順風にあっては細心に

2020.01.02 Thursday

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    明けましておめでとうございます! 令和2年、実質的な令和時代の始まりが、皆様にとりまして佳い年でありますように。そして、皇室の弥栄をご祈念申し上げます。

     

    客年は有り難いことに(?)長期間に亘ってお花見をさせて頂きました。しかし残念ながら、美しいでもなく癒されるでもなく、誠に見苦しい花見でした。花見の場所は千鳥ヶ淵ではありません。全国から集まる選良が居並ぶ国会での議論と、これに呼応するメディアの対応です。あ〜でもないこうでもないと花見談義にうつつを抜かしている間隙を縫って、どこぞのミサイルが頭上に落ちてこなかったのは不幸中の幸いでした。また、虎視眈々とその機会をうかがっているご近所が、力(軍事力)によって我が国の領土を侵さなかったのも誠に幸運なことです。因みに、海・空においてはしばしばジャブを入れられております。更には、日本にとって死活的に重要な資源の搬送が危険な状況に曝されている最中、お花見の話で盛り上がっているとは大変喜ばしくも幸せなお国ではあります。

    我々庶民がこのように、他人様の揚げ足取りを半ば楽しみながら能天気に生活しておられるのは、卓越した船長の指揮の下でこの国の舵取りがしっかりとなされているからでありましょう。ご心労が続いているためか、最近船長はお疲れのように見えます。と同時に、ひたすら国の安全と安寧を求め昼夜を問わず尽力されている、当局や関係者のお陰であることも我々国民は忘れてはなりません。盆も暮れも正月もなく世界の各地で、日本国・日本国民の安全を護るために尽力されている皆様には感謝の言葉しかありません。 

     

    さて花見(桜見物)は我々日本人に与えられた特権であり、文化の一つとも言えるのではないでしょうか。この国に住む人は皆、老いも若きも貧しきも富める者も等しく全国各地で、その恩恵に浴することができます。中には所謂(桜)前線と共に南から北へと移動し、一年に何度も花見をする追っかけもいるほどです。そんな方がちょいちょいいます。

    今一度振り返って、花見をして或いは桜を見る機会を作為することのどこが悪いのか? 無学な私にはよく分かりません。時折飲み過ぎてトラになったり、はしゃぎ過ぎて周りに迷惑をかける輩もいますが、酔いが醒めたころにお灸をすえればいい程度の些細なことです。従って、上記の答えは「なんの問題もないっしょ」。と言うよりも、皆で大いに花見を楽しみましょうよ。かかる視点からすれば、昨年大騒ぎになった・大騒ぎしていた問題は実に他愛もない案件ではないのか、と思えるのです。少なくとも立法府において、口角泡を飛ばして議論するような案件でないことは間違いない。いわんや政局に関わる、或いは政局にする事案ではないでしょう。百歩譲って、議論するにしても優先順位はとても低いと小国民は思っております。

     

    でもな〜んかすっきりしない、問題の所在は何処にあるのだろう? 

    一つは、この花見の経費が公費で賄われていることに起因する。交通費まで出せとは言いませんが、会場の使用料から料理代まで一切の経費をホスト(ホステス)が引き受けたならば、或いは会費制で催されるなら、他人がとやかく言う筋は全くありません。それだけの力(経済力や人を呼ぶ力など)があるということで終わる話です。公費を使うと言うことは(国家予算の規模で見れば些細な金額でしょうが)国民や法人から徴収した税金の一部を充当すること。メディア(報道)の影響もあるのでしょうが、であるから多くの国民が「説明不足或いは納得できない」と感じている。ただ敢えて一般論として言えば、その人が納めている税金の額と批判・非難の声の大きさは反比例しているようにも感じます。庶民の深層心理には、昨年よく使われた言葉「上級国民」に対するやっかみもあるでしょう。それとは関係なく、国民から集めたお金を使うからには、とりわけ「遊興」に使う場合には一円まで明瞭会計であるべし。当然、私(わたくし)に使うことは許されません。

    以上は建て前であり原則論です。

     

    もう一点は程度の問題です。過ぎたるは猶及ばざるが如しと言いますが、我々日本人には「程々」という概念があります。花見の問題も例えば何十人とかせいぜい数百人程度であれば、あれほどの騒ぎにはならなかったはずです。これが何千人・何万人になると、「何やってんの?」となる。何事もこの「程々」を超えると怨嗟の的になりますし、痛くもない腹を探られることにもなる。だから庶民感覚の程々を超越する場合には、それなりの細かい詰めが必要です。最も重要で細心の注意を要するのはお金(経費)です。よくありがちですが、指揮官が「よきに計らえ」でやってると大概の部下は当然「よきに計らい」ます。中には親分のおこぼれにあずかろうとする者も出てきます。それを誰かに指摘されて帳簿を確認したら、とんでもないことになってた、ってなことになりかねません。

    だから内に指摘してくれる者がいる人は幸せです。そう言う人を一般に女房役と言いますね。日本の家庭では昔から、奥さんがその辺りはしっかり手綱を締めてコントロールしてきた。だから「女房役」という言葉があるわけです(多分)。勿論この役割は、別段女性に限られるものではありません。組織のNR2でもスタッフでも親父さんでも、身近にいる人であれば誰でもいいわけです。要するに、指揮官(自分の親分や旦那)を裸の王様にしないということです。「いくらなんでも、この人数は多すぎますよ」「招待する範囲がちょっと拡がり過ぎてます。もう少し厳選しましょう」「行事が変質し形骸化してます。今一度原点に返りましょう」などと、直言する人・できる人が一人もいなかったのかな・・・。招待される人数が限られるほど、被招待者が感じる嬉しさや有難味は増します。そして、ホスト・ホステスの権威や評判も高まろうもんです。これが千人・万人になると、個々はone of themに埋没します。家庭でも大小の組織でも、お金を含め諸事が上手く回っている時にはどうしても華美になりがちです。僭越ではありますが、この際いろいろな行事の見直しをしたら如何でしょうか。

    上記の形骸化という言葉は、とても重要なキーワードです。利益を出す必要がない役所にありがちなことです。常に黒字(儲け)を追求する民間では、通常あり得ないよね。そんなことしてたら、瞬く間に赤字になって破綻しますから。私の古巣(海上自衛隊)では組織として、そこのところ(形骸化)を厳しく戒めておりました。隊員の命がかかってますから。

     

    と言って、花見なんか止めちまって、そのお金をドコドコの困っている人たちや組織に廻してほしい・廻すべき・・・という意見があります。SNSでもちょくちょく見かけますが、私はその考えには与しません。お金が足りなくて困っている人や組織、お金を欲しい人は山ほどいます。ですが、そこは単純にはいかない。優先順位をつけるのも、なかなか難しい。だからと言って困っている人みんなに按分してたら、一人一円になってしまう。そこはきちんとした仕分けが必要だし、それこそ程度の問題はありますが、花見は花見でいいじゃないですか。ホストはいやしくも一国の代表であり、民主的な手法で国民が選んだ日本の顔なのですから。そして何よりも、日々国家・国民の行く末を案じ、命を削りながら諸外国の代表とやりあっているのですから。

     

    お屠蘇の力を借りて駄文を連ねました。今年もこんな感じで行きますが、引き続きご交誼を賜りますよう宜しくお願い致します。

     

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    宇高フェリー

    2019.12.19 Thursday

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      一年の経過がホントに早いです。盆を過ぎた、と思ったらもう年末です。今年の締めは、令和元年というよりも昭和・平成の終わり年の象徴的な宇高フェリーについて。

      宇高(宇野〜高松)フェリーが今月15日を最終の航海とし、「休止」するとの報道がありました。私の記憶に間違いがなければ、「宇高」は「うたか」と読みます。理由は知りませんが、語呂が良いのでしょうか。さて宇高航路は、単に人や貨物或いは車を運んだと言うことではなく、我々、特に四国の人間の思い出をも満載した航路でした。海洋汚染防止法が制定されるまでは、束になった別れのテープが送る人と送られる人の心を繋いでおりました。新婚さんの出発時には見送る人たちの代表、主として親類縁者の長老などが「〇〇君、ばんざ〜い」と大きな声で音頭を取るのが定番でした。今だったら恥ずかしくて「やめて〜!」って言うでしょうな。良き時代でした。

      さて、本四連絡橋(瀬戸大橋)ができる前から、いずれこういう日が来ることは予想されましたが、実際に宇高航路がなくなると思うと一抹の寂しさを感じます。廃止ではなくわざわざ「休止」と言うからには、将来の再開を担保しているのでしょうか? 或いは運航会社の意地と矜持でしょうか。

       

      個人的にはフェリーよりも、既に廃止されて久しい国鉄(現JR)宇高連絡船への思いが強い。何時のことだったのかは覚えてないのですが、高松築港で連絡船に汽車が入って行くのを見て、”へ〜船のお腹に汽車が入るんだ〜”とびっくりした記憶があります。紫雲丸事件が昭和30年(1955)で、これを機に列車に乗ったままの乗船、即ち列車の搭載を止めたはずですので、私の記憶は3歳頃ということになります。で一般論として、3歳の記憶ってあるんですかね? 記憶自体がセピア色なので、もしかしたら本か写真で見た記憶かもしれません。因みに、紫雲丸事件とは、霧中航行中の上り下り連絡船が高松港外で衝突し、修学旅行の小学生を含む168人もの犠牲者を出した大事件(事故)でした。

       

      拙著『ソロモンに散った聯合艦隊参謀』でもほんの少し言及しているのですが、四国の人間にとって宇高連絡船は、四国、私の場合は讃岐そのものでした。帰郷した時には、宇野(岡山)で連絡船に乗ると”四国に帰った〜”との思いを強くしました。かつて宇野港の桟橋はマラソン桟橋と呼ばれ、列車が駅に着くとみんな我先にと乗船口まで走ります。そして乗船開始となるやダーッと走り込んで席を確保するのです。たった一時間の航程なのですが(笑)。そしてポーンと荷物を座席に投げると、今度は上甲板の船尾に向けて走ります。ボストンバッグに鍵など掛けてた人はいないと思うのですが、荷物を盗まれたって話は聞いたことがないね。貧しくも平和な時代だった。

      そして、後甲板には長い列ができます。そう、うどんです。現在のうどん屋さんのように、多種のトッピングなんかありません。せいぜい鳴門(蒲鉾)にネギがパラパラっと。追加料金でキツネかタヌキ。私が(防衛大学校の)学生の頃は、素うどんが200〜250円程度だったかな・・・。でも、後甲板ですする「讃岐うどん」はホンマに美味かった。私の場合、何故か夜が多かった。心地よい夜風に当たりフ〜フ〜しながらうどんを食べて、名実ともに腹から四国に帰ったことを実感したものです。

      この宇野〜うどんまでの一連の流れを知ったのは、防大一年生の冬の休暇で帰省しているときでした。宇野線で制服姿の私を見つけた4年生が、「俺について来い」とこのオペレーション=作戦を教えてくれたのです。先輩が自分よりもずっと大人に見えて、まぶしかった。高松を離れる時も手順は同じです。やはり後甲板でうどんをすすり、故郷を離れる感傷と共に「不肖眦茵江戸に行くぞ」みたいな。これが私の中の宇高連絡船です。瀬戸大橋を走る岡山〜高松間の瀬戸内ライナーに比べると、誠に不便ではありますが風情がありました。

       

      宇高連絡船がなくなってからおよそ30年、通行料(高速代)が高い瀬戸大橋を補完するように、或いは落穂拾いをするかのように宇高フェリーは四国と本土を繋ぐ足になってくれました。今年をもって休止になるのも時代の流れでしょうか。かく言う私ですが、実はフェリーはあまり利用したことがありません。そこで、ひとつお恥ずかしい小話を(下らない話です)。宇高フェリーには一宿の恩義があるのです:

      やはり防大学生時の夏季休暇で帰省していた時のこと。高松で財布がカラになったので、宇高フェリーの待合所で一夜を過ごしました。バス代もオールナイトの映画館にも入れない、本当のスッカラカンです。なんでそうなったの? 最近もの忘れがひどくなって、理由は忘れた(笑) そこは端折って、とにかく夜が明けてから歩いて帰ることにしたのです。実家から高松までは車で小一時間かかりますので、距離にすれば30キロ弱でしょうか。空が白々としてきたので歩き出したのですが、陸兵ではない私にはひとつ誤算がありました。真夏のこととて太陽が昇るとカンカン照りです。アスファルトの照り返しで熱いのなんのって、喉が渇く、腹が減る・・・。三分の二くらい歩いたところでギブアップしタクシーを拾うことにしました。「〇〇町の〇〇までやって! 銭はないんや。家に着いたら払うけん」。恥ずかしくて、天下の防大生が身分証明書を提示することなどできません。ダメダメと2〜3台スルーされたのですが、疲れたきった私の顔を見て哀れに思ったのか、一台のタクシーが乗せてくれました。家に直接横付けすると運ちゃんに住所を特定されるし、両親にも調子が悪いので、実家に続く橋の手前で降ろしてもらった。でも考えてみれば私の田舎は家などまばらなので、運転手さんは直ぐに分かるよね。家に駆け込んで母に見つからないよう、そっとお金を持ち出し払いを済ませて事なきを得ました。再度家に入ると母はウスウス事情を察したのか、ニヤニヤしてましたが何も訊かれんかった。武士の情け?

       

      この件には後日談がありまして・・・数日後に中学校の同窓会があったのですが、同じクラス(組)の女の子が私の顔を見るなり「眦莊、この前高松で一文無しになったやろ? バレとんで・・・」って。エエ〜なんでこいつが知っとんや(笑)。親切な件の運転手さんは、同級生のお兄さんだったそうな。夕食の時に、スッカラカンで角刈りで目つきが悪く、でも何となく信用できそうなあんちゃんを乗せたことが話題になり、同級生の女子さんはピンときたげな。”そんなことするん、絶対あいつや!”

      良い子は真似をしないでください(笑)

       

      宇高フェリーとは何の関係もない、情けない話で締めになりました。どうぞ皆様、佳いお年をお迎えください。そして、明くる年もご交誼を賜りますよう、宜しくお願い申し上げます。

       

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      『ソロモンに散った聯合艦隊参謀』番外編

      2019.12.14 Saturday

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        前回(12月5日付)のブログ『ソロモンに散った聯合艦隊参謀 IV』で、最近発見された正帽にある刺繍のネームについて描きました。私が疑問視した、あの「登飛者”奈」です。この件につきまして、読者の方から貴重なご教示を賜りましたので、取り急ぎ拙稿の訂正旁々ご披露させて頂きます。

         

        事柄の正確を期するため、ご指摘の一部をそのまま引用させて頂きます。

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        実はこれ、漢字ではありません。変体仮名と呼ばれる平仮名の一種です。樋端大佐が生まれる少し前の小学校令で学校教育での使用が禁じられ、その後は今と同じような一音一字に統一されましたが、それ以前は平安の昔からごく普通に使われていました。かの軍人勅諭も原文は変体仮名交じり文で書かれています。「と」には「止」、「ひ」には「比」も当てられましたが、それぞれ「登」「飛」が当てられることも多く、用例はさまざまです。「は」を「者」に濁点で表記するのは、今も老舗の蕎麦屋の看板(生そば)でよく見かけます。・・・

        従って、この4文字自体に特段の意味合いはないと私は思いました。・・・

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        この方にご紹介頂いた変体仮名に関するサイトを開いてみますと、次のような主旨の説明がありました。

        「ひらがなの字体のうち、現在は使われていない昔のひらがなを変体仮名という。明治33年(1900)の小学校令施行規則をもって、ひらがなは一音一字に統一されたため変体仮名は消滅した」。

        知らんかった〜。情けないことではありますが、知らんものは知らんので致し方ないですね。知らない・無知であるということは、これ即ち恐れを知らないということでもあり、危ない危ない。しかし説明を聞いて、ストンと腑に落ちるものがありました。そう言えば知己の学芸員は、確かに「ひらがなで刺繍がある・・・」と説明してくれました。今更言い訳がましいのですが実は、彼の言うこの「ひらがな」に引っかかるものがありました。無学な私は「ひらがなじゃないでしょう。崩した漢字だろうよ」と思ったのです。がそこを突っ込んで尋ねることはしなかった。もし私が質問しておれば、専門家である彼は変体仮名を含め丁寧に説明してくれたに違いありません。詰めが甘い、私の悪い癖がでました。なお、先のサイトによると変体仮名には、例えば「と」の一音には「止、土、登、東、度、等、斗など」複数の漢字を原型とする表記(ひらがな)があったようです。

         

        因みに、上記1900年は我が母校(旧制大川中学校=現三本松高等学校)が創設された年に当たります。分かり易い学校なのです。樋端さんは明治36年(1903)の生まれですので、学校教育が既に一音一字になっていたとはいえ、変体仮名を使用する文化や習慣はまだまだ残っていたと思われます。俊秀の樋端さんのことですから、小・中学生の時から当たり前のように、この「変体仮名」を使いこなしていたと推察します。今更「覆水盆に返らず」、不明を恥じつつも、ひとつ賢くなったことを嬉しく思っております。人間死ぬまで勉強ですから。ご指摘・ご教示下さった先生には感謝感謝です。

         

        現在、拙著『ソロモンに散った聯合艦隊参謀』は第二版ですが、再度の重版が叶いましたらこの辺りも追記したいと思っております。皆様、ご協力のほど宜しくお願いします。転んでもただでは起きんぞ(笑)

         

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        『ソロモンに散った聯合艦隊参謀』 IV

        2019.12.05 Thursday

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          去る11月25日、母校香川県立三本松高等学校において、樋端(久利雄)さんの遺品贈呈行事があり陪席させて頂きました。樋端大佐の遺児(ご長男)である樋端一雄さんから、新たな遺品を母校(同窓会)に寄贈されたものです。間もなく90歳にならんとする一雄さんは、お住いの京都から3時間をかけて、しかも日帰りのバスでの強行軍です。出席者は一雄さんの他、母校の教頭(校長は所用で不在)、同窓会長の名渕さん(不動産鑑定士)、同窓会顧問の川北さん(元香川県副知事)、東かがわ市歴史民族資料館館長の萩野学芸員、及び小生の6名です。

           

          今頃なぜ遺品?なのですが、この遺品が発見されるトリガーになったのが、先般資料館に於いて開催された樋端さんの特別展と小生の講演だったとのことです。話は込み入りますが、樋端さんのご実家の隣に住んでおられる、樋端さんの大姪(甥ごさんの娘さん)のご主人が小生の講演を聴かれた由。帰宅されて講演のことなどを奥さん(大姪ごさん)に話したところ、奥さんが「そう言えば、実家の屋根裏に大叔父さんのものと思われるトランクがあったような気がする」とのこと。早速、ご夫妻が実家の屋根裏に上がって探索され、樋端さんの遺品であるトランクを発見しました。「男はつらいよ」の寅さんが持っていたのと同じようなトランクです。はやる心を押さえて中を開けてみると(開けるのに大層苦労された由)、帝國海軍の正装(礼装)に着用する正帽が鎮座していた。

          帝國海軍ではこの帽子を、通称「仁丹帽」と呼びました。あの「仁丹」のラベル(商標)に同じような帽子を被ったおじさんがいましたよね。若い人には化石のような話です(笑)。帽子はアルミ製と思われる堅固なカバーで保護されており、虫食いも無くきれいなままで、世紀をまたいで保管されておりました。帽子の内側(頭上部)には漢字で「登飛者”奈」と赤糸の刺繍があります。崩した文字なので素人には難解です。萩野学芸員によると「者」は「は」と読ませるそうな。即ち、音読みすると「とひばな」と描かれている。なぜ「樋端」にしなかったのかは分かりませんが、帝國海軍で三本の指に入る秀才と言われた人物のことです。この四文字には、何らかの意味が隠されていると見るのが妥当でしょう。ひらがなの「とひばな」を、それぞれの原型である漢字に置き換えると「止比波”奈」になるはず。これを良しとせず、敢えて「登飛者”奈」としたのは何故か? 彼が(私のように)艦乗り(ふなのり)であれば、原形のまま(止比波”奈)にしていると思う。謎解きのようではありますが、私は「天空に飛翔(とぶ)者は何処に」と読み、飛行機乗りの矜持を示していると見ます。拡大解釈でしょうか・・・。或いは、帝國海軍特有のユーモア―かもしれない。更には、当時海軍ではこのような当て字が流行っていたのかもしれません。

          流石に所有者の秘匿を意図したものではないでしょう。何方かご存知の方はご教示下さい。

           

           

          トランクの金具部には微かに「MADE IN TOKYO」の文字が判別できますので、日本製であることは間違いありません。かなり使い込まれている様子。一雄さんによると海軍省勤務の時には別の鞄だったとのことですので、駐在武官補佐官として渡仏する際に購入持参し、軍縮会議等では機密書類などを搬送する時に大いに利用されたものと推察します。渡欧が昭和4年の暮れですので、まさしく歴史的なアタッシェ・ケースです。その後の支那方面への出張や赴任に際しても、常に手にしていたと思われます。地元ではかつて、実しやかに「上海からの帰途、実家に立ち寄った時には、ポーカーで稼いだ札束を鞄に一杯持っていた」との伝聞が残っていました。この噂話にも、写真のトランクが一役買っているような気がします。

           

          一雄さんは贈呈式で、感慨深く次のように話されました(一部)。

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          昭和18年9月18日、郷里での葬儀が親父の母校白鳥本町国民学校において、町葬として営まれました。この時に、親父が江田島(海軍兵学校)に旅立つ際に両親と兄に宛てた手紙「告辞」とともに、正帽を含む正装が遺品の一つとして展示されていたことを記憶しております。葬儀が終わった後、大概のものは東京に送り返したのですが、この正帽を入れたトランクは送るのを忘れたのでしょう。そしていみじくも、このトランクと正帽は今日まで実家の屋根裏で保管されました。当時は少尉に任官すると自前で正装をあつらえました。仕立て代は給料の2〜3か月分です。・・・

          昭和3年12月30日、親父とおふくろは白鳥神社で結婚式を挙げましたが、この時にも親父は正装を着用しています。結婚式の写真があったのですが、残念ながら何処かに散逸してしまいました。・・・

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          お話を聴いていて何に驚いたかと言いますと、一雄さんが遠い昔の年月日を空で言っておられたことです。やはり頭の良い家系です。評伝『ソロモンに散った聯合艦隊参謀』を描いた私は記憶の外であり、横でウンウンとうなずくだけ。大変申し訳なく恥ずかしく思った次第です。

           

          贈呈式の後、一同は母校の創立100周年記念事業として設置された資料館に移動、贈呈された遺品(トランクと正帽)は同窓会長の手によって樋端コーナーに収められました。そして、改めて先人の偉大さに思いを致しました。ヨタヨタしながらではありましたが、拙著を上梓することができて本当に良かった。

           

          ショーケースの中には、戦死後に聯合艦隊司令部が遺族に送達した遺品:樋端さんが最期に握りしめていた焼けた軍刀と、その時身に着けていた参謀肩章や(勲章の)略章が桐の箱に収めて展示されています。お父上の遺品を見ながら、一雄さんが誰に言うとなくポツリとつぶやきました。「戦後間もないある日、突然校長室に呼ばれて”遺品を持ち帰って欲しい”と言われた」。彼はそれ以上は何も言わなかった。因みに、終戦によって(陸軍)東京幼年学校を去った一雄さんは、一時家族が疎開している父の実家(讃岐)に身を寄せ、短期間ではありますが父の母校(旧制)大川中学に編入しております。この辺りのいきさつについては拙著に詳しく描いてありますが、遺児の戦後は未だ終わっていないとの思いを強くしました。昨日まで郷土・母校の誇りであり讃岐の英雄であり、軍神と謳われて故山に還った父が、戦争に敗けた途端に厄介者になっている。この無念、悔しさは遺族でないと分からないと思う。

           

          戦争が持つ意味は、戦争に敗けるということはどういうことか。戦争と平和とは・・・。軽々に「戦争」を語ってはいけない、と胸に刻んだ一日でした。今回発見された新たな展示を加え、樋端さんの遺品が後輩の教育と人間形成の資になれば、天上の樋端さんは微笑んでくれるでしょう。

           

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          故きを温ねて新しきを知る

          2019.11.21 Thursday

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            今更?今頃?ではあるのですが、ボケ防止のために日々暦(カレンダー)で月日を確認し、法律が定める祝祭日については、その都度調べることにしました。例えば11月3日「文化の日」は、そもそもは明治天皇の誕生日(天長節)でしたが、明治天皇がお隠れになって明治節になり、それが現行日本国憲法の公布日となって、今日では「文化の日」と称される祝日になっています。でも「文化の日」ってのは、ちょっと意味が分かりづらいよね。カレンダーによっては、数字が赤いだけで何の日か記載されていないものも沢山出回っておりますが、単に仕事や学校が休みであることを知らせる合図のようで、日本国民にとっては誠に残念なことです。こういう些細なことから、歴史がないがしろにされていくんだよね。

             

            一般庶民は特段深堀して勉強する必要はなく、簡単に調べることができる、但し信頼できるインターネット情報で十分だと思います。勉強しだすと興味あることは、際限なくやりそうで・・・ってのは(私の)下手な言い訳です。適当な所で自分を妥協させることも、限りある人生においては大切かと。

            さて、なぜ今 Red-letter Day(祝祭日)なのかですが、話は突然太平洋を飛び越えますよ。アメリカの軍艦を知れば、アメリカが分かると言われます。例えば、「ジョージ・ワシントン」とか「ロナルド・レーガン」とか。そうです、USS(United States Ship)の艦名には、国家(米国)に貢献した著名な人の名前が使用されておりますので、これを理解できればアメリカの歴史が分かるということ。歴史の浅いアメリカは、このようにして自国の小さな歴史を大切にし誇りにしているのでしょうか。

            これと同じように、日本の祝祭日の意味が分かれば、(極一部ではありますが)我が国の歴史が理解できる、ということに気が付きました。かなり遅れてきた小学生です(笑)。そして記憶にとどめる方策として、にわか仕込みのウンチクを前日の夕食時などに家人に言って聴かせる。家族は「ハイハイ分かりました〜」と聞き流してます(笑)

             

            でも小学生の時に、家庭や学校で上記(祝祭日の由来や経緯)のような説明を聞いた記憶がありません。「乃木(希典)大将のお母さんは、乃木さんが小さい頃に『人参が嫌いだ』と言うと、毎日食事にニンジンを出したんです」なんて説明をされたおなご先生がいたので、大正生まれの両親も先生も「明治節」は間違いなく知っていたはずです。本当は(説明を)聞いたんだけど、私が忘れているだけかもしれません。いずれにしても、小学生の時に何処かでこのようなことを教えてくれると、これを聞いて育つ子供さんはおそらく人生が違ってくるよね。「1600年は関ケ原の戦い」なんて、ただ暗記するだけの歴史ではなくて生きた教育ですから。下校前のHRで担任の先生が、「みなさ〜ん、明日のお休みは文化の日です。明治天皇の誕生日(天長節)➡明治節➡新憲法が公布された日➡そして文化の日です。国民みんなで、国旗を掲げてお祝いしましょう」などと説明する。ただ、今時の子供さんは情報が豊富で中には先走った子もいるので、児童生徒から「先生、なんで文化の日なんですか?」と突っ込まれたら、知識ある先生でも回答に窮するでしょうな。「ええ〜日本は戦争に負けたので・・・GHQが・・・あの〜その〜」なんて言い出したら話がこんがらがるので、「憲法ってことは、文化だろうよ」ってな的外れで好い加減な応えになるのかな? 

            このような習慣、それこそ文化が根底にあれば、卒業式などで国歌が流れても斉唱しないどころか起立もしない、国旗にお辞儀もしない教員なんて生まれようがない・・・と思うのですが、どうだろう。あっとそうだ、それどころじゃなかった。国立大学の入学式や卒業式で国歌を斉唱しない大学があると仄聞するのですが、それホンマでっか? 「くにたちにある大学」じゃないよ、「こくりつ大学」です。小生、経験がないので分からんのですが・・・。後学のため、来春は香川大学の卒業式に参加さて貰いましょう。

             

            話は変わります。先般の令和天皇即位礼正殿の儀において、安倍総理が「天皇陛下、万歳」を三唱されました。いなや、早速ネット上ではこれを揶揄して、「戦前そのもの」などの書き込みがありました。その一方では、総理夫人のスカートの丈がどうしたこうした。式典におけるドレス・コードは勿論大切ですが、私はこの言葉「戦前そのもの」に強い違和感を持ちます。この言いぶりには、戦前のものは全て悪かったという意味が言外に含まれている、或いはアカラサマにそう聞こえます。

            世界に類を見ない・世界に誇る、歴史が残してくれたもの、現在を生きる我々に先人が子々孫々に贈ってくれた素晴らしいプレゼントを、しかも自国の総理大臣をも笑いものにする。現在の我々が「昭和」と言う時には、或る種のノスタルジーがあり必ずしも否定的な意味ばかりではないですが、「戦前」を使う場合には全否定が多い。戦争に引っ掛けて、あらゆるもの・あらゆることが間違っていたというニュアンス(響き)があります。何もかもを混同して自己(自国)否定をする、今日の風潮には民度の低下を感じます。困ったもんです。それでいて、明治の開国については殆どの日本人が肯定的に捉えています。

            教育とはげに恐ろしきもの・・・です。

             

            今日の文化なり、科学なり、人間なり、有形無形全てのものは、長い「歴史」を経て現在の姿があります。昨日今日できたものではありません。歴史とは、その時代時代においてご先祖が精いっぱい生きてきた証でもあります。一人一人の顔や元々の(現在のではありません)体型、個人個人が持っている多彩な能力も、それぞれのご先祖から引き継がれてきたものです。一定期間とはいえ歴史を完全否定すると言うことは、自分自身を否定することに繋がるのではないでしょうか。戦前・戦中だろうが戦後だろうが、悪いことは悪い、良いことはいいんです。イチゼロなんてことはあり得ません。そこのところを峻別・仕分けして物事を考え判断しないと、生き方がおかしくなります。そして、妙な世の中になりますよ(既になってるけど)。

             

             

            追伸 日本の家庭で、簡易な卓上型なども含め、一本でも国旗を持っている家庭は何割くらいあるのでしょうか? 今般の天皇陛下御即位の関連行事のお陰で、結構増えたような気もしますが。法人はどうでしょうかね? 因みに、我が家(自宅)が属する自治会(班)には十数戸ありますが、祝祭日に国旗を見ることができるのは拙宅だけです。これを目にする少年少女の心に、多少なりとも響くものがあればと思いつつ・・・。「君が代」は本当に厳かですし、「日の丸」はとても美しい。絶対多数の諸外国の人々(国民)は、私と同じように、それぞれの国の国旗や国歌に誇りを持っています。

             

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