中野学校

2017.06.29 Thursday

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    金比羅さんの参道入口に「中野うどん学校」という、珍しい学校があります。金刀比羅宮を仰いで左側に、大きな看板があるので直ぐに分かります。

     

    中野学校と聞けば、私などは職業柄、市川雷蔵の世界が浮かびますが、この学校はお客さんに「讃岐うどん」の作り方を教える。そして、自分が作ったうどんを食べてもらう、所謂体験型の土産物店です。より正確には、生徒(お客)さんが音楽に合わせて、踊りながらうどんを作り食べるという、ちょっと変わった店です。先般、この中野屋さんの中野吉貫社長が、地元四國新聞の「香川のリーダーたち」、日経新聞で言う「私の履歴書」コーナーに10回連載されました。郷里の友人が毎日写メで記事を送ってくれたので、毎回タイムリーにかつ感動を持って読むことができました。

     

    中野さんは私が出た高校(香川県立三本松高等学校)の先輩ですので、毎年春に金比羅さんで営まれる、掃海殉職者の慰霊祭に参列したときにはお寄りし、懇談の機会を頂いております。ちゃっかり駐車場もお借りして(笑)。

    今春お邪魔したときのことです。お会いする前、中野さんには内緒で、中野屋さんの食堂でうどんを頂いておりました。すると、中野さんが玄関からすっと入ってこられました。ああ、社長は店内を見て回っておられるんだ。意地悪な私は、柱の陰に隠れてそっと彼の動きを観察しておりました。すると豈(あに)図らんや、社長が厨房に入るではないですか。従業員の仕事ぶりに何か不手際があって、おばちゃんは叱られるのか?しかし何となんと、我が先輩はおばちゃんと一緒に、せっせと皿やどんぶりを洗いを始めた。従業員も、特段恐縮している様子はありません。ふつ〜に、同僚と一緒に洗っているって感じ。おそらく中野さんは、いつも同じように皿洗いをされているのだと思います。

     

    うどんも美味しくいただき、約束の5分前になったので、厨房の従業員に「社長を呼んでいただけますか」とお願いしました。中野さんは、手を拭きながら出てこられました。懇談場所は、いつも店の空きスーペスです。前回も、よほど「社長室はないのですか?」と聞こうとしましたが、言葉を飲み込みました。勿論、自分が軽くあしらわれている、などと邪推してのことではありません。これが、彼のスタイルなのだと思います。そして、全く違和感がありません。

     

    素人の私が言うのも何なのですが、彼は常に斬新な発想を追求しているように思う。体験型の店を始めた当座は、同業者からたくさんクレームが来たとのこと。曰く「俺たちは美味しいうどんを作って、お客さんにお出ししている。お前んとこは、お客さんに作らせてカネを取るのか」。ここの発想の違いだろうね。大きく成長するか消えてなくなるかは、この差なんだと思う。

    苦節何十年、中野さんの発想は瀬戸大橋の開通によって爆発する。今では、年間18万人がこの学校でうどん作りを楽しむといいます。近年は、とりわけ外国人客が多いとのこと。讃岐入りする外国人のほとんどが、中野学校を訪れる。外国人は、この手のパフォーマンスが大好きです。私と懇談している間にも、彼は常に無線機を傍らに置いて従業員に指示を与えます。携帯電話やスマホでは間に合わないのでしょう。

     

    決して自慢などしない中野さんですが、「中野うどん学校は、学習院の修学旅行のコースになってるんだよ」と目を細めます。そして「いや〜警備が厳しくて」。先輩のはにかんだ顔は、とても嬉しそうだった。

     

    こんぴらふねふね(金比羅舟舟)

    おいて(追風)にほ(帆)かけて

    シュラシュシュシュ

    ・・・・・

    です。

     

     

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    電気屋さんのトマト 

    2017.06.22 Thursday

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      先日、知人に誘われて、吉野川(徳島県)流域にあるトマトの栽培農家を訪ねました。その農園は、私の実家(讃岐)から車で山越えすると1時間ほどのところにありました。

       

      吉野川を過ぎると、よく整備されたビニール・ハウスが数棟見えてきます。そう、この栽培農家さん(?)は、四国電力の系列会社である四電工(よんでんこう)です。数年前、会社の経営戦略会議で、所有地の有効活用、加えて四国を元気にするをコンセプトに立ち上げた農園とのことです。この一見、カケのようにも見えるプロジェクトを任されたのが、私の息子よりも若い青年でした。ハウス内を案内してくれる、この青年に「農家さんですか?」と問いますと、「全くの素人です。元は電気屋です」との応え。農業の経験のない人が作物を栽培するのは、本当に骨が折れると思います。農家の出である私には、よく分かるのです。農作物の栽培は、子育てみたいなものですから。それだけに、自分が育てた植物は可愛いですよね。

       

      50メートル長のビニールハウスの中には、品種ごとに並んだプチ・トマトがビッシリ息づいておりました。普通の農家さんのビニールハウスですと、農機具から始まって、なんでんかんでんその辺りに放りっぱなしでごちゃごちゃしているのですが、さすがに四国の基幹産業が経営する農園です。会社のオフィス並みに、整理整頓がきちんとなされておりました。ハウス内の温度も、ビシッと管理されています。この農園では土は一切使わず、養液だけでトマトを栽培してました。

      私は感じたこと、思ったことが直ぐに口から出る無作法な人間です。一粒プチトマトを頂いて、失礼にも「皮が固くないですか?」と案内の青年に訊きました。彼は、「トマトの味を凝縮するために、どうしても皮が厚くなります」とのこと。しかし、私と同じような消費者の意見もあるようで、より柔らくて甘い品種も試みているとのことでした。

      農園を始めて三年が経過し、関係者の努力が徐々に実を結んで、経営も軌道に乗りつつあるとのことです。

       

      生前、父が私にボソッと言ったことがあります。「この土地(田畑)で農作物を作って(栽培して)、100円でも稼ぎだすのはエライ(骨が折れる=大変な)ことなんだ」。また、半ば自虐的に「遠い昔から、農家がいい目を見ることはなかった。戦後の一時期、農家はいいと言われたが、それは非農家の状況が余りにもひどかっただけ」とも。亡父の言は、その深い皴(しわ)や、ささくれだった手が言わせた言葉です。

       

      しかし今、私は農業に限りない可能性を見ます。どんなに科学が発達しても、どんなに人類が進化しても、人間が食して生きるという形態は変わらないでしょう。また人間が、植物を含む他の生き物を「いただく」という形も、変わらないと思う。人間というやつは、未来永劫「いただく」。ということは、農業の前途は洋々で、成長産業じゃないの。

      日本は、極めて精巧な時計、車、精密機械、家電、半導体などを次々と世界に送り出してきた。その高い民度と誠実な人柄、きめ細やかな心遣い。そんな日本人が栽培した作物が、世界を席巻する時代が来る。世界中の人々が、日本の食材を求める。宇宙船に乗る人たちは、みんな日本の食材を手にしている。そう遠い話ではない(ような気がする)。

      ちょっと話が飛躍してるな〜。私の頭は、いつもポンポン飛ぶのです(笑)。でも、若い人はそのくらいの志を持って欲しい。

       

      四国を元気にする。そして、若い人たちの雇用を創出して、四国への回帰を図る。家高社長を中心とする四電工の理念が、トマトの一粒一粒にこもってました。教えられることが多々あり、実に有意義な一日でした。

       

      頑張れ「四国三郎」!

       

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      情報と世論

      2017.06.15 Thursday

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        唐突ですが、私は争いが嫌いです。意見が異なる相手(人や組織や国など)を、口汚く罵る人も好きにはなれません。

         

        対人関係においても、「それってちょっと違うけどな〜」と思っても、あるいは先方さんが高圧的な態度であっても、まずは言葉を飲み込みます。嘘つけ〜と言われるかもしれませんが、ホントにそうなんです。ただ単に、頭が昔の蛍光灯なだけかも(笑)。(元)自衛官と聞けば好戦的な人種と思われるかもしれませんが、全くそんなことはありません。私に限らず、絶対多数の自衛官は心穏やかです。勿論、大勢の中ですから、そうでない人もいます。自衛隊は社会の縮図ですから。全体の比率で行けば、その類の人は一般国民の平均値、即ちごく一部でしょう。ここ数年間に、私と一緒に部隊を訪問した人は結構いますが、自衛官と接したことのある人は皆さん、今私が言ってることに納得されると思います。

        制服を着ている人は高圧的、堅い、怖い、そして武闘派ってのは、いずれも皆さんが作り上げたイメージにすぎません。警察官なんかも同じですよね。昔の軍人や巡査の「おいこら」のイメージがあるからでしょうか。制服を着てしかめっ面してると、誰だって近寄り難い感じがします。私なんかしばしば、「あんたホンマに司令官やってたん?」って疑われます。ちょっと違う意味で、言われてるのですが(笑)。先方が持つイメージと実物との乖離、落差でしょうね。

         

        話は変わりますが、一ヶ月ほど前(5月13日 / 14日)、産経新聞とFNNが合同で世論調査を行ったとの記事がありました。「憲法9条に自衛隊の存在を明記する首相案」に関する調査。その結果、男性・女性とも高齢者になるほど同案に反対者が多いとのことです。中には建設的で、改正案の書き込み方などに反対している人がいるかもしれませんが、絶対多数は所謂「憲法9条堅持」の人たちだと推察します。

        これを、右肩上がりと言うか右肩下がりと見るかは、それぞれの立ち位置に拠るでしょう。私は、この結果が仮に正確な値ではなくても、もし傾向としてそうであるなら、僅かですが日本の将来は明るいような気がする。若い子にもいろんな人がいますが、全体的にはしっかりしており、何ら悲観する必要はない。というよりも、大いに若い人たちに期待していいと思います。時代を牽引するのは、いつも若い力です。

         

        ところで、戦中の一時期我が国もそうでしたが、また現在も多くの国(日本も?)で行われているように、情報の操作というのは怖いですね。意識しないうちに、頭に刷り込まれてますから。その辺りのことは、拙著『ソロモンに散った聯合艦隊参謀』にちくりと描いております。今日のネット社会には功罪がありますが、ひとついい(功の方)のは、既存のメディア、即ちテレビやラジオや新聞や雑誌に出てこない情報を見ることができる、ことだと思います。思想的には右から左まで有象無象。これらの情報には、取るに足らないものも多くある。ですから、見る人には仕分けの能力と咀嚼(そしゃく)する力が求められます。何が真実で、どれが本物なのかを、常に考えながら見る必要があります。そうしないと、頭の中がグチャグチャになってしまう。発信している側の、情報操作に引っかかってしまう恐れがあります。

        上記世論調査の結果は、主として従来型のメディア、新聞やテレビから情報を得ている年代と、ネットで情報を得ている若い人たちとの差(違い)と見ていいのではないでしょうか。一方で、これとは関係しない、いろんな情報にアンテナを張っていない人、実は私もそうなんですが、例えば日頃新聞やテレビを見ない人でも、直感的に「これは、何かおかしいんじゃないか?」と気づく人も多くいます。失礼ですが、なまじっか勉強(と言えるのかどうか?)している人よりも、常識的で物事の識別能力や判断力があるということでしょうか。しかしそのためには、小さい頃の家庭や地域社会、そして小学校などで、しっかりした教育や躾がなされていること。即ち、人間としての基盤・基礎ができていることが必須だと思います。少し話が逸れました。

         

        ここで冒頭の私の儀、「争いは嫌いだ!」に戻ります(笑)。

        昨年、安全保障関連法案が国会で議論されている頃、旧知の方からしばしば連絡をいただきました。「自分には男の孫がいる。戦争に行かせたくない」と大層心配し、この法案には絶対反対だと繰り返し訴えられました。私は既に退役している身であり、私に言われても・・・なんですが。私にも年頃(青年)の男の子が二人います。子供や孫を戦争に行かせたくない、という気持ちはその方と完全に共有します。人間なら誰だってそうですよ。子や孫を戦争に行かせたい人がいるわけがない。乃木さんの苦悩は如何ばかりであったか、と思います。

        ならば私は問いたい。「1億3千万人の日本人で、最も戦争をしたくない人種は、どんな人たちでしょうか?」。優柔な私ですが、珍しく本件については明確な回答を持ってます。断言します。それは、制服を着ている現役の自衛官であり、その家族です。「戦争法案はんた〜い」と喧伝する人よりも、反対運動を横目に通り過ぎる人よりも、誰よりも何十倍も戦争には反対の立場です。

         

        「未来永劫、平和でありたい」、その思いは百パーセント共有する。でも、そこで思考が止まっていいのかな?問題はその次じゃないの?然らば、誰がどのようにして国家(日本)の生存を維持し、国民の平和と平穏な生活を確保するのか?いろいろ、やり方はある。勿論、軍事だけではない。だから総合安全保障と言うんですよ。だけど、軍事はその核になる。美しい言葉やきれい事、能書きで平和になれるのであれば、それは最高。でもでも、考えてみて。現下の国際情勢は、その清く美しい生き方を受け入れてくれるのかな?周辺の国々は、そんなに優しくて包容力があるの?

         

        情報は、正しいものを正しく知り、そして適正な判断の材料にしたいものです。

         

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        蛍(ほたる)

        2017.06.13 Tuesday

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          三年前に他界した父の仏事を終えました。今年は4回忌にあたります。私の実家では、通常営む法要(法事)の他に、法要を営まない年にも、毎年お寺さんをお迎えして祥月命日を拝みます。そして、子供や兄弟姉妹が集まって故人を偲びます。

           

          私の実家・生家は讃岐の山間部にあります。小学校は山の分校で、同級生は私の他に6人でした。教室は三つしかなく、授業は複式学級といいまして、二つの学年が同じ教室で学びます。教科によっては、ひとつ上の学年、例えば3年生の時に4年生の勉強をすることもあります。壺井栄の「二十四の瞳」みたいな、「おとこせんせ」「おなごせんせ」の世界でした。二つの学年の授業を同時に進行するのですから、今になって思い起こすと、先生の苦労たるや大変なものがあったと思います。でも、当時の先生はいろいろ知恵を絞って成果を上げ、県の教育委員会が不思議に思い「どんな授業をしているのか」と視察に来たほどでした。

           

          そんな田舎の村ですから、私が小さい頃には、田植えの季節になると「ほたる」がそこら中に飛び交っていました。橋の上で「ほっほっ、ほ〜たる来い。あっちの水はに〜がいぞ、こっちの水はあ〜まいぞ」と歌いながら、網で捕まえては虫かごに入れ、お尻から光を出す蛍を不思議に思ったものです。私の家にはまだ、裸電球しかありませんでした。

          そんなホタルの里でしたが、稲作に大量の農薬が使われるようになると、瞬く間に姿を消しました。亡父は「川や田んぼからタニシが見えなくなると、蛍もいなくなった」と言っておりました。高度成長期に入ると、帰郷しても蛍を見ることはできませんでした。幼い子供に蛍を見せてやることができず、残念に思っておりました。

           

          ところがここ数年前から、結構多数の蛍が飛ぶようになりました。時間帯や天候にもよりますが、橋の上に行きますと川面の上、川岸、田んぼの上などを蛍が飛んでいるのです。真っ暗闇の空間を、小さな明かりが飛び交う。しかも、ついたり消えたり。幻想的で詩的で、あくせくした人間社会とは全く異なる別の世界です。誰かと共有したくて写メを試みますが、素人ではものになりません。

           

          30分間ほど陶酔に浸って、家の中に入りました。テレビを見ていると、後方のガラス窓に小さな光が目に映りました。慌ててテレビと「蛍光灯」をOFFに。人口の灯り(蛍光灯)ではない、本物が来た〜。この蛍は10分ほど窓ガラスにとまって、しきりに光を放った後、元気に何処かに飛び去りました。

          そういえば亡父は、生命力の強い人間でした。90(歳)になっても「シベリアで命を縮めた」と言っておりました。でも、逝くときにはサッと逝きました。

           

          こんな幻想的な世界を独り占めにするのは、誠にもったいない。今年は間に合いませんが、来年以降は友人や知人や、多くの子供さんたちにも来てもらって、蛍の里を経験してもらいたい。早いもの順に受け付けますので、来年の6月、希望者は「さぬき市大川町南川689番地1」に集合!

          寝袋を持参してくれれば、15〜20人はあばら家で雑魚寝できるよ。宿泊料は要りません。草刈でOK(笑)。

           

          ただ、その日に蛍が見えるという保証はありません。オーロラに同じ!

           

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          金比羅さん

          2017.06.01 Thursday

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            5月27日は、old sailor にとって特別な日です。普通の国なら、国を挙げての特別な日になってると思います。

             

            今から112年前の明治38年(1905)5月27日、帝國海軍は東郷司令長官指揮の下、対馬沖においてロシア艦隊とあいまみえ、これを完膚なきまでに撃破しました。搾取され続けてきた有色人種が、初めて白人に一矢報いた、世界史上画期的な出来事(海戦)でした。帝國海軍は、この日を「海軍記念日」としました。

             

            本来なら、私も記念艦「三笠」の行事に参加するのですが、あいにくこの日は金比羅さん(金刀比羅宮)で執り行われる掃海殉職者追悼式(慰霊祭)と競合したため、地元(郷里)の行事を優先しました。

            この掃海殉職者についてはあまり世に知られていないので、毎年慰霊祭で参列者に配布される資料から拾ってその概要を記します。このような史実が広く国民に知られていないことを、誠に残念に思います。

             

            金毘羅さんに参る、参道中腹の右側に立派な顕彰碑があります。この碑文が、ことの顛末を簡潔にまとめておりますので、少し長いですがそのまま転写します。

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            掃海殉職者顕彰碑文

             

             日本掃海隊は終戦直後より六年有余に渡って第二次大戦中日本近海に敷設された六万七千個の各種機雷の掃海に従事し総面積五千平方キロ百八十カ所に上る主要航路港湾泊地を啓開して我国産業経済の復興に偉大なる貢献をなした

             この間所属掃海隊員は風浪と闘い寒暑を克服して作業に挺身したが不尽七十七名の殉職者を出したことは実に痛恨に耐えない

             茲に講和発効独立の年を迎えるに当たって有志相集いよってこの地に碑を建立し国家再建の礎石と散った殉職者の偉業を永く後世に伝えることとなったものである

                                               昭和二十七年六月

             

                                                   海上保安庁長官 柳澤米吉

            *************************************

             

            これを読んでもよく分からないと思いますので、少し補足説明します。

            この6万7千個の機雷は、敵国アメリが撒いたものと、日本が敷設した機雷の総計です。アメリカ軍は我が国の生命線である海上交通を遮断するため、我が方は米艦隊の侵入を阻止するために、主要港湾や瀬戸内海に機雷を敷設しました。そして、大東亜戦争が終結し、大量の機雷が残されたままになった。日本は海洋国家であり、海上交通、即ち船舶の運航は復興に欠かせないものでした。生きていくための漁業もしかりです。日本の復興をかけ、リスクを負って動き出した商船が触雷し被害が続出した。

            海は日本の命であり、海運なくして日本の復興はあり得なかったのです。因みに、現在、日本の貿易はトン数ベースで、実に99.6パーセントが海運、即ち船舶によって運ばれているのですよ。

            さて、この作戦(機雷の掃海)に駆り出されたのは、帝國海軍の生き残りです。帝國海軍の消滅(海軍省の廃止)が昭和20年の11月30日、この前の9月18日、海軍省軍務局に掃海部が置かれます。驚きますね〜戦争が終わって1か月後のことですよ。混乱の極みにありながら、将来を見据えてこのような措置を講じた、政府と海軍の使命感、そして先見の明に感動を覚えます。海軍省が廃止になって、掃海の所管は第二復員省(元の海軍省)、海上保安庁、海上警備隊(海上自衛隊の前身)、そして海上自衛隊へと引き継がれ、今日に至っています。日本は金は出すが血どころか汗もかかない、と世界中から嘲笑を買ったこの国の汚名を返上したのも、彼らの末裔である掃海部隊です(掃海部隊のペルシャ湾派遣)。

             

            多くの犠牲を伴ったこの航路啓開によって、戦後の日本は国内外への海上交通路を確保することができた。何度も言いますが、海上交通は日本の生命線です。彼らが日本の復興に果たした役割は、極めて大きいのです。この功績・業績に対する感謝と敬意の発露が、殉職者の偉業を永く後世に伝えんとする顕彰碑の建立計画になります。全国32の港湾都市の市長が発起人となって、碑の建立が実現しました。建立場所は、検討の結果、海の守り神である金毘羅さん(金刀比羅宮)に決定、碑には地元香川県の庵治石を使用した。揮毫はときの内閣総理大臣吉田茂。

             

            追悼式は、毎年5月の最終土曜日に呉地方総監が執行する。ということで、今年は海軍記念日とバッテンしたのです。

             

            我々は今、平和の配当を得ています。しかしこの配当は、多くの先人の努力と犠牲によって得られたものです。そして、今を生きる我々には、この配当を後世に残し、伝えるための努力が求められています。

             

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