日英同盟

2017.09.28 Thursday

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    今日もちょっと堅い話。出自が出自ですので、つい堅い話になっていけませんや。

     

    先日、英国のメイ首相が来日し安倍総理と会談しました。ややこしい国から発射されたミサイルが我々の頭上を飛び交う今日、日英の首脳会談は多くの成果があったと推察します。なかでも、小野寺防衛大臣がメイ首相を護衛艦に案内している報道があり、大変嬉しく思いました。とても意義ある、歴史的な出来事です。東アジアや朝鮮半島の情勢が混沌としているこの時期に、英国軍の最高指揮官を我が国最新鋭かつ最大の護衛艦に招くという、安倍総理(官邸)の外交センスが素晴らしい。戦後、歴代の政権では見ることができなかった着意着眼ではないでしょうか。誠に僭越ですが、現政権は海軍とは何か、即ち海軍力の意味を理解している。総理ご自身の感性は勿論のことですが、これを進言する、或いは進言できる優秀なスタッフを抱えているのだと思います。

     

    私が海上自衛隊に入って駆け出しの頃(昭和57年:1982)、フォークランド紛争がありました。メイ首相が「いずも」で儀仗を受けている姿をテレビで観て、毅然としてアルゼンチン沖に艦隊を派遣した鉄の女、サッチャー首相を思い出しました。これは単なる感傷です(笑)。その後、海上自衛隊の大先輩が「フォークランド紛争の教訓」と題する論文を纏めておられますが、我々は英国及び英国海軍の、同紛争への対応(国家戦略から戦術まで)から多くのことを学びました。

    とりわけ、短時日の間に商船(タンカー)を仮性の空母に改造したことが、強く印象に残っています。アンドルー王子 がヘリコプターのパイロットとして従軍されたのも、青年士官の私には大きな驚きでした。まさにノブレス・オブリージュ(noblesse oblige)。

     

    日本とイギリス(英国)の間には、皇室をはじめとして長年にわたる友好の歴史があります。帝國海軍並びに海上自衛隊と英国海軍も、その一翼を担っていると思います。戦火を交えた、不幸な時期もありましたが。

    帝國海軍は、その思想(考え方)や技術をイギリス海軍に学びました。そして、戦後の海上自衛隊は、アメリカ海軍の文化を吸収しました。即ち、今日の我々(海自)の文化は、イギリス海軍とこれを咀嚼した帝國海軍、そしてアメリカ海軍の文化が融合したもの、と言うことができます。草創期の我々(帝國海軍と海上自衛隊)にとって幸運だったのは、実はそれは先達の先見によるものですが、時の世界第一級の海軍、即ち帝國海軍はイギリス海軍を、海上自衛隊はアメリカ海軍を先生にしたことです。当代一流の先生に学ぶのと、そうでない人から教えられるのでは、生徒の成長には天地の開きがあります。

     

    日英同盟の締結は明治35年(1902)、その三年後(明治38年:1905)に日本海海戦です。以前のブログでも書きましたが、日本海海戦では日英同盟が大変有効に機能しました。我が国は、英国並びにイギリス海軍に大いに助けられたということです。東郷司令長官を指揮官とする聯合艦隊が待ち受けるのは、大航海を強いられているロシアのバルチック艦隊です。当時の艦隊の能力からすれば、北欧バルト海から極東のウラジオストックに回航するだけで大変な事業(作戦)です。半年間、インド洋に展開してそのことを体で知りました。

    なかでも、何日かごとに寄港して行う補給、即ち石炭の搭載は死活的に重要です。英国は日英同盟にしたがって、ことごとくこれを邪魔するように動いた。艦隊を率いる司令官の性格や能力も相俟って、やっとの思いで対馬沖にたどり着いたバルチック艦隊の内情は、戦う前からヘロヘロ状態。迎え撃つ我が聯合艦隊は、例えは悪いですがゲートインした競馬のよう。砲身が赤くなるほど徹底的に事前訓練を行って、心・技・体ともに充実している。帝國海軍は、世界の海戦史に残る大勝利を収めましたが、日英同盟の恩恵は大きかったと思う。

    東郷さんは聯合艦隊の解散に際して「勝って兜の緒を締めよ」と訓示したが、さてその後の海軍はどのように生きたか・・・。結果が全てを語っている。

     

    時は流れて大正3年(1914)、サラエボ事件が引き金となって戦火は欧州全域に拡大し、第一次世界大戦が勃発した。同盟国であるイギリスの商船隊は、ドイツのUボートに苦しめられて瀕死の状態に陥る。英国は日本に対して、地中海に艦隊を派遣するようヤイノヤイノの催促。そりゃそうですわな。簡単に言えば、困ってる時には助ける、お互いに。それが同盟ってもんです。しかし、この国は昔からなかなか動かん。日本にとって地中海は、かつても、そして現在も遠いのです。国内において喧々諤々の議論の末、やっとこさ特務艦隊を編成して派遣した。それでも派遣された先人は、異郷(地中海)において大いに気を吐いた。女王陛下から勲章をもらうほどの戦果を上げた。お蔭で日本は戦勝国になり、漁夫の利を得ました。

    その後、我が国は徐々に先が見えなくなっていきます。大正10年(1921)、ワシントン軍縮会議の結果、日英同盟は消滅(廃棄)します。細部は端折りますが、先手を打つアメリカの方が一枚も二枚も上手だった。アメリカという国は、とてもピュア(純粋)な一面を有するが、一方で戦略的に発想する。

    因みに、私が描いた『ソロモンに散った聯合艦隊参謀』の主人公「樋端久利雄」は、海軍兵学校入学前の中学4年生にして「天ニ二日ナシ海ニ二覇アルベカラズ」と喝破し、近い将来、日米両雄が太平洋において対峙することを予期した。勿論ネット情報などない、新聞さえおぼつかない大正9年(1920)のこと。恐るべき中学生。

     

    我々は、何のために歴史を学ぶのか?そこから、現在や将来の在り方を占うため。それがなきゃ、単なる物知りに過ぎん。物知りが悪いとは言わんが、知識はあくまでも道具で使ってなんぼ。

    見通し得る将来、間違ってもアングロサクソンとの関係(同盟)を絶ってはいけない。どんなに優秀な先生が、どんなに論旨明快に反論して下さっても、この考えは変わりません。40年間、海上防衛の最前線に立ってきた私の、ひとつの帰結です。 

     

    哲学って言えるほどのものはな〜もない。言い訳がましいですが、直感で生きてるから理論的には説明でけん(笑)。ご容赦ください。

     

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    米内さん

    2017.09.14 Thursday

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      この夏、何年ぶりかで『米内光政の手紙』(高田万亀子著:原書房)を読みました。今般、帰省した折に実家の整理をしていて、押し入れの片隅にあるのを発見したものです。おそらく現役の時、休暇前に購入して実家に持ち帰り、そのままになっていたのだと思います。第2刷が1993年12月3日になってますので、それ以降に入手したのは間違いありません。ある人が「知識を捨ててはいけない」という理由で、溜まる一方の本を処分することに異論を唱えていたことを思い出しました。

       

      著者の高田さんや海軍の大先輩である米内さんには誠に失礼な話なのですが、この本をいつ頃購入したのかや、ページをめくった記憶もありません。亡父が購読したとも思えませんので、人間の記憶とは誠にいい加減なものです。私は基本的に「つんどく」はしませんが、唯一の例外は比較的長い休暇で帰省する時です。休暇前には、忙しい時にはできなかった、あの本も読みたい、この本も読みたいと思って何冊か購入しバッグに詰め込みます。紙という媒体は重いです。面倒な思いをして持ち帰っても、紐解くことはまずありませんで、そのほとんどは持ち主と一緒に旅するだけ。この米内さんなどは、讃岐うどんか何かの代わりに、重量減らしで離郷時に居残り組になったと思われます。

       

      今回は、この本の感想を書くのが本旨なのですが、その前に「米内光政」について簡単に触れておきます。若い人たち、或いは若くない人でも、今を生きている殆どの日本人は「米内光政」と聞いてもピンとくるものがないでしょうから。「山本五十六」は大概の人が知ってますが、米内光政って名前は聞いたことがないと思います。誠に残念で嘆かわしいですのですが、戦後教育のなせる技です。

      米内さんは帝國海軍軍人(海軍兵学校29期)で、最後の海軍大臣、即ち、帝國海軍の最期を看取った方です。短期間ではありましたが、総理大臣も務めました。日独伊三国同盟に、終始反対の立場を貫いたことで有名です。海軍に詳しい方の中には異論もあるかと思いますが、帝國海軍の知性を三人挙げろと言われれば、私は、加藤友三郎(日本海海戦時の聯合艦隊参謀長)、鈴木貫太郎(大東亜戦争を終戦に導いた総理大臣)、そして米内光政が浮かびます。この三人に共通しているのは、その時々の世界のなかでの日本の立場というものを理解していたこと。そして、常に先を見ていたこと。私の好きな表現を使えば、地球儀で国家(日本)を思考していた。日本地図やメルカトール図法ではないということです。軍人ではありますが、偏狭なナショナリズムなどとは無縁です。加藤さんについては拙著『指揮官の条件』で、鈴木さんと米内さんは『ソロモンに散った聯合艦隊参謀』に、ほんの少しですが登場して頂いております。

       

      因みに、帝國海軍では、海軍兵学校の卒業席次(ハンモック・ナンバー)がその後の栄進に大きく影響した。一説には、ハンモックを基本とする人事が、海軍という組織の堕落と滅亡に繋がったとも言われますが、米内さんの卒業成績は決して芳しいものではなかった。学校ではいつも低空飛行だった私は、とてもシンパシーを感じます。

       

      前置きが長くなりました。

       

      著者の高田さんは、所謂「米内もの」を何冊か世に出しておられます。従って、米内さんの第一人者であり、米内さんについて知らぬことはない、との自負と自信が行間ににじみ出ている。米内さんに心底ほれ込んで、偉丈夫で心優しい米内さんが生き生きと描かれています。大変冷静に分析しているのですが、その結果として理想的な人間(男性、夫、父親)、非の打ち所がない人物として描かれている。勿論、実際にそうなのですが、それほどに惚れ込まないと、特定の人物に迫り、そして描くのは難しいということでしょう。

      加えて、僭越ではありますが、高田さんは昭和の時代というものを正しく認識しておられる。苦難の時代を生きた、戦中派の執念を感じます。米内さんの手紙そのもの、そしてこの作品全体から得るものは多い。今日の政治家や海上自衛隊の現役諸君に、是非とも読んでもらいたい一冊です。拙著『ソロモンに散った聯合艦隊参謀』を上梓する前に、この本を読んでおれば、今少し中身が濃いものになったのではないか、と思っています。いつものことながら、不明を恥じます。もし拙著に重版の機会があるなら、少し加筆したいと思う。そんなことしていいのかどうか、知らないのですが・・・。

       

      この本『米内光政の手紙』には出てこないのですが、米内さんの仕事で最も素晴らしいと私が思っているのは、帝國海軍の終焉に際して、腹心の部下に「海軍の再生・再構築」を指示していることです。「取り敢えず〇〇程度の海軍を作れ」と、その規模まで示しておられる。日本という国が初めて経験する敗戦、国自体が明日どうなるやも知れない。この混沌とした状況下にあって何十年先の日本を、しかも具体的に見据えている。今日の新生海軍(海上自衛隊)は、米内さんの眼差しの延長線上にあります。

       

      昭和天皇が米内さんを、殊のほか信頼されたのも頷けます。まさに巨星、感慨新たなるものがあります。

       

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