の終わりまで吸ったのですが、最上級生(4年生)になると同時にスパッと止めました。水泳部の主将になったからです。水泳部では建前上煙草はご法度です。勿論、私を含め隠れて吸っている者もいるのですが、キャプテン自らが吸ってたんじゃ「部員に示しがつかん」と思った。引いては、統率にも腰が引けるだろう。高校時代から通算5年間吸っていたのですが、止めても特段の苦しみはなかった。制服の袖に3個の桜(4年生の証)をつけて闊歩し、それだけに気力・体力が充実していたのだと思う。学業成績は低空飛行ながら、何とか卒業に漕ぎ着けた。
喫煙については、2年後にどんでん返しがあるのですが、それはまた別の機会に。
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村の神社は「大字」が所有する財産であり、属する各自治会が持ち回りでお祭り・お祀りを営んでいます。この世話人(主催)のことを、「お頭(当)屋(おとうや)」と言います。現在のところ7つの自治会があり、よってこのままいけば、次の当番(当屋)は7年後に回ってくることになります。さても7年後に、今回の準備に当たった者の内、小生を含め果たして何人が参加できることやら。それほどに、我が郷里の高齢化と過疎化は進んでいます。私(正確には母)が所属する自治会は、10世帯ほどで構成されていますが、これでも世帯数が多い方です。しかも何人かはご高齢かつ独居で、祭りの準備作業などは無理なので、隣町に住む息子さんたちが代理で参加しています。私も郷里に住民票は置いてないので、その一人ということになります。自治会によっては4〜5世帯や、独居の1世帯というところもあります。即ち、当該自治会長は万年、動けなくなるまで会長を引き受けることになります。最早、自治会とは言い難い状況です。
このような現況を観るにつけ、退役後、思う所があって実家に弊社の「讃岐営業所」を設置しました。生まれ育ち、そして私を育んでくれた村を、再度活性化したい。昔のように、たとえ貧しくても活気のある村にしたい。微力ではあっても、幾ばくかでも村に貢献したいとの熱情でした。理念はかくも美しいのですが、如何せん武士の商法、力不足は明々で、未だに目に見える貢献には至っておりません。唯一、法人の住民税、しかも赤字の均等割りを納付しているだけです。日頃偉そうに言いながら、誠に情けない。日々、歯が抜けるように逝く人があり、活性の具現化は「待ったなし」です。村の過疎は急速に進んでおり、当方の気は焦るばかり。でもね、仮に万策尽きたからとて、価値観が全く違う大国に迎合し、魂を売るようなことをしてはいけない。ここだけは押さえておかんといかん。「武士には武士の意気地あり」。いつの日か、活路が開けるよう知恵を絞りたいと思う。
現状を嘆いているだけでは、何も動きません。相田みつをさんも言ってました「ひとつひとつかたずけていくんだね。具体的にね」。全国に拡がっている過疎の問題も国防と同じで、その土地が置かれた環境や昨今の情勢を踏まえ、将来を見据えてひとつひとつ課題を解いていく必要があります。何でもいいんですよ。それが私の場合は農園(農業)だった、ってこと。兎に角、具現化に向けた一歩を踏み出すこと。最近、知人の香川大学教授が、炭焼き(窯)に興味を持って、郷里で動いています。京都大学出のナイスガイで、讃岐に骨をうずめるつもりなので、近い将来、瓢箪から駒が出るかもしれません。何がしかでも彼を支援、協力できればと思っているところです。
神事に話を戻します。核心は、神官を招致してお祀りをしてもらうことです。お祭り当日の、昼間に執り行われます。ですが、いつからそうなったのかは分からないのですが、なぜか地域住民(のごく一部)が参拝するのは前夜祭(宵祭り)だけです。因みにこの地方では、神事を行う神官を「おたえさん」と呼びます。知恵袋のネットで調べてみると・・・昔、社格の高い神社の神官が「諸大夫(しょだいぶ)」、俗称「たゆう」の職に就いたことから、讃岐高松では神官のことを「お太夫さん」と呼んだ(らしい)。これが変化して、東讃地方では「おたえさん」と呼ぶようになったと推察します。
さても私が驚いたのは、参拝する人の絶対多数が何がしかの参拝料(玉ぐし料)を持参すること。主催者はそれ(祝儀袋)を、準備したボードに張り付けていきます。奉納された玉ぐし料とお賽銭は、主催する自治会の収入源になる。確かに昔も、或いは今でも御神酒などは、参拝者の目に触れるように祀られているように思います。だからと言うことなのでしょうか、主催側は参拝者にちょっとした手土産を準備して、帰りに持たせます。中身はスーパーで求めた缶ビールや甘酒などで、大したものではありません。でもこのようなやり方、正直、何だかな〜と思った。互助扶助ってことでしょうか。
中心となる神社と同時に、他の二つの小さな神社も同時にお祀りをしました。そのうちの一つは急峻な山中にあり、徒歩で1時間ほどを要するので、「おたえさん」と住民(と言っても当該自治会員だけですが)は、当該神社がある方向に向かって頭を垂れました。それも致し方ないかな。神事を執行する「おたえさん」は、三か所分の謝金を受け取ります。余計な想像ですが、田舎の小さな神社では参拝者も少なく、かかる神事の依頼も頭打ちなので、経営(生活)はとても厳しいと思う。葬儀や法要の絶対多数は仏教(お寺さん)で執り行いますので、副業或いは本業なくして日々の生活を営むのは困難でしょう。
問題は、今後このような神事をどう取り扱うかです。仮に何らかの理由で村の活性化がなされ、即ち住民が増えて、その多くが都会からの移住者や若い人たちだとします。その場合、現在のやり方でいいのか、ということ。お祭りの前日には朝から担当の住民(お当屋)が集合して、一日かけて神社や周辺の掃除をします。女性陣は参拝者のお土産の購入と袋詰めに従事する。加えて今回は、大判焼を焼いて参拝者にふるまった。朝早くから宵祭りの参拝者が絶えるまで、大変なエネルギーを消費します。勿論、終わった後は達成感があります。しかし、このようなやり方が、都会育ちの人や若い人たちに受け入れられるだろうか? 小生のようにUターン組は、小さい頃の思い出があり愛着もあるので、長年に亘って住民が繋いできたことや、しかし少しずつ変化していることなどを、脊髄で受け入れることができます。でも新規住民の多くは、「たまの休日なのに、面倒くせな〜」と感じるのではないかな?
私が住んでいる(自宅:埼玉県)地域では、新興住宅地に住む多くの住民が自治会から抜けています。拙宅が所属するグループも、住民(10世帯)が話し合って脱会を決定しました。グループの中には、市役所に勤務している方もいます。脱会の主たる理由は、自治会に参加しても元々の住民(先住民のじ〜ちゃん、ば〜ちゃん)と価値観が合わない、ということです。例会で意見を述べても、提案が受け入れられることはあまりない。単に面倒くさい、ということではないのです。自治会に入らなくても、ゴミ出しなどは市の管轄なので、住民票さえ置いておれば何らの不便も不具合いもない。子供会は別の組織なので問題なし。本当は、彼ら(先住民)とトコトン話し合って妥協点を見出し、より良い関係を築くのがいいのは分かっていても、それこそ面倒だし余計な摩擦を起こしたくないとも思う。
郷里では基本的に毎月例会が行われるのですが、師走は例年24日の夜に行われます。誰一人として、この日に異論をはさむことはないのですが、私は何年も前から???と思っています。参加者の絶対多数は高齢者ですが、なかには家族で、孫やひ孫とクリスマス・イブを楽しみたい人もいるのではないか・・・。実際に何の不具合も感じないのかもしれないのですが、田舎の人たちが自分の意見を述べるのは本当に希です。多少の見解の違いがあっても、多くは勢いに流されて口をつぐみます。そして、権威ある人や声が大きい人に迎合する。それが、田舎で快適に生きていくコツなのだと思う。私が退役して時々郷里に帰るようになった時、母に釘を刺されました。「言うたらいかんで(決してもの申すな)!」。ポッと帰って来て、経緯や事情の何も分かってないのだから、自分の価値観で意見がましいことを言ってはいけない、ということ。頭に閃いたことが直ぐ口に出る、私の性格を知っての注意喚起だったと思います。爾来、ンっ?と思った時には、母の言葉を思い出して飲み込むことにしています。ですが人間ができてないので、無意識に「ええ〜」と声が出ることが偶にあります。
これを要するに、田舎に多い、旧態然とした諸々の行事などは、新規参入者(世代交代者を含む)が受け入れられるよう、参加し易いように変えていくべきだと思う。勿論、断捨離と同じで、死守すべきこともあるでしょう。しかしそれでも、そこに住む人々からそっぽを向けられたら意味がありません。物事はよくよく吟味する必要がある、と感じた神事でした。
お祀り・お祭りの準備をしていて大変驚いたのは、さい銭箱の裏側が一部変形していて、なけなしのお賽銭が盗まれていたこと。バールか何かで、こじ開けた形跡がありました。賽銭箱は厚い鉄でできていて、ガッチリと床板に固定されています。今の時代に、こんな過疎の無人の神社にも手を伸ばす輩がいることに大変驚き、悲しくなりました。額に汗して、働かんかい!
また違う例では、朝早くの未だウトウトしている時に外でトラクターの音がした。ご主人が「何方か知らんが、朝早くからご苦労なことですな」と思い、洗面をして外に出て観ると自分ちのトラクターがなかった、てな笑い話のような話もあります。かく言う私も、電動鋸(これはちょっと高価)、スコップ、じょうろなどをやられました。じょうろなんか、二回も。田舎に住む姉に言われました。「何でも住所と名前を書いておかんと」。それが抑止力になるげな。こんなもんで、どなたかのお助け(社会貢献)になってるなら安いもんですが、田舎も油断がならん!
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多くの既存メディアによる報道は、「国論が二分している」かのようなスタンスでなされていたように観えましたが、本当にそうだろうか?
メディアのなりふり構わぬ煽りにも拘わらず、実際に反対を唱えていたのはごくわずかの人で、絶対多数の国民は当たり前のこととして国葬を捉え、粛々と安倍さんを送ったのではないか。献花に訪れた一般国民の数と反対デモの参加者数(実数)が、その実態を端的に示しています。独裁国家某に見られる「泣き屋」みたいな映像は、観ていて気持ち悪いが、少なくとも我々日本人には、故人を見送る最低限のマナーがある。日本人の倫理観と文化と言ってもいいでしょう。
選良と言われる(?)国会議員の一部に、「私は参列しません!」と世界に向けて発信した人が複数いたが、連中は本当に日本人なのか? 日頃からピント外れではあるのですが、生まれてこのかた何を学んできたのか、と首をひねざるを得ません。普通の一般市民・国民でも、葬式の案内を貰って参列する・しないは、個人の考え方やその時の事情、或いは故人や家との関係で判断します。でもまぁ、単なる情報ではなく、少なくとも案内があれば、たとえ過去に確執などがあっても、余程の事情がない限り大概の人は参列して手を合わす。その多くが義理や慣習であるとはいえ、死者に鞭打つようなことはしないのがこの国の文化です。勿論、参列しなくてもいい。でも「案内があったけど、私(俺)は行きません」と、世間にふれてまわる人はまずおらん。自分はアホです、と言って廻ってるようなものだから、常識ある人はそんな行動は採らん。戦い(戦争)であっても、敵軍の戦死者には敬意を表します。
国会議員総員に、最近上映されている「アイ・アムまきもと」を観させて、日本人の倫理観や文化を学ばせては如何か。本件は、それほどにレベルの低い話です(映画のレベルが低い、という意味ではありません。念のため)。
要するに、件の人々は人間としての、日本人としての最低限の常識を身に付けていない。わきまえてないということだ。死者の弔いに、政治的主義主張が入り込む余地はない。そんな人間が、何万人と言う国民の支持(票)を得て、国政に物申していると思うと、この国の将来が不安で頭がクラクラする。ただ、菅さんの弔辞にもあったが、多くの若い人が全国各所に出向き、弔意を示していることで少し救われるような気がする。
菅元総理の追悼の言葉は、今次国葬のハイライトであったと思う。菅さんの人柄や、朴訥な性格と相俟って感動的だった。これにもネット上などでは、政治利用だなどと横やりを入れる輩がいる。どういう感性を持っているのだろうか? なんでも反対すればいい、というものではない。勿論、菅さんの頭の片隅には、名誉欲やこれからの政治のことがあっただろう。人間だもの当然のことだ。ただ一点、「安倍さんがやったことは全て正しい」は、言い過ぎだったと思う。しかしそれは、言葉を額面通りに受け取るのではなく、故人に手向けた花と読むべきです。それが日本の文化なのです。だから、菅さんの弔辞が終わると、期せずして拍手が起こった。「あれっ?」と一瞬、小生も思った。我々の文化からすれば、葬儀に拍手は似合わない。勿論、参列者(拍手した人)はそんなことくらいは承知している。それでも拍手が起きたのは、それほど菅さんの言葉が参列者の心に響いたということです。長年に亘って安倍総理の右腕として仕え、信任厚かった彼にしか言えない、心のこもった、そしてとてもよく練れた言葉であったと思う。官僚の作文を棒読みしたかのような、無味乾燥な岸田さんの言葉に比べると天地の開きがあった。ご遺族も、拍手に違和感は抱かなかったと思う。
国家的な行事として観ると、イギリス・エリザベス女王の場合もそうですが、儀式における軍の役割はとても大きい。今回の国葬において、もし自衛隊(特に陸上自衛隊の特別儀仗隊や音楽隊)の参加がなかったならば、あれほど荘厳でピリッとした儀式にはなっていないはずだ。一つ一つの進行も、よく吟味され計画されていた。全体の流れや個々の動きに関しては、儀典に通じている自衛隊の助言もあったでしょう。裏で支え準備に当たった関係者の尽力は、大変なものだったと推察します。
それにしても、チャールズ新国王が海軍元帥、アン王女が海軍大将の制服を纏って母君(女王)の国葬に臨まれた様子を拝見して、誠に羨ましく、かつて七つの海を制した大海軍国、大英帝国の矜持を垣間見たような気がする。他所の国のことではあるが、重箱の隅をつつくのがお好きな日本のマスコミに、「なぜ軍服を着るんだ!」「時代錯誤だ!」と批判がましい、或いは疑念の声が全くなかったのが不思議だ。格が違い過ぎて、言葉が見つからなかったのか。
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PS 北朝鮮のミサイル発射事案:「断じて容認できない」とする政府の、具体的な対応が「厳重に抗議する」だ。「またですか。こんちわ〜」と同じ程度の感覚で、「厳重な抗議」を発している。我々のみならず、金さんも聞き飽きてるだろう。今回の事態は、既に分水嶺を越えたと認識すべきである。かつて、誇り高かった祖国日本。この国は周辺諸国に翻弄されつつ、二流国家から三流国家へと坂道を転がっている。一流などと言われたのは、遠い過去の話である。
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このような思考の機会を与えてくれたのは、先日見学(研修)した海上自衛隊の最新鋭艦でした。その艦は、我々 Old Sailor の常識では考え付かないコンセプトで建造されておりました。後輩たちの感性や思考の斬新さに感心するとともに、ホンマにこれで大丈夫かいな、大事に至らなければいいが、と思ったのも確かです。歳よりは、そんなふうに考えることが多いもの。それこそ老婆心です。今日はその良し悪しではなく、常識の壁を如何に打破するかについて考えてみたい。
毎月、郷里(讃岐)と自宅(埼玉)を定期的に行き来するので、ほんのチョビットですが航空会社の収益に貢献しています。自分で言うのも何なのですが、私は律儀で頑固な人間です。コロナ問題が起きて初期の頃、親戚筋から「コロナが怖いので帰ってくんな」と言われても、一回たりとも自粛・断念したことはありません。先日のことです。移動日が近づいた或る日、昼寝でベッドに横になっていてふと思いついた。この老人はものを考える時には、いつも寝っ転がる癖があります。昼間から酒を飲んで転がってるだけなので、そのまま「おやすみなさい」になることもしばしば。そして、時には下らんことを思いつく。大方のご批判を承知で、拙劣な「ひらめき」を開陳します。因みに、昼寝は15〜20分以内と決めています。
航空機は商業用であると軍用機であるとに関わらず、搭載重量に極めて厳格です。それは単に燃料を節約する外に、安全の確保に直結するから。そこでピ〜ンときたのが、機内持ち込みや預ける荷物の重量にはとても厳しいけど、搭乗者の体重についてはなぜ寛容なんだろう? ということ。はっきり言えば、携行する荷物は厳しく管理し、かつお金(かね)で持ち込みを制限するのに(お金を払えば持ち込みが可能ですが、それは制限していると見做すことができます)、体重が50キロの人と倍ある人が同じ料金で乗れる。これっておかしくないか? 現に、子供には子供料金(半額)が適用されます。子供とて、一つの席を使用するにも関わらず。それは、一義的には子供の平均的な体重に拠っているからでしょう。ならば、体重が50キロの人は100キロの人の半額でいいし、或いは50キロの荷物をタダで持ち込んでもいいのではないのか? 要するに、体重と機内に持ち込む手荷物を含めて重量管理(計算)すべきではないのか、と閃いた。
随分乱暴な意見のように聞こえるかもしれませんが、それは現状を「常識」「当たり前のこと」として受け入れているからそう思うのであって、仮に私が考えるような料金制があっても、それが差別に該当するとは思わない。すれば、しょっちゅう航空機を利用する人は頑張ってダイエットに努める、などと副次的な効果が期待できるかもしれん。奥さんから「飛行機代もバカにならないんだから、この際ダイエットしなさいよ。隣の○○さんなんか、5千円で高松に行ったらしいわよ」などと責められる、みたいな。或いは社用で乗る人には、会社からインセンティブ(奨励金)が出るとか。すれば中には、試合前のボクシング選手のように、搭乗前になると絞り込んでくる人が出てくるかもしれんな。ご体格が素晴らしい皆さん、ごめんなさい。一般的に女性は男性より小柄なので、運賃が男性より安くなることに「差別だ〜」と騒ぐこともないでしょう。逆なら大変なことになると思いますが。
今、常識と多くの人が思っていること、そうあるべきだと思っていること、この壁を打ち破るのはなかなか難しい。裸の王様を「裸だ!」と言うのには、信念と勇気、そして体力が要ります。
話は変わりますが、私はこの20年ほど一日二食で生きてます。そもそも、何で几帳面に一日に3回食事しなければいけないのか? 時間がもったいないだろうに。三食どころか、私が仕事に就いて駆け出しの頃には、海上自衛隊の艦艇では一日に4回食事がありました。4回目は夜食です。我々の組織では、食事をするのも排泄するのも仕事の一環ですから、半ば義務的に食べてました。夜食には麺類が多かったと思う。入港の前夜は「入港ぜんざい」と称して、必ずぜんざいが振る舞われました(この習慣は残してもよかった)。昼夜を問わずどれほど厳しい訓練をしていても、これでは肥満艦隊になります。そのこと(隊員の肥満)に危機感を抱き、数年後には夜食の制度が無くなりました。本当に良かったと思うし、決断した先輩は偉いと思う。食の問題は艦隊にとって大問題ですので、おそらくは将官会議に諮って司令官の同意を取り付けたのだと推察します。洋上では食事が唯一無二の楽しみですから。残念ながら、何方の英断によるものかは承知しておりませんが、おそらく反対論者は結構いたと思います。斯様に些細なことでも、壁を打ち破ろうとすると必ず異議を唱える者がいます。それも大した理由もなく。要するに、歳よりは変化後の様子をなかなかイメージできないのです。
上記は特異な例ですが、そもそも人間は何故一日に3回食事を摂るのか? 栄養学上の根拠はあるの? 幼児から成長期の人間(子供)や、特別体力を消耗する仕事に就いている人については、年齢や体格に応じて3食・4食或いは5食が適当かもしない。実際、私が小さい頃には、我が家を含め郷里の多くの農家では一日に4回食べてました。3回目は午後の3時ごろです。腹ごしらえをして、それから日が暮れるまで農作業に勤しむわけです。だけど、肥満の人など一人もいなかった。赤ちゃんは、お腹がすいたら泣いて知らせますよね。それを、大人の感覚や都合でミルクをあげるのはどうかな? 野生の動物で、肥満はまずいないよね。私は基本的に朝食を摂らないので、昼食(ブランチ)の時間はその日によってまちまちです。朝の5時から仕事をすれば、9時や10時に昼食を摂ることも珍しくありません。その時の都合によって、午後の1時、2時になっても一向にかまわない。とても柔軟性があります。
体ができあがった成人については、規則正しく3食摂取する必要はないと思う。私が朝食を摂らないことによって、誰かに迷惑がかかるのであれば、有り難くいただきますが、自分だけで完結する話なので何のトラブルもなく、というよりも家人には呆れられて日々を生きております。近い将来、カロリーの消費量が減少する、即ちあまり動けなくなった暁には、一日一食でいいと思っています。偉い先生や専門家では、朝食を抜くのは体によくないが主流ですが、未だ私を納得させるだけのご意見を見たことも聞いたこともありません。あんたとは脳みそが消費するカロリー量が違うんだよ、と言われれば直ぐに納得しますが。
我々人間の遠いご先祖は、他の動物と同じように、お腹がすいたら狩りに出て、食糧を得て生き、種(しゅ)を繋いできたと思われます。生活のリズムや摂取すべき栄養素を勘案すれば、大昔の野生時代に回帰する必要はないと思いますが、とにかく先進国の現代人はカロリー過多、摂取過多ではないでしょうか。回数よりも、一日に摂取するトータル・カロリーの問題です。それを解消するために、私は食事の回数を一回減らしているということ。1回の食事で摂る量を減らすとなると、食事の準備をしてくれる人を含め、周りの人といろんな摩擦が予想されます。従って、他人様に迷惑を掛けない「回数」で管理しているということです。満足に食事を摂れない人が世界中にいるというのに、贅沢な話ではあります。でも・・・近い将来、必ず食糧危機がきますので、飽食は止めておいた方が宜しい。
電車に乗ったり街を歩いたりすると、男女を問わず破れたパンツ(ズボン)をはいている人を時々見かけます。ジーンズに多いようです。ダメージ・ジーンズと言うのかな? 昔のお祖母さんであれば、孫がそんな格好していると「あら、かわいそうに。これでズボンを買いなさい。お母さんには内緒だよ」とお小遣いをくれるでしょう。しかしこれは、正確には破れたズボンではなく、破ったパンツを身に付けているということですね。一昔であれば、思いもつかない常識の打破です。私は1996年の夏に3年間の北欧勤務を終えて帰国したのですが、当時、日本の女子生徒が緩い白の靴下(ルーズ・ソックスなるもの)を履いているのを見てビックリしました。しかも新品の靴下をルーズにするため、多くの女生徒が靴下の繊維を抜いて自作している、と聞いて更に驚きました。子供とはいえ、美に対する女性の執念は凄いな!
上記の二例は一時的な流行りであり、長くは続かない、世の中に定着はしないと思いますが、また見てくれの良し悪しは別にして、既定の概念を越えた斬新な発想は褒められていいと思うのです。
自分の命や生き方を洗濯するため、時には「これって本当?」と立ち止まってみたいと思う。今日では情報が氾濫しているので、真偽を確かめるのには好都合です。周りの何もかもに疑問を持つと疲れるし、他との衝突も起きるでしょうから、自分で完結できるものを優先に思考すべきだと思っています。それでも変人は変人なので、極力社会に適応できるよう頑張ります!
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先般、台湾問題に絡んで中国が、我が国の EEZ(排他的経済水域)内に数発のミサイルを撃ち込んだ。勿論、確信犯です。ミサイルの標的(落下地点)からおよそ32マイル(60キロメートル)に所在する波照間島の住人は、震え上がったに違いない。島民が「自分たちの庭先にミサイルが撃ち込まれた」、と感じておればの話ではあるが。このミサイル発射事案に関して、沖縄県民はどのような感慨を持ったのであろうか? 本件は台湾と言うよりも、主たるターゲット(目標)は日本です。我が国に対し、「何時でも正確にミサイルを撃ち込める準備が整っているんだぞ!」と、脅しをかけてきたと観なければいけない。
この期に及んでも、今なお米軍憎し。先の大戦における多大な犠牲、そして戦後の基地の島として、沖縄県民の感情は分からんでもない。しかし、同県は我が国のみならず同盟国アメリカにとっても、地政学上極めて重要な位置にある。これは即ち、相手国にとっても戦略的に極めて重要な島であることを意味する。日本列島自体がそうであるように、これは沖縄の宿命です。政治的なポーズとして、或いは政権攻撃の意図を持って、「米軍は出ていけ〜!」とこぶしを突き上げるのは一つの方法かもしれない。しかし、過半数の県民が本心からそう思っているとしたら、それはとても危ない。
因みに、今次ミサイル発射の目的は、次のように分析できる。
1 為政者の国内に向けたポーズ
2 日本及び台湾に向けた恫喝
3 有事におけるシーレーン封鎖の予行
4 太平洋覇権の足掛かり
繰り返すが、これは明らかに我が国に狙いを定めた、明白な軍事行動と観ることができる。一方で、国民の生命と財産を護るべき、我が国政府の対応・反応はどうだったか?
度々同じ例を引いて恐縮ですが、フィリピンは米国と同盟関係にあります。しかし、冷戦が終焉すると同国は、駐留している米海軍と空軍に対して「出ていけ!」を決議した。国としての決断です。冷戦が終わりフィリピンは、これからは平和の配当を得られる、と勘違いしたに違いない。大きなボタンの掛け違いです。ソ連(ロシア)海軍が死に体になると、その間隙(真空状態)を埋めるかのように(実際そうなのですが)、中国海軍が勃興してきた。そして、あれよあれよと言う間に領土(環礁)の一部を取られた。取られてから「ああ、しまった!」と思っても後の祭り。今日(きょう)も続いているウクライナ・ロシア紛争で分かるように、力で取られた領土領域は、力を持って取り返さない限りほぼ百パーセント還ってきません。それが、国際政治の冷厳な現実です。
フィリピンは慌てて共同訓練などを通じて、同海域における米軍のプレゼンスを求めた。しかし平和に慣れた、有事を忘れた軍隊は腐ります。精強な軍隊の建設には長期間を要するが、腐るのはあっという間です。当時、小生の友人である米第7艦隊司令官は、「あの国の海軍はダメだ」と親指を下に向けた。決して他人事ではありません。
アメリカは民主主義の国です。大統領がどんなに「日本は極めて重要な同盟国。沖縄はアジア太平洋における、戦略要所であり死守すべき」と考えても、国民がそっぽを向けば大統領は民意に従わざるを得ない。或いは、大統領が国民をそのよう(反日)に誘導することもあり得る。むしろ、そちらの方が可能性としては高い。米国の国力が相対的に低下しつつある今日、我が国の外交・安全保障は重要な局面に差し掛かっていると認識しなければいけない。威勢よく「出ていけ!」と言ったはいいが、相手から「分かった。それほど言うなら出ていくよ。終わったな!」と返されたらどうすんの? 現在のところ日米同盟は堅固です。しかし、両者間に血のつながりはありません。あるのは、数十年をかけて醸成してきた信頼関係だけです。軽々に「出ていけ!」などと言ってると、取り返しがつかないことになります。同盟は夫婦関係と同じです。双方の絶え間ない努力が求められます。
今回の選挙結果には、そんな「危うさが潜んでいる」と私は感じた。老兵の直感が、杞憂に終わればいいのだが・・・。
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と、偉そうなことを言ってますが、決して他人事ではなく、私自身も同じような誤りを犯すことがママあります。他山の石としたいものです。
注:下線部は当該記事から抜粋したもの。記事の細部にいちいち反論するのも大人げないのですが、先ずは事実関係などから:
1 冒頭から「自衛隊幹部は公務員の中でも異様に低学歴集団」ときた。公務員と言っても範囲は広い。彼が言う「公務員」とは、どこの役所を念頭に置いているのだろうか? まさか霞が関各省庁の官僚、しかも上級職(所謂キャリア組)集団と比べて論を進めているのではあるまいな。私は数年間に亘って郷里の消防学校で講義をしてきましたが、それほど大卒が多いとの印象はありません。やはり実力集団である警察も、さほど学士が占めているとは思えない。ただ偏差値に関わらず、殆どの高校卒業者が大学に進学する今日の(日本の)現状下、近年では、当然のことながら自衛隊でも大卒が増えてきております。
当該研究員は「大卒の幹部は45.9%しかいない」と指摘しますが、将来、年を追うごとに大卒の数は増えてくるはずです。現在は、自衛隊に採用されるコースが細分化されていて少しややこしいのですが、簡単に言えば二等兵で入った隊員を幹部に登用する人数が多いのは確かです。最初から幹部への道が約束され、幹部候補生として採用される防衛大学校卒業者や一般大学出身者の不足分を、彼らで補っている。これは組織の構造であり、職の要求でもあります。従って、かつては高卒・中卒が主流であったこのソース(人的資源)からいけば、必然的に、現在の幹部の多くが学士様でないことは明らかです。近い将来、このソースが主として大卒になれば、必然的に学士の比率は上がります。しかし、それで戦いに強い組織ができるかと言えば、そうはいかん。
と言いながらも、かつて小生が人事の元締めをしていたときの話:高卒で幹部になった若い隊員で、とても優秀な子がいました。私は彼と組織の将来を想い、人事担当者に「近い将来、彼が本省や霞が関の官僚と議論する時、高卒では肩身が狭かろう。夜間大学でも通信大学でもいいので、仕事をしながら学士を取らせるよう」指示したことがあります。我が国の学歴偏重を考慮し、やり方は米海軍の人材育成(優秀な人材を発掘して教育を付けさせる)に倣ったものです。但し我々の場合は、時間も経費も自前です。彼は苦学勉励して組織の要求に応え、現在は将官として立派に指揮官配置をこなしています。
2 彼らが防衛省から入手した資料によると、自衛隊幹部の修士以上保有者は幹部集団の5%らしい。そして複数の自衛隊幹部が、「米国などとの共同作戦や演習が増えていく中で深刻な問題になっている」と嘆いたという。どちらの幹部さんから聞いた話か知らんが、諸外国、特に米軍との共同訓練で多くの自衛官のネックになるのは、潜在的な知的レベルではなく、最大の壁は語学(英語)力です。勿論、近年の英語力の向上は著しいものがあり、全く言葉に不自由しない隊員も大勢います。また、米軍との交流を通じて、常に世界の先頭を走っている彼らの戦術を理解し咀嚼して、更にはよりレベルの高いものにする。そして、実際に部隊で運用するためには大変な努力が求められます。その際、軍事用語が中心とは言え、言葉が不自由なことは大きな負担になります。恥ずかしながら小生は、40年間いつもこの問題に直面してきました。諸外国の軍人と交流(会議や共同訓練)する場合には、修士や博士を持っているか否かではなく、要は本人の資質と勉強度に拠ります。勿論、一般論として言えば、中卒・高卒よりも学士が、学士よりも修士、修士より博士の方が知的レベルが高い「はず」です。しかし、人間としての総合力には、学歴は関係ないと私は考えています。
加えて、「高等教育で学ぶ抽象的思考ができないために、共同作戦や演習のための意思疎通ができない」とおっしゃられる。失礼ながら、思わず笑ってしまった。短い文章の中では、彼が言う「抽象的思考」なるものが、如何なるものであるのか判然としないのですが、軍事作戦はすべからく具体的であるべきです。具体策の上にコンセプトはありますが、軍人は机の上であ〜でもない・こうでもないと、頭の体操をして終わりではありません。作戦は勝つか負けるか、この一点に集中します。従って、より具体的で詰めた思考が求められます。抽象論に走ると、いつか来た道、金科玉条に陥る恐れがあります。帝國陸海軍はそれで敗けました。我々が最も戒めなければいけないことです。記事の中で、例として挙げている「機動」の意味の取り違えは、単なる語学力の問題でしょう。言語は文化ですから。
自慢にもなりませんが、私は修士や博士どころか、学士も持たない専門学校出、従って正式には高卒ですが、退役後、国立大学の客員教授をやらせて頂いております。ごく限られた分野ではありますが、自分が他の教員に比べて知的に劣っているとか、思考が稚拙で恥ずかしい、などと思ったことは一度もありません。聴講する学生よりもよほど偏差値が低いと自認しておりますが、胸を張って学生に対面し、学生も真剣に私の話を聴いてくれます。
3 自衛隊の根性論重視+専門的知識や学問の軽視:反論するのもバカバカしいので割愛します。
4 自衛隊の知性軽視+積極的に国内外の大学に留学させる仕組みが乏しい:全く現状が分かっておりません。各自衛隊の幕僚監部(在市ヶ谷)教育課が予算の獲得に奔走し、我々の年度計画には国内外大学の課程が目白押しです。そして、人事課は睡眠時間を削って、これに充当する人選を行っている。ここで敢えて言わせてもらえば、そもそも国内の殆どの大学が、長きに亘って制服自衛官を受け入れてこなかった。そして時此処に至っても、未だに多くの大学教員が軍事アレルギーを持っている。残念と言うよりも、世界の非常識です。
「霞が関(防衛省を含む)の上級職官僚は、基本的に海外の大学院に留学させる」と言う。自衛隊幹部(全体の括り)の海外留学に比べると比率は格段に高いと思うが、また正確な資料は持ち合わせていないのですが、各省庁は上級職で採用するほぼ全員を海外留学させているのか? ホンマか? 私は現場中心で生きてきたので、官僚との交流経験は少ないのですが、彼(彼女)らの絶対多数が海外留学組だったとの印象はない。そもそも、叩き上げ幹部の比率が大きい自衛隊全体と、官僚のキャリア組を比較すること自体に無理がある。比較するなら、各自衛隊の指揮幕僚課程(所謂、陸海空軍大学校)を修了した者、或いはせめて大学卒業者でしょう。しかし「海外留学組」と聞いただけで、さも優秀で立派な人と我々が感じるのは、頭にこびりついた明治時代の残滓でしょうか。
5 装備の一部を教育に充当すれば、高卒幹部の総員を学卒に出来る:貴重なご提案、有り難うございます。しかし数字だけの、誠に乱暴な提案です。考慮に考慮を重ねて、乏しい資源(お金と人)から留学等の予算を組んでいる。それでなくても、部内教育の課程がこれでもかと言うくらいあり、自衛隊の教育人年はとても大きい。どこに、そんな人的余裕があるのか。後方(ロジ)を含む装備品等の不足は論を待たないが、とにかく人が足りない。足りん足りんです。全国津々浦々どこの自衛隊に訊いても、「当隊は十分に充足しております」と応える隊長はいないはずです。草創期から続いている大きな問題ですが、これは相も変わらぬ正面(装備)重視の弊害でもあり、卒業生である我々にも責任があります。防衛予算を倍にしても、徴兵制でも敷かない限り、隊員が倍になるわけではありません。仮に隊員数が倍になっても、その隊員が即戦力として、本当(有事)に使えるようになるには10年近くかかります。
これを要するに、当該記事は学歴偏重に満ち満ちている。決して高学歴を否定するものではないのですが、学卒・学歴って社会でそれ程に重要なのか? 自衛隊ができたころには、募集(リクルート)を担当する隊員が上野駅などで、元気のよさそうなあんちゃんに声をかけ、やっとこさ自分の名前が書ける程度の青年を連れてきて飯を食べさせ、基礎教育を施しそして鍛えあげた。結果、彼らは皆立派な鬼軍曹になり、一部の者は幹部になって卒業していった。何より、立派な社会人になった。自衛隊は人造りもやってるわけです。時代は変わり、現在の数多いる学卒が、どれ程の知性を身に付けた学士様になっているのか? 私には甚だ疑問です。
当該記事の論考がピント外れに終始しているのは、ひとつは、自衛隊における「幹部集団」の位置付けが理解されていない。ただそこには、組織の構造的な問題があることを、我々は理解しなければいけない。もう一点は、軍隊(自衛隊)における将校・士官(幹部)の役割と任務です。そこをきちんと整理して考えないと、残念な論考になってしまう。言いたいことはまだまだありますが、最後に一言:「軍隊における幹部(特に指揮官)は、兵を率いてなんぼ。そして、戦いに強い兵隊を育てること。精強な部隊を錬成すること」に尽きる。国際情勢や科学技術の進歩、日本の国力等を総合的に勘案して、20年先・50年先、或いはもっと先の安全保障や国防の在り方を思考する隊員は、組織のごく一握りで宜しい。そのような人材は育成されており、間違いなくおります。安心していただきたい!
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多くの校長の中にはポヤッとしたのもいるので、またどうしようか迷っている校長にお墨付きを与えるためにも、教育委員会が念のため促した。それがなぜ問題なのか。明快に「当然のことです」と、なぜ応えられないのか。教育における政治の中立性を云云するのであれば、教育の現場ではなぜ左寄りの教員が跋扈しているのか。最近ではかなり減ったようですが、私が生徒の頃には田舎の高校にもいました。この人たちが、国旗や国歌に敬意を払うことはない。或る人(元教員)が私に言いました。「あの人たちは生徒のことを一番よく考えている」。私には、とてもそのようには観えないのだが。
そもそも、総理大臣在任期間が憲政史上最長の故人、これはそれほど長きに亘って多くの国民の信任を得た、有権者が信任を与えたということではないのか。個人的な感情は別にして、この事実にホッカムリすれば民主主義を否定することになります。世界中から弔意が示されている自分たちの国の(元)代表、しかも誠に理不尽で衝撃的な凶弾に倒れた方に、生徒や児童個人ではなく、公立学校として弔意を示すことが政治的な中立性を欠くことなのか。明らかに世界の常識から乖離している、と私は思う。
自衛隊も政治的中立が求められる組織です。だから、誠実で真面目な自衛官は、選挙には腰が引ける。異常なまでに気を遣います。その結果、と言えばご本人には申し訳ないのですが、先の参議院議員選挙では我々の後輩が無念の涙をのんだ。昔から、自衛隊票はあてにならんが通説です。どこやらの国のように党の軍隊ではないので、今まで野党にいた方が最高指揮官になられても、クーデターも起こらず整斉と任務を遂行する。多少考え方に違いがあっても、なんて生易しいものではなく、昨日まで「自衛隊は憲法違反だ」、要するに「お前らの存在は憲法違反なんだよ」と言ってた人が総理大臣になっても、最高の栄誉をもって迎え、一瞬たりとも国防に隙間が出ないよう政軍の調整に努める。制服自衛官が権力に迎合するわけでもないし、節操なく腰砕けなのでもない。それはひとえに、我が国が民主国家であり、選挙で選ばれた政権であるからです。国民が選んだ最高指揮官だから忠誠と礼を尽くす。でないと、自衛隊は単なる暴力組織になります。
安倍元総理逝去の報に接し、海上自衛隊は政府の指示を待つことなく半旗にしました。しかしこれが、政治的中立を欠く行為・行動であり、半旗を指示(正確には示唆)した海上幕僚長はけしからん、との声は聞こえてこない。我々が殊更に国旗や艦旗を誇りとし、大切にする組織であることを知っているので、口にすると反撃を食らうとでも思っているのだろうか。
大人の迷走をよそに、子供たちはどのように反応したか? これは友人から聞いた話ですが、得心できる一例です。彼(友人)には、中学生になったばかりの孫(女の子)がいる。日頃、家庭で政治のことは殆ど話さないし、孫が政治に関心を持っているようにも見えない。知識も殆どない。しかし、安倍元総理の事件を、テレビで観ていた彼女(孫)は涙目になった。チラッと垣間見た(見えた)孫の「ライン」は、安倍さんの件でもちきりだった。これが普通の人間の感覚であり、良識ある日本人の反応だと思う。イデオロギーには関係ない。ちょっと変わった多くの大人(日本人)よりも、ごく普通の子供の方が余程人間的であり、常識を身に付けていると思う。
ひとつだけはっきりしているのは、およそ80年に亘る戦後教育が今日の日本社会を造った、ということだ。戦後レジームからの脱却を唱え続けた安倍さんが、凶弾に倒れたのは誠に皮肉である。どうか子供たちが、純粋な感性のままに、普通に、そして素直に成長して欲しい。大人は、純真な子供を妙な方向に誘導しないでもらいたい、と切に願うものです。
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日本家屋の特徴の一つは、布団を入れるための押し入れが多いこと。この押し入れは奥行きが深いため、現代人には非常に使い勝手が悪い。そもそも今日では、5人以上のお客さんを自宅に泊めるなんてことはまずないから、この押し入れは無用の長物です。YOUTUBE では、これをクローゼットに変更する例が多いですね。私の友人は、パソコン用の机代わりに使っていると言ってました。押し入れの改造と同時に、沢山の布団も処分するので一石二鳥です。仮に誰かを泊めるにしても、ベニヤ板ほどに薄くなるエアーマットなど便利なものがあるので、無理して家族分以上の布団を保管しておく必要性はないですね。
しかしま〜あるわあるわ!一軒の家にこれほどの物が詰まっているとは、感心するやらあきれるやら。転勤・転居がない人生だと、こうなるんでしょうかね。例えば小物で言えば、1個あれば生涯使えそうな物で、同種のものが4個も5個もあります。やかんとかポットなんかも5〜6個ずつあります。鍋なんか数えきれないくらい。これらを処分するのは、両親の歴史を否定するようで若干の後ろめたさがあるのですが、さりとて今住んでいる者が快適な生活を送れるように改善するんだから、と自分を納得させる。昔は冠婚葬祭を自宅で行うことが多かったので、和食のフルコースを提供できるお膳や食器類が20組くらいあります。これが洋食関係だと、今日の日常生活でも大いに助かるのですが・・・。それ以外の食器も山ほどある。
その殆どは、両親が爪に火を点す様な生活をしながら求めたものですが、親戚筋やご近所さんの冠婚葬祭で頂いたものも結構あります。他人様にものを差し上げる場合には、自分の都合ではなく、相手のこともよく考えてあげんといかんな、と反省しきりです。特に「○○記念」などと裏面に記載されていると、捨てるのは何か悪いような気がして処分を躊躇します。ですから私は、本や品物を謹呈する時には自署などしないことにしています。貰った方が処分するときに、チクリとしないように。で今回は、勇気を出して処分を実行。前回の帰郷時には、大きなゴミ袋に20袋ほど処分しました。それでも、ほんの序の口です。二階部は未だに手つかずですし、雑草に占拠されてゴミ屋敷と化しているビニール・ハウスが3棟ほどあります。これらの処分もあり、大枚はたいて念願の軽トラ(中古)を調達しました。軽トラは農園の必須アイテムなんですよ。最近では、ほぼ田舎に同化しています。
衣類も結構あります。父親のものは他界後に一度整理したのですが、10年近く経って再度引き出しを開けて観ると、なんでこんなものを残したのか、と感じるものが多々あります。昔は物が少なかったので、形見分けという習慣があったのですが、今じゃ差し上げても迷惑になるだけ。人間の価値観は、年月の経過によって変化していきます。
ここ5〜6年、大きなものから小さなものまで、廃棄していい物でも「何かの時に活用できるかも」と思って残してきました。確かにそれが役に立ったことが何回もあるのですが、そういう生き方を10年近く続けていると、自分の家が少しずつゴミ屋敷に近づいていることに気が付きました。これは不味い、と感じたものです。幸いなことに今では、百均(店)やホームセンターに行くと、必要な大概のものが安価に手に入ります。そこのところ、即ち、大きなゴミ溜めの中から必要な物を探し出すか、或いは新たに購入するかの按分ですね。些細な話ですが、輪ゴムなんかでも捨てないで取っておくと結構たまります。そのためた輪ゴムを使うのは、1か月に一回あるかないか。即ち、年間に10個も使えばいい方です。しかも、古いのは劣化して使い物にならん。昔から言われてました。「一年間使わなかったものは、捨てていい」。必ずしもそうとも言えないのですが、そのくらいの決心がないとゴミ屋敷は解消されません。
私は頑固な歳よりですから、一旦やると決めたことは何としでもやります。大概、設定したゴールには届かないけれど、70点くらい取れればよしする。そこで今回、生活の大方針を「保存」から「廃棄」に大きく転換しました。目的は只一つ、とにかくスッキリした環境にすること。不思議なことに、物が少なくなると心も晴れやかになります。脳みそも多少は整理されたような気がする。加えて、終活の一環にもなりそう。コロナ災禍あり暗殺あり、こんな日本の社会であり世の中です。有事になっても、予備役でもない老兵にお呼びがかかることはないでしょうが、日々肉体労働をしているのでいつ何時どうなるか分からん。
いつか「あれを残しておけばよかった」、と後悔する日があると思う。でもそれはその時と割り切り、今日も辺りを見回して何か捨てるものはないかと物色している。「これも(処分して)いいや」と思えるものが見つかると、お宝を発見したような気になります。断捨離には思い切りが必要です。暇人にとっては、これまた愉しい日常なり。
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後世に残る事業を成し得た人の多くは、個人の能力と同時に、取り巻き(スタッフ)に恵まれています。優れた部下に囲まれることは、その方(指揮官)の魅力の所以であり、その人が持つ能力でもあります。時には自分(吾)を押さえて、神輿に乗っている「ふりをする」こともある。それでいて奢らず、部下や取り巻きの誤りに気付いた時には、機を失することなく指摘して是正させる。何よりも、背骨(大方針)がしっかりしていてブレないこと。不思議なもので、そういう人には自然と人材が集まります。かつて「神輿は軽くてパーがいい 」などと宣うた、傲慢な御仁がおいでになりましたが、今どうしておいでになるのやら。勿論、政治の世界は絵に画いたような綺麗ごとではないと思う。しかし所詮は人間の集まりだから、根本的なところは変わらない。
人柄は顔に出ます。これは仕方がないことです。腹の中を隠そうとどんなに努めても、如何に綺麗なお造りでも、残念ながら顔と瞳(眼光)には人間そのものが出る。同じ主張をしている人や、長年に亘って同じ組織に所属している人は、顔が似ていると思いませんか? 正確には顔ではなく、顔から出てくる空気です。夫婦も同じです。何十年も連れ添っていると、兄妹・姉弟のように、とてもよく似てきます。実の兄弟姉妹よりも似てくる。面白いもんです。
安倍さんは、とても優しいお顔でした。その人柄が顔に出ている。私は「指揮官は泣いてはいけない」と言いますが、二回目の政権を去るときの記者会見で、北朝鮮による拉致問題に言及した時、彼は目を潤ませた。余程心残りで、悔しかったのだと思う。
安倍元総理死亡の報に接した米バイデン大統領は、直ちに半旗(国旗を三分の一ほど下げて弔意を示すこと)を全米・全軍に指示しました。好きなタイプの政治家ではないのですが、流石に大国の大統領、国際常識をわきまえていると思った。一方で我が国の半旗に関する迷走は、官房長官の答弁が示している通りです。官邸の情けない対応は、一国民として本当に恥ずかしい。休日だから国旗を揚げてない、という問題ではありません。
しかし、日本国内において唯一(と推察します)、直ちに半旗にした組織があります。半旗は規則上、防衛大臣(省)の指示がないとできない。しかし、規則は良く作り込んでるもので、「部隊指揮官が必要と認める時にはできる」(正確な表現ではないかもしれません)となっている。我が母体である海上自衛隊(海上幕僚監部)は、機を失することなくこの規定を適用し、国内のみならず世界に展開する部隊に通知した。退役した身ではありますが、例えば米軍と同居している横須賀基地や厚木、佐世保、八戸、岩国、那覇などにおいて、星条旗が半旗になっているにも関わらず、本国である海自の艦艇や庁舎ではそのままになっている(半旗にしていない)。この構図は、私には想像もできない。米軍から「君のところは半旗にしないのか?」などと指摘されたら、世界中の笑いものです。後輩諸官が毅然として国際常識を体現してくれた、そして何とかこの国の体面を保ってくれたことに感謝したい。
半旗に関する政府・官邸の対応や某新聞の川柳の件に加えて、テレビのニュースで信じがたい光景を目にしました。安倍さんのご遺体が都内のお寺から出棺するとき、寺門の前や沿道に集まった群衆の中で、かなり多くの人が写メを撮っていた。いとも簡単に写真や動画を撮ることができる便利な世の中になりましたが、そこは違うだろ! 日本人の民度は遂にここまで落ちたか、と嘆息する。
本件における警備当局の失態は明らかです。大事故の殆どは、多くの要因がピタッと繋がった時に顕在化します。起きてからあれこれ言っても全ては後の祭りですが、ここでこう出れば、こうやっておれば事態は起きなかった、防ぐことができた、ということが多々あるはずです。有体に言えば、警備のほぼ全てに詰めが甘かった。後方を監視する警護員が一人しかおらず、それがスルーした(不審者を発見することができなかったらしい)。一人だけってのは、とても難しい選択です。結果が「百(%)かゼロ」になりますから。
プロに対して僭越ですが、警戒監視と警護のイロハが分かってないと言われても仕方がない。元総理大臣という要人に、東京から出っ張った SP がたったの一人というのも信じがたい。仮に、ご本人から「それでいい」と言われても、それでも蔭で万難を排して臨む。そういう役割です。これから日本に来る外国の要人は、徹底的に自分たちで準備し、身の安全を確信してから来訪するようになる。我が国の安全神話は地に落ちました。日本警察信頼に足らず、と誰でも思うはず。警察のみならず、日本と言う国自体が大きく信頼を損ねた。先ずは、秋に予定されている安倍さんの国葬が試金石となる。
もう一点不思議なのは、この人物が危険人物として、当局にマークされてこなかったのか? 彼はネットを通じて、銃の作り方などの諸知識を得ていた(と報道されています)。ならば、いつかどこかで尻尾を出しているはずです。闇の世界を監視し、犯罪を防止するのも警察の重要な仕事だと思うが。残念ながら日本国内には、諸外国のスパイを始め、いろんな分野で彼に近い予備軍(危険人物)が何千人も存在していると思う。昔の村の駐在さんは、時折村を回って住人と他愛もない話をしつつ、情報収集に努めていました。今日では、パトロールカーで廻っているのは時々見かけますが、足で稼いでいる人(警察官)はとんと見なくなりました。車で走るのと、自転車をこぐのと、自分の足で歩くのでは、見える風景が違ってきます。「ネズミ捕り」に熱を入れるのもいいですが、再度、組織としての在り方を考えてみるのが宜しかろう。あなた方の主任務は、治安の維持+犯罪の防止です。
今回、海上自衛隊がにわかに注目され、組織としては大変な迷惑を被りました。あたかも鬼の首を取ったかのように、「元海上自衛隊(員)」と言うだけで、「うける(売れる)」と信じているメディアは病んでいる。それを聞いて納得・同調する視聴者も、少々ズレている。
犯罪者の経歴、即ち海上自衛隊と言う組織から得た知識や訓練だけで、銃や爆弾を作ったり、『野生の証明』のような実力をつけるには、余程本人が努力しない限り不可能です。では海自三年(1任期)の経験が、今回の犯罪(愚挙・暴挙)と全く関係ないのかどうかは、離職後の彼の生き方が明らかにならないと何とも言えない。たった三年間の、しかも組織の中では最も階級が低い隊員、昔流に言えば、二等兵が組織から得る知識や技術や情報は、ごく基礎的なものに限られます。民間の会社でも、入社したばかりの幹部候補生でもない一般社員に、レベルの高い経営戦略や秘匿性の高い技術など教えない。それと同じです。個々人が持っている潜在能力、を言っているのではありません。二等兵・平社員であっても、キラリと光る人、幹部職員に優る資質を備えている人は大勢います。念のため。
しかし・しかし、銃規制が極めて厳しい日本で、たった数回とはいえ少なくとも銃器(ライフル銃)を手にし、そして実際に弾を発射した経験の重さは、後々までその人の脳みそに残ります。小生の場合、防衛大学校に入学して初めて拳銃を発射したときの、硝煙の匂いと銃の感触は今も私の頭に強くインプットされています。大概の人は、初めて弾を撃つ時には舞い上がって、過剰に肩や腕や指に力が入ります。結果、地面に向かって弾が出る。そして、眼の先から土煙が上がる。多くの学生の射撃結果(弾痕)を見た教官(1等陸尉:大尉)に言われた。「引き金は、暗夜に霜が降りる如くだ!」。散々なデビューだっただけに、今も忘れられない極意です。これは拳銃の場合。因みに、当該犯が海自の三年間に拳銃を撃った経験はない。
要するに、彼が採った行動と海上自衛隊との関連性は、海自での経験をその後の人生でどのように消化していったのか、そこのところ(心の闇)の解明が不可欠です。私のような OB を含め、年間に何百人と言う人が海上自衛隊を去っていきます。在籍期間や年齢や経歴はまちまちです。犯人の許し難い行動は、今後の隊員の採用の仕方から、入隊後の教育や人材育成の在り方にも大きな課題を投げかけたと思う。
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春が足早に過ぎゆき、今年は空梅雨でした。既に真夏の様相を呈しているこの頃ですが、今春に地元の大学で行った講義の学生所感が届きました。毎回丁寧に、印刷した分厚い所感集を送ってくれる当局に感謝します。やっぱり PC で読むのと、紙で読むのとは全く印象が違うんですよね。
所感の主は「防災リテラシー養成講座」を受講している学生およそ300人で、各自がA4版の1〜2頁に、私の講義を通じて感じたことや思ったことをそれぞれに記しています。大概の学生がオジサン先生に敬意を表してヨイショしてくれているのですが、聴講生の生の声は励みになります。と同時に考えさせられること、教えられることも多々あります。にわか先生ではありますが、そこが教員の醍醐味というものでしょうか。
受講生の殆どは新入生なので、今回の対象者は、東日本大震災が生起した時には小学校の1〜2年生でした。香川大学に学ぶ学生の絶対多数は西日本の出身なので、また当時は幼年であることから、震災時のことはテレビで観た記憶が殆どです。それだけに、現場の実相を、実際に関わった人間が、映像で提示する小生の講義は、学生たちにとってかなり衝撃的なようです。
絶対多数の学生が所感で言及しているのは、次の事柄です。
1.石巻みづほ第二幼稚園:何回か過去のブログにも記してますが、女性の教頭先生が瞬時に判断して園児や職員を1階から2階へ、そして2階から屋根の上に上げて彼ら彼女らの命を救いました。その直後に、園舎前の電柱・電線を越えて1回目の津波が園を襲った。園児送迎用のバスが、園舎の1階部に突き刺さった。この教頭の咄嗟の判断・決断に、多くの学生が驚嘆します。とりわけ、将来教員を目指している学生は、教頭を自分に置き換えてみて、果たして自分がその立場に置かれた時に彼女のような適切な判断ができるだろうか、と想いを致す。手前味噌ではありますが、彼(彼女)らが今そう考えるだけで、近い将来、この子(学生)たちは立派な教員になると確信します。
2.行方不明者(遺体)の捜索:講義内容としてはショッキングではあるのですが、海で見つかる被災者の現実について説明します。多くの学生が「耳をふさぎたくなった」、「胸が苦しくなった」、「涙が出た」と述懐しています。私が本件について話す目的は二つです。東日本大災害の実相について語るとき、そこは避けて通ることができない。だからどうするんだ、どうすればいいのか、という対策・備えを喚起したい。もう一点は、海上自衛隊がかくも過酷な任務を遂行した、という事実を一人でも多くの国民に知って貰いたい。それは任務を付与した、「やれ」と命じた指揮官の務めだと思っているから。「偉いよね」「頑張ったね」と言って欲しいわけではありません。我々は、与えられた任務を遂行しただけのこと。多くの学生が海上自衛隊の活動を理解し、感謝の意を表してくれます。学生には邪心がなく、そのまま素直に受け入れてくれるのが嬉しい。
3.福島第一原発(真水作戦):私はこの作戦に参加する隊員から、女性を外しました。今でも、その時の決心は間違ってなかったと思っています。自分が降ろされることに納得できない女性隊員は、「なぜ降ろされなければいけないのか? 自分たちはこのような(危機)時にこそ存在するのではないのか?」と艦長に食い下がった。彼女らの使命感に、特に女子学生は将来の我が身のこととして受け止めます。男女機会均等、ジェンダーフリーではあるけれども、身体の構造や身体能力については厳然とした違い・特性が存在する。男性はどんなに渇望しても、どんなに頑張っても子供を産むことはできません。そのことを、仕事に就く前に学生に知っておいて貰いたい。仮に働く場所は違っても、より輝くことはできるし、男性隊員以上に国家に貢献することも可能です。男女平等は、何もかもが同じでいい、同じにすると言うことではありません。
4.被災者の生活支援:本件に関して私が隷下部隊(部下指揮官)に令したのは、この「生活支援」という一行だけです。具体的なこまごまとした内容は、全て現地の部隊が、自分たちに何ができるのか、何をすればいいのかを考えてやったこと。輸送艦に大きな風呂を仮設したこと、沖で漂泊している艦の風呂に入りに来るときには、洗濯物(汚れもの)や携帯電話を持参してもらい、入浴中に洗濯・乾燥し、携帯電話を充電したこと。風呂上りにはジュースを提供する、肩や足をもんであげたこと。音楽隊から派遣された隊員が、風呂上がりの被災者に『故郷(ふるさと)』を演奏したこと、等々。全ては現場の指揮官や隊員が考えてやったことです。そういうことを講義で話します。学生諸君は、隊員が指揮系統を通じて命令されたことだけでなく、一人一人が考えて行動したことに驚き、その意識の高さに感動します。
講義ではしばしば軍事用語、例えば「有事」「作戦」「敵」とか「初動全力」とかを使います。これは私が意識して言ってるのではなく、自然に口から出るのですが、「講師は右翼だ」とか「軍人に講義をさせていいのか」などの否定的な所見は皆無(ゼロ)です。それどころか、聴講生にとっては臨場感がより増すようです。学生の多くは、法的な位置づけなどには関わらず、自衛隊を「軍隊」と認識しており、私が発する軍事用語を自然に、そして好意的に受け取ってくれます。いつも講義の冒頭で「私は東日本大震災を平時における有事と位置付けた」と言うのですが、震災のことをよく知らない学生も、それほどに大きな、有事、即ち戦争に匹敵するほどの災害だったんだ、それほどの強い心構えで救援に臨んだんだ、と理解してくれます。
勿論、私が話を盛っているのではなく実際にそうだった訳で、戦後の呪縛にとらわれない、そして既存のメディア、主としてテレビや新聞が言うことに左右されない、若い人ほど世界の常識を身に付けていると思う。
香川大学の地理的位置から、学生の多くは南海トラフ巨大地震に敏感であり、近い将来間違いなく襲い来るであろう、巨大地震への備えの重要性を自覚しています。個人的な準備のみならず、大学に学んでいるという矜持からか、その時には各分野でリーダーになっていることを想定して、自分がやるべきことやあるべき姿勢を模索し始めます。温暖かつ災害の少ない讃岐で、毎年少しずつではありますが、そのような人材が育っている、と実感できるのがとても嬉しい。
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この子は7年ほど前に、我が家の玄関脇に置かれていた子です。父が他界して間もなくのことでした。名前はありません。不勉強で、何という種類の植物なのかも知りません。でも、数少ない私の家族です。
留守中に農協さんか何方かが持ってきてくれたものと推察しますが、私は通常勝手口から出入りするので正面の玄関は毎日鍵をかけた状態であり、半年以上も気づかないまま放置していたようです。可哀そうなことをしました。見つけた時には丈が3センチほどのヒョロヒョロで、軒の下に転がってました。見るからに瀕死の状態ではありましたが、もしかしたら生き返るかもと思い、家の中に入れて日当たりが一番いい部屋に置きました。当時は現在のように長期間帰郷しておりませんでしたので、水やりも不定期でカンカン照りの真夏や厳寒期でも、1か月近く灌水しないこともありました。理不尽な性格の私は、水の外には栄養あるものは一回もあげたことがありません。拙宅は山間部なので、人が住んでいない時の室内は外気温度とほとんど変わらず、真冬には氷点下近くになります。それでもこの子は暑さ寒さに耐え、一言も恨みがましいことも言わず、しぶとくしぶとく生きてきました。一日に0.1ミリ程度は伸びているのでしょうか、毎日観察しても成長を認識することはありません。子供と同じで、アッと気が付いたらこんなに大きくなってた、ってな感じです。
数か月前に、今までの鉢では根が張れず成長を阻害しているのでは、と思い現在の鉢に植え替えました。因みに、鉢は百均で求めたものです。百均でも希にいい物がありますね。今後しばらくは諸物価の上昇が予想されており、一方で収入や年金は減る一方というダブル・パンチの近未来、口に入れるもの・食に関するもの以外、特に消耗品などは百均を利用するのもいいかなと思っています。
本件(多肉植物)とは全く関係ないのですが、ダイレクト・メールなどで送られてくる商品カタログなどを見ていると「生産○○、企画日本」って説明をよく見かけます。安いけど良さそう・買おうかな、と思う商品は大概これに該当します。勿論、即、次のページに移動します(生産国によります)が、こんな言い方で何か担保を取り付けているのか、或いは多少 excuse してるつもりなのか? よく分かりません。
つい先日、ソファーに座って食後の歯磨きをしながら、何気なく鉢を見ていて、あれっ花が咲いとるやん。いや〜ビックリしました。こんなことがあるんだ。しかも下の方には、子供たちが愛くるしい顔を覗かせています。縁あって我が家に来た名もない子の、その生命力と種を残そうとする執念に感動しました。胡蝶蘭と並んでも、遜色なく存在感を示しています。今日の日本では少子化が益々進んで、危機的な社会構造になりつつある状況だけに、殊更私の琴線に触れました。
遅きに失していますが、名前を付けてやらんといかんな。「花子」じゃ余りにもありきたりすぎるか。そういえば、最近の子供さんの名前で「○○子」って殆ど聞かないね。時代時代の流行りがあると思うのですが、最近では訳の分からん当て字がやたら多くて、小学校の先生などは出席を取るのが大変でしょう。フリガナなしでは読めない名前が、多すぎるんとちゃうん。
先日古い落語を聴いていたのですが、「平民から皇室(皇太子殿下)に嫁がれる、将来やんごとなきお方になられる女性は、○○子と「子」が付かないといけない」と開陳してました。話題にすること自体誠に不敬な話で、世が世なら官憲の手にかかる輩ですが、この話は本当なのでしょうか? 不謹慎ですが(事実関係に)ちょっと興味を持ちました。
我が家の多肉植物(仮称花子)に教えられたこと:
1 どんなに苦しくても、人生投げたらあかん!
2 日々精進しておれば、いつか花咲くときがくる!
華やかさや花の大小、時期の早い遅いは問題ではありません。それぞれでいい。終に花が咲かない人、咲くまでに随分と遠回りする人もいるでしょう。でもそれは他人の評価であり、また何をもって「花」と言うかであり、自分自身が受け入れればいいだけのこと。妥協ではありません。
突然ですがおまけ:近しい友人が「古稀の記念に撮った」と言って、厚かましく一枚送りつけてきました。ご本人の了解を得て掲載しておりますが、昭和の匂いがプンプンするパンツ(ズボン)が笑える。御仁、八十寿ではどんな体型になってるのでしょうか? 「大変失礼ですが、10年後に生存して居ればまた送って下さいませ」と返しました。さ〜てと。
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久し振りの追伸:前のブログで「日本国憲法は他力本願」なる言葉を使ったのですが、懇意な老師から「安易に使ってはいけない言葉です。お父上がご存命なら、こっぴどく叱られてますよ」とのご指摘を頂きました。「本願」という文字から、語源が仏教にあるとは感じていたのですが、70年間全く気にすることなく、間違った解釈のままに使ってきました。いい歳してホンマに恥ずかしいわ。口が曲がっても、作家とか教授などとは名乗れません。本件に限らず、駄文の中には多くの誤字や解釈の間違いがあるのではないかと危惧しています。拙い文章でも世に出す前には何回も推敲するのですが、本人が正しいと思い込んでいることは修正のしようもなく、見切り発車となります。
昔「書くことは、書かれること」と、若いジャーナリストから教わりました。読者諸兄弟(姉妹)におかれましては、拙文の誤りに気づかれた時には、遠慮なくご指摘・ご教示を賜りますようお願い申し上げます。
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さてさて、自己否定するようで内心忸怩たるものがあるのですが、我が国が長きに亘って標榜し、そして国防の基本方針としてきた、摩訶不思議な「専守防衛」とは一体何なんだろうか? 心地よい響きのキャッチフレーズは、独り歩きをするので始末が悪い。文字通りに解釈すると、専ら守りに徹するということになります。日本では何故か「自ら攻撃するようなことはしません」、「そのような武器は持ちません」と解釈されている。あくまでも防戦一方で、敵が攻撃してくるまで手を出してはいけない。昨今のにわか議論の中で、この専守防衛と敵基地攻撃能力なるものがセットで、あ〜でもない・こうでもないと迷走しています。警察と軍隊の違い、基本的なところがまるで分かってない。机上での、言葉のお遊びはどうでも宜しい。要は、どうやってこの国を、そして国民の生命と財産を護るかです。ゴールをキチンと見据えないと、不毛の議論に終始します。
不毛の議論と言えば、古い話で恐縮ですがいつもこれを思い出す。小生が指揮する部隊が有志連合の艦艇に燃料補給をするため印度洋に展開するとき、旗艦を予定していた AEGIS 艦は情報通信能力に優れているので、集団的自衛権に抵触するとの理由で足止めを食らった。こんな下らんことが、国政の場(しかも与党内)で真面目に議論されていたのです。本来なら、いつ戦闘に巻き込まれるかも分らんのだから、できるだけ高性能の艦で行け、と送り出すのが筋。政治の劣化と、怠慢のしわ寄せは現場に来る。私は急遽(前日)、普通の艦に乗り換えて横須賀を出港しました。半年後、無事に帰還したので今では笑って話せるが、何と世界の常識から乖離した議論であったことか。
専守防衛を例えば、バスケットボールで考えてみますか。絶対に相手チームに点を取らせない(完璧な専守防衛)ためには、鉄壁の守りが必要になります。そのためには、相手よりも格段に背が高い選手を自軍のネット前に集めて、相手の攻撃(ボール)を排除する。文字通り鉄壁、即ち人間の壁を作るしかない。何百回攻撃されても、ただただ防御するだけで一切攻撃行動は採らない。そのうち人間のやることだから、ちょっとした油断で点を取られることがあるかもしれない。一方で自軍は、攻撃しないので点を入れることはない。相手は益々攻撃に専念することができる。このやり方では、百歩譲ってゼロ対ゼロに持って行くことはできても、先方が「公正と信義に基づいて、マイリマシタ。私の負けです」と言う以外、勝つことは絶対にない。でも、世界中どこを探しても、そんな奇特な国はないでしょう。
野球で考えても同じようなもの。スポーツと国防を同レベルで議論はできないが、我々が国是としてきた専守防衛なるものは、かように極めて脆弱であり、これを担う自衛隊員のみならず、国家国民を危険に曝す考え方です。
専守防衛を本気でやろうとすると、兵員を確保するため先ずは徴兵制にする必要がある。それだけではとても十分とは言えないので、所謂、国民皆兵が求められる。病気の人や老人・子供など体力的に無理な人を除き、国民の総員が銃を取るということ。ジェンダー・フリーの今日、女性も例外ではない。終戦前に逆戻りだ。国民の一人一人が「絶対に国を護る。死守する」という、強い意志を持つこと。これが先決であり、専守防衛の前提になる。ウクライナ(国民)は立派です。現在の日本国民に、それだけの覚悟がありますか? 自衛隊員だけに負担を強いるのは筋が通らない。
加えて、守りの体制・態勢だけで国を護ろうとすると、莫大な国防予算が必要になります。再びバスケットボールに例えるなら、極端な話をすると、身長220センチメートル級で身体能力に極めて優れる選手を確保する必要がある。彼らが自軍のネットの上に手を持って行って、敵のミサイル(ボール)が飛んで来たら、ことごとく排除する。これが、鉄壁の防衛力と言うことです。尖閣やマーカス(南鳥島)等を含めた、全領土・領海の上に護りのための膨大なドームを設置する。現実にそんなことができますか? AEGIS 艦が100隻程度あれば可能かもしれないが、仮に10 0隻持っていても、実動に配備できるのは半分もないことを理解しておいて欲しい。しかも軍事技術は日進月歩なので、AEGIS の盾を掻い潜る、或いは撃破する武器が早晩でてくるのは火を観るより明らか。即ち、防御に特化した国防予算は、天文学的な数字になるということです。
翻って、国防において・軍事作戦において、「私は守りに徹します」などと手の内を明かすアホな国がありますか? プロパガンダ或いはポーズであれば、それもありかもしれないが、高校野球の監督でもそんなことは言わん。でも安心していいです。諸外国は誰も、日本が言う専守防衛など信じてない。世界の軍事常識からすればあり得ないから。お椀のように小さな器の中で議論している、日本の様子を外から観て「勝手にやらせておけ」と笑っとる。
「平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と、我々は美文を歌い上げます。そして「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」と言い切る。この崇高な、あなた任せ・あなた次第の理念の延長線上に「専守防衛」がある。分かったようで分からん、空しい決意表明です。アメリカが押し付けたものだと、今更他人のせいにしてはイケマセン。それを大切に守ってきたのは我々なんですから。
やや過激な表現で、今回は有形の装備(武器)に焦点を当てましたが、国内には諸外国のスパイが跋扈している。内なるスパイも大勢いる(ような気がする)。我が国の領土(土地)や企業の買い占め、各種技術の流出などなど、武器弾薬を使わない侵食・侵攻が、そこかしこでなされている。これこそ、速やかに専守防衛で対応すべきではないのか。百年後・千年後、我々の子孫が日本人と呼ばれ、日本文化の中で、日本語で思考していることを願うばかりです。
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後者については、中身がとても重いので(決して前者が軽いと言う意味ではありません)、別途、機会を得て所見を綴ることとします。
さて『世界史の中の満洲帝国』、全編を通して学ぶことは多いのですが、特に気になったところを何点か挙げてみます。
アヘン戦争は、アヘンをめぐるイギリスと清朝との戦いです。簡単に言えば、英国は大量の中国茶を輸入して、清との貿易収支が赤(マイナス)になった。これを打開するためイギリスは、禁制品であるアヘンを清に持ち込んだ。しかも大量に。その結果、大雑把に言えば、清の100人に一人がアヘン中毒になった。宣戦布告したのは清の方だが、情勢が不穏になり、居留民の保護という名目で最初に軍事行動を起こしたのはイギリスです。この辺りの両国の動きは、日本の真珠湾攻撃に似たものがあります。
どう観ても英国の対応は大国のエゴイズムであり、自国都合の行動であることは明白です。清にとっては誠に理不尽な戦争と言える。だが日本を含め、英国を批判する列国はなかった。むしろ弱い立場の清朝に対し、隙あらば自らの影響力を拡大せんと動いた。その代表的な国がロシアと日本です。これに、隣接しているモンゴルが絡む。そういう時代であった、とも言えます。日露による満洲の取り合いは、日本が大東亜戦争で敗けるまで続きます。
要するに、現在のウクライナ問題が示しているように、国際政治は過去も現在も、そして将来も「ちから」で動くということです。国の「ちから」はあらゆる力の総合力ですが、そのコア(核)になり最も強力な力は政治力です。その政治(外交)を支えるのが経済と軍事です。「ちから」、特に軍事力を伴わない声(政治)は犬の遠吠えに近い。選挙で選ばれ、国の舵取りを任される(自称・他称の)先生は、この冷酷・冷厳な現実、国際政治の常識を忘れないで欲しい。
本著では「関東軍については今後の評価を待つ」とし、さほどの紙数を割いておりません。がしかし・・・そもそも、関東軍に与えられた任務は満洲の防衛であったはず。でありながら関東軍は、満洲国の経営に積極的(かつ過剰)に関与した。帝國陸軍の政治力でありアクの強さ。張作霖の爆殺を始め、独自の判断で行動し、中央がそれを追認することが多々あった。軍で最も戒めるべき「独断専行」は下克上に繋がる。関東軍は実績を重ねつつ、影響力を強めていった。関東軍の過誤が重大であったのは論を待たないが、前線部隊の暴走を止めることができなかった中央政府と参謀本部の罪は大きい。戦後の陸軍悪玉論はこの辺りから来ている。
本書の関東軍の項には、満洲古老の話として次のような記述があります。
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日清戦争当時の日本軍は、農家に宿営しても、自分たちは庭にテントを張って休み、庭を箒で掃いていくような立派な軍隊だった。日露戦争に来ている軍隊もよく、長く居座っているロシア人には反感もあったし、(注:日本軍に)労力も食糧も車もすすんで出した。ところが奉天の会戦後、たくさんの日本人が奉天に来たが、この人たちが急に威張りだした。
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上記「この人たち」には軍人のみならず、軍属や民間人の一部も含んでいるでしょう。明治建軍の頃には規律正しく模範的であった帝國の軍隊が、戦勝に溺れて徐々に統制力を失い、腐ってきたと言うことです。誠実な日本人の民度が短期間に変わることはあり得ないので、組織や部内教育の在り様に問題があったと推察します。一般論として、組織は肥大化するほどに、厳正な規律と高い士気を維持するのが難しくなります。武装集団の指揮官は、常にそこのところに腐心しなければいけない。過去とは比較にならない火力を有する今日の軍においては、軍人が本分を忘れて他に走ったり、或いは中央の統制から逸脱することは殊更危険である。それ故に、文民統制、所謂シビリアン・コントロールが重視される。ただ、文民統制の意味を履き違えている国も、稀にありますが。
1905年5月27日は、我が国のみならず世界史に残る日です。しかし、現在の日本人の99パーセントは何の日か知らない。教育とは、げに恐ろしいものです。東郷(平八郎)司令長官率いる聯合艦隊は、此の日、ロシアのバルチック艦隊を殲滅した。因みに、小生が現役の頃には、対馬海峡を通過するソ連艦艇はいつも(簡単な)慰霊祭を行っていました。簡単であるか荘厳であるかは、問題ではありません。国民の教育、兵士の教育とはそういうものです。
一方陸上戦闘では、我が方は12万人に近い戦死者をだした。多くの家庭では、父の夫の兄の、そして恋人の戦死の報を得て悲嘆にくれたでしょう。弾薬はカスカスの状態で、何とか終戦・講和に持ち込んだ。講和の斡旋をしたのは、米国のルーズベルト大統領です。講和条約によって日本は、韓国の保護権、南樺太・遼東半島・南満洲鉄道の経営権、沿海州の漁業権を獲得した。しかし、戦費の賠償請求には至らず、しかも樺太の北半分はロシアに返還となった。日本国内においては、この講和条約(調印)に不満の声が髣髴として沸き上がり、事情を知らない一部の過激な輩が在京アメリカ大使館や多くの教会を襲撃した(日比谷焼き討ち事件)。米国(ポーツマス)から帰国した全権の外相小村寿太郎は、逃げるように外務省に駆け込んだ。この事件で、それまで親日だった米国内の世論が一変した。
これから得られる教訓は、「知らない、ということほど恐ろしいものはない」と言うこと。多大の犠牲を強いられた戦争ではあったが、戦勝に酔う国民には、自国の現状(国力)や、相手国(ロシア)との戦力比が如何ほどであるのかを知らされていなかった。知らなかった国民が悪いのではない。知らせなかった中央政府や軍の責任です。一日一夜にして米国世論が大きく変わったと言うことでは、真珠湾攻撃後の米国を想起する。僭越ながら小生は、山本(五十六)さんのこと戦いに関しては懐疑的である。もしかしたら彼の頭には、「日本海海戦(大勝利) ➡ 即講和」のイメージ(成功体験)があったのかもしれない。因みに山本さんは、日露戦争(日本海海戦)に従軍して指を二本短くしておられます。
上記以外にも、いろいろ思うことはありますが、いずれまた。
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今ここで運営会社の社長を、野外から責め立てるのはいとも簡単ですが、北の冷たい海に没せられた方々の無念がそれで晴れるわけではありません。勿論、安全管理をないがしろにした(と推察される)ずさんな運航計画や誤った判断の実態は、ご遺族等から責められて当然ですが、基本的には司直の手に委ねるべきです。
今回の事故で思い出すのは、洞爺丸事件(1954・昭和29年)です。小生が赤ん坊の頃の事故であり、実際に見聞したわけではありませんが、昔『洞爺丸はなぜ沈んだか』(上前淳一郎)を読んだ記憶があります。今回の事故と洞爺丸事件には、一つの共通のキーワードがあります。それは「天気図(天気予報)」です。
船乗りにとって海図(海の地図)と天気図は、絶対に手放してはいけない基本的な資料(データー)です。昔は天気図と言えば、気象庁がラジオ(NHK第2放送)で流す数値を手で書き取って作成しました。一日に2回放送があったかな? 自作(或いは気象担当が作成)の天気図を観て天候の推移を予測します。船乗りは天気予報士でもあるのです。洞爺丸の船長は、函館港で台風が通過するのを待っていたのですが、晴れ間が出たので出航を決断した。乗員乗客にとって悲劇だったは、この一時的な晴れ間(太陽)が、実は台風の目に入ったために出現したものだったこと。そして港外に出た途端、二回目(左半円)の暴風雨が連絡船を襲った。同船が沈んだ位置は、港に手が届きそうな場所です。
現在の状況は確認してないのですが、かつては中型以上の船であれば必ず気圧計を装備してました。勿論、洞爺丸にもあったはず。台風に遭遇しそうなとき、船乗りにとって何よりも重要なデーターがこの「気圧」です。我々が荒天避泊、或いは荒天航行する場合には、15分ごと(10分ごとだったかも)に気圧を記録します。実際の船上の気圧と、先の天気図の気圧を照合すると、台風や熱帯低気圧が今どの辺りにあるのかが予想できる。即ち、台風と自船の位置関係が分かる。洞爺丸の船長は、この作業を怠ったと思われます。
上記は70年も前の話です。現在は天気予察能力も、それを関係者に提供するツールも格段に進歩しています。しかし、如何に好天であっても、出港する前には先ずこれ(天気図)を確認しなければならない。それは船乗りの鉄則であり、基本中の基本です。私が航海長として勤務していた時の或る艦長は、出港前は勿論のこと航海中は毎日、天気図を持って航行海域の天気予察を私に求めた。彼はとても太っ腹で、艦の運航に関しては全面的に私に任せてくれたが、この件については一切妥協がなかった。おそらく教育であったと思います。
報道によると、今回のケースも「出港時には比較的穏やかだった」ようです。これがまさに、洞爺丸と同じと感じた次第です。洞爺丸の時に比べると各種の技術や装備が、想像もつかないほど発達しているにも拘わらず、70年前と同じ過ちを犯したと推察します。
我々(海上自衛隊)には、昔から「同じ航路も初航路」という言葉があります。過去に何回も走って熟知した航路や海域であっても、初めて航海するときと同じように入念な事前の準備をし、緊張感を持って臨むよう自らを戒めています。何故かと言うと、仮に同じコースを走るにしても、実は一回一回の環境条件が大なり小なり異なっているからです。日時・季節・天候は勿論のこと、風、潮汐、波浪、お月さんや太陽、行き交う船の輻輳(混雑)など、一日として同じ条件はありません。経験を重ねることによって、いろんな状況に対応できるようになるのですが、基本が身に付いてないと応用は利きません。基本ができていない応用動作は、単なる行き当たりばったりと言います。件の船長が、如何ほどに船乗りの基本を身に付けていたのか知る由もありませんが、何処かが抜けていたと思う。
大きな事故は、主体者について言えば、必ずしも偶然に起きるものではありません。殆どの事案は氷山の一角であり、事態が爆発(表面化)するまでには必ずと言っていいほど伏線があります。いろいろな好ましくない要因が、全て重なった時に事故は起きます。事故の要因は鎖で繋がっており、どこかで一つでも、この連鎖を断ち切ることができれば事故を回避することができる。今まで大事に至らなかったのは、多くの要因の一つか二つが切れていたからです。言い換えれば、殆どの事故は起きるべくして起きていると言うことです。
運営会社の社長には、当然のことながら管理責任があります。社長の会見を観て、自称・他称の専門家が「海のことも船のことも、全く分かってない」と酷評してましたが、少しピントがずれていると私は思う。管理者が、現場の全てに通じているわけではありません。勿論、知っているに越したことはありませんが、管理者には別の視点、即ち安全管理を始めとする船舶運営・運航の基本計画、船長・船員の教育や人事管理、現場との人間関係などなど、全体的な管理上の責任が問われるべきです。船長が未だ発見されていないので、社長に全ての責めが集中するのは致し方ないところもありますが、船舶や艦艇で生じた事故の、直接的な責任はすべからく船長・艦艇長に帰する。責任の所在に、船の大小は関係ありません。3〜4人の乗り組み員であっても、Captain は Captain です。船長・艦長はそういう配置です。
私が3年間過ごした北欧ノルウェーには、フィヨルドから雪解けの滝を観るツアーがあります。その規模(水量や落差)は、北海道とは比較にならないほど壮大で感動的です。いきおい船長は、できるだけ滝の近くまで行ってお客さんに喜んで欲しいと思う。しぶきがかかるほどに近づくと、お客さんはとても喜びます。自分の技量で陸地(滝)にどこまで近づけるか、船長の運航者としての誇りもあるでしょう。鳴門の渦の鑑賞も同じだと思う。競争相手の会社があると、多少のリスクを冒してオーバーサービスになりがちです。しかし、全く悪意がなくても、オーバーサービスが悲劇を招くことがあります。船長には「同じ航路も初航路」の初心とリスク管理を、サービスされる側には「そこそこで結構」とする自制心が求められます。過ぎたるは猶及ばざるが如し、です。
私もかつて、オーバーサービスしてもらって痛い目に遭った経験があります。生まれて初めて、骨折り損のくたびれ儲けをしました。身体的にも経歴(キャリア)においても、回復できたのが不思議なくらいです。私の右肩には、今も鉄板とボルトが5本入ったままです。
大洋に出て潮風にあたると、母なる海に抱かれていることを実感する。陸上から穏やかな海を眺めていると、ああ海っていいなぁと思う。しかし海は、時として膨大なエネルギーを伴って牙をむく。運航関係者のみならず、レジャーや観光で海に出かける人も、このことをよく認識しておく必要があります。
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『海軍と日本』(池田清:中公新書)は、小生にとってバイブルと言ってもいい本です。現役時代には『戦艦大和ノ最期』とともに、何度も何度も紐解きました。それほどに、私の琴線に触れる内容が網羅されているということです。学術書以外で何度も開けて観る本は、長い人生における泉のようなもの。
少し長いですが、本書『海軍と日本』の冒頭(はじめに)に描かれていることを転写します。この本の肝です。
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「三年有余の苦闘遂に空しく征戦すでに往事と化し、ここに海軍解散の日を迎うるに至れり。顧みれば明治初頭海軍省の創設以来七十余年、この間邦家の進軍と海軍の育成に尽瘁せる先輩諸士の業績を憶う時、帝國海軍を今日において保全すること能わざりしは、吾人千載の恨事にして深く慚愧に堪えざる所なり」
一九四五(昭和20)年一一月三〇日、日本帝國海軍省は、七三年九ヶ月で廃止され、最後の海軍大臣米内光政は、同日右のような短い談話を発表した。この日、世界第三位の海軍国日本は名実ともにほろび去った。
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米内さんは日独伊三国同盟に反対したことでつとに有名ですが、私はそれよりも、帝國海軍の終焉(終戦)に際して、腹心の部下に「海軍の再建を指示した」ことに注目します。海軍大臣時の上海出兵など、米内さんには不可解な決心(失政)もあるが、新生海軍の誕生、即ち小生の出身母体である海上自衛隊は米内指示の延長線上にあります。
さて著者の池田さんは海軍兵学校73期、海軍中尉で終戦を迎え、戦後東京大学に学んでおられます。でありながら本書の内容は、帝國海軍の批判に満ち満ちている。明治海軍についてはそれなりに評価していますが、大東亜戦争を戦った海軍については、これは良かったとか、過去を懐かしむような記述は全くありません。海軍経験者、特に将校・士官は「海軍はいい組織だった。海軍で人生を学んだ。戦後の会社経営などに大いに役に立った」とする意見が大多数を占めます。その殆どは懐古主義(ノスタルジー)だと思いますが、池田さんの批判はまさに直球勝負で正鵠を射ています。
帝國海軍は誕生から75年に満たずして消滅しました。一方、戦後の新生海軍(海上自衛隊)は、去る4月26日をもって古稀(70年)を迎えた。創設以来、一回も戦争をしたことがない。この節目の年に、池田さんの批判を再読・再確認してみることは、海上自衛隊と共に齢を重ねてきた Old Sailor(老兵)にとって何か意味があるかもしれない。我々(或いは私)が辿ってきた道は、間違いなかったのか。建設の時代から働く時代になって久しいが、新生海軍は本当に戦える組織になっているのか。そして、一朝有事には国民の負託に応えることができるのか。もし現時点で反省すべき点があるとすれば、一日も早くその方向を修正する必要がある。大方針が猫の目のように変わってはいけないが、現下の混沌とした国内外の情勢下、必要な方向転換を躊躇していては将来に禍根を残すことになります。次世代にツケを残してはいけない。
以下、帝國海軍の体質と脆弱性など、池田さんの論述・論考を踏まえて思うところを述べます。
1.短剣と白手袋:海軍はスマートが定説です。確かに「スマート」には恰好が良いという意味もありますが、私は「賢い」「叡智」と解釈します。帝國海軍は外見上のカッコよさと認識し、見てくれを重視した。制服、とりわけ諸外国においても海軍や商船の制服は際立ってカッコいい。船を起源とする、航空機関係者についても同じです。やや無理な解釈かもしれませんが、このカッコよさが人間の内面におけるひ弱さに通じる。例えてみれば、鑑賞用に大事に育てられる花と雑草の違いです。日々雑草と格闘している私には、そのことがよく分かります。池田さんは、海軍の短剣と陸軍のごぼう剣と例えている。短剣と白手袋に対比すれば、ごぼう剣と軍手と言えば失礼だろうか。しかし、何れが戦場において役に立つかは自ずと明らかです。これはまた、政治力やアクの強さ・弱さにも通じる。所謂スマートは、ひ弱な人間や脆弱な組織を醸成する。それぞれの文化ではあるが、人は石垣と言って憚らない陸軍と、技術優先の海軍の違いでもある。
結果として、陸軍や部内の好戦派(という表現は的を得ていないが、ここでは分かり易くするために)に引きずられて大東亜戦争の一翼を担った。我田引水で、悪の張本人は陸軍で海軍は被害者、などと言うつもりは毛頭ありません。戦争責任が陸海軍同等(イーブン)であることは明白です。船乗りにとって、ストッパーはとても重要です。手綱が効かない組織は自滅する。郷土の大先輩で同窓の士でもある元東大総長の南原(繁)さんは本書で、池田さんの問いかけに対して「陸軍にブレーキをかける(所謂ストッパー)役割を期待した海軍の不甲斐なさ」を嘆いています。
2.海軍兵力の在り様:海上自衛隊内部において、空母待望論は古くからあった(と思う)。今、その期待が現実のものになろうとしています。しかし私は、若い頃から空母の保有には懐疑的でした。勿論、その打撃力からいえば喉から手が出るほど欲しい。しかし問題は、日本の国力と予算(おかね)です。軍事力、とりわけ海軍(力)という組織は、箱(入れ物)を造ればそれで終わりではありません。それを運用する(使う)人の確保と教育、乗せる航空機とパイロットの確保と教育訓練、艦上と陸上基地における保守整備能力、保守整備の一翼を担う民間(造船所等)の能力、使用する燃料・弾薬の確保等々、一隻の空母を裏で支えるロジスティックス(後方)が充実していて、初めて適正な作戦運用が可能になります。
しかも、定期的な整備が求められるので、抑止力や有事における兵力として機能するためには、最低でも3隻は必要になります。3隻でも、1隻は定期修理・整備、1隻が修理後の訓練、そして1隻が実動です。たった一隻(一人)で365日働けと言われても、それは到底無理な相談です。加えて、有事における減耗も視野に入れておかなければならない。大東亜戦争では優秀なパイロットが減耗枯渇し、大学生や年端のいかない少年に補填を負うた。ついこの間のことです。しかも、空母一隻で作戦できる訳ではなく、空母部隊は数隻の護衛艦を含めた任務群として作戦行動するのが常です。空母は絶大なる打撃力を有しているが、或る意味脆弱性も併せ持つということです。
ちょっと考えるだけで頭がクラクラするが、要するに、国家国民にはその(とりわけ経費)覚悟が求められるということです。予算よりも更に深刻な問題は、現今の少子化における人材の確保、リクルートです。近年、国防や安全保障について広く議論されるようになり、国民の自衛隊に対する認知度や期待は格段に向上しました。自衛隊ファンの若者も増えた。好ましい傾向ではありますが、しかし自らが国防に身を投じて汗をかき、国家防衛に寄与したいと考える青年は極めて少ない。汗をかくだけではなく、血を流す覚悟も求められるので、子息・子女に自衛隊を勧める親御さんはもっと少ない。「艦隊コレクション」で国は護れません。
高度な技能者である搭乗員(パイロット)や整備員には、最低限の数学、物理、英語、そして体力と健全な精神が求められる。採用する隊員のレベル(基礎的な能力の基準)を下げれば、一時しのぎにはなるかもしれないが、そこに手を付けると将来必ずデッドブローのように効いてきます。これは、とても難しい問題です。
3.継戦能力:ロシア・ウクライナ紛争が示すように、戦争は短期間で決着するものではありません。相手だって決死の覚悟でやるのだから当然のこと。短期に勝敗が決するのは、戦闘力を含む、双方の国力に絶対的な差がある時だけ。例えば、小学生の相撲チャンピオンが横綱に挑戦しても、それは歯が立ちません。従って、国家として一旦干戈を交える決心をするならば、或いは将来への備えとして、長期に亘って戦うことを前提にしなければならない。装備、燃料、弾薬、人が長期戦に耐え得るか。所謂、継戦能力です。兵員の士気の維持、弾薬・燃料の現在保有量及び継続して補充する能力、そして最も重要な鍵は国民の戦う意志、国を護る志です。日本人・日本民族は古くから、ものに拘泥しないを美徳とし、桜と花火が大好きな国民です。勝っても負けても淡白です。スポーツはそれでいい。しかし、戦争の実相は複雑かつ悲惨である。さて、この国の継戦能力や如何に?
4.最後に統帥権干犯問題:本件に関する池田さんの「まとめ」が秀逸です。・・・統帥権干犯問題をめぐる騒動は、軍事を知らぬ政治家たちが、政治を知らぬ軍人たちを党略に利用し、結局は自らの墓穴を掘ることになったよい一例であろう・・・。本件は、ロンドン条約の批准に反対する海軍内の一部勢力が、犬養(毅)総裁を始めとする政友会(野党)の野望に利用されたことに拠る。巷間、犬養さんは立派な政治家だったと言われるが、私は尊敬できない。東郷(平八郎)さんや伏見宮殿下の老害もあった。如何に勲功があろうとも、生きている人間が神様になってはいけない。統帥権干犯問題はその後も尾を引き、日本が進む方向を誤る一つの要因になった。誠に残念なことです。
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拙講義の構成は、その三分の二を東日本大震災の実相と教訓に。講義には、それとなく指揮官の在り方(平たく言えばリーダーシップ)みたいな内容を盛り込みます。そして、残り三分の一で質問を受ける。この Q & A 時間はまた格別です。入学したての学生諸君は真っ白な状態で、いろいろなボールを投げてきます。一コマの時間内では消化しきれないので、時間切れで質問できなかった諸君にはメールで受けることにしています。例年、後日50〜60人の学生から追加の質問があります。それらに対しては、できるだけ丁寧に打ち返すことにしています。パパイヤの植付け時期と競合するのですが、夜なべで顔の見えない学生に回答を準備するのはとても愉しい。対面のラウンド・テーブルだと、もっと愉快だろうな〜と思う。
昨年春の場合、受講生の殆どは震災当時、小学校の低学年(2〜3年生)だった由。香川大学の学生の多くは四国や中国地方の出身ですが、当時テレビで観た津波の状況は頭に残っているようです。しかし讃岐と言う平穏な土地柄か、災害を自分のことと捉える人は僅少で、悲惨な記憶もまた歳月と共に薄れていきます。大災害を風化させないと言う意味においては、拙い講義も多少は貢献しているかもしれない。
講演も講義も同じですが、聴衆は簡潔な言葉(キャッチコピー)にヒットすることが多い。例えば、私自身の経歴や経験を踏まえて、いつも「想定外は甘い!」と言います。勿論、大きな災害などでは想定外のことが多々起きるのですが、いろんな準備や訓練を積み重ねる。そうすることによって、今まで想定外であったことを想定内に取り込む、との思いで発信しているものです。ただ、これ(簡潔語)は或る意味危険でもあります。先に述べた「リテラシー」と同じで、聴く人はそれぞれの経験や知識に基づいて、言葉の意味を理解します。すると、それぞれが同床異夢になることもある。言葉は短ければ短いほど多様な解釈が可能であり、インパクトがあればあるほど独り歩きするおそれがあります。そして、発信者自身も自分の言葉に酔う。そういう発信が得意な人もいます。私がいつも思い出すのは「郵政民営化!」です。或る種の煽りで世の中の空気が醸成され、聴衆(国民)は空気に飲み込まれます。私の発言を素直に受け止めてくれる聴衆が、人生経験が浅い人の場合には特に注意して発信する必要がある、と自戒しているところです。
天邪鬼の私は、現今のコロナ災禍とロシア・ウクライナ紛争にも、やや危ない空気を感じる。
学生の感想文の中に、時折「海軍」という表現が出てきます。勿論これは、前後の文脈から推察して、小生の出自である海上自衛隊を指すものであり、(喜んでいいのか悲しんでいいのか)政治的な深い意味はない。昔々若い頃、かつての恩師(学校教員)から「日本は空母を持ってるのか?」と訊かれたことがあります。今であればそういう質問も理解できますが、何十年も前の話です。しかも、学校の先生(教育者)ですよ。要するに、国防と言うものは、それほどに国民に理解されていないということです。でも、それ(国民が知らない)は仕方がない。何処も・誰も教えてないのだから。本来、「仕方がない」で済まされる問題ではないのですが。
多くの学生が共感を示すのは、拙著『武人の本懐』にも出てくる、幼稚園の教頭先生(女性)が機転を利かして園児を救った件です。教育学部に入って教員を目指している諸君にとっては、とてもいい教材・教訓になるみたいです。事の子細を要約すると:一回目の津波が襲ってくる前に、教頭は職員と園児を屋根の上に上げて、彼(彼女)らの命を救った。退役後にスケルトン状態になった同園を訪問したのですが、津波が園舎2階の1メートル半ほどに達しているのを確認できました。「(園舎前の)電柱を越えて津波が襲ってきた」と教頭は述懐しました。彼女の危機管理能力や、咄嗟の判断力が卓越しています。
多くの女子学生が、興味を示すエピソードがあります。「真水作戦(福島第一原発:原子炉の冷却水を運ぶ作戦)」において私は、実動部隊から女性隊員を外しました。勿論差別ではないし、パワハラやセクハラとも無関係です。苦渋の決断ではありましたが、被爆によって、彼女らの将来(出産等)に禍根を残さないためです。因みに、男子隊員についても、親一人子一人の隊員は降ろすよう指示しました。原発港に突入する部隊から外された女性隊員は、「なぜ自分たちが降ろされなければいけないのか? 私たちは、このような危機のためにこそ、海上自衛隊に入っているのではないのか」と艦長に食い下がった。男子隊員も含め、乗組員の総員が困難な任務に手を挙げた。長い作戦中に、私が(胸の内で)涙した一件です。そこにいた隊員の強い信念と使命感。これが、学生の琴線に触れるのだと思う。
私は指揮官として、東日本大震災における救援活動を「平時における有事」と位置付けたが、もしこれが「本当の有事(戦争或いは紛争)」であったならば、その決心はまた違ったものになったと思う。社会における女性の採用・活用は大いに拡大すべきですが、特に武力集団におけるそれは「女性の特性」を真剣に考えておく必要がある。というのが私の持論です。
私は友達のような感覚で学生に接するのですが、或る学生の所感に「先生の顔が祖父に似ていて、とても親近感を持った」 とありました。お父さんではなく、お祖父ちゃん。ちょびっとショックではありましたが、そういう歳なんだよな。はよ自覚せんかい!
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私は生来冷え性です。暑いのは何ともないのですが、寒いのは耐え難い。亡父も基礎体温が低かったので、極寒のシベリアではどれほど辛い思いをしただろうか。私の儀、若い頃はそれほどでもなかったのですが、55歳頃を過ぎてからというもの、手足の冷えが気になり始めました。現役時代、特に外国人を始め握手する機会が多々あったのですが、他人の手を握ると随分自分の方が冷たいと感じていました。ですから街中で知人や友人に会った時などは、握手するのを躊躇します。どうしても握手しなければならない、或いはしたい時には、「手が冷たい人は心が温かいんですよ」と洒落にもならない言い訳をする。それでも握手が大好きな男、困ったもんです。でも確かに、手が冷たい人と握手すると、あまりいい気はしないもんだ。
資料によると、内臓の体温=表皮体温−1℃ 程度らしい。私は(表皮)体温が標準よりも低い方なので、必然的に内臓体温も低いと推察。体温が1度下がると、免疫力がガクンと落ちると言われてますね。古稀と言うだけでなく近年のコロナ災禍もあり、何とか標準体温を一度程度上げて免疫を高めたいと思う。癌を始めとしていろんな病気がありますが、体内で病原と免疫が戦っている、と思うんだよね。免疫君がどこまで戦うことができるか、頑張れるか、現在のロシアとウクライナの戦いに似ている。国際情勢では、どちらが癌でどちらが免疫なのか? 現在のところ、世界の評価(マジョリティ)は報道等で明らかですが、小生は「どっちにも言い分はある」そして「どっちもどっち」、と考えるマイノリティ(少数派)です。一つだけはっきりしてるのは、有事における戦略的広報の重要性。
さて、またか〜と思われるかもしれないのですが、一つの「こだわり」を始めました。ウクライナ問題でも言った、自分の体の中で「力の真空状態を醸成しない」ことを目標に。即ち、口に入れる・お腹に入れるものは、基本的に温かいもの、或いは常温のものだけ(除く:夏場の少量のビール)。よって基本的に、冷たいものは食べない・飲まない。嘗める程度のお酒は、焼酎のお湯割り。歳寄りは思い込みが激しいよ。頑固とも言う。かつては、あれほど美味いパンを求めて街中を歩いてたのですが、食べないと決心した日からは「ほぼほぼ」口にしてない。この「ほぼほぼ」が、社会生活をするうえでとても重要なのです。牛乳もコーヒーに添える(カフェオレ)以外は飲まない。白砂糖は一切使わないので、何処にしまってあるのか忘れてしまった。
以前にも描きましたが、とても便利で使い勝手の良い文明の利器、電子レンジ、通称チンの使用は極力回避します。余計な電磁波を浴びたくないのと、分子がグルグル回ったものを口に入れたくないから。偏見とは分かってるのですが、遺伝子組み換えみたいな気がするんだよな。要は、神の恵みのままの状態で頂くということ。「いただきます」の心です。
冷蔵庫が出現して、人間の寿命はどれほど延びたのだろうか。食中毒を回避する、それこそ神器としての貢献度は絶大です。私が小さい頃の冷蔵庫は井戸でしたが、今では冷蔵庫なしでは生活できないでしょう。ではあるのですが、現代人は過剰に冷蔵庫に頼ってないか。我が家では2台可動しとる。おそらく何方の家庭でも、冷蔵庫は通勤電車に似て常に満員状態でしょう。中にいる人たちは、苦しくて悲鳴を上げてるはず。次から次へと押し込むものだから、最早、奥の方や下の方には何方がおいでになるのか分かりません。偶に整理すると、かなり不衛生状態の食材が出てきてゴミ箱へ直行。神器がアダになっとる。
「冷たいものは口にしない」という、極めて崇高な理念を掲げた小生は、調理をせずそのまま口に入れるものは、何時間か前に冷蔵庫から取り出して常温に戻します。別に難しい話ではありません。食事の片づけが終わった時に、次の食事で食べる予定のものをテーブルの上に出して置くだけ。夏場であっても、数時間の常温で腐ることはありません。これを実行すると不思議なことに、自然と冷蔵庫の整理ができる。温めたいものは、火を通すか湯煎にするか、或いは蒸すか。
唯一の課題は、このような生活・生き方を家族が受け入れるかどうか。別に周りに迷惑をかけるわけではない。頑固な老人がやることと諦めて、観て見ぬふりをするのでは・・・などと。こんな厄介な老人は、そのうちに厄介払いされるかもな。
風呂(バスタブ)の入り方を伝授。いろんな資料には、15〜20分間程度お湯に浸かれと書いてます。しかし、これは結構難しい。何も考えないでボ〜と15分過ごすのが癒しになると思える人はいいですが、大概の人は5分程度で飽きてさっさと上がります。私もかつては烏の行水でした。でないと、食事にもありつけない生活を長年に亘ってやってきたから。一年365日一日24時間、即応態勢を求められる者にとっては、食事も風呂もトイレも仕事の範疇だからね。で最近、いい方法を考えついた。お湯に浸って歌(歌謡曲)を3曲、1番から3番までフルで通して唄う。しかも、ご先祖さまやお猿さんに届くよう大きな声で。「もっとつ〜よく抱きしめてよ〜♪」ってな感じで。すれば、上がる頃にはポッカポカになってます。なお、これ(大声)は実家(郷里)の場合。住宅が密集している自宅では、「とうとう隣のおっちゃん気がふれたか」と思われかねないので、できるだけ大きく口を開けて口(くち)パクで結構。
下:毎日、風呂に入って温もりますが、やはりお腹の中から温めるのが一番。とにかく、よさそうなことは何でもやってみる!
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追伸 表題とは全く関係ないですが、或る方のブログから:政府の経済政策を揶揄して「栄養失調の国民に、筋トレしろと言い続ける」。笑ってる場合じゃないですが、上手いこと言うものです。現下の(国際)情勢下、とりわけこの国の安全(国防)が心配ですが、経済もどうなるんかね?
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お猿さんと遊びながら、合間合間に読み進めて読了しました。現役時にこの本を手にしてから、2回目の完読です。とても読みごたえがあります。帯に「第一級資料」とありますが、看板に偽りなし。それにしても、PC で浪費する時間を読書に振り替えて良かった、とつくづく思う今日この頃。ところで、紫禁城ってどこにあるの? あの(世界中で非難を浴びた事件で)有名な天安門のあるところ。「元」の時代に建設され、「明朝」になって改築されて、今日では博物館として現存します。因みに、同じ名前の博物館が台湾にもあります。
この本『紫禁城の黄昏』は、所謂 Last Emperor 愛新覚羅溥儀(清の宣統帝)の家庭教師を務めた英国人 Reginald F. Johnston 氏が、中華民国(当時)滞在中の事件などを認めた記録です。1889〜1931年までの、大陸(現中華人民共和国)の事情が溥儀の動きを中心に記されています。歴史は時の為政者によって都合よく改竄されますが、時々の当事者が書き遺したものを完全に抹消抹殺することはできません。そういう意味でも、この本は価値ある本です。ともすれば我々日本人は、1894年に勃発した日清戦争、1928年の張作霖爆殺から1931年の柳条湖事件・満州事変、そして満州国建設・満州帝國の建国へと、大陸という泥沼に足を突っ込み、大日本帝國が如何に悪いことをしたかが頭に刷り込まれています。これは GHQ と我が国の知識人と称される人々(何をもって知識人と呼ぶのか、私にはよく分かりませんが)、そして戦後教育のなせる業です。
勿論、大陸(特に満洲)において、多々誤った政策があったのは事実です。しかしこの本は、決してそれだけではなかったことを証明しています。これを日本人が書いたのであれば差し引いて解釈する必要がありますが、イギリス人、謂わば第三者が客観的に観察して描き残したものであることは、この本を理解する上で重要なポイントです。
本書を通じてつくづく思うのは、公務員であると民間人であるとに関わらず、諸外国と交渉或いは折衝の任にある者は、事前に相手のこと、特に交渉相手の思考過程や考え方を理解しておくのが必須の要件だということ。とりわけ事に臨んでは干戈を交える者、即ち国防に任ずる者には強く求められる資質であり姿勢です。敵国語を勉強してはいけない・話してはいけない、なんて政策や思いは完全にズレてます。日本がアメリカに負けた理由は、そんなところにもあったと思う。(仮性であれ)敵国であれば尚更のこと、相手の文化やものの考え方について学び分析する必要があります。但し一点注意を要するのは、相手のことを勉強しているうちに、徐々にそちら側に取り込まれてしまうこと。対象国の人(特に異性)と仲良くなると、良きにつけ悪しきにつけ、加速度的にのめり込んでしまうことがあります。ことは国益に関わることであり、人間だから仕方ないで済まされる問題ではありません。某役所の XX school なんてのは、その典型的な例でしょう。これはひとり公務員だけに言えることではなく、経済人についても同じです。本来あるべき、自分の立ち位置を見失うと言うこと。自分が今、何象限にいるのかが分からなくなると、任務の遂行などとてもおぼつかない。
かかる観点からすれば、この本の著者 Johnston は長きに亘って溥儀に仕え(但し師弟関係)、生活を共にしたので、身びいきな所も散見されます。しかしイギリス人特有の、情勢を見る冷徹な目は失っていないと思う。
長編の中から一点だけ抜粋します:詳細な経緯は省略しますが、1924年11月5日、皇帝溥儀は日本公使館の賓客となる。簡単に言えば、日本公使館が支那国内の軍事クーデターから溥儀を保護したということ。この件に関し、作者(Johnston)は次のように述べています。
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・・・それよりも深刻なのは、シナの新聞やその他のいたるところで、次のような容疑で日本が執拗なまでに告発されていることである。すなわち日本公使館が皇帝を受け入れたのは、日本の「帝国主義」の狡猾な策略であり、彼らは皇帝がやがて高度な政治の駆け引きのゲームで有力な人質になりうることを見越していたからだ、と。・・・日本公使は、私本人が知らせるまで、皇帝が公使館区域に到着することを何も知らなかったのである。また私本人が熱心に懇願したからこそ、公使は皇帝を日本公使館内で手厚く保護することに同意したのである・・・
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この記述は、日本によって満州帝國が建国(1934年)される前の彼の見解であり、それだけに説得力があります。その後、日本が皇帝溥儀を利用したのは間違いないが、それは結果論です。だからであろう、ソ連の入れ知恵であるとはいえ、東京裁判において彼(溥儀)は、日本(軍閥)を糾弾する証言しかしなかった。本書の訳者(中山理)は「あとがき」で次のように述べています。
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・・・この強弁(注:東京裁判における溥儀の証言)には血を分けた弟の溥傑でさえも憤慨し、日本軍閥はわれわれを利用したかもしれないが、われわれも彼らを利用しようとしたことを、どうして証言しないのかと言って、兄である溥儀のふがいなさを嘆いたという・・・
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つまり、当時の日本(主として関東軍)と宣統帝(溥儀)は win-win の関係であったと言うことです。当然のことながら、東京裁判で本書『紫禁城の黄昏』が証拠或いは参考資料として採用されることはなかったし、Johnston が証人として召喚されることもなかった。日本にとって有利な、即ち連合国に不利な証拠や証言は、完全にとは言いませんが、ほぼ封殺された。仮に採用されていても、GHQ の占領政策の一環であり、最初から結論ありきの報復裁判だから、結果が大きく変わることはなかったでしょう。ただ、巣鴨の露となったうちの、何人かは減刑されたかもしれない。
因みに、上記皇帝溥儀の実弟溥傑夫人は、嵯峨家(華族)の令嬢浩(ひろ)である。国を越えた政略結婚ではあったが、夫婦は深い愛情で結ばれていた。終戦によって離れ離れになった夫妻ではあったが、浩は戦後大陸(中国)に渡り、溥傑に抱かれて波乱の生涯を終えた。「溥傑と浩」に関しては、『流転の子』(本岡典子著:中央公論社)に詳しい。
もう一点、文中に面白い、しかし含蓄ある Johnston の見解がある。その要旨:「算盤を遠ざける者は、逆算をして誤りを探すことが苦手、或いはできない。計算を進める毎に、一算ごとの結果が消える」。過去を反省しない、歴史に学ばない人(国)を揶揄した言葉であるが、イギリス人らしい例えです。歴書を読んで勉強しても、それは単に知識の蓄積と、物知りと言われて嬉しい自己満足にすぎない。要は、先人の成功や失敗から何をくみ取り、如何に活かすかである。
本書でひとつ残念なのは、著者が英国に帰国したため記録が1931年で終わっていること。本書が満州帝國の終焉(崩壊)まで綴られておれば、我が国にとっても世界史にとっても、もっともっと重要な資料になったと思われる。おそらく、関東軍の暴走や日本政府の対応を厳しく糾弾しているであろう。
最後に、表題(本書)とは全く関係ないのですが、清と英国の間に起こったアヘン戦争は、全くもって大国(英国)の言いがかりであり、清にとっては誠に理不尽な戦争でありました。しかし、国際政治とはそういうものである、ということを我々は理解する必要があります。現在もなお、某国や某国が繰り広げている領域(領土、領海、領空)の取り合いは、100年前・200年前と基本的には変わりません。人間と言うやつは、学習しない動物ですな。
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ついに、ロシアがウクライナ侵攻を敢行しました。敢えて「ついに」としたのは、本行動は長年に亘って計画されたものであり、短期間で決定した動きではないと推察するからです。相手国(ウクライナ)は勿論のこと、米国をはじめとする NATO 諸国、中国など主要国の情勢等を見極め、或いは一部の国とは密約も交わした上で今回の行動に出た、と考えるのが国際政治の常識でしょう。国境を越えて軍を動かすからには、その程度の準備はなされているはずなのです。それでも、時に過誤や誤算は生じます。軍事作戦は絵に画いたように、計画通りに推移することはまずありません。全くの奇襲攻撃でない限り、相手も同じような思考をしているから。
いつの時にも、開戦時の最高指揮官の言動には、或る種の高揚感があります。自国民や軍を鼓舞する、そして国際社会に自分たちの正当性を訴える意味があるからです。プーチン大統領の演説には「鬼気迫るものがあった」と言われておりましたが、外野から彼ら(独裁者や限りなく独裁者に近い者)を観ると「狂っている」としか見えないものです。
1991年にソビエト連邦が崩壊すると、東欧を始めとする旧ソ連衛星国や、ソ連の軛から解放されて独立を果たした多くの国が NATO 加盟を渇望しました。崩壊後のソ連(ロシア)は、米国との軍拡競争に敗れて疲弊し、青息吐息の状態であり、西へ西へと向かう雪崩現象を阻止する力は最早なかった。北洋艦隊は予算が乏しいため電力を止められ、停泊したままの状態が長く続きました。港に多くの艦艇が所在すると、一見壮観に見えますが乗員の心と艦は腐ります。部隊は動いてなんぼなのです。
1996年の夏、北欧の勤務を終えて帰国した小生は、数年後に艦隊の中堅指揮官になり、護衛艦に乗艦してオホーツク海に入りました。東西の冷戦時代、同海域はソ連太平洋艦隊の聖域であり、そこに足を踏み入れるなど考えられないことでした。しかし我々の行動に対し、ロシア太平洋艦隊の表立った対応行動はなかった。少なくとも海面上では。かつての(ソ連)太平洋艦隊からすれば、想像もできない対応(不対応)でした。彼らにとっては、まさに冬の時代であったと言えます。ただそんな時でも、原子力潜水艦だけは、北極海で米原潜とゲーム(追いかけっこ)を繰り広げていた。どこの海軍も同じですが、限られた資源(予算)の中で優先順位をつけて行動しています。
将来ロシアに、プーチン(大統領)のような強烈な個性のリーダーが出現するなど予想だにしませんでした。しかし直感ではありましたが、ロシアの二大艦隊(北洋艦隊と太平洋艦隊)が沈黙を維持している、或いは沈黙せざるを得ない状況に陥っている時、と同時に我々が視点(正面)を南にシフトした時から、決してこの国(北)から目を離してはいけないと思っていました。腐っても鯛は鯛、いずれ息を吹き返す。国名は変わっても、決してロシアを侮ってはいけない。私の遺伝子には、中立条約を反故にして満洲に侵攻+シベリア抑留という、彼の国の蛮行が刷り込まれているのかもしれない。
ソ連が崩壊して NATO は東に拡大しました。そもそも、ヨーロッパ(西欧)の一員だと思っている東欧やバルト諸国からすれば、当然の成り行きではありました。しかし NATO が無条件で、ドンドン受け入れたわけではない。先ずはオブザーバーの椅子を準備して様子を見、準加盟で慣らし運転、そして正加盟へと段階を踏んで徐々に地図を塗り替えていった。
翻って我が国の、つい最近の歴史を概観すると、ヒタヒタと迫りくる北(露)の脅威を肌で感じるとともに、爆発的に拡大(増加)する人口問題を解決するため、大陸(満洲)に活路を求めました。大陸は果てしなく奥が深く、謂わば底のない沼地に足を突っ込んだようなもの。当時、米国は友好国ではありましたが、一方では大陸(蒋介石)を支援していた。アメリカから資源(石油)の供給を拒絶された日本は、南進を決意する。そして遂にはルビコン(真珠湾)を渡った。「周りが寄ってたかってそうさせた。日本にとっては、自存自衛のための行動(戦争)であった」、と言うのは我が方の言い分。それは、後付けでも屁理屈でもない。所謂 A・B・C・D 包囲網を、国家の生存・存続の危機と捉えた情勢認識です。この数年間の情勢判断が日本帝國を消滅に導き、そして我が国は明治維新の振り出しに戻った。現在のロシアには、これと少し似たところがある、と感じるのは私だけか。
ソ連の崩壊から30年の歳月が流れた。決してロシアのウクライナ侵攻を擁護するものではないのですが、この間ずっとロシアは西からの脅威(NATOの拡大)を感じていた(はずです)。西側の一員である、現在の我々の感覚だけでロシアの動きを推し量ると、その真意を観ることはできない。「我々(西側)は平和を希求し、人権を重視する自由な民主国家だ。ロシアは正反対の悪の帝国」と言うのはこちら側の言い分。先方がどう感じるかは別の問題です。傍若無人に振る舞う(そのように観える)、狂ったように観える如何なる国家にも、彼らが考える正義(と信じていること)があると言うこと。しかし錦の旗を掲げる場合には、世界の趨勢(動き)を注視する必要があります。百年前のやり方を、そのまま今日に適用しても通用しないこともある。どちら様も、自分たちの過去の振る舞いなど遠い昔に忘れて、時に応じて勝手なことを言うもの。それが人間の進化と言えばそうなのですが、国際世論が正義とするものは時代によって変わる。
鉄の軍隊も人間(兵)で構成されています。東郷さん率いる我が聯合艦隊は、ロシアのバルチック艦隊を完膚なきまでに打ちのめしました。日本が勝利した間接的な要因には、敵艦隊の中にも帝政崩壊の芽があったと観ます。今日では、末端の兵士までが世界中の情報にアクセスできます。かかる状況の下、各級の指揮官が大義と軍事目標を顕示し、如何に軍の士気を維持するか。戦争・戦闘における指揮官の力量は、従来に倍加して重くなっています。そういう意味において、プーチン(大統領)の決断は脆弱性を孕んでいる。
言い古された言葉ではありますが、「力の空白(真空地帯)」は安全保障上最も危険な兆候です。水は常に高い所から低い所に流れ、空気は濃い所から薄い所を埋める。しかも時に、莫大なエネルギーを伴う。残念ながら、人間が人間である限りこの摂理は変わらないと思う。ウクライナは広大な国土を有するが、まさにこの「空白(真空)地帯」を醸成したと言える。冷戦が終わって重しが取れ、平和の配当を得られると勘違いした国は他にもあります。しかし、熊が冬眠から醒める前に NATO に合流することができなかったのか? なぜ核を死守しなかった(できなかった)のか? 今回の事態は、我が国の安全保障に関し、実に多くのことを示唆している。
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以前のブログで「おやぶ〜ん、て〜へんだ!」を描きました。しかし、まさか続編を書くことになろうとは、夢にも思わんかった。
ほどなくして、大変な「骨折り損のくたびれ儲け」をしました。損保さんにお世話になりますが、くたびれた以外に儲けはなさそうです。そう、生まれて初めて肋骨を折りました。去る2月1日夜のこと。思い起こせば昨年の2月4日にも、ベッドの上で寝室の壁に布を張っていて転倒し、結構痛い目に遭いました。どうも2月と言うのは、小生にとって鬼門のようです。1月一杯は酒を飲んでポヤポヤし、そのツケが回ってくるのでしょうか。情けない老人です。
ことの顛末は、一言で言えば風呂場で足が滑って転んだ。小さい頃から不注意で怪我することが多い人間ですが、もうそういう歳なんだよなと実感。敢えて名誉のために言えば(滑って転んで名誉などあろうはずもないのですが)、何もなくてお風呂で転んだんじゃないですよ。バスタブに入る前に体全体にお湯かけて、足を洗ってそして気が付いた。そうだ、入浴剤を洗面台の上に出して置いたはず。どうでもいい、これを思い出したのが運の尽きだった。脱衣場には暖を入れてるので寒くはないのですが、足が濡れてるので・・・と思い、ガラスのドアを開けて洗面台に手を伸ばし、ぎりぎりで入浴剤を掴んだものです。とその途端、マット上の左足が滑って後方に転倒しバスタブで背中を打った、てな手順です。やっちまったな。でも今回は垂直の壁(バスタブ)に当たっただけなので、大したことはないだろうよ。それにしても、結構くるな〜〜〜。
昨年の経験に鑑み、2日ほど様子を見て痛みが取れなければ受診しようっと。ということで、三日目に念のために受診しました。レントゲン撮影の結果(映像)を観て、あっちゃ〜。綺麗にスパッと折れとる、ご丁寧に二本も。医者が「かなり強く打ってますね」だと。続けて「4週間は痛いですよ」。なななな、なに、1ヶ月も「両舷停止」なの? そんなこととは知らず、様子見の二日間は高を括って、軽くではあるけれどストレッチや筋トレ(もどき)もやったんだよね。流石にこれはいかん! 律儀な人間ってのも考えものですな。と言うよりも、まさに暴走老人。そろそろ、トラクターで土づくりをせんといかんのに・・・。今年の元旦の計(明日できることは、今日やらない)が、早速アダになった。
前回もそうだったのですが、鼻をかむ、咳をする、という動作はかなり筋肉を使います。風邪やコロナでなくても、寒い季節だから、時には「はな」も出るし「くしゃみ」もします。これがきついのなんのって。脳みそに響く。痛みを伴うことなく「はな」がかめるようになるのに二週間、咳の方は三週間近くかかった。周りの人たちは「とにかく安静に」と言ってくれるのですが、生活してるとそうもいかんよね。医者に「20年ほど筋トレやってるんですが、運動はどんなもんですか?」と訊くと、即座に「4週間はダメ!下手に動くと変に固まりますよ。完全固定には3〜4ヶ月かかります」と脅された。前回のように単なる打撲・筋肉痛ではないのだから、そりゃ修復には時間がかかるわな。
でも〜専門家の意見は尊重しますが、私はいつも動いて治す派です。初日から車を運転し(ちょっと切り返しがきつかった)、限りなく普段に近い生活をしました。神経、即ち脳が許容する範囲内で体を使う、これが改善・回復を促進する。動物の体はそういう風にできとるんじゃ、という思考に凝り固まった典型的な老人タイプです。高熱があったりすれば、動こうと思っても体が言うことを利かんからね。
米国では10年以上前から second opinion (代替治療)が盛んに叫ばれていたと思いますが、違う医者に掛かってみるというのは、言い方悪いですが面白いな。小生、自宅と実家を行ったり来たりの生活なので、最初にかかった医者に事情を話して紹介状を書いて貰いました。事故(発症)から三週間が過ぎたので郷里の病院で受診したところ、レントゲン撮影もなく、簡単な問診で終わりでした。当方としては、折れた骨がその後どういう具合になってるのか興味津々だったのですが、「肋骨は腕や足の骨と違って、時間が経てば自然に治ります。何回レントゲンを撮っても意味がありません」とそっけない回答です。生活も運動も何をやってもいいけど、重い物持って痛いと感じたら止めとけ、ってな言いぶりでした。とても分かり易い説明ではありましたが、整形外科にとって肋骨(骨折)など怪我のうちに入らないような扱いです。定番である腹巻みたいなの、骨を正常に固定するためにすると思っていたのですが、違うんだね。あれは当座呼吸が苦しい時の補助なので、もう着用の必要はありません、とのこと。幸いなことではありましたが、何とも気の抜けた受診になりました。
言われてみれば、10年ほど前に母(当時85歳)が交通事故に遭って、その時は折れてない肋骨が2〜3本でした。加えて頸椎も痛めていたのですが、それでも一ヶ月後には歩いてたもんね。人間の体ってのは凄いな。
西郷(輝彦)さんが亡くなられたのは衝撃でした。華がある、好きな歌い手さんでした。数多(あまた)いる女優さんの中でも、群を抜いて瞳がきれいな、松原智恵子さんとのコンビが良かった。確か、商船大学の学生役を演じた映画がありました。『若鷲(予科練)の歌』も唄ってましたね。白い制服がよく似合う歌手であり、俳優さんでした。彼の歌には「星」がよく出てきますが、どの星になられたのでしょうか・・・。昭和を彩ったスターが、ポツリポツリといなくなるのは寂しい。合掌
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本編の主人公である太田孝一海軍少尉は、米国(カリフォルニア州)に移民した両親の元に誕生した日系二世です。彼(太田少尉)は慶応大学留学中に日米開戦、帰国の機を失し学徒動員で帝國海軍に身を投じます。海軍ではその英語力(国語)を活かして、米軍の暗号解読と無線聴取に任じます。その最期は大和乗り組みとなり、日米二つの祖国に殉じて24歳の命を散らしました。
本編では太田少尉の為人とともに、帝國海軍による真珠湾攻撃に対応して米国が採った、日系移民に対する理不尽な「強制隔離」に多くの紙数を割き、その非人道的な政策を糾弾しています。米国の対応は、大国かつ民主国家アメリカの一大汚点であり、歴史に残る愚策と言えるでしょう。日系一世の最大の苦悩は、米国に移住後ゼロから出発して、爪に火を点すような生活をして構築した、生活の基盤が瞬時に崩壊したことではない。むしろ、二つの祖国の谷間で揺れる忠誠心と、戦争によって喪失しつつある自らのアイデンティティにあったと思われます。両親や親族は故国日本にあり、一方で子供たちは英語を話し米国人として育っている。この狭間にある立ち位置の難しさ、彼ら自身の心の在り様にこそ一世の苦悩の根源があったと推察します。
かかる状況下、日系移民の米国に対する忠誠を実証せんとし、そして両親(一世)の苦悩を打開するために二世が立ち上がりました。日系二世だけで編成された米陸軍「第四四二部隊」。同部隊は欧州戦線に投入され、多大の犠牲を出しつつも武勲をたてました。我が日本軍と日系部隊、それぞれの思いや目的は違っても、両者に流れている日本民族の血が彼らをして戦場に駆り立てたと言えます。これはひとり戦闘に就いた男たちだけではなく、それぞれの銃後を護った女性にも言えることです。
昭和44年(1969)4月7日、徳之島において営まれた第二回戦艦大和慰霊祭に参列した太田少尉の母(節子さん)の言葉。「私はあの子に厳しすぎました。私たちがどんなに平和の日を祈っても、あの子に平和の日は戻ってまいりません。・・・ここでこうして、あの子に、心からお詫びができますことを、有難く存じます」。カリフォルニア大学に学んでいた長男(孝一)に、慶応大学留学を勧めたのは母でした。戦時中、中立国スイスを通じて孝一に宛てた手紙には、短く「職務にベストを尽くしてください そして一しょに平和の日を祈りませう」と記されていた。それは異国にある母が、万感の思いで書きつけた言葉でした。彼は母の手紙を握りしめ、「大和」のハンモックで嗚咽する。孝一は母の口癖である「常にベストを尽くす」を厳守し、両親の母国、帝國海軍少尉としてその短い生涯を終えた。
第3部「戦艦大和ノ最期」
戦後間もなくに上梓されたこの作品は、軍国主義・軍国精神を鼓吹しているとの批判に曝されました。GHQ の検閲にも引っかかったと仄聞します。米軍・米国の占領下にあり、戦争で疲弊している当時の国民感情からすれば致し方なかったかもしれない。しかしどう読んでも、この作品が戦争を肯定したり、間違っても戦意高揚に寄与しているとは思えません。戦後多くの知識人が、戦争に加担したとの自戒を標榜してGHQ に迎合した。浅学の身で僭越ではありますが、彼らの思考の貧困を想います。本書に対する私の受け止め方は、戦争の悲惨さを赤裸々に著しつつ、非力な個人が戦争・戦闘に飲み込まれた時に、どうあるべきか・どう振る舞うべきかを示唆している、とみます。そして今日の我々にとって重要なことは、歴史から何を学ぶかでありましょう。戦争と平和、生と死の葛藤、この重い命題を著者は『鎮魂戦艦大和』を通じて煩悶しています。一つの指針・方向として、彼は「進歩」を提示している。果たして戦後の日本・日本人は、科学技術の他には、如何なる進歩を果たしたであろうか。そして豊かになった。しかしその精神性はむしろ、後退しているようにさえ思えるのだが・・・。
近年、安全保障や国防の専門家は、こぞって台湾海峡の危機を論じています。その多くが、台湾海峡の危機は必然的に我が国に波及する、とするもの。現今の隣国(大陸)の動きを観れば、蓋然性はなきにしもあらず。その情勢判断は間違いではないが、しかしかつての半島情勢に似てかなり甘い判断だと思う。我々はより主体的に、現下の情勢を観る必要があります。危機を煽るわけではありませんが、尖閣・沖縄を含む南西諸島は台湾よりも、よほど蓋然性が高い、と私は観ます。なぜか? いろいろ理由はありますが、その一つとして我が国政治の脆弱性にあります。国軍の文民統制を担う政治の力量は、軍(自衛隊)の戦力発揮に直結します。もし南が来たら、間違いなく北も呼応する。ついぞ数十年前、何万人の同胞が奴隷の如く凍土に伏したことを、我々はゆめゆめ忘れてはいけない。この(ソ連共産党の)暴挙は、先に述べた、米国における人種差別や強制隔離の比ではない。そして、虎視眈々と日本を狙っている半島も動く。その時日本は、二正面・三正面作戦を強いらることになる。
このような大規模侵攻よりも、より蓋然性が高いのは、所謂グレーゾーンの事態です。そもそも、この「グレー」という言葉自体が曖昧で怪しい表現です。無人島の一つくらい取られてもいいじゃないか、といった国民の感覚を惹起する恐れがある。近所の火災にばかり気を取られていると、足をすくわれることになりかねません。国家が独立を維持できる最低限の、でありながら最も強力な抑止力は「国民の覚悟」と「物理的・具体的な備え」です。台湾には、少なくとも「覚悟」を観ることができる。国際政治という土俵には、お花畑はないのです。
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で、ここらで一服:
毎年、年末か年始ごろに健康診断を受けることにしています。中小企業が加盟する協会健保です。私は現役の時から健診優等生で、とても学校の成績では取れなかった「A」のオンパレード、小学校以来のオールAです(小学校の評価は数字の5段階でしたが)。ですが現役時には唯一、いつも尿酸値だけが基準値ギリギリでした。A'てな感じかな。しかしこれも、退役してからは自然に消滅した。理由は分からないのですが・・・もしかしたらストレスと何か関係があるのかな。因みに、過去の検査データーは平成11年からファイルしてあります。時折これを見るのって楽しいし、自分の体と健康状態の推移を見るのにとても有効ですよ。
で先般、今回の健診結果が郵送されてきました。勿論、今回も all A 。しかし、データーをよく観ていてアッと驚いた。ここで、「おやぶ〜ん、て〜へんだて〜へんだ〜!」とハチが飛び込んできた。大川橋蔵さん扮する銭形(平次)親分は、「ハチ、落ち着いて言ってみろ」。それにしても橋蔵さん、男前だったな。ああいう顔立ちの俳優さんはいないな、今は。
さてさて、記載されたデーターによると背が縮んどる。この病院はよくできてて、過去2年分のデーターも併記されてます。昨年までは、結果が来ても「オール A 」で気にも留めてなかったし、多少の変化は測定器や姿勢による誤差だろうと軽く考えてました。でもよく観ると、過去2年も数ミリだけど値が小さくなっとる。これは、足が短かくて70年間劣等感を抱き続けてきた、小生にとって由々しき問題です。あと15センチ足が長けりゃ日活に行けたのにとか、ほうれい線がどうしたとか、最近写真うつりが悪いなんて嘆いている場合ではありません。昔、村の若い衆が父のことを「おっさん、最近こんもに(小さく)なっとるぞ」なんて噂していたのを想いだしました。別に背中が曲がっているわけではないんですが、歳が寄ると本当に小さくなるんだね。データーをもって現実を突きつけられ、かつて陰毛に白いものを発見して以来の衝撃的な事件でした。
でも評価は A のままなので、どうしようもないこと、病気ではないってことでしょうか。或いは、何かの兆候なのかな。ストレッチも筋トレも、継続してやってるのに。次回(年末)の健診時に、医者に訊いてみよう。ぶら下がって背骨が伸びる訳でもないでしょうが、庭に鉄棒を設置しようかと真剣に考えている自分がいます。勿論 DIY で。せいぜい背筋を伸ばし、胸を張って歩くくらいしか対応策はないのかな・・・。
話はコロッと変わります。
昔は小生の故郷(バスも来ないオンゴクと言われてました)でも、サルを見ることができのは遠足で動物園に行ったときだけでした。その猿が軍団で実家周辺に姿を現しだしたのは、20年ほど前からでしょうか? たまの盆や正月に休暇で帰省すると、母が「多い時には20〜30匹来るんや。そりゃ喧しいで」と言ってたのですが、実態を知らない私は「そんなアホな。話を盛って!」と信じてなかった。しかし今や、それが日常の風景になってます。山を下りてくる頻度は、夏よりも冬が多い。丁度今の時期です。風がないときに山の木が揺れてると、それは軍団が来訪しつつある証です。降りてきても田畑には食べるものはないのですが、よく観察すると雑草の実を食べてます。それほど山には食糧がないのでしょうか。可愛そうやな。庭にある熟したキンカンとスダチは、きれいさっぱり無くなりました。いずれも、実が青い時には手を出さないんだけど。因みに、スダチは冬が来ると蜜柑のように黄色く熟して甘くなります。とても水分が多いので、私も時々捥いで食べます。
例年に比べて、今年はやけにチビが多い。お猿さんチームは精を出したんだね。人間も負けずに頑張らんと、そのうちに攻守交替して猿の惑星になりまっせ! 子ザルといえども、動きは速い。冗談で「コラ!」って言ったり、或いは私の姿を見つけると、潮が引くように一斉に山に駆け上がります。なかには、食糧を口に咥えたまま去る(猿)強者もいます。勿論、一喝して私が家の中に入る頃には、再び降りて来てます。この距離感、間合いが絶妙で笑える。決してなつきはしませんが、司令官を舐め切っとる。それにしても、野生の動物は活力がありますな。生存と命に直結してるからね。とにかく、「○○さんちの柿が熟れた」とか、「○○さんく(「く」は誤字ではありません。讃岐の方言です)のキンカンが黄色くなった」とか、帳簿を持ってるのかと思うほど適時に襲来するのです。行動範囲も3〜5キロメートルほどあるようだ。
人間も少し見習わんとな!
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第一部:『臼淵大尉の場合』は、21歳7ヶ月で国家に殉じた臼淵(磐)さんの短い生涯が、家族(ご両親と妹さん)を含めて丁寧に描かれています。彼(臼淵大尉)は文学や哲学、そして音楽・美術をこよなく愛した青年でした。著者の吉田さんは、臼淵大尉を「ロマンチスト」と評している。海軍兵学校生徒の期間を含め、海軍に身を投じてから散華するまで自分の流儀と意志を貫いた。海兵出身の職業軍人には稀な将校でした。大和に乗り組んでいる、兵学校出身であると学徒(海軍予備学生)出身の士官であるとを問わず、若年士官総員の衆目と尊敬を集めた所以でありましょう。
本編で今回新たに発見した(勿論、50年前にも読んではいるのですが、小生の記憶に残っていなかった)のは、彼(臼淵大尉)の父親は海軍機関学校の出身であり、将来の海戦における航空機の優位を看破していたこと。彼(父親)は機関学校の22期生ですから、兵学校・機関学校の違いはありますが、拙著の主人公である樋端(久利雄)さんより10期ほど年長になります。海軍大学校を優秀な成績で修了し、その後にはカタパルトの研究で恩賜賞を受賞したにも拘わらず、中佐で予備役になっています。ジェット機の出現や航空機の自動操縦を予測し、爆撃機による大都市絨毯爆撃の効果を数的に提示した。このいずれもが、私には樋端さんと重なります。飛行長として中国戦線に参戦し、絨毯爆撃を実証したのが樋端さんです。もしかしたら、両者には面識(接点)があったかもしれません。
そして臼淵さんは大胆にも、帝國陸・海軍の「航空の統一」を強力に提唱した。時代が彼に追い付かなかったと言えばそれまでですが、先を見通すことができて自説を強行に推進しようとする人が、旧態然(所謂大艦巨砲主義)とした上層部から危険視され、排除の憂き目にあうのは組織としてありがちなことです。あたら有為な人材を若くして予備役に編入させるからには、強烈な個性やそのやり方など、他にも問題があったのかもしれませんが、帝國海軍にそれだけの懐がなかったことは間違いありません。父の背中を見て育ったからか否かは不明ですが、息子(磐)さんは艦隊勤務花形の職種である、硝煙の匂いを嗅ぐ鉄砲屋(砲術)の道を選んだ。しかし最期に彼が、海上特攻の意義づけとして遺した言葉、「進歩のない者は決して勝たない。・・・日本は進歩といふことを軽んじすぎた。・・・敗れて目覚める。それ以外にどうして日本が救われるか。・・・日本の新生にさきがけて散る。まさに本望ぢやないか」。この言葉は、海軍で不遇をかこった父親に宛てた遺言のような気がする。
「大和」の出撃を前に、臼淵大尉は帰郷(横浜:保土ヶ谷)します。久し振りの家族団らんの夕食を終え、みなが寝静まった頃、彼は自室でハーモニカを手にする。小さな音色で、母が好きな曲を繰り返し吹いた。隣の部屋でそれを聴いていた母は、出撃について何も語らなかった息子が、暇乞いのために帰省したことを悟ります。
この編で一点だけほっこりさせるくだりは、母親のきみさんが戦後の述懐で「磐もいい男だって騒がれたようですが、海軍さんなら、あのくらいの男前でなくてはね」。
―次回に続くー
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ー前編『明くる年の計は年末にあり』から続くー
4 朝イチで白湯を飲む+コーヒーは一日に二回:
水を一日に2リットル飲め、と言うことをよく聞きます。しかし飲料として摂取する水分と、料理や食べ物に含まれる水分が合計で如何ほどになるのか、素人には測り様がありません。私は朝起きて排尿し洗顔すると、先ずはコップに一杯の白湯を飲みます。朝一で刺激のあるものをお腹に入れるのは宜しくないとのことですので、白湯が一番いいと思います。白湯には極々少量のナトリューム(塩)を添加します。これで、内臓たちに「総員起こし」を令するのです。
白湯をゆっくり飲みながら、一日二回分のコーヒー豆を挽きます。この一挽きひとひきが実にゆったりとしていて、今この瞬間を生きていることを実感します。それをフィルターで濾します。そして、薫り立つコーヒーには勿体ないのですが、牛乳をちょっぴり加えていただきます。牛乳はコーヒーの刺激から胃を保護するのが目的ですから、上等なミルクでなくてもいいのです。これを嗜む時間は人生至福の時です。スーパーで売っているパック入りの牛乳、コーヒーに落とす以外は飲みません。あれって「牛乳」と言えるんかな。遠い昔に飲んだ牛乳と、かなり味が違うと思いませんか? 加工肉と同じで、生産・加工の過程を通じて、牛さんから出てきたものとは似て非なるものに変質しているような気がしますが・・・どうなんでしょう?
因みに昨年末、「年末年始には、牛乳を一杯余分に飲もう!」なんて喧伝してた人がいます。牛乳の生産者を保護するためには、それも大切なことかもしれませんが、(農家さんをはじめ関係者には誠に申し訳ないのですが)あんたには他にもっとやるべき大事なことがあるんじゃないのかい。牛乳を飲まんでも国は無くならんよ。この御仁、就任後やることなすことズレまくり! この代表で日本は大丈夫かいな、ホンマに。
もう一点、結構有名かつ値段もしっかりしているレストランで、食後のコーヒーに、小さなプラスチックに入ったミルクもどきのもの( fresh と呼ぶのでしょうか、何で fresh かよう分からんけど)を添えて出されると、(私の場合ですが)折角美味しかった料理やお酒や、愉しかった会話が何処かに飛んでしまいます。あれを見ると、テンションが一気に萎えてしまうんだよな。スーパーで売っとる牛乳でええけん(いいから)、小さなミルク・ピッチャーに入れて持ってこんかい! そっちの方が安上がりでしょうに。あれこそ、絶対にミルクとは言えんでしょう。でも確かに「ミルク或いは milk 」とは表示してないんだよね。coffee fresh とか creamy とかって描いてます。外国にもあるのかな、こんなの? 見た記憶がないけど。
5 排泄は自然に任せる:
三日間ほど、排尿の時間(時刻)と量を計測しました。歳がよって頻尿、多尿ではないかと思ったからです。資料によりますと、頻尿とは1日に8回以上、多尿は40X体重cc / 日 以上の排泄を言うらしい。正常な人の尿量は、200〜500cc / 回、1000〜2500cc / 日 だそうです。たった三日ですが、検証の結果はいずれも「正常」の範囲内でした。よかった、よかった。ですが、夜(就寝中)に1回でもトイレに行くと、それは夜間頻尿だそうな。これを、何とかせないかんな。
因みに、哺乳動物が小用をたす時間は、体の大小に関わらず平均21秒 / 回 だそうです。これ即ち、四つ足の生き物の膀胱と排管の径は体重に正比例している、ってことになりますな。鯨はどうなんでしょうかね? どうでもいいか!
大にしろ小にしろ、排泄はごく自然にもよおすものであり、むりやり押し出すものではありません。動物、特に人間の体のコンピューターはとても精巧にできてるので、排泄はしたいときにするのが最も理に叶っていると思う。便所でうんうんキバったら、体にようないで! 勿論、薬に助けてもらうのも。最も理に叶った排便の姿勢については、以前のブログで描きました。重要なのは一日に一回排泄することではなく、自分の体を動物の原点に戻すこと。そのような食事を摂り、適度な運動をすることです。要するに、生活習慣を改善するってことだな。
6 ストレッチ・筋トレ:
ストレッチと筋トレは、15年以上前から私の日課に組み込まれています。ですがリズムを整えるため、そして長く続けるために土・日はやりません。祭日は盆・正月でもやります。何事もノルマでやると長続きしませんし、むしろストレスが溜まってマイナスの効果さえあります。そして、人間には休養を含めたリズムが不可欠です。長期間無理をすると、どこかに無理が出てきます。特に高齢者は、気を付ける必要があります。いつまでも若いつもりでいると、自分で自身の足をすくうことになりかねません。分を知るということは処世訓であると同時に、人間が生きていく上での知恵でもあると思うのです。
小生の例は夕食前に、ストレッチX15分、筋トレ(スクワット+腕立て伏せ+腹筋運動)X30分です。実に爽快です。ああ、そうかい!
古稀を生きる、令和4年の大戦略は「明日できることは、今日しない」。これなら、意志が弱い小生でもやれそう。
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さてさて、来年は古稀です。早送りのように、時間が過ぎゆきます。時此処に至っては、如何にして現状を維持するか、あわよくば多少なりとも知力・体力の改善ができれば有り難いとの下心あり。と言うことで、令和4年の計として次を掲げます。
1 これはとても難しいのですが、朝・起床後の1時間及び夜・就寝前の1時間は、PC・スマホを開けない・見ない。PC の使用は原則として、業務と情報収集及び短時間の娯楽(映画や音楽)に限定する。
2 上記で空いた時間には本を読む。
3 主食をパンからご飯(お米)に転換する。副食を肉から魚(魚類)に変える。
4 起床後に白湯を飲む。コーヒーは一日に2回(午前・午後)限定とする。
5 排泄は自然に任せる。大x1回・小x7回 / 日を標準
6 そして継続もの:週日のストレッチ・筋トレ
1 人間の進歩・技術の発達によって、とても便利な世の中になりました。事前に調整さえすれば、世界中(先進国)の友人や家族と顔を見ながら話をすることができます。ただ、交換する全ての情報は誰か(あっちの方の人)に取られている、見られていることを前提とする必要があります。また多少のリスクはありますが、わざわざ店(実店舗)に行かなくても、ポチッで安価に買い物ができ、玄関で受け取ることができます。しかしながら、何事もそこそこ中庸が大事。近頃、小生も結構なスマホ & PC 中毒になっているとの危機感がありました。これらは現代人の、謂わば麻薬みたいなものです。先ずは目に悪い。そして安眠を阻害する。熟睡・安眠できないということは、あらゆる健康上の問題に関わってきます。勿論、お肌にも。或る皮膚科の先生(女医さん)は、寝室には絶対にスマホを持ち込まないそうです。それほど体に良くない、ということでしょう。
新しい技術とは、賢く付き合う必要があります。ニュースや音楽を聴くのは、もっぱらスマート・スピーカーにしました。これは目が疲れないばかりか、皿洗いや洗濯など室内でする作業もできるし、ラジオ各局も聴ける優れものです。因みに、くだらんテレビからラジオへの転換は、かなり前に終わってます。何かと話題を提供してくれる NHK に、受信料を払うのがバカバカしくなります。更に電磁波に関しては、調理用の IH コンロは近いうちにガスに変えるつもりです。勿論 IH や電子レンジはとても使い勝手がいいのですが、最少の使用に限定します。真偽のほどは分かりませんが、アメリカの IH の普及率は1% 以下と聞きました。在米の知人に訊いてみましたが、やはりご自宅はガスだそうです。しかも、IH の殆どんは船舶での使用らしい。船の上では、火は使いませんから。海上自衛隊の艦艇も、薪は当然ですが調理にガスは使いません。
少し暖かくなったら、薪を使う「かまど」にも挑戦しまっせ。なんせ燃料は、裏の山に行けば、それこそ山ほどありますから。防災士の観点からすれば、生きていくための選択肢は多い方がいい。実家(田舎)の確保と維持は、その一環でもあります。西か東か、必ず大震災はあります。
2 新聞はその本分や役割を見失って迷走しており、或いは頑なに妙な方向に走っているので、遠からず消えてなくなると思います。100〜200年後には、化石のように思われてるんじゃないかい。しかし、紙媒体の本は無くならないと思う。何故かと言うと、人間の知識欲に根差しているから。勿論、中身で淘汰はされるでしょうが。三冊の本を上梓して以降、きちんとした本にはトンとご無沙汰でした。多分、執筆という作業と活字を見ることに疲れたのでしょう。時折「先生」と呼ばれると、身が縮まる思いがします。
そこで、年明けから一念発起です。取り敢えずは、数少ない蔵書を再度読み進めることにします。殆どの本は終活の一環として処分済です。どうしてもこの本は捨て難い、或いは自分がいなくなっても誰かが読んでくれたら、と思える数十冊しか残っておりません。先ずは手始めに『平家物語』から。勿論、現代語の訳文付きです。我々の先人は偉いね。千年前にこの大作を描き残している。今であれば、間違いなくノーベル賞もんでしょう。綴りは勿論のこと、企画・構成・描写の何れもが一級品です(と専門家の先生が言ってました)。その次は、台湾海峡・東支那海の波高い今日、老兵の背筋を伸ばすため、私の原点である『戦艦大和ノ最期』を読もう。その次には、日本人の矜持を思い起こすため『紫禁城の黄昏』にいきます。勿論、日本がやったことで駄目なことはダメで、反省することに躊躇してはいけません。ですが、国際政治では「反省」と「お詫び」は使い分けるべきです。
因みに、先般お亡くなりになった四国出身の某作家さんが訳された『源氏物語』。さらっと読めて娯楽としては面白かったけど、随分前に処分しました。なんであのお方がもてはやされるのか、私には理解不能です。
3 調理方法は「煮る」「茹でる」「蒸す」で、かつスローフードを基本にします。調味料は味噌、醤油、ごま油、オリーブ油などを厳選したいが、上を見ればキリがないので大蔵大臣と要相談です。基本的に、白砂糖は使いません。ちょっと過激な発言をすれば、白砂糖は同量の覚せい剤に相当する。或る友人にこの自説を言うと、ショックで落ち込んでました。申し訳ないことをしました。
揚げ物や焼き物は最小限に抑える。かと言って、肉やパンを全く食しないと言うことではありません。一週間のサイクルで言えば、ごはん(米):パン:麺=5:1:1、魚:肉:野菜のみ=5:1:1ってな感じかな。魚は白身よりも赤身など色付きのもの、一匹丸ごと食べられる煮干しなどを中心に。「ワインにいりこ」なんて、カッコよすぎる〜。お米のご飯には麦を少々。米を砥ぐのは一回だけ。農家さんの長靴の跡が取れればOKです。貴重な栄養分を、捨ててしまっては勿体ない。ご飯は少し堅めに仕上げる。平家が源氏に敗北して滅亡した一因は、軟らかい飯に慣れてしまったこと。『平家物語』には描かれてないけど、珍説ではありませんよ。軟らかい飯ばかり食べてると、顎の筋肉だけでなく、性格まで軟弱になるということだ。徳川家康は麦飯しか食べなかった、との説があります。なぜ? 知りたい方は自分で調べてください。
毎日必ず食べる食材は、納豆、卵、ヨーグルト+バナナ、自家栽培のパパイヤ( MIRACLE GREEN:2年がかりで特許庁の認可が下りた。役所は何やっとんかね)ってとこかな。常備するのはニンニクと生姜。勿論、野菜は every day every time。とりわけ、青パパイヤは食材の王様です。パンなどの加工品には、多量(過剰)の調味料が使われている(と推察)。だから、口にすると美味しく感じるんだよね。日本人の舌は、加工品に飼いならされておる。甘味は基本的に、食材(果物やさつま芋など)や蜂蜜から摂取します。白砂糖をふんだんに使った、人の手によって作られた甘いもの(お菓子、ケーキ、饅頭など)は、ちょっと横の方に置きます。例外的に、コース料理のデザートや、他人様からの頂き物は美味しく頂きます。作ってくれた人や、贈って下さった方に感謝の意を込めて。上記方針は、自分で料理する(と言うのもおこがましいですが)場合のことです。食事を作ってくれる人に、こんなややこしいことを要求してたら、張り倒されますわ。
さても、これらを実践して老兵がどうなるか、結果は怪しいものです。君子は豹変するので、好い子は決して真似をしないで下さい。
〜年を越して後半に続く〜
何とも締まりのない締めになりましたが、FBF 各位、拙稿をお読みくださっている皆様、佳いお年をお迎えください。そして、明年も引き続きご交誼を賜りますよう、宜しくお願い申し上げます。暴走老人は来年も元気で、そして遅々として前に進もうと思っております。いよいよ古稀か〜感慨深いものがありますな。
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