過労死

2017.01.26 Thursday

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    一昨年の暮れ、「電通」において大変痛ましい事件がありました。最高学府を出て仕事に就いたばかりの、前途洋々の若者が仕事に疲れきって自ら命を絶ちました。将来ある若者を救うことができなかった、関係者の責任は重大です。いくら詫びても社長が引責しても、亡くなった人は二度と帰ってきません。

     

    日本のシンクロ界に、鬼コーチと言われる人がいます。そう、あの有名な井村さん。井村さんの教え子たちの間には、井村語録というのがあるらしいです。テレビの番組で見ました。

    1.(先生、もうダメです)あんたら血の小便でたんか!

    2.(死に物狂いでやりました)死んどらへんやないか!

    う〜ん。笑えるけど、どう見てもこれはパワハラですわな。でも、日本国中で彼女のことを賞賛さえすれ、だれひとり悪く言う人はいません。非難する声など聞いたことがないです。そして選手は、泣きながらでも先生に食らいついていく。

     

    電通とチーム井村、何が違うのか?スパルタ方式で、赫々たる戦果(成果)を上げてきたのは同じです。

    井村さんは言います。私は「常に一人ひとりの限界を見ています」。彼女の自信が言わせる言葉です。それよりも何よりも、井村さんには生徒(選手)に対する愛情があると思う。部下を鍛えることとパワハラは紙一重です。ではその分岐点はどこか。私は指導者に「この子を育てたいという気持ち」、即ち、愛情があるかないかだと思っています。軍事組織の場合、表面上の優しい上官は、部下を殺すことにつながりかねない。そこが難しい。

    本来の目的やゴールを忘れると、物事はとんでもない方向に転がり出します。組織が大きくなればなるほど、転がるエネルギーは大きい。必然的に、世の中に及ぼす影響も大きい。

     

    手前味噌になりますが(いつも手前味噌でスミマセン)、拙著『指揮官の条件』で、「厳しさは優しさである。優しさは厳しさにはなり得ない」と描きました。現役時代、いつも腹に収めていた言葉です。僭越ではありますが、井村さんはこの言葉を地でいってると思う。表彰台から降りた選手は皆、鬼コーチに駆け寄って、獲得したばかりのメダルをコーチの首にかける。相好をくずす井村さんの顔は、何回見ても母親そのものです。しかし彼女は、喜びの余韻に浸ることなく、頭の中では直ちに次を見据えている。「なぜ勝てたか」、そして「何が足りなかったか」の分析にかかっている。お会いして聞いたわけではないが、そう思う。

     

    電通を叩くのは簡単ですが、重要なポイントを見逃してはいけない。電通を庇うわけではありません。

    この事件によって、懸命に仕事をすることや残業が、さも悪(アク)のような空気が日本中に蔓延してはいけない。勿論、残業や超過勤務に対して、相応の報酬・対価が支払われるのは当然のこと。日本人の仕事に対する熱意や、会社など組織に対する忠誠心が、今日の我が国繁栄の基盤になっています。他人(ひと)と同じ程度働いて、他よりも多く儲けようというのは虫が良すぎる。スポーツも同じです。周りの競争相手と同じようなレベルの練習をして、一流になることはないですよ。

     

    かつて、仕事をノルマとしてきた国・国民がありました。一時は世界を席巻した。基本的な理念がどうであったのかは知りませんが、結果的に絶対多数の国民は与えられたノルマをこなした。正確に言えば、人民は仕事ではなく労働をした。仕事は頭を使いますが、ノルマとしての労働は汗をかくだけです。その結果どうなりましたか?ノルマさんは国自体が破綻しましたね。競争という人間の本質を無視した考え方、やり方だったからじゃないでしょうか。

     

    制服自衛官の勤務は、一日24時間が基本です。これは、国家・国民に対するサービス(奉仕)です。国を守るということは、そういうことなんです。かと言って、人間が寝ずに働けるわけでもありません。勘違いされては困りますが、制服を着ている人は鉄人ではありませんよ。彼らも人間ですから、時には心が折れることもあるでしょう。私はそうでした。挫折の連続でした。

     

    人間が正常な判断力を維持するためには、勤務(仕事)と休養の適正なバランスが必要です。生きていく上での、最低限のリズムを無視すると人間は壊れます。組織の管理者は、そこのところを正しく認識しなければいけない。管理者の重要な仕事であり、役割だと思います。

     

    部下の人格や人間性を無視した「いじめ」など、リーダー(管理者)としては下の下です。

     

     

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    真珠湾(パールハーバー)

    2017.01.12 Thursday

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      昨年末、安倍総理が真珠湾を慰霊訪問されました。時機を得た、画期的な訪問であったと思います。

       

      日本のメディアは、現地における総理のスピーチを、「おわび=謝罪」にフォーカスして報道していたように見えました。オバマ大統領が、広島を訪問されたときも同じでした。この国のメディアは、とても、とても「おわび」が好きなようです。何を目的としてそうするのか、門外漢の私には分かりません。発信(報道)するからには、何か意図するところがあるのでしょう。まさか、日本に「おわび」を求め続ける国に、おもねてのことではないと信じたい。でも、その道のプロなのですから、もう少し国際情勢や国際常識を正確に認識されては如何か。などと市井の民は思います。

       

      海上自衛隊の艦(ふね)は、しばしば真珠湾(パールハーバー)を訪問します。私も現役の時には何回も、公式に訪問、非公式に寄港しました。偶然ではありますが、一時期、訓練寄港や公式訪問が重なって、国内の小さな基地よりも多くの艦が集結したこともありました。公式に訪問する艦隊は、入港手前の水道において「アリゾナ」に敬礼、岸壁に横付けした後、記念艦アリゾナを慰霊訪問して国難に殉じた米国の戦士を讃え、そして平和を祈ります。慰霊訪問する我々には、国家に殉じた軍人を敬う「こころ」があります。

       

      その心に、かつての敵味方は関係ありません。同盟国だからでもありません。しかも、我が艦隊がこのような儀式を行うのは、米国に限りません。世界中のどこの国を訪問しても、例えば「英雄の塔」のような、その国の戦士を祀っている記念碑に詣り、指揮官が献花、兵士(隊員)は頭を垂れます。それが世界の常識です。

       

      先の大戦に参加して、日本軍と死闘を繰り広げたベテラン(退役軍人)を含め、現在のアメリカ国民が、真珠湾を訪れた日本の総理に謝罪を期待するでしょうか。私には、とてもそのようには思えません。

      やれ「おわび」・・・謝罪ありきの思考。なんかピントがずれてないか?

       

      下衆の勘ぐりかもしれませんが、謝罪を求める裏には、多くの場合補償が隠れているような気がします。個人の場合には、そうでないケースもありましょう。「おわび」さえしてくれれば相手を許す、許容できる人もいる。しかし、謝罪を補償のテコとして利用するのは、人間としてさみしい。そのような人は、他人(ひと)様から尊敬されることはない。

      ここの(基本的な)ところは、個人であっても組織であっても、また国であっても同じだと思うのですが・・・。

      正月から情けない話になりました。

       

      山本五十六は幼少の頃、「歩くときには、三本先の電柱のてっぺんを見て歩け」と躾られたと聞きます。私も今年は、そんな生き方をしたいと思っています。

      もう手遅れかも(笑)

       

       

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