芸の肥やし
2017.11.23 Thursday
最近、政治家や芸人の不祥事などがマスコミで大きく取り上げられております。昨年の夏頃だったでしょうか、或る梨園の奥様が「我が家に芸の肥やしはありません」と言って女をあげました。ご主人の素行に対する、鋭い切り返しでした。旦那の方は、まいった〜でしょうね。賢い女性だと思いました。
しか〜しなのですが、奥様お言葉ですが・・・芸の肥やしは間違いなくあります、というのが私の個人的な見解です。今私が言おうとしているのは、昭和演歌のような「あんた、遊びなはれ。酒も飲みなはれ・・・うちはどんな苦労にも耐えてみせます」ってな、化石のような話ではありません。誤解なきよう。女性を敵に回してはいけません(笑)。
僭越とは思いつつ、ひと様にリーダー論みたいなものを話すとき、「指揮官(リーダー)は大いに道草をすべき」と言って憚りません。道草の経験がない人、即ち純粋培養で真っすぐ育ってきた人、常に最短距離を歩いてきた(或いは走ってきた)人と話をすると、ゆっくり屋さんの私などは疲れてしまいます。逆に、いろいろ道草をしながら生きてきた人の話は、含蓄に富んでいて引き込まれることが多い。人生の参考になることが多々あります。推測ですが、おそらく世の中の絶対多数の人は「道草」をしながら生きている。勿論、私はその一人です。そんな一般大衆、その他大勢を尻目に、ごくごく一握りの人がススっと階段を登っているんだと思う。
なぜそんなことを最近思うのかと言いますと、所謂高学歴のスーパーエリートと思しき人たち、その中のごく一部の方々の言動を垣間見るに、この人たちホンマにエリートかいな、必ずしもそうでもないんじゃない、って思えたりする。要するに、個人の学歴や偏差値とその人の人間性の間には、大した相関関係はないのではないか。所詮、人間は人間。そう思うと、無理して裃(かみしも)を着る必要もないので気が楽だよね(笑)。
世の中にはいろんな職業があるけど、学校で、或いは机の上で学んだことを直接、直ちに生かせる仕事ってのは少ない。研究領域などは別でしょうけど。例えば、大学で高等数学や難しい物理を修得しても、一旦社会に出ると足し算・引き算と掛け算さえできれば、普通に生きて行ける。因数分解できないからと言って、他人から馬鹿にされることもない。割り算なんかできると、もう御の字だよ。算数に限って言えば、小学校で学んだことだけで生きてゆけます。私も学校出てから、微分積分などやったことがありません。使い方を知らないだけかもしれんけど。ですから、子供が中学受験のときに「いもづる算」なんかやってるのを横で見てて、小学生がよくもこんな難しいことやるな〜って。頭が痛くなった。
因みに私の場合、微分積分が出てくる頃から数学が嫌いになり、そして当然のことながら、その結果トンと数字に弱くなりました。ただ、仕事で地球の上を走る(航海する)ので、球面三角形だけは勉強せざるを得なかった。
要は、学校ってのは学問や勉強を通じてものの考え方を学ぶところ、物事を考える手順を習得する場所、と理解していいのではないでしょうか。だからこそ、学歴が高い多くの人たちは、いろいろな知識を持っているだけでなく、しっかりした考え方も身につけている。人間的にも立派な人が多い。一方で、学校で知識の修得だけに、或いは単位の取得だけにフォーカスし、人間としての考え方や人間らしさを学ばなかった人の中から、時々、知識万能で知恵が付いてきてない人が出てくる。そういう人が、今日の学歴社会の中で役所や会社や、政治や学者の世界などで枢要な地位に就いたりすると、不具合って言うか、その方の弱点が顕在化する(ことがある)。世の中、そんな感じじゃないのかな。
だって、そこらで井戸端会議やってるおっちゃん・おばちゃんがフツ〜に考えて、「それはないよな〜」て感じることってありますよね。不勉強な私が偉そうなことは言えないのですが、そんな気がする。
芸の肥やし、即ち道草に話を戻すと、道を歩くときにはゴールに向けて直進するだけでなく、また効率だけを考えるのではなく、時には道端に咲いている草花を愛でながら、ビルの看板や行き交う人の服装などを観察しながら、ゆっくり歩いては如何でしょうか?要するに散策です。それが人間の包容力になる(かもしれん)。いつもいつも飛行機や新幹線を利用するのではなく、たまには鈍行にも乗ろうよ、ってことです。但し、人間に与えられる時間には、限りがあることを理解しておく必要があります。折角頂いた命ですから、人生道草だけで終わっちゃ勿体ない。
そう言えば、私の友人にママチャリで日本を一周している人がいます。だからってことじゃないのですが、この方は懐が深いですよ。それでいて、背筋がピンと伸びている。私が尊敬する苦労人です。
話は変わります。ついてきて下さいよ(笑)。
成人した人間の能力、即ち個人が持っている力は、仕事力+人間力の合計だと思っています。これは、私が人間を計る物差しです。わが身を顧みず人様を計るなど、僭越なおやじであることはこの際横に置いてください。この「仕事」と「人間」、二つの力の比重は歳を重ねるにつれて変わってくる(べきもの)。若い頃はガムシャラに働いて、仕事のスキル(技術)を磨けばよろしい。営業マンであれば、攻めの姿勢で市場を開拓し売上を伸ばせばいい。この時、人間性の方は多少疎かになってもいい。周りの人も、些細なことは許してくれるでしょう。勿論、限度ってものはあります。即ち、人間力に比べて、仕事力の比重が高いってこと。齢を重ねて中堅どころになってくると、徐々に人間性の方が重きをなすようになる。そして仕事人生も終末段階になると、汗をかくのは他の人がやってくれたり助けてくれたりするので、数十年かけて磨いてきた人間力を持って、周りの人達、特に若い人を牽引する。二つの分銅(力)が逆転するわけです。重要なことは、この分銅を変えていくのは自分自身だということ。絶対に周りの人にはできません。だから、それを分かっているか否か、それができるかどうかが人生の分岐点になる。
上記は、主として組織におけるキャリア形成を描いているのですが、例えば一次産業や自営の人などにも、一つの目安にはなるんじゃないかな。分かったようで、分からない説明だね。意味不明であれば、ゴメンナサイ。
斯く言う最近の私は、二けたの足し算や引き算にも苦労する毎日です。グダグダ言っても、説得力はないですな(笑)。
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博海堂