出雲(いずも)

2016.10.19 Wednesday

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    過日(10月12日)、護衛艦「いずも」を研修しました。「出雲」といえば縁結びです。それで集まってくださったのか否かは分かりませんが、ある方がお声をかけると、80人ほどの美男美女が横須賀駅に集合しました。白髪頭の私は、汗をかきかきツアコンです。素人の悲しさ、先頭に立って掲げる旗を持参するのを失念してました(笑)。参加者のほとんどが会社の役員やお医者さんなので、我が道をゆくでなかなか統制がとれません。やっと動き出すと、列の長さが50メートル程になります。「はよこんかい」と叫んでも、ききゃ〜しませんよ。

    それでも「いずも」は、艦長以下乗組員の皆さんが、先輩に恥をかかせてはいけないと、本当によく接遇してくれました。有り難いことです。現在の日本に、こんな心の熱い組織は少ないと思います。

     

    幸運なことに、対岸には砕氷艦「しらせ」が停泊していました。「しらせ」が海上自衛隊の艦艇であることを、知っている日本人はほとんどいないと思います。これって昔々、テレビのクイズになってました。「南極に行くしらせは、どこの所属でしょうか?」三択で、 ̄人⊂吻∧孤省K姫卍でした。正解者は一人もいませんでした。

    「しらせ」は決して「砕氷船」ではありません。「砕氷艦」なのです。

    「しらせ」が南極に向けて晴海を出るとき、そして晴海に寄港したときには、必ず報道陣が押しかけます。そして、テレビで報道される時、絶対多数のキャスターは「砕氷船しらせが本日晴海に帰港しました」と言います。当局から、何度厳しく「砕氷艦」だと事前に申し入れても、聞く耳持たずです。な〜んか変ですよね。

    但し、この小話は私が現役の頃のことです。世の中も少しずつですが変化していますので、もしかしたら、現在はきちんと報道してくれているかもしれません。であれば、ゴメンナサイです。

     

    こんなことですが、日本国民が少しでも安全保障や国防、そして海上自衛隊・海の防衛について、理解を深める一助になれば大変ありがたいと思っています。

     

     

     

    博海堂

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    10月10日

    2016.10.10 Monday

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      隔週の木曜日、ブログに駄文を連ねることにしたのですが、今回は四日ほど遅くなりました。実は、敢えて遅くしました。

       

      今日10月10日は、昭和39年(1964)に東京オリンピックの開会式が行われた日です。あの頃、日本人はみな輝いてました。現在は体育の日で休日になってますが、母の誕生日でもあるんです。

      生まれた日が良かったのか、母は健康に恵まれて90歳の大台に入りました。大正天皇がお隠れになる直前の生まれですが、「昭和人になり損ねた」などと残念がる話は聞いた記憶がありません。

       

      そんな母ですが、二年前の春、父が運転する軽トラックに同乗していて、交通事故に遭いました。それまでは、多少認知症の兆しはありましたが、足腰も、特に口は達者でピンピンしておりました。

      助手席に乗っていて第二頸椎を骨折し、数日間、医大病院で生死をさまよいました。損傷したのは頸椎だけではありません。左右の肋骨が全部折れて、真ん中辺りの骨は拠り所がなくグラグラしている状態でした。このうちの一本が肺に刺さり、片方の肺の空気が全身に回り、集中治療室で眠る母の手足はパンパンに膨らんでいました。

      家族は最悪の事態を覚悟したのですが、治療に当たってくれた先生をはじめ、多くのスタッフみなさんのご尽力、そして本人の生命力によって、一命を取り留めることができました。MRIの結果、頸椎が一部損傷していたのですが、ギリギリのところで神経には触っておらず、後遺症は残らないでしょうとの見立てでした。本当にラッキーでした。ただ、頸椎が回復するには、およそ三か月間ガッチリと首を固定する必要がありました。

       

      勿論、そうせざるを得なかったのですが、この3か月が曲者でした。年寄りは一か月どころか、一週間でも動かないと寝たきりになる、というのが通説です。まさにその通りでした。三か月後に頸椎は無事つながったのですが、手足や腰の筋肉がガタガタっと落ちました。それでも最初の頃は、器具で首を固定したまま歩いていたのですが、徐々に認知症が進行し、生きていく意欲や食欲が減退していきました。事故から二か月も経たないうちに、軽症であった父が肺炎を起こし、あっという間に他界したショックも大きかったと思います。親族の中には、父の死は知らせない方がいいのでは・・・という意見もありましたが、私にはできない相談でした。

       

      騙しだまし食べ物を口に含ませていたのですが、時間の経過とともに、いよいよ食事を受けつけなくなり、やせ細ってくる、目は座ってくるわで、じり貧状態に陥りました。主治医とも相談して、やむなく鼻からチューブで栄養を流し込むことを決断しました。あの元気印だった母が、もう二度と口から食べることはない、歯でかんで舌や喉で味わうことはできないのかと思うと、可哀想でなりませんでした。

      しかしながら、やはり人間にとって栄養は欠かすことができないものなんですね。鼻から栄養を摂りだすと、見る見るうちに顔色がよくなり艶も出てきて、以前と同じように快活に話をするようになりました。一時は、元気すぎて困ったときもあります。

       

      これを半年ほど続けたでしょうか。元気だったのですが、あるとき肺炎を起こしてしまいました。高齢者にとって肺炎は命取りです。父の二の舞にしてはいけないと堅く決心しておりましたが、またもや頑強な生命力を発揮して、肺の一部に影は残りましたが何とかリカバリーすることができました。新しく主治医になられた先生は、前の先生とは考え方が違っており、鼻からの栄養補給は、何らかの理由で一時的に口から食事を摂ることができなくなった人に対する、「暫定的な措置」であり、恒常的にこれを用いるのはリスクが大きすぎる。今回の肺炎も、鼻に入れるチューブから菌が入った。「胃ろうを勧めます」と言います。「胃ろうにすると終わりですよ」ということを、人から聞いたことがありましたが、素人の我々に反対できるほどの知識はありません。

       

      お腹に穴をあけてから数か月が過ぎ、ビックリする変化がありました。数週間前のことです。お世話になっている病院は、医療・看護の態勢は勿論のことですが、リハビリがとても充実しています。素人が大変僭越ですが、田舎の個人病院にしては人材も豊富です。リハビリ中に担当の先生(理学療法士)が、「高嶋さん、何か欲しいものがありますか?」と訊いてくれたそうです。すると「もう何日も食べさせてもろうてない。何か食べたい」と母。何日どころか、一年以上も口には入れてないのですが、それも愛嬌です。そして、用意してくれたコーヒー・ゼリーを、「おいしい、おいしい」と言いながら、1カップ平らげたといいます。糖尿も持っているため、甘味は一日に一個と制限付きですが、その日から毎日ゼリー状のものを喜んで食しています。

      一年以上食べてなくても味覚が残っていたこと、そして食道の筋肉が維持されていたことに、本当にビックリしました。家人は「お義母さん、きっと歩くよ」と言います。母は強しです。

       

      その後は、定番である「ありがとう」「き〜(気)つけて帰りまい(帰りなさい)」が戻ってきました。私が病院を去るときには、ベッドの上で不自由な手を振ります。

       

      ふる〜い話。私が学校に上がる前のことです。

      秋の借り入れの頃でした。田んぼの土手で遊んでいる私に、「稔るほど頭を垂れる稲穂かな」と母が言いました。

       

      いつまで経っても、かなわんな〜この人には。

       

      【高嶋博視のオフィシャル・サイト】

      ⇒http://www.umihiro.jp

       

       

       

       

       

       

       

       

       

       

       

       

       

       

      似て非なるもの

      2016.10.03 Monday

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        私が半生を過ごした自衛隊は、その任務や持っている装備、実際にやっていることや服装など、上から見ても下から見ても斜めから見ても、どう見ても諸外国の軍隊に相当します。しかし、この自衛隊という名の軍隊には、普通の国の軍隊であれば持っている、大変重要な二つのことが欠落しています。

        一つは軍事裁判・軍事法廷です。数年前に秘密保護法が制定されて、防衛(軍事)秘密の保護(漏えい)については一応格好がついた形ですが、勿論、軍事法廷で裁かれるものではありません。

         

        二つ目の欠落は「処遇」です。処遇というと、まずは給料を思い浮かべますが、私が意味するのはそうではありません。経済大国の軍隊(自衛隊)に籍を置いて、国家の禄を食む自衛官は特別職国家公務員という名で、それなりの給料を貰っています。処遇にはいろいろな要素がありますが、私が言うのは「名誉」のことです。我が身の危険を顧みることなく任務に命を懸ける軍人にとって、名誉もないでは「やっとられん」ということになるでしょう。かつて日本には、名誉の戦死という言葉がありました。これと少し意味は違いますが、名誉は、ときには死をもって贖うこともありましょう。

        この名誉にもいろいろあるのですが、自衛官にとって最高の名誉は、「国民の信頼と敬意」だと私は思っています。例えはおかしいですが、幼稚園児の子供さんが、お母さんの首に手造りの金メダルを掛けてあげるような感じでしょうか。

         

        私には能力もありませんので、できるだけ政治的な発言はしないつもりなのですが、いかな能天気な私でも先般(9月26日)の件には首をひねりました。安倍首相の所信表明演説における、与党議員のスタンディング・オベーションのことです。総理は次のように発言されました。

         

        今この瞬間にも、海上保安庁、警察、自衛隊の諸君が任務にあたっています。

        彼らに対し、今、この場所から心から敬意を表そうではありませんか。

         

        そして、総理自ら壇上で拍手をされました。これに呼応して多くの与党議員が、立ち上がって首相に倣いました。このことを、野党議員やマスコミがピント外れの論評をするのは、いつものことであり、さして気にもなりません。私が「アレッ」と思ったのは、与党議員の中にも、このスタンディング・オベーションに違和感を示した議員がいたことです。

        このことを、どう捉えればいいのでしょうか。私には、先に述べた「処遇」の問題を、象徴的に示した出来事であったと思えてなりません。国の守りにつく人々に敬意を表すのは、主義主張や年齢や性別も関係ないと思います。いろいろな考え方を許容するのが健全な民主主義だと思いますが、子や孫の時代には、もう少し洗練された民主国家になっていて欲しいと思います。

         

        私のオフィシャル・サイト(⇒http://www.umihiro.jp)に、現役時代の写真を何枚かアップしています。見て下されば分かるのですが、制服の左胸に「防衛記念賞」というものを着用しています。赤・青・黄・紫などの小さなワッペンのようなものを、つなぎ合わせたものです。これを見ると、その人の経歴が大体分かります。記念賞の数が多ければ多いほど、いろいろな経歴を踏んできたということにもなります。余計な話ですが、必ずしも出世とはリンクしておりません。念のため。

        諸外国の軍人も、同じようなものを着けています。自衛官と大きく異なるのは、彼らが着けているのは勲章の略章だということです。日本には現役の時に勲章を受章する制度はないので、部内でいろいろ理由をつけて、記念賞というものを定めているのです。例えば、20年間無事勤め上げたとか、勤務の功績が認められて賞詞を授与された、インド洋に展開したなどなど。それで、諸外国の軍人と交流するときに、何とか対面を保っているのです。時代や国柄に関わらず、軍人にとって体面や見てくれは、とても重要なものなのです。一般市民が服装に気を使うのも、基本的には同じだと思います。軍人でなくても、ドレス・コードというのはありますよね。

         

        さて、平常はこれで何とか対等に見えるのですが、例えばメスドレス(一般のタキシードに相当)で正装する場合には、とても寂しいことになります。正装時には略章ではなく、本物の勲章を佩用(はいよう)するからです。即ち、我々には何も着けるものがないということですね。昔の武士で言えば、なんとなく心もとない、丸腰のような感じでしょうか。

        私の場合には、ノルウェー王国で大使館勤務をしたおかげで、三年の任期を終えて帰朝する際、国王からメダル(勲章)を賜りました。ですので、正装のときには、これを佩用することができました。(オフィシャル・サイトのプロフィル頁参照)

        因みに、私の受賞は、とりわけ私が両国関係の改善に貢献した、などという立派なものではありません。外交は相互主義が基本です。在京のノルウェー外交官が帰国する際には、彼(彼女)らも受賞の栄に浴するということです。

         

        世の中には、似て非なるものがままあります。国の生存という、国家の根幹を担う自衛隊・自衛官が、いつの日にか普通の軍隊・普通の軍人になることを願っております。それには、まずはこの国が普通の国になることですね。

         

        博海堂

         

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        出会い

        2016.09.22 Thursday

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          一年半ほど前のことです。

           

          若い友人から「高嶋さんが興味ありそうなテーマなので覗いてみませんか」と、神奈川県にある某大学(大学院)のセミナーにお誘いがありました。その日のテーマは『戦艦大和ノ最期』(吉田満著)ですと言われば、私は肩を回します。『戦艦大和ノ最期』は昭和の平家物語とも評され、極めて格調の高い叙事詩です。私が生涯で最も強く影響を受けた1冊です。まだ生きとりますが。

          今ここで『戦艦大和ノ最期』との出会いを言いたいわけではありません。そのことは、拙著『指揮官の条件』

          <a href="http://www.umihiro.jp"target="_blank">に詳しく記してあります。

           

          セミナーで私なりの所見・意見を述べ、帰りの電車でやはりセミナーを傍聴(オブザーバー参加)していた、この大学の卒業生(OG)と並んで座ることになりました。これが本日のタイトル「出会い」です。

          彼女はシートに座ると、やおら鞄からファイルを取り出し資料に目を通しています。失礼とは思いつつ、ちらっと盗み見すると、見たことのない植物の写真がありました。しかも、資料の右上には「機密」の表示。仕事柄(経歴上)、とりわけ「秘」には敏感に反応する私です。不躾に「その植物なんですねん?」。すかさず彼女は、「日本でパパイヤを栽培する企画をしているんですよ」と言います。???。恥ずかしながら、パパイヤと聞いて頭に浮かんだのは、とても美味な台湾マンゴと、昔テレビでよく見かけた「もじゃもじゃ頭」の振付師の顔でした。情けない。

           

          たった15分程度の同席だったのですが、彼女は「北海道でも育つパパイヤを作りたい」と熱く夢を語りました。それを聞いて、ピ〜ンと閃くものがありました。先に電車を降りる彼女に、「あの〜大変厚かましいのですが、差し支えなければ、その資料を一部いただけないでしょうか」と、おそるおそる聞きました。

           

          話が長くなるので、その後の経過は端折ります。

          現在、実家(在讃岐)の畑には、多数の実をつけた二本のパパイヤがすっくと立っています。正直、現時点では「海のものとも山のものとも」分かりません。しかし、今までカンで生きてきた私は、このパパイヤに限りない未来を感じるのです。ちょっと大げさですが。

          ただひとつの不安は「えんがい」です。私の実家は日が暮れると、車の音も聞こえないホタルの里にあります。「塩害」などあろうはずがありません。そう「猿害」です。実家の庭には亡父が植えたキンカンの木が二本あり、昨年は殊のほか豊作でした。しかし、一粒として私の口には入りませんでした。私が家を空けているのをいいことに、ぜ〜んぶ「おさるさんチーム」にやられました。

          現在、多くのいえほとんどの、山間部の農家はサルとイノシシに泣かされています。生きていくのが難しい村になりました。

           

          話はころっと変わります。

           

          帝國海軍がミッドウェー海戦で敗れ、ガダルカナルからも撤退して、日本の敗北が明らかになりつつあった昭和18年4月(18日)、山本五十六聯合艦隊司令長官がソロモンに散りました。日にちをカッコ書きにしているのは、山本機が米陸軍のP-38(ライトニング)に撃墜されたのは4月18日ですが、実際に息を引き取ったのは翌19日の可能性があるからです。

          山本長官は、南方に展開していたとき、パパイヤをこよなく愛したと言われています。ブーゲンビル島の現地部隊は、長官の遺骸を荼毘に付した場所に、土饅頭を築いて急ごしらえの墓を作りました。そして、一対のパパイヤを植えました。部下に慕われた、山本長官らしいエピソードです。

          現在、山本長官とともにソロモンの露と消えた、一人の海軍士官(聯合艦隊航空甲参謀)の生涯を辿っています。取ってつけたように思われるかもしれませんが、彼がパパイヤに会わせてくれたと思っています。

           

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          博海堂

           

           

           

           

           

           

           

           

           

           

           

           

           

           

           

           

           

          パラリンピック

          2016.09.08 Thursday

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            いよいよリオのパラリンピックが始まりました。オリンピック同様に、熱い戦いが繰り広げられるでしょう。

            パラリンピックというと、いつも思い出すことがあります。苦い思い出です。

             

            若い頃、北欧のノルウェーで三年ほど過ごしたのですが、滞在中にリレハンメルで冬季オリンピックがありました。日本人選手の活躍は素晴らしく、あるパーティでノルウェー海軍の高官にジャンプの「日の丸飛行隊」を自慢しておりましたところ、先方から「ところで貴国(日本)では、パラリンピックの報道はされてますか」と訊かれました。私は「う〜ん・・・???」。当時の日本では、オリンピックこそ大騒ぎでしたが、パラリンピックはほとんど報道されておらず、返す言葉もなく大変恥ずかしい思いをしました。

             

            北欧は福祉が充実しています。それだけに、税金は高いです(念のため)。ノルウェーの場合、私がいた頃の消費税は23パーセントでした。今はもっと税率が高いでしょう。

             

            さて、車椅子に乗った日本人選手が、空港の検疫を通過して外に出てきたときの第一声、「ここまで来るのに階段が一回もなかった!」。

            デパートのフロアーで階段があるところには、必ず緩やかなスロープがありました。

            首都オスロのカールヨハンス通り(日本の銀座みたいなところ)を初めて歩いた時、「なんと車椅子の人が多いことか」が私の第一印象でした。しかしそれは、アジアの先進国(と思っていた)からやってきた武官の大きな思い違いでした。車椅子の人がいつでも外に出れる物理的な環境が整っている。そして、国民・市民もそれを当たり前のことと捉えている、ということを後で知りました。

            私が先進国と思っていた日本は、実は福祉については後進国でした。

             

            余話です。

            オリンピックに先立ち、リレハンメルの次は長野ということで、軍楽隊の隊長から「君が代」の楽譜を(自衛隊の)音楽隊から入手して欲しい、との依頼がありました。オリンピックの閉会式では、次回開催国の国歌が演奏されますよね。早速、防衛庁(当時)から取り寄せて手交したのですが、隊長は「マイナス20度での演奏は、唇が凍えて大変難しいんですよ」と言ったものです。考えてみれば、彼らは何時間も前から極寒のなかを立っているんですよね。音楽については全く素人の私ですが、余計なお節介で「絶対にミスをするな」と厳しく隊長に要求しました。

            日本から取り寄せた楽譜を使って、閉会式で「君が代」が無事演奏された時には涙が出ました。

            こちらは、懐かしい思い出です。

             

            博海堂